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2010-05-28

最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1)

 

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『ドラゴンクエスト』 (FC 1986年)

 「ドラゴンクエスト」シリーズの生みの親として知られる堀井雄二は「劇画村塾」三期生という経歴を持つ。

 「劇画村塾」とは、漫画原作者の小池一夫による、マンガ家およびその原作者の養成塾である。

 堀井雄二の同期には、原哲夫や山本直樹がいる。

劇画村塾 - Wikipedia

 

 堀井雄二の夢は、マンガ家になることだった。

 彼は、絵を描くのが好きだったし、物語を作るのが得意だった。

 大学に入ってからは至極当然のように「マンガ研究会」に入った。

 

 そんな彼は、ゲームを作るときに「劇画村塾」で学んだことが大いに役立ったと語る。

 限られた文字数で、キャラを立たせるためには、どんなセリフ回しが効果的か。

 そのようなマンガ的手法を、彼はゲームのシナリオに持ち込んだのだ。

 

 日本初のゲームシナリオライターといわれる堀井雄二は、「ドラクエ」シリーズにて、新たな「コンピューターRPG」像を打ち立てた。

 やがて、その独特の世界観とシステムが、日本ではデフォルトスタンダードとなって定着していく。

 

 日本のビデオゲームを語る上では、「マリオ」「ゼルダ」シリーズの生みの親である宮本茂とともに欠かせないのが、この堀井雄二であろう。

 その、異なる方向性のゲームを作り続ける両者の対談は、ネットでも大きな話題となった。

 

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画像引用元:http://touch-ds.jp/crv/vol4/001.html

 

 

 それでは、これから数回に分けて、マンガ家になりたかった堀井雄二が、なぜ、ゲームのシナリオライターとなったのか、そして、なぜ、日本ビデオゲーム界で成功をおさめたのかを紹介していこう。

 

 


◆ 堀井雄二のゲームデザイン(1) 最初だからこそできた「最大の禁じ手」


 

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『ポートピア連続殺人事件』
(PC-6001 1983年)

 

 「ポートピア連続殺人事件」ほど、犯人の名前が知られているアドベンチャーゲームはないだろう。

 それは、その結末が、プレイヤーにとって、忘れることのできない衝撃的展開だったからである。

 

 日本で最初の本格的アドベンチャーゲームである「ポートピア連続殺人事件」は、もともと、堀井雄二が一人で作り上げたものだった。

(1985年に移植されたファミコン版はそうではない)

 

 それは、当時のパソコンゲームでは珍しいことではなかった。

 むしろ、その後の「オホーツクに消ゆ」にて、シナリオとプログラムが分業となったことのほうが、異様なことだったのだ。

 

 1983年、パソコン版「ポートピア」が発売されたとき、堀井雄二の職業はフリーライターだった。

 彼にとって、ゲームを作ることは、あくまでも「趣味」に過ぎなかった。

 パソコンゲームは商売になるほどの需要はなく、それを職業にすることを世間が認めていなかった時代だったのだ。

 


     *

 


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堀井の「マン研連合」仲間であり
『ジャンプ放送局』や『桃鉄』で知られる
さくまあきら

  

 少年時代、堀井雄二はマンガ家を目指していた。

 マンガ家になるためには、淡路島出身の彼は、上京しなければならないと考えた。

 親を納得させるためにも、彼は東京の大学に向かうべく、受験勉強に励んだ。その結果、彼は早稲田大学文学部に合格する。

 

 しかし、彼が入学した1972年、学生運動のあおりを受けて、早稲田大学は一年間、閉鎖されてしまった。

 日本をゆるがした「あさま山荘事件」は、1972年2月のこと。学園紛争にゆれていた時代であった。

 堀井雄二は政治活動に加担する気は、さらさらなかった。

 彼にとって、もっとも優先すべきことは、みずからの構想する「物語」を、マンガとして表現することだったのである。

 そのために、彼はわざわざ東京の大学に進学したのだ。

 彼はさっそく、早稲田大学の「マンガ研究会」に入る。

 

 大学が閉鎖されているためか、学園紛争のつながりのためか、当時の早稲田大学「マンガ研究会」は他大学との交流が活発に行われていた。その「マン研連合」の中で、堀井雄二は頭角を表すようになる。

