久々に短編投稿&お菓子作り

医療短編ということで書いてみたのだが、投稿が終わって読み返してみれば何とも言えない自己嫌悪が襲ってくる。
読んで頂ければ幸いだが、覆面参加をさりげなく狙っていた私としてはすでに募集が閉め切られていたことに凹み、嫁が作ったチキンカツを詐称する焦げた鳥胸の素揚げを泣く泣く食わされたことに凹み、〆切の多さに凹み、木箱2つ分というどう考えても間違えた量の洋ナシが送り付けられたことに凹んでもう生きる気力が七割ほど消え失せてしまっている。
加えて、連日ニュースを騒がせているウインナーとヴォルビックの両方が冷蔵庫に入っていたこともあって嫁から執拗なまでの私の身を案ずる電話がかかってきた。両方とも手つかずであったのが幸いし、既に両方ともしかるべき方法で処分をお笑えている。
基本的に好き嫌いはしないのだが、生の洋ナシはどうにも苦手だ。香り、味と嫌いではないのだがあの食感が苦手なのだ。なので現段階ではまとめてコンポートやタルトポワールといった加熱調理をもって平らげる予定だったりする。タルトはそう難しくない上に、ホール丸ごとをプレゼントすれば喜んでもらえることが多いので重宝する。焼き上げた生地の上にカスタードを敷き詰めて苺やら桃やらを盛りつければ見た目も華やかだ。
そうチョコレートのテンパリングのような厳密な温度管理やシュー生地のような迅速な手際が必要ないのに加えて生地を休ませる時間が多い=のんびりと作れるお菓子なので、初心者がステップアップを図るにはいいレシピだろう。

イモ掘りと強欲園長

道路建設に反対する園長は売却拒否(計画用地を自身の経営する保育園の農園として使用する)。

土地収用委員会の裁定によって土地所有権が西日本高速道路に移転。

園長は土地の代金の受け取りを拒否し、裁判所の立ち退き命令が出ても無視。

園長が父から相続した農園の土地は20年で相続税免除だったが19年目で所有権が移転したため相続税2300万円の支払いを求められる。

今や西日本高速道路のものとなった土地に勝手にイモを植える


当然土地所有者の西日本高速道路大阪府にイモ撤去の代執行を依頼。

代執行通告が来るが園長は期日ギリギリまでプラカード作り。イモは掘らない。

代執行の現場に子供を招待。ジジイ寝ころび園長は泣く。もちろん子供も園長の計算通りに泣きまくる。

ガキの涙で行政が悪いというマスコミ十八番の印象操作が発動。

橋本知事激怒。

 確に子供が泣けば良心が痛むのはわかりますが、現場に子供を連れてこなければ悲惨な現場を見せることなどなかったのではないだろうか。行政代執行という強制執行がなぜ行われたかと言えば5年前から続いていた府からの交渉をすべて相続税逃れのために蹴ってきた土地所有者の無責任さが原因だ。
 高裁の判断が下される直前に執行に踏み切ったということから行政側には第二京阪が公共の利益になるのかどうかという検証責任に自信があるのだろう。大阪市内から京都や名古屋が近くなるうえに渋滞が少なくなり燃費も上がる、採算性を十分見込めるであろう道路だと思う。
 まあ執行直前に走ってきた橋本知事が「イモ掘りまで執行を延期します!」とかやってれば断然違ってたとは思うが、やろうと思えばイモなんぞブルドーザーで整地しながら踏みつぶすなんてこともできたわけで、大切に掘り起こして後日返還すると通告したのだから十分良心的ではないか。むしろ子供を政争の道具にした保育園側の稚拙かつ卑劣な対応に失笑してしまうような事案だった。

蒟蒻畑。

 特許まで放棄して事故の拡散を防ごうとしていた優良企業であるマンナンライフがなぜ打撃を受けなければならないのか。

 フールプルーフという言葉がある。回転する羽根で怪我をしないよう扇風機にカバーがついていたり、オートマの車でブレーキを踏まなければギアチェンジができないなど、工学などの分野で浸透している誰にとっても安全な仕組みにする概念のことだ。

