esu-kei_text


2008-02-17

 50年間、支配者であり続けている男 ―知られざる元首フィデル・カストロ


キューバ


 ベストセラー「国家の品格 (新潮新書)」を読みながら、ずっとキューバのことを考えていた。

 「米国の言いなりになるな」「経済よりも大事なことがある」「教育を重んじろ」。それは、そのまま革命以降のキューバの国策にあてはまる。

 もちろん、キューバは社会主義国家である。第二次世界大戦に敗戦した日本は「反共産主義」「米国との軍事同盟」を条件に国体の維持を許されたといっていい。結果、日本は世界第二位の経済大国になった。「その判断はおおむね正しかった」と我が国の識者は語る。

 そんな日本で住む我々には、キューバを「社会主義国家」という色眼鏡を抜きにして見ることは難しい。

 キューバは日本に比べると貧しい国である。しかし、キューバにはホームレスはいない。識字率は95%をこえ、高校までの教育費は無料だ。医師の数は国民165人当たり1人と世界一多い(2002年調査)。乳児死亡率も1,000人当たり6.5人と米国より低い(2002年調査)

 そんなキューバの国政のトップには、1959年のキューバ革命以降、半世紀にわたりフィデル・カストロがついている。まるで、毛沢東や金日成のように、権力に執着した独裁者としてカストロを見る人は多いだろう。しかし、カストロは自分の肖像画や銅像を一切作らせていない。

 何しろ、カストロは、農地改革で、実家の土地をも公正に没収したために、実母から勘当された親不孝者なのだ。

 元駐キューバ大使は著書でこう書いている。

カストロ兄弟(フィデルとラウル)が別々に居住している住居は、警備こそ厳重であるが、通常の住宅である。旧ソ連・東欧諸国の指導者の贅沢とは比較すべくもない。また、要人が使用している車を見ると、カストロ首相こそ数十年前に寄贈されたベンツを使用しているが、ラウル・カストロの車はソ連製ボルガである。他の党・政府高官は一般国民と同様、クーラーもないソ連車ラーダを使用している。ラヘ官房長官は、日曜日など、子息といっしょに自転車で工場現場を視察に訪れる。ロバイナ外相は外務省まで通常自転車通勤である。ましてや某国のように、黒塗りのベンツが走ってきたら立ち止まって最敬礼をするように教育をされたりはしない。

(中略)

 食料品についても同じことがいえる。大使館公邸に来る政治局員や閣僚に対して著者は「失礼ですが、閣下のお宅では食料品をどこで購入されますか」と聞くことにしていた。「一般の人たちと同じ場所で、配給手帳で買います。近所の人たちが証人です」との答えが返ってくる。

(宮本信生「カストロ」中公新書)

 今年の2月24日、五年一期の議長職、つまりキューバの国家元首が選出される。病気療養中と伝えられるカストロが再選されるかどうか、世界中が注目している。

 

キューバが社会主義国家を宣言した理由


カストロとフルシチョフ

「カストロは共産主義者ではない。しかし米国の圧力のおかげで二年後にはそうなるに違いない」

 1960年、当時、ソ連の最高指導者だったフルシチョフはそう語った。

 1959年、キューバ革命を成功させ、国政のトップについたとき、フィデル・カストロは31歳だった。当時、キューバの土地は2/3以上が外国資産だった。そして、そのほとんどが、キューバから150kmしか離れていない米国(アメリカ合衆国)の資本であった。

 カストロは「キューバの土地はキューバ人に」という革命スローガンを実行すべく、農地改革を断行した。外国資産のほとんどはキューバ政府に没収された。米国とつながりがあった富裕層は、一斉に米国フロリダ半島に亡命した。その後、キューバにて、謎の空爆が多発する。フロリダ半島からキューバへは、硫黄島から日本列島よりも近い。

