将棋が強い人が正義でいい、本当に強ければ

将棋のソフト指し疑惑について、第三者委員会の調査結果が発表されました。

私は、この問題について三本の記事を書いています。

いずれの記事でも、不正の有無について直接的な言及は避けていますが、内心では「不正は間違いなくあった」と考えて書いており、普通に読めばそのニュアンスを汲み取れる文章だったと思います。

現時点では、この点については、自分の認識が間違っていたと考えており、第三者委員会の「不正は無かった」という調査結果は充分信頼のおけるものだと思っています。このような記事を書いたことについては、三浦九段および関係者の方におわびします。

ここでは、自分のこの間違った認識がどうして起きたのかについてふりかえりつつ、さらにこの問題について考えてみたいと思います。

報告書で驚いた点

三者委員会の報告書を読んで、私が驚いた点は次の二点です。

  • 竜王戦挑戦者決定三番勝負の第二局、第三局で、連盟理事が対局中の三浦九段を監視していたこと
  • 疑惑の指してについて多くのプロ棋士ヒアリングを行なった所、大半が「不自然な手とは言えない」と回答したこと

前者は、8/26という文春記事よりかなり早い時期に連盟が積極的に調査に動いていたということで、これまで連盟側が強調していた「切羽つまった状況の中での判断」という説明との整合性がありません。

後者は、10/10に行なわれたトップ棋士による「極秘会合」の中で、三浦九段を擁護する棋士がいなかったという話とくい違います。

私にとっては、特に後者がショックでした。会合の席では勢いに飲まれて何も言えないということは充分ありうると思っていましたが、少なくともここで疑惑の対局や指し手について説明があったのですから、参加した棋士は、その後、問題の棋譜を後日自分で検討したことは間違いないと思います。

仮に渡辺竜王がこの後の処分を強引に進めたのだとしても、連盟会長の谷川九段や棋士会会長の佐藤九段が、それに異議をとなえなかったのは、棋譜の中に説明できない手があったからだと思っていました。

一致率の件や、その手をソフトが指せるかどうかについては、将棋ソフトの知識が浅いので、自信を持って判断できなかったり、見解が二点三点することもあると思うのですが、棋譜を見せて「これは三浦さんの手かどうか」という質問には、自分自身で明解な判断を下して、それが揺らぐことはないと思っていました。

私が「不正は間違いなくあった」と考えた一番大きな根拠は、この点です。特に佐藤康光九段がその場にいた以上は、棋譜の中に疑惑の手があると考えるべきだろう、そう考えていました。

三者委員会がヒアリングを行なった棋士の名前は公開されていませんが、状況から見ても棋力から見ても「秘密会合」の参加者が全く含まれていないことは考えられません。しかし、多くの棋士が「不自然な手はなかった」と証言しているということで、これを見て私は考えを変えるべきだと思いました。

ガバナンスの問題?

この新情報を元に考えると、連盟は、全くの無策や傍観だったわけではなく、告発を受けて、調査検討し、「電子機器の持ち込み禁止」というルールを制定することで一応の決着をつけようとしていたのかもしれません。

つまり、「疑惑はあるが確証は得られないので直接的な処分はせず、次善策として対局ルールの強化」という、コンプラ的に見て一般的な対応をしようとしていたのだと思います。

これにストップをかけたのが渡辺竜王だったようです。つまり、渡辺竜王は単なる一告発者ではなくて、連盟が進めていた対応策をひっくりかえして、対局者変更を積極的に進めた当事者であるということです。

私は、連盟の執行部の意思が実質的に不在である状況で、文春の報道という緊急事態が起きたので、第一人者である渡辺竜王が超法規的に動いたものと思っていましたが、その認識も間違いであった可能性が高いと思います。つまり、将棋連盟には、表のガバナンスとは別の、裏の非公式の権力があって、それが執行部の対応をくつがえす形で三浦九段の排除を決めた、ということです。

将棋界は、結局のところ、棋力=発言力で、将棋の強い人が言うことには誰も逆らえないということかもしれません。

二重権力構造をどのように解体するのか

という、推測の混じった観点から、これをどのようにすべきかについて、私なりに書いてみたいと思います。

まず、一般的に考えると、これは二重権力構造の問題です。つまり、公式の意思決定機構と別にプライベートな権力があって、それが恣意的に組織の意思決定に介入したということです。こう見るなら、単に、「裏の」権力を解体せよ、排除せよ、という話になります。

