マイケル・ジャクソンの「天才性」を分析する
「天才」に打ちのめされた経験のない人は不幸なことだ。
例えば、漫画家藤子不二雄の二人。
デビューして、彼らは手塚治虫と石森章太郎の「天才」ぶりに打ちのめされた。
その「天才」が一人で描く原稿のスピードは、藤子不二雄の二人が一緒になっても倍近くの差がついたからだ。
とはいえ、彼らが漫画家であることをあきらめたわけではない。
彼らには、コンビを組んでいるという強みがあった。
彼らは自分の才能の信じ、手塚や石森という「天才」にペースを乱すことなく、漫画を発表し続けた。
一方で、藤子A(我孫子)は、コンビを組んでいた藤子F(藤本)のことを「天才だった」と公言している。
僕は藤子Fのセンスが大好きだ。特に「モジャ公」。その作品の連載後期のブラックユーモアは、藤子Fにしか出せない面白さにあふれている。
しかし、藤子Aの筆まめな性格も、それに劣らぬ多くのものを生み出した。彼の詳細な日記があってこそ、「まんが道」という一大傑作がもたらされたのである。
「天才」とはいえ、完全無欠なスーパースターではない。
「天才」と呼ばれる人たちは、それぞれの生き方で、その「天才性」を維持してきたのだ。
今回は、マイケル・ジャクソンを例にとり、その「天才性」を分析してみよう。
※最近、話題になっているマイケルの「他殺」については、別記事で書いています。
・マイケル・ジャクソンは殺されたのか? −過失致死容疑をめぐるニュース
【目次】
・先天的な才能
・明確なヴィジョン
・機が熟するまで待つ勇気
・うぬぼれない謙虚さ
・「天才」に打ちのめされることは不幸なことではない。