 1960年9月、カストロは国連総会に赴いた。米国政府は滞在中のカストロに様々な圧力をかける。しかし、カストロは国連本部の芝生にテントを張るなど、盛大なパフォーマンスで対抗した。こうして、ダウンタウンのハーレムに泊まらざるをえなかったカストロのホテルには、ソ連書記長フルシチョフ、エジプト大統領ナセル、インド首相ネルーなどの首脳が次々と足を運ぶ。黒人運動家たちも、この大胆不敵な31歳のキューバ首相に一目会いたいと殺到した。アイゼンハワー米国大統領は南米首脳を囲む昼食会にキューバだけ呼ばなかったが、カストロは気にしなかった。

 9月26日、国連総会での四時間半にわたるカストロの演説は、今でも語り草になっている。「現に空と海から襲撃をかけている米国ではなく,いまだ一度も攻撃をかけたことのないソ連を非難するという欺瞞が成り立っている」とカストロは叫んだ。

 帰国しようとするカストロに、米国はまたもや悪質な妨害をする。なんと、キューバ航空機を差し押さえてしまったのだ。しかし、カストロはソ連の提供した飛行機に乗って、悠々とニューヨークを後にした。

 米国市民は、そんなカストロの武勇伝に拍手喝采した。だが、この騒動でカストロは米国政府と決別することになる。1961年1月国交断絶、4月全面的貿易封鎖、そして同じく4月プラヤ・ヒロン侵攻事件(米国主導による軍事侵攻)と、何度も発覚したカストロ暗殺計画。

 冒頭のフルシチョフの予言は外れた。1961年4月、キューバは社会主義国家を宣言する。二年どころか一年もたたないうちに、カストロは共産主義者となった。米国の政治的・経済的・軍事的圧力から、キューバの独立を保つのに残された道は、ソ連を頼りに社会主義陣営に入るしかなかったのだ。

【関連リンク】

ケネディ暗殺とカストロ


ジョン・F・ケネディ

 1963年11月22日、ケネディ米国大統領がダラスで暗殺された。その黒幕として、フィデル・カストロの名をあげる声は今なお絶えない。

 その根拠として、カストロの次の発言が引用される。

「われわれは米政府と同じ方法で対応する用意が出来ている。米政府がテロリストどもを援助してキューバの指導者を排除するつもりなら、彼らの身も安全でないことを考えるべきだ」

 つまり、米国は何度もカストロ暗殺を企てたのだ。あいつぐ暗殺計画の発覚に怒り心頭なカストロのこの発言が、ケネディ暗殺の根拠となっているのである。

 しかし、カストロはキューバ革命時でも、テロリズムには決して手を染めなかった。独自のゲリラ論をうちたてた革命の英雄チェ・ゲバラも、トロツキーの戦法を参考にしながら、テロ行為だけは一貫して否定している。


 実は、当時、ケネディ大統領がキューバとの国交再開を模索していたことが、後の証言により明らかになっている。

 1963年11月18日、ケネディ大統領は、あるフランスのジャーナリストが、カストロにインタビューするという話を聞き、彼をホワイトハウスに招いた。そして、国交正常化に関する自分の熱意をカストロに直接伝えて欲しいと頼んだ。

 彼がカストロにその意志を伝えたのは11月22日、ちょうどその日、ケネディはダラスで暗殺された。

 後をついだジョンソン大統領は、ベトナム戦争への本格的介入を決意する。そんな米国政府が社会主義国家キューバに門戸を開くはずがなかった。

 キューバ危機を平和的に解決し、ベトナム戦争撤退の方針を固めていたケネディ大統領を誰が暗殺しようとしたか。答えは未だ明らかにされていない。何しろ、映像では前方から射殺されたとしか見えないのに、後方にいたオズワイルドが実行犯とされているのだ。

*ケネディ大統領暗殺には、CIAが関わっているという根強い噂がある。対キューバ関連などをめぐり、対立していたケネディとCIAの関係は、以下のページを参考に。

正義のゲバラと独裁者カストロ

 米国との接触をたたれたカストロの前には、無数の貧しい国民がいた。経済力を失ったキューバは、やがて、国際情勢から忘れられた存在となる。1959年のキューバ革命、1962年のキューバ危機。それがほとんどの日本人が知っているキューバのすべてである。