 過去に起きた事故を受けてマンナンライフは数度に渡り商品の改良を行ってきた。窒息しにくいようカップの形状をハート型にしたり、蓋の接着力を幼児が開けられない程度にしたり、CMで正しい食べ方を紹介したり、注意書きをパッケージに表記したりと懸命な企業努力を支えてきた。フールプルーフを徹底した、消費者のことを考えてくれている真摯な姿勢の企業と言える。

 フールとは愚か者、馬鹿のことだ。なのでフールプルーフは馬鹿除けとも訳されることがある。だが、開発者の想定の遥か斜め上をいく発想で今回の事件は起こった。

 保護者が目を離しており、パッケージに書かれていた注意喚起を読んでいない老いた大人が、凍って硬くなりわざわざ窒息しやすくなったゼリーを、与えてはいけない上に体温調節もままならない1歳の子供に丸呑みさせた。見ようによっては保険金殺人とも思えるほど馬鹿馬鹿しい、まさに想定の範囲外で発生した事件だ。親の過失が問われて当たり前だが、なぜかその矛先は馬鹿(フール)である親ではなく類似品を販売するマンナンライフへと向かった。

 最近ニュースに出て話題になった食品問題は汚染米や中国が世界に誇る殺人餃子などどれも食べた人全てが健康を害する恐れがある食品だ。残留なり混入なり、何らかの形で食品に含有されていた物質が起こす成分上の問題であり、これは生産者の品質管理や生産工程での問題などが追及されて当然の思う。

 だが、こんにゃくゼリーは「喉に詰まる」から危険なのだ。喉に詰まるというのは咀嚼が不十分なまま飲み込むことで起きるわけで、単純に呼吸ができなくなって死ぬ。

 毒入りの米、殺人ギョーザ、蒟蒻畑を1万人に食べさせてみて何人が死ぬだろうか。毒物は半数致死量が混入されていた場合を考えれば、1万人のうち5000人が死ぬ。マンナンライフ蒟蒻畑はこれまでの報告でも死者は三名であり、1億2千万の日本人口と比べれば4千万に1人という確率だ。果たしてこれから先どちらが犠牲者を出す食品で、どちらの解決を優先すべきか。馬鹿な政治屋は迷うことなく後者を選び、採決に向け躍起になっている。

 国民の関心を重大な事件から逸らすためのスケープゴート、と見ることができるだろう。極めて簡単な話だ。卜ヨ夕(これで【ぼくよゆう】と読む。トヨタではない)のリコールとほぼ同時期に盛んにテレビを騒がせたパロマの回収CMと同じように、汚染米で煮えたぎる世論の矛先を少しでも逸らすために捧げられた生贄に過ぎない。

 過去にこんにゃくゼリーで17名が死んでいる。数字で見れば数は多く見える。だが、こんにゃくゼリーに限らず食品の誤飲事故で亡くなる人は毎年多く、正月に出てくる餅と比べれば可愛いものだ。年始に出てくる誤飲死亡事故の定番である餅のパッケージにはどこにも注意喚起の文はない。他にもご飯やおかゆなど10品目がこんにゃくゼリーよりも死亡者の多い誤飲食品ということだがどれも規制の方向に進む話など聞いたことはない。そもそも世の中は正しい使い方をしなければ危ないものばかりで、突き詰めていけば「生まれてきたら何が原因で死ぬかわからないので妊娠したらすぐ堕胎しましょう」という結論になってもおかしくない。

 餅といえばこのメーカー、といったものがないのに対してこんにゃくゼリー蒟蒻畑という一品目が飛び抜けてメジャーなため、簡単に指定できる。頭の悪い国民にも分かりやすいアクションを取るなら議員立法で思い切った行動に出るのがいい。浅薄な政治家の思惑が見え隠れしてならないのは私だけだろうか。

 死亡した子供の親は親としての責任が著しく欠如しており、親に刑事責任を求めてしかるべきだろう。保護者は子供の生命を預かっている。子供に与えるべき食物を管理し、子供の生命を守る義務と責任がある。自らの怠慢でそれを怠り、子供が食べてはいけないと書いてある食品をわざわざ食べさせ、落とさなくていい命が失われたのだ。

 なお、今回の規制の原因とされるのは先の誤飲もあるが、子供がこんにゃくゼリーで死んだのをいいことにメーカーに金をたかり、某議員の言葉を借りるなら「ゴネ得」で大金を手に入れた馬鹿が法廷で勝ち得た和解案に基づくものだ。

