田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している

私は、中学生の時に一緒にバンドをやっていた友人に「おまえは東京へ行く人間だからな」と言われたことがある。

ギターを弾いて作詞作曲をするくらいには好奇心の強い少年だったその友人は、一方でこの文章にうまく書かれている田舎のしがらみのまっただなかにある家に生まれた人で、その鬱屈とした気持ちを何かの時にそういう言葉で私にぶつけてきた。

ただ、それは、そんなに強い言葉ではなく、その後もバンドは続いたし、別の高校に進学した後も友人関係は続いた。

彼の予言通りに、私は東京の大学に進学して東京で就職して、しばらくして連絡は途絶えてしまったけど、その言葉は今でも時々思い出す。

最後に会った時、地元の大学に進学した彼は、私よりずっとオシャレな、「今風の大学生」をやっていた。すごくいい車で私を駅まで向かえに来てくれて、服も車も単に高いだけでなくけっこう趣味がいいと思った。

彼は、当時の若者らしい最先端の消費生活をしていたけど、それは、彼にとって一時的なものでどこへもつながるものではなく、いずれ「大人」になって捨てるしかないものだったのだ。だからこそ今のうちに満喫しておきたいという気持ちを痛いほど感じた。

都会と田舎の違いは、「直線的に発展する時間」と「循環する時間」のどちらの中で生きるか、ということだと思う。

これは、阿部謹也さんの受け売りだけど、「世間」を象徴する言葉は「お変わりないですか」という言葉だ。つまり、季節の変化とそれに伴う行事や儀式は認識するけど、それは毎年毎年同じように繰り返されるものであるという認識。かつ、それが人間としての存在の最も重要な基盤であるという価値観。

「お変わりない」ことが望ましいかどうかについては、考えてはいけないというか、考えても意味が無いことなのだ。

私の友人は、彼の父親とは全く違う若者時代を送っていたけど、おそらく、今は、彼の父親と全く同じように地元で暮らしていると思う。彼の家は、そうやって「お変わりなく」継続していく。彼の息子(がいるかどうかも知らないけどいたらおそらく)は、ネットやゲームをして、自分の父親の知らない世界で若者時代を過ごしているのかもしれないが、やはりある年齢になったら、父親のいる世界に戻って落ち着くのだろう。

田舎とは、そうやって循環する時間のことではないかと思う。

そして、都会とは、直線的に発展し二度とそこには戻ってこないような性質の時間ということだ。

田舎で生きるということは、都会の直線的な時間を変奏としつつも、主題としては循環する時間の中で生きることを選択すること。

「お変わりなく」過ごす為に、我々はどう生きるべきで、社会はどうあるべきで、税金をどう使うべきか。そこについては、いくら議論してもいいけど、「お変わりなく」が可能であるかとか良いことなのかどうかについては考えてはいけない。最大多数の最大の「お変わりなく」が政治の理想であり、経済の発展は、「お変わりなく」に寄与するものでなければ意味がない。

ものを考えるのであれば、そこを出発点とすべきだということで、それは宗教における神の位置づけと同じである。

冒頭の言葉は、「残念ながら、俺とおまえは違う信仰の家に生まれた為に、どうしても理解できないギャップが存在する」というようなニュアンスだったように思う。もちろん、中学生だからそれを言語化することはできないけど、すごく深いレベルまで彼は両者の違いをきちんと認識し、それを受け入れていたように感じる。

彼の予言通り、私は「直線的に発展する時間」のエバンジェリストみたいになってしまって、「円環的時間感覚」と戦い続けるブログを書いている。

これからの日本の課題は、「循環する円環的時間感覚」と「発展する直線的時間感覚」という二つの宗教の主導権争いと捉えるべきではないかと思う。100年戦争をやって互いに疲弊してしまう前に、何とかそこに深入りしないで現世のことを片付けていく知恵を見つけなくてはならない。


一日一チベットリンク2009年4月チベットをめぐるニュースや語り EP: 科学に佇む心と身体

(追記)

ぜひこちらも合わせてお読み下さい。→ローレンツアトラクター的な、または、循環する時間 - この路を往きし人あり