 1967年、南米ボリビアの山中で、エルネスト・チェ・ゲバラが死んだというニュースがかけめぐる。なぜ、キューバのカストロ政権の幹部であったゲバラが、ボリビアでゲリラ戦を指揮していたのか。カストロとゲバラとの間に確執があったと考えた方が妥当だった。

 ゲバラはアルゼンチン人で医学博士である。キューバ革命には軍医として参加した。最初はゲリラ隊員や支配地域の農民の教育を担当していたらしい。しかし、その卓越した分析力と無私無欲な性格は、人々の強い支持を得るようになる。ゲバラ自身、戦わずして独立を勝ち得ることはないという確信を抱いていた。

 カストロはそんなゲバラを、別働隊の司令官に任命する。外国人の医者を、革命軍の事実上の副官にしたのだ。ゲバラはその期待にこたえた。キューバ革命の天下分け目の「サンタクララの戦い」では六倍以上の国軍を相手に堂々たる勝利をおさめた。カストロ到着まで、首都ハバナの治安回復を任せられたのも彼である。戦後にありがちな略奪や暴力に対して厳格に公正に処罰したゲバラを、国民は慕った。

 革命成立後、ゲバラは政府の要職にはつかなかった。だが、カストロの農地改革により、米国とつながりのある富裕層が亡命するに至り、キューバは人材不足に陥る。そんな状況で、カストロは国立銀行総裁にゲバラを指名したのだ。ゲバラが最初にしたことは、米国銀行に預けていたキューバ資産をスイス銀行などに移したたことである。この果断な処置がなければ、米国の凍結処置でキューバはたちまち降参していただろう。

 しかし、政治家ゲバラがほめられるのはここまでだった。「勤勉さがキューバを救う」と工業大臣についたゲバラは、みずから率先してキューバを工業立国にしようとする。ところが、キューバには原材料がなければ、他国に高値で売る技術力すらなかった。働いても働いても利益の出ない絶望的な状況が待っていた。

 そして、ゲバラはキューバを出る。一つでも多くの米国に頼らない国家を中南米に築くこと。米国の反キューバ包囲網を切り開くため、彼は再びゲリラ戦争に身を投じたのだ。

 もちろん、世界の多くの人は、そんなゲバラの決死の思いを知るよしもない。だが、彼らは覚えていた。「進歩ある同盟」の名を元に、キューバを孤立させようとする米国のやり方を、正面きって批判したゲバラのことを。米国の資本に頼らざるをえなかった世界中の国の人々にとって、米国に逆らいつづけた挙句、要職を捨てて戦場にたおれたゲバラは、真の革命戦士であった。

 キューバから遠い日本にも、そんなゲバラの肖像画は伝わった。そして、ゲバラは米国資本主義社会に抗議を持つ者たちのシンボルとなる。社会主義国家の独裁者カストロに比べ、革命の英雄ゲバラは人々に抵抗なく受け入れられる土壌があった。


 もしかすると、ゲバラは宗教家だったのかもしれない。彼は「革命家」をもっとも崇高な存在だと定義していた。そのために、彼は自分の部下に規律を遵守することを徹底させ、それ以上に自分を律していた。ゲバラは言う。

もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「その通りだ!」と

 もちろん、キューバ国民はゲバラとカストロの確執を信じていない。ゲバラと同様に国民はカストロを愛している。1960年の国連総会で米国を真っ向から批判し、全世界の度肝を抜いた青年革命戦士は、どんな絶望的な状況でもキューバ国政のトップから一時も離れることはなかった。

 確かに、キューバは貧しい。経済的に、カストロは失政したといえるだろう。だが、彼はキューバ人に誇りを与えた。モノはないが、キューバは医療と教育は一貫して重視した政策を取っている。