 「マン研連合」の機関誌では、文章が書ける人間が求められた。

 マンガ家になりたい、と思いながらも、その訓練を怠っていた堀井雄二に比べて、他者の絵は、見栄えの良いものばかりだった。それが癪にさわった堀井雄二は、機関誌で文章を担当することにした。

 すると、これが意外と彼の性分にはまった。

 彼はマンガ家になりたかったのは、「もっとも多くの人を楽しませる仕事」だと思っていたからだ。

 だが、彼は考え直す。マンガであれ文章であれ、手段は違っても「楽しませる」という目的は同じではないかと。

 故郷では、マンガでなければ、喜んでくれる友人はいなかった。しかし、東京の大学では、彼の文章に喜んでくれる仲間たちがいたのである。

 

 出版社にとって、「マン研連合」のような、複数の大学が集う団体は好ましいものであったらしい。

 堀井雄二が大学二年のとき、「マン研連合」に商業出版の話が舞い込んでいた。

 彼ら「マン研連合」は、その企画に熱心に取り組んだ。堀井雄二が積極的に執筆に関わったのは言うまでもない。

 こうして、その雑誌は認められ、堀井雄二や、立教大学マンガ研究会のさくまあきらは、雑誌社との人脈を築くことに成功したのだ。

 彼は学生時代からライターとして活躍するようになり、やがて、そのまま、フリーライターとなった。

 


     *

 

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『子連れ狼』などの原作で知られる
小池一夫

 

 堀井はライターという職業に満足していた。特に、読者投稿コーナーを担当することは、彼にとって楽しいものだった。

 彼が提案したコーナーに、読者がどう応えるか。そのやり取りは、どれほど仕事量が増えても、彼には飽きることがなかった。

 しかし、フリーライターの仕事には、自由がない。定められた分量で、定められたテーマに基づいた企画を作ることしか求められない。

 それは、自分で「物語」を表現するほど創造的なものではなかった。

 

 そんなときに、「マン研連合」仲間であるさくまあきらから紹介されたのが、冒頭で述べた「小池一夫劇画村塾」である。

 彼は、その話に飛びついた。

 1981年、堀井雄二は「劇画村塾」三期生となる。

 

 「劇画村塾」での経験は、フリーライターとして満足していた彼の生活を刺激したらしい。

 だからこそ、その1981年に初心者向けとして発売された、NECのパソコン「PC-6001」に、彼は興味を持ったのだろう。

 当時、「パソコン」は「マイコン」と呼ばれるほうが多かった。「PC-6001」は、定価は89,800円、RAMはわずか16KB。日本語が表示できるとはいえ、一文字変換しかできなかった。

 それでも、堀井雄二が購入を決意したのは、SF的な雰囲気にひかれたからである。パソコンのある生活が、カッコいいと思ったからだ。

 そして、その値段は、フリーライターである彼に、手の届かない価格ではなかった。

 

 PC-6001の購入とともに、彼は数本のゲームを入手した。ゲームソフトといっても、媒体はカセットテープである。

 さっそく、彼はそれらをプレイしてみた。

 しかし、彼はすぐに不満を感じた。「ひどすぎる」と思った。

 


      *

 

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初心者向けとして発売された
NECのパソコン『PC-6001』

 

 当時のPC-6001のゲームソフトというのは、BASICによるクローンゲームがほとんどだった。

 アーケードで流行している業務用ゲームを、BASICで再現しようとしたものである。今のように、権利問題が声高に叫ばれる時代ではなかったのだ。

 というのは、クローンゲームといっても、色数や解像度は、業務用筐体とは比べものにならない低い環境で再現するしかなかったからだ。

 任天堂、ナムコ、セガなどの業務用ゲーム制作会社にとって、パソコンのクローンゲームなど、相手にするほどのものではなかった。

 「形だけ似せた」劣化コピー作品がほとんどであり、競合相手にはならないと思われていたのだ。

 

 それらのプログラムは、雑誌「I/0(アイ・オー)」や「アスキー」に掲載された。その多くは読者の応募によるものである。

 当時は、業務用ゲームに似せたプログラムを、それらの雑誌社では熱心に募集していた。

 採用されれば、謝礼をもらうことができた。ゲームソフト化されれば、印税を受け取ることもできた。

 コンピューターを持つ人は少なく、BASICができただけでも、重宝された時代なのである。

 堀井雄二が購入した「カセットテープ」のゲームは、このような雑誌に掲載されていたプログラムを打ち込んだものにすぎない。

 