 馬鹿親のヒステリーを真に受けて優先順位をあっさりと変え、解決すべき問題を後回しにする消費者庁。議員のエゴを満たすオナニーで鮮烈なデビューを果たした以上、まともに機能するのはこの先ないのかも知れない。国民は二の次で目先の餌にむしゃぶりつく自公、政権が欲しいだけで恰好だけ国民のほうを向いている民主、護憲護憲言ってるのに本当に元弁護士なのかってくらい党首の頭がご愁傷様な社民、日本の国会は目も当てられない。まともに野党として機能しているのがよりにもよって共産党という時点で日本は終わっている。頭にウジが湧いている馬鹿が政治を行っている以上、まともな方向に日本が進んでいくのは望み薄だろう。



↓コメント返信
>>イリさん
 リンク貼らせて頂きました。これからもよろしくお願いしますね。

チェロメタル


 よく聴く音楽の一つにアポカリプティカがある。北欧音楽の権威シベリウス大出身のチェリスト三人とドラムで構成されるメタルバンドだ。こうして書けばただのイロモノと思われるかもしれないが、なかなかいい曲がある。

 これまでに共演したアーティストもThe RasmusのボーカルやNina Hagen布袋寅泰TherionのMats Levenなど錚々たる顔ぶれをゲストに迎えている。

 結成時メンバーがメタリカ好きで、演奏するのも正統派のしっかりとしたメタルだ。名門卒というだけあって演奏技術は高く、ドラムも正確に刻むためビギナーにも向いているかもしれない。メタルとクラシックのどちらか、または両方に興味があるなら、オススメできるアーティストだ。

 メロディーラインがチェロと言う楽器の特性上どうしてもベースに負けてしまうという点があるが、特に気になるレベルではない。4つのチェロによるクラシック風の重奏はやはりクラシック畑のプレイヤーだからだろうか、表現力の際立った演奏を楽しめる。アレンジもハードなものからクラシック調まで幅広く、一粒で二度、三度と楽しめるお得なアーティストだろう。

執筆について

 本格的に執筆に入っている。とはいえ、まず最初に直面したのは数か月前に書いた文章が信じられないほど稚拙に感じた、ということだ。

 創作をしたことがある人なら恐らく一度は経験したことがあるのではないだろうか。達成感で作品を見る目が曇っている間はいいが、極めてテンションが低い今の私の目には半年程度前に書いた当時最高傑作とも言える小説がきわめてヘタれて見えてしまうのだ。

 その作品と言うのは、今年春に開催された春エロス企画に投稿する予定だった作品だ。民間の伝承と人肉食、濃い目の性描写をできる限り詰め込んだ自信作「だった」。

 だが、読み返してみれば4万文字程度の中に自分の趣味嗜好を詰め込んだだけで読後感は良くも悪くもなく、言ってしまえば客寄せのためにエロとグロをとりあえず混ぜて結局何がしたいのかわからない小説だった。恐ろしいことに、半年前の私はこの作品を全力を尽くした作品として企画に投稿するつもりだったのだ。

 現在はコンセプトである社会・文化への禁忌的行為をバックボーンに置いた恋愛作品として新生しつつある。

 問題は、もともと勢いで一気に執筆するタイプのはずだったのに、一字一句をタイプするのに慎重になっていることだ。これまででも群を抜くスランプと言ってもいいかもしれない。だが、この低迷と停滞が今後の執筆への大きな糧になるよう、今は願うばかりだ。

ピアノとの会話

 趣味でピアノを続けている。とは言っても、ピアノ教室に通っていたわけでもなく家にあったピアノをそれっぽく弾くお遊びだった。思春期の男というのは得てして意味もなく反抗的態度を取りたがる節があるが私もその例に漏れることなく、知り合いからのピアノ教室へのお誘いを突っぱね続けて結局習うことはなかった。

 なので独学ということになる。聞こえはいいが、非常に苦労することが多い。ハノンのような教則本ではなく、最初から流行りの曲やCMで流れている簡単なクラシックをおっかなびっくり弾くだけで、本当にピアノを演奏するということはできなかった。だがそれも最初の一年程度で終わり、あとは当時同級生だった友人の見よう見まねでトルコ行進曲をなんとか弾けるまでになった。もともと親指から小指まで普通に伸ばしてCからEまで届くという手の大きさに恵まれていたのも功を奏したのだろう。