しかし、私は、それだけでは問題は解決しないと思います。

現代の組織における問題は、専門知識と関連して起こります。これに対して、専門知識の有無を問わない単純な民主主義では衆愚に陥ってしまうからです。

将棋における不正の有無はその典型で、棋譜を読み取る力が違えば、まるで違うものが見えてくるので、その点で勝っている人には、それ相応の発言権を与えるのは自然なことです。

今回の問題は、プライベートな裏の権力があったことが問題ではなく、その権力が本来持っていた論理を貫徹できなかったことから起こった、と見るべきだと私は考えます。

竜王フリーザでなくクリリン

つまり「強い人の言うことが無条件で正しい」という論理を貫徹するとしたら、将棋ソフトがプロ棋士より強くなった時点で、竜王や名人の立場が変わらないとおかしいと思うのです。竜王や名人は、絶対的強者ではなく、クリリンヤムチャと同じような、「人間の中では最強」の人です。人間の中で相対的に上位に立つ権利はありますが、フリーザの前ではザコの一人に過ぎません。

もし、大山十五世名人が、下位の棋士の不正を審判するとしたら、「これはあいつに指せるような手ではない」という発言には絶対性を認めてもいいかもしれません。大山名人は下位の棋士が将棋盤の前で行なうことの大半を把握しているからです。

「極秘会談」に集った棋士が同じ観点のみから判定していたら、「これは三浦さんに指せるような手ではない」という渡辺竜王の主張を自信を持って否定していたでしょう。それができなかったのは、そこに自分が把握できてないソフトという存在が関係していたからです。

私は、渡辺竜王が、全くの根拠なく私利私欲で動いたとは思いません。むしろ、明文化されてないけど、将棋界に古くからあった慣習法にのっとって手続きを踏んで動こうとしていたのだと思います。強い人を集めた上で、たとえ一方的であっても論点を主張するという手順を踏んでいます。

問題は、「将棋が強い人」の集りに、ポナンザや技巧が参加できなかったことです。ソフトの開発者を呼べば違ったかもしれませんが、開発者もソフトの強さの理由を全て把握しているわけではないので、どちらかと言えばクリリンに近いポジションで問題の根本的解決にはなりません。

つまり、このプライベートな「トップ棋士会談」は、ガバナンスとかコンプライアンスとは関係なく、将棋指しの考え方を徹底していれば、集ったその場で「俺たちには、これを左右できる権利はないね。参考意見くらいは言わしてもらうけど」ということに気がついたはずです。

大山名人は、「機械に将棋なんか教えちゃいけません」と言ったそうですが、もしこの場にいたら、それに気がついたかもしれません。自分が独裁権力をふるうことを正当化していたその根拠を信じてそれをきちんと理解していれば、同じ論理がこの「トップ会談」を解体する根拠になると理解できたでしょう。

一刻も早く三浦九段の名誉回復を

ということで、私としては、「原点」に戻ることを将棋連盟と渡辺竜王に強く求めたいと思います。

「原点」とは二つの意味があって、一つは、名人や竜王の絶対性が失なわれた以上、連盟の運営は人間界のルールで行なうということです。

「人間界のルール」とは間違いを許容するということです。民主主義でも三権分立でも人間界のルールは、人間が間違うことがあるということを前提にできています。

間違いを許容するということは、間違った時に積極的にそれを修正しなくてはいけないということで、三浦九段の名誉と経済的損失を取り戻すための努力をするということです。具体的には、謝罪や損害の回復は当然として、谷川会長の辞任と外部理事の招聘を含む執行部の改革も必要だと思います。

もう一つの「原点」は「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の常識の原点です。

繰り返しますが、私はこの常識を否定すべきとは思いません。むしろ、これを大事にして貫徹すべきだと考えています。

ひょっとして、谷川会長や渡辺竜王は、「三浦シロ」を表明する以上は、今度こそ間違いが許されないと思っていて、その確信を持てないので踏み出せないのかもしれません。

しかし、「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の伝統を本当に守るとしたら、ソフトの問題については「絶対的な者はいない」ということになります。