 つまり、彼が購入したゲームソフトは、BASICのプログラムだから、手軽に改変できるものだったのだ。

 それは彼の創作欲を刺激した。文学部卒の彼にプログラミングの基礎知識はない。

 だが、何が「面白いのか」を見る目はあると自負していた。

 

 形だけ似せたクローンゲームには、そんな「面白さ」がなかった。彼はPC-6001に付属していたBASIC教則本を片手に、その中身を自分なりに分析してみた。

 どの数値を変えれば、どういう変化が起きるのか。BASICのプログラムは単純であり、ひとつの数値を変えただけで、それがすぐに反映される。

 

 やがて、彼はさくまあきらたち友人に、それらを遊ばせることにした。彼らにとって、パソコンのゲームは未知の世界であり、それを改変できる堀井雄二は、神にも等しき存在に映った。

 彼はますます調子に乗った。「面白さ」を追求するために、ついには、マシン語にも手を出すようになった。気づけば、彼は自分のゲームを作っていた。

 

 こうして、彼の作った「ラブマッチテニス」は、1982年にエニックスが実施した第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストで入選してしまう。

 


     *

 

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世界初のグラフィック付きADV
ミステリーハウス』

 

 1981年から82年にかけて、彼は「劇画村塾」でマンガの作り方を学びながら、一方で、ゲームプログラミングを会得していた。

 だが、あくまでも、彼はライター業が自分の仕事であると考えていた。

 

 そんな彼が、物書きとして「アドベンチャーゲーム」(ADV)という形式に興味を持つことは当然のことだった。

 

 「アドベンチャーゲーム」とは、イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式である。

 それに「ゲーム性」をもたらすためにはどうするか?

 当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。

 プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。

 

 そこで考えられたのが「単語直接入力システム」である。

 グラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進む。

 それは、キーボードのあるパソコンだから遊べるゲームであると思われていた。

 こうして、ゲームセンターで稼働する業務用ゲームとは異なるゲーム性が生まれたのである。

 

 しかし、これらのゲームは、堀井雄二の持つパソコンよりも、上位機種であり高値なPC-8801シリーズでしか遊ぶことができなかった。

 また、日本語のゲームはほとんどなかった。

 彼はPC-8801を買うほど、ゲーム作りに本気になろうとは思わなかったし、わざわざ英語でゲームを遊ぶという面倒なことはしたくなかった。

 

 そんな彼に、エニックスがゲームソフトの依頼を持ちかけてきた。

 彼の持つPC-6001対応のソフトでも、かまわないと言う。

 彼は決意した。

  前例のないPC-6001の「日本語アドベンチャーゲーム」を作れば、競争相手がいないから、誰にも批判されるはずがないと。

 こうして、彼はアドベンチャーゲームを作り始めた。といっても、最初に作ったのは、グラフィックツールである。絵を描くソフトを自前で用意しなければ、ゲームを作れない時代であったのだ。

 


     *

 

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『ポートピア』の登場キャラ
「ヤス」こと「間野康彦」

 

 堀井雄二は、実際にアドベンチャーゲームをプレイしたことはなかったが、パソコン雑誌で「単語直接入力システム」というゲーム性を理解していた。

 しかし、それを作ろうとしたとき、彼には引っかかることがあった。

 その「コマンド」は、あらかじめ作り手が用意されたものでなければならない。

 ゲームはプログラムにすぎないから、作り手が意図しない「コマンド」を入力しても、プレイヤーの期待する反応は戻ってこないのである。

 そんなものが「ゲーム」として通用するだろうか。

 まどろっこしい「ことば探し」が、「ゲーム」として成立するのだろうか。

 

 このとき、堀井雄二は思いついたのだろう。その「まどろっこしさ」を「命令」とすればどうだろう、と。

 あくまでも、プレイヤーは「命令」をする立場にすぎない。実際に、行動をするのは、ゲームのキャラクターとする。

 そうすれば、作り手が意図しない「コマンド」は、部下に通じない「命令」となる。

 部下を動かしてシナリオを進めるために、プレイヤはその場に適した「コマンド」を探すのは不自然ではない。

 こうして、日本のゲーム史上、もっとも有名な部下「ヤス」こと「間野康彦」は誕生した。

 