 かれこれ十年以上になるだろうか。音大に進んだ友人に演奏を指摘してもらったり、それなりなピアノライフを送っている。たまにマイクで自分の演奏を録音し、それを聞いて演奏者と聴衆という違う立場から曲を感じ取るというのもまた面白い。そうして改善していくことで上達を実感できるのが音楽のいいところだ。

 ベートーヴェンモーツァルトショパンなど高名な作曲家は多いが、特に練習しているのはカプースチンラフマニノフ。たまにラヴェルやリスト、シマノフスキゲーム音楽にも手を出す。グレード受講の自由曲もこの作曲家の曲から選ぶ場合が多い。次のグレードではシマノフスキマズルカを弾くことにしている。とあるピアニストのコンサートで聴いて以来ずっと弾けるようになるのを夢見てきた曲ということで、細部に渡る細かな表現まで突き詰めるのが今の課題だ。

 音楽は言葉と一緒、私の好きなピアニストである上原ひろみの言葉だ。音楽を血肉にした演奏をするエネルギッシュな演奏が彼女の持ち味だが、考え方からも彼女の音色がいい理由がわかる。

【「このピーマン、おいしいよ」と自信を持って言われると食べてみたくなるけれど、「あまり美味しくないよ」といわれるピーマンなら、欲しくないでしょう?音楽も一緒だと思います。自信がある曲を弾かなきゃ伝わらない。】という文はわかりやすい。確かに自信のある曲でなければ演奏者の不安も聴衆は感じ取ってしまい、その時点でいい演奏ではなくなってしまう。

 彼女の演奏は音楽の楽しさを教えてくれる。ジャズというジャンルだからではない。演奏しているピアニストが心から音楽を楽しんでいなければ、楽しい演奏はできないのだ。グレード受験にあたって私も、会場の雰囲気や音楽を楽しめるような気楽な心構えで臨めたら。そう思う今日このごろだ。




 下の記事で適当にクリックしていたら自分で自分のブログに星をつけていた。恥ずかしいというかなんというか、まあはてなの感覚にも徐々に慣れていきたいと思う。

文字という「手段」

 一枚の絵があるとしよう。どんな絵でもいいが、できるだけ詳細な筆致の絵がいい。
 その絵を文字だけでどれほど表現できるか。千の言葉を尽くそうと、万の言葉を駆使しようと、実際に絵を目にするという手段の前で文字は映像の力に負けてしまう。

 小説を書く上で感じることは、文字と映像では土俵が違うという当たり前なことだ。絵に感動するために必要な時間は数秒でいい。ありったけの情熱をなみなみと注ぎ込んだキャンバスを公開すれば、それだけで共感を得ることはできる。
 だが、小説は違う。小説を読むのには絵を楽しむのに比べて多大な時間を必要とするからだ。最初の一文のみで感動する小説というのは極めてごくごく一部、本当に一握りの作品だけだろう。
 たくさんの文字を費やして小説は構成されている。一文字一文字が絵の一色一色であるのと同じように。だが小説は文字の羅列でしかない。文章を映像化し、頭の中で物語を想像させるのは読み手の想像力と書き手の力量に依存する。与えられた情報に対して直感的に感動できる絵と比べ、小説は想像と言う認識のプロセスを挟む。経るプロセスが多ければ多いほど不純物が混じる可能性は高まるのは当然で、つまり書きたかった内容が全て読み手に伝わるとは限らない。

 ならば文字は絵に劣るのか。私はそうは思わない。
 学生の頃に読んだある小説の感動は今でも新鮮なままで心の中に残っているし、映画や過去の偉人が語った名言もまた私の心に焼き付いている。

 絵描きが色の全てを把握するように、小説家は自らが綴る文字を把握しなければならない。五感が得た情報を文字と言う記号に変換するのは容易なことではない。だが、それほど難しくもないのかもしれない。表現は自由であり、表現に正解などないのだから。だからこそ、自らの表現に書き手は責任を持たなければならず、誇りも持つべきなのだと、私は思う。