 旅する者は言う。キューバは中南米の中でもっとも安全な国だ。間違いなく、米国よりも。

自由という抽象的概念について


 キューバに表現の自由はない。未だに政府による情報統制がしかれている。例えば、カストロの病名は「国家機密」とされており、公表されていない。インターネットは許可制であり、ネット検閲もされている。

 そんなキューバを「自由」にするべく、米国は経済封鎖を続けている。

2004年5月、米国国務長官を委員長とする「自由なキューバを援助する委員会」は、ブッシュ大統領に対して、キューバの自由化を支援することを目的として、対キューバ制裁措置を強化するよう勧告。この勧告に沿って、米国政府はキューバ系米国人の渡航やキューバへの家族送金の制限等の措置を講じている。また、2006年7月には、同委員会による2回目の報告書が出された。

キューバ基礎データ | 外務省

 一方、国連総会は米国に対し、経済封鎖解除とその関連の法律の廃止を求める決議を10年以上連続で採択している(賛成184ヶ国 アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオは反対、ミクロネシアが棄権)

 米国がキューバに強硬姿勢をとる理由は、フロリダ州の数十万人にのぼる亡命キューバ人の票田確保がある。特に、共和党政権は、代々キューバに対して厳しい姿勢でのぞんでいる。

 

 自由とは何であるか。「自由の戦士」と呼ばれることもあるゲバラは著書「ゲリラ戦争」で次のように書いている。「人々が革命に参加する動機はいろいろある(中略)農民は耕す土地を自分のものにするために。そして、都市や知識人は自由という抽象的概念によって」

 カストロとゲバラは、ゲリラ戦争の経験から「農本主義」といってもいいぐらい、農村を重視した政策を取り続けた。経済が崩壊し、米国を敵に回すのを覚悟で、農地改革を断行したのは、ゲリラ戦で農民が協力してくれた恩に報いるためだった。キューバの有機農業が今、世界で注目されているのは、そんな主義の賜物かもしれない。

 カストロの演説は長いことで有名だ。最高記録は10時間という。1960年の国連総会でも4時間半にわたり喋りまくった。「ゲバラ日記」の序文では、そんな長ったらしいが魅力的なカストロ独特の口調が味わえる。

 果たして、米国大統領は、カストロのように、自分の言葉で喋ることができるのだろうか。キューバ革命のときから、カストロは積極的にマスコミを利用し、記者たちを喜ばせた。

 2006年の野球の世界大会WBCで、決勝で日本と戦ったキューバ選手団にカストロはこう語っている。

「試合に“勝て”とは言っていない。“ベストを尽くせ”と言っている」

「金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けた事が素晴らしいんだ!」

 そんな人間味あふれる元首が支配するキューバでは「自由」がないという。ジャーナリストの国際的非政府組織、「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167カ国・地域中、161位にとどまっている。

最後に


 キューバのことを日本語で知ることはきわめて難しい。比較すべき書物が圧倒的に少なく、読みやすさを重視したこの文章は、虚偽の事実が含まれている危険性が高い。ただ、これをきっかけとして、キューバに興味を持っていただければ幸いである。

 僕自身は、社会主義という体制が最善とは信じられない。ただ、資本主義は「企業主義」ではないと思う。私有財産尊重主義であるべきだ。

 もし「日本はアメリカの植民地」という妄言を語りたくなったら、キューバの革命以降の歴史を知るといい。米国に日本を占領できる余裕はないのだから、言いなりになる必要はどこにもない。

 ホームレスの姿は駅にあふれ、終身雇用・年金制度は崩壊した。若者に確かな職はなく、その場しのぎのようなサブカルチャーに身をささげる。間違いなく、現在よりも悲惨な未来が待ち構えている。それでも、企業主導による景気回復の数字を政府は並べている。人々は右と左に分かれて不毛な言い争いを続けている。いつの日か、この国にも変革のときがくるのだろうか。

 そのときに備え、米国資本主義に逆らい続けたキューバの歴史を知ることは有益であると思う。

【参考リンク (代表的なものだけ記す)】

【関連記事】