 1983年にエニックスから発売された「ポートピア連続殺人」はたちまち評判となった。

 何しろ、PC-6001には、まともに遊べるアドベンチャーゲームはほとんどなかったのだ。

 それに、「ヤスへの命令」という手法は、プレイヤーにもすんなり受け入れられた。

 「ことば探し」の面倒さを、プレイヤーはヤスの物分りの悪さととらえることができた。。

 そして、ヤスはただの部下ではなかった。その結末は、プレイヤーすべてに劇的な衝撃を与えた。

 

 最初のアドベンチャーゲームだったからこそ、最大の禁じ手を使うことが許される。

 だからこそ、堀井雄二は、自分がプレイすらしたことのないアドベンチャーゲームを、わざわざ作ったのである。

 その驚きのためには、グラフィックツールを自前で作ることすら、彼はいとわなかった。

 堀井雄二とは、そんな男だった。

 


    *

 

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上位機種PC-8801に移植された
『ポートピア連続殺人』

 

 「ポートピア」の成功に気を良くしたエニックスの勧めもあり、堀井雄二は上位機種PC-8801を購入した。

 その目的は、もちろん「ポートピア」のPC-8801の移植版を作ることである。

 ビジネスユーザーを対象にしたPC-8801だが、日進月歩の技術の発展により、すでにNECパソコンの最上位機種ではなくなっていた。

 1983年には、家庭用として購入できるほどの価格設定に下げられていたのだ。

 

 こうして作られたPC-8801版「ポートピア」では、色数が増えたことのほかに、コマンドがファクションキーで割り当てられている。

 これは、プレイヤーの「ことば探し」を軽減させる目的があった。

 英語に比べて、日本語の表現は多用である。英語の「take」は、日本語では数多くのバリエーションがある。

 命令形などの変化の問題もある。

 それらすべてに作り手が対応しなければならないことは、堀井雄二にとっては悩みの種だった。

 関西弁に対応するようなことは楽しんでも、予期せぬプレイヤーの行動に対処することは、彼にとっては、それほど面白いものではなかった。

 

 PC-8801の「ポートピア」の移植によって、多くのユーザが「ポートピア」を楽しむようになった。

 すると、それに対する反応は、より一般的なものに近づいてくる。

 あるとき、彼は秋葉原で、それをデモプレイする人を背後から観察した。

 プレイヤが打ち込む言葉は、彼の予期せぬものばかり。ゲーム内の部下「ヤス」の受け答えも不自然なものだった。

、彼は「ことば探し」のアドベンチャーゲームは、もうやめよう、と決意した。

 


     *

 

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最初の「コマンド選択式」ADVとなる予定だった
『軽井沢誘拐案内』 (PC-8801 1985年)

 

 「ことば探し」に代わって、堀井雄二が考えたのが「コマンド選択式」というシステムである。

 それは「選択肢」とは異なり、「命令」→「対象」と、二つのコマンドからなっている。

 これならば、バリエーションが多くなり、ゲームとしても成り立つのではないかと、彼は思った。

 

 一作目の「ポートピア」は、彼が育った淡路島、そして神戸を舞台としている。

 二作目は関東を舞台にしようと彼は決めた。彼はそれに「軽井沢殺人事件」という仮題をつけた。

 

 こうして、新作を作り始めたものの、その制作は難航する。

 まだまだ、彼の本業はフリーライターである。

 「ポートピア」がヒットしたとはいえ、当時のパソコンユーザーは圧倒的に少ない。

 アーケードの業務用ゲームでなければ、その制作が商売としては成り立つ時代ではなかったのだ。

 それに、二作目の「軽井沢」に、「ポートピア」に匹敵するような衝撃をプレイヤーに与えることは難しいのではないか、と彼は感じていた。

 「最大の禁じ手」を最初にしてしまった作り手の苦悩が、堀井雄二を襲っていた。

 彼はライター業の多忙さを理由に、「軽井沢」の制作から遠のいてしまう。

 


     *

 

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季刊誌『アスキー』の別冊として
1982年から発刊された
『ログイン」(LOGiN)