人間界のルールでは、間違いの有無ではなくて手続きの正当性や透明性が問われます。仮に「三浦シロ」という判断が間違っていても、そこに至るプロセスが妥当であれば許容されるのが人間界のルールです。

その代わりに、一定の手続きを経て出た結論には、全身全霊従うのが人間界のルールです。それに従うことが同時に将棋界の伝統にもかなうことになると私は思います。


なぜこの問題に言及するか -- 広義の「フレーム問題」として

最後に、なぜこの問題に繰り返し言及するかと言うと、ひとことで言うと「これはとても他人事とは思えない」からです。

これは、AIを中心とした技術の進展から、多くの分野で発生する典型的な問題である。私はそのようにとらえています。

別の言い方で言うと広義の「フレーム問題」と見ています。「フレーム問題」とは人工知能の分野での古典的な難問ですが、ここでは将棋を例として説明してみます。

将棋で「詰将棋」や「次の一手」と呼ばれる問題があります。ある局面を提示して、次に指すべき手を当てるというゲームです。このゲームではルールは将棋のルールをほぼそのまま踏襲していて、将棋の棋力向上のための練習問題として実力のレベルの応じた数多くの問題が作られています。

こういう問題をたくさん解いて訓練した人は、間違いなくやる前より棋力が向上していると言えるのですが、ひとつだけ実戦との違いがあります。

それは、実践の中で、問題を解くことで得たノウハウを応用すべき時はいつかということです。ある局面が、問題として提示される時には、「正解」があることが保証されています。詰将棋なら詰める手順が一つだけ存在することが保証されていて、「次の一手」なら、状況を劇的に好転する手があることが保証されています。

それを知っていて考えるのと、そういう前提がなくて、詰みがあるかもしれない無いかもしれない、いい手があるかもしれないないかもしれない、という実戦の中で似たような局面について考えるのでは、全く違います。

将棋ソフトでも「詰みの発見」はコンピュータにとって簡単な処理なので、早くから詰将棋を早解きする専用ソフトが開発されてきましたが、実戦の中ではCPUを100%詰みの発見の処理に割り振っていいとは言えないので、対戦ソフトが詰みを発見する能力は、多くの場合詰将棋専用ソフトより劣っていました。

人間は「ここは詰みがありそうだ」とか「ここ数手は勝敗を左右する場面なので慎重に時間をかけて考えよう」ということが自然にわかる、少なくとも特にその点について努力しなくても、詰将棋の能力の向上にともなって、「いつ詰めを探すべきか」という判断する能力も自然に向上します。

しかし、機械にとって、ある「枠組み(=フレーム)」の中で最適な解を求めることと、いつそのフレームを適用すべきか判断することは、難易度が決定的に違います。これが「フレーム問題」のもともとの意味ですが、私はこれと同じ困難が人間や人間社会にもこれから多く発生すると予想して、それを広義の「フレーム問題」と呼びたいと思います。

現代社会は、多くのフレームが整備され、フレームの中での最適解は多くの場合検索を使うことで簡単にわかります。たとえば、不正ソフトの問題も司法の枠組みで考えるべき点、統計の枠組みで考えるべき点があって、これらの枠組みでは何が正しいか、どうすべきか、という答は簡単に見つかります。

しかし、複数の枠組みが重なって適用される時に、どの枠組みを優先して、どの枠組みを除外して考えるべきかという判断は難しく、簡単に一致する答がないこともあります。

AIを中心とした技術の発展は、平和的に棲み分けているたくさんの枠組みが組合わさった構造を壊して、一からフレームを選択していくことが必要な事態を起こすことが多い。

今回の不正の問題は、特に処分間際の時間的に切迫した状況においては、その典型的なケースだと思います。情報が不十分な段階から私がこれに繰り返し言及するのは、自分がその時点でどのようなフレームを優先して、どのようなフレームの組み合わせで考えたのかと言うことを記録しておきたいからです。

後になって、すべてのフレームが確定してから読み直すと、いろいろ不適切なところが見えてくるかもしれませんが、フレームが不確定な状態で自分が何をどのように考えていたのか知る機会はそんなに多くありません。いずれ、自分の身の回りにもそういうフレームの再構築が起こるに違いないと私は思うのですが、その時に多少は参考になるのではないかと考えています。