 そんなときに、雑誌「ログイン」から、とある企画が舞い込んできた。

 次回作のゲームを作るために「取材」をしてはどうだろう、と言う。

 彼は笑った。「ゲームで取材って?」。しかし、「ログイン」の編集者は真剣だった。

 とりあえず、彼はその企画に乗ることにした。取材の目的地は「北海道」である。経費はもちろん、向こうが出してくれるのだ。いわば「タダで旅ができる」のである。これほど魅力的なことは、そうはない。

 

 そんな軽い試みであったのに、彼はその取材をすると、自分の構想していた「北海道を舞台にしたミステリー」を作りたいという創作意欲にかられてしまったのだ。

 これはまずいことだった。

 すでに、彼はエニックスからは「軽井沢」を舞台にしたゲームを作ると約束している。

 それなのに、雑誌「ログイン」のアスキーから新作を出すことは、仁義に反する。

 フリーライターである堀井雄二にとって、約束を反故することなど許されないことだった。

 フリーライターにとっては、信用こそがすべてである。仁義に反したライターの名は、たちまち同業者に流布し、仕事を与えられなくなるものだ。

 

 それでも、アスキーは折れなかった。そのために、次のような提案をする。

 

「では、こちらでプログラマーを用意しましょう。

 堀井さんはシナリオを書くだけでいいです。

 それならば、ゲームクリエイターとしての堀井雄二の仁義に反することにはなりません」

 

 堀井雄二は思わずそれにうなずいた。

 こうして、日本最初のゲームのシナリオライターが誕生した。

 


     *

 

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北海道を舞台にしたミステリーADV
『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』
(PC-8801 1984年)

 

 これまで「趣味」として、ゲームを作っていた堀井雄二にとっては、分業制はきわめて困難な作業だった。

 「ポートピア」は計画的に作られたものではない。絵を描きながら、プログラムを作りながら、どんどんと物語を積み立ててきたからである。

 彼はそのような作業をとらないと、限られた分量でシナリオ展開をすることは難しいと思っていたからだ。

 いくら壮大な構想を持っていたところで、それがゲームで表現できなければ意味がない。

 だから、彼は最低限の仕掛け以外は、行き当たりばったりでイベントを作っていたのだ。

 しかし、プログラマーが別人となると、形の整ったシナリオを、あらかじめ用意しなければならない。

 

 「オホーツクに消ゆ」の発売までには、結局、一年を要することになる。

 しかも、それより先に出す予定の「軽井沢連続殺人事件(仮)」の制作も滞ったままだった。

 ただ、だんだんと、彼はゲームのシナリオライターとしての役割が見えてきた。

 言ってみれば、これはマンガの原作者と同じではないだろうか、と。

 彼はそれを楽しむ術を身につけるようになった。

 

 こうして、予定外の二作目となった「オホーツクに消ゆ」は北海道を舞台にしたミステリー作品となった。

 そこでは、北海道取材で使われた景色がふんだんに引用されていた。

 各地を旅することにより、明らかになっていく「事件の真相」

 そのシナリオ構成は、彼にとっても、「ポートピア」のファンにとっても、納得のいく出来栄えとなった。

 

 「軽井沢」よりも先に発売されたことにより、初めての実装となった「コマンド選択入力」システムも、プレイヤに受け入れられた。

 こうして、堀井雄二はアドベンチャーゲームのシナリオライターとしての地位を確立したかに思われた。

 

 

(注)「オホーツクに消ゆ」のファミコン版移植は1987年のことである。

 


     *

 

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アダルト表現やRPG要素を取り入れた
『軽井沢誘拐案内』 (PC-8801 1985年)

 

 1983年、ポートピア連続殺人事件。

 1984年、北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ

 そして、1985年、軽井沢誘拐案内

 

 この三作を、人は「堀井ミステリー三部作」という。

 

 しかし、長い制作時間をかけたわりには、「軽井沢誘拐案内」というゲームは、とても「三部作の集大成」といえるような出来ではなかった。

 それは、コメディ色にあふれ、本格推理アドベンチャーを期待していたユーザにとっては肩透かしのような作品だった。

 

 実は「軽井沢」の制作途中で彼はもうアドベンチャーゲームを作ることに飽きていたのである。

 なぜならば、とあるジャンルのゲームに、彼は夢中になっていたからだ。

 

 「ウィザードリィ」「ウルティマ」に代表される、そのジャンルは「ロール・プレイング・ゲーム」と呼ばれるものだった。

 それまでの日本には知られていない文化を背景にした、新しいゲームだった。

 

 彼はそれをプレイしながら、ぜひとも、自分もそんなゲームを作りたいと思っていた。

 しかし、アドベンチャーゲームは作れても、自分にロール・プレイング・ゲームを作るほどの技量はないと彼は自覚していた。

 敵の思考ルーチンや、システムの構築。それをプログラミングするためには、高等数学の知識が必須となる。

 みずからゲームを作ってきたからこそ、彼は自分の限界がわかっていたのだ。

 

 しかし、それを可能とする人物は、彼の近くにいた。

 エニックスの紹介を受けた二十歳そこそこの彼は、堀井雄二にこう言い放った。

 

「まずは、ポートピアのファミコン移植から始めましょう。

 そして、そのあとはRPGを作りませんか?」

 

 彼の名は、中村光一。大学生にして、チュンソフトの社長となった、天才プログラマーだった。

 

 

☞堀井雄二のゲームデザイン(2) ー『ドラクエ』とそのライバルRPG (掲載日未定)

 

 

【関連エントリ】

 

宮本茂のゲーム哲学(1) ー なぜ、マリオにヒゲがあるのか?

 


 

【関連動画】

 

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PC-6001版「ポートピア連続殺人事件」?エンディングまで ‐ ニコニコ動画(原宿)

 

 PC-6001版の初代「ポートピア」のプレイ動画。言うまでもなく、コメント非表示推奨。

 

 

D

PC-8801 ポートピア連続殺人事件 ‐ ニコニコ動画(原宿)

 

 こちらが、PC-8001移植版「ポートピア」。もちろん、コメント非表示推奨。

 

 

D

PC88 軽井沢誘拐案内 攻略:1章 ‐ ニコニコ動画(原宿)

 

 堀井ミステリー三部作の中で、唯一家庭用ゲーム機に移植されなかった「軽井沢誘拐案内」プレイ動画。

 プレイヤー名がアレだが、それにも劣らず中身もアレである。

 結果的には、さらなるアドベンチャーゲームを望むミステリーファンを黙らせるために作ったとしか思えない出来である。

 

 

【関連リンク】

 

◆Creator's Voice ー 対談:宮本茂と堀井雄二

http://touch-ds.jp/crv/vol4/001.html

 

 特に敵対しているわけではないが、その方向性が大きく異なる二大クリエイターの対談。

 時々、宮本茂が突っこんだことを話しているのが面白い。

 

 

◆社長が訊く ー 堀井雄二とすぎやまこういち

http://touch-ds.jp/mfs/st108/interview1.html

 

なぜかトップページからリンクされない、任天堂社長、岩田聡による人気コーナー。

 「ドラクエ9」がDSで発売された経緯や制作秘話を、堀井雄二とすぎやまこういちが語っている。

 なお、「ドラクエ」の北米版をローカライズしたのは、当時HAL研究所の社員だった岩田聡であった。

 

 

◆文化庁メディア芸術プラザ ーエンターテイメントマイスターVol.2 堀井雄二

http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/entertainment/vol2/

 

 文化庁ゆえに、うまくまとめられた、堀井雄二へのインタビュー。

 しかし、宮本茂と比べてみると、友達に持つなら堀井、上司にするなら宮本、という印象を受ける。

 まあ、どちらも「ちゃぶ台返し」をした経歴があるから、一緒に仕事をするのは大変だろうけど。

 

 

◆コマンド──「ヤス」という発明

http://www.intara.net/og/portpia.shtml

 「ポートピア連続殺人事件」に対する私見。僕が書いたものよりわかりやすいかも。

 犯人の名前を連呼するよりも、当時、その発想がどれだけ画期的だったかを想像してほしい。

 

 

◆オホーツクに消ゆ(PC-8801版) ー レトロゲーム配信サイトPROJECT EGG

http://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?contcode=7&product_id=277

 

 「ドラクエ」以前を語るうえでは欠かせないソフトを数多く有料配信しているのが、この「PROJECT EGG」

 「魔王と勇者」というきわめて独特な構図が日本に定着する前の、魅力あるレトロRPGも多数公開されている。

 

 

【参考書籍】

 

テレビゲームの神々―RPGを創った男たちの理想と夢

テレビゲームの神々―RPGを創った男たちの理想と夢