2011-06-23
【あの花】最終回感想「なぜ、目の前のニンジンに全力疾走?」

「あの花」こと、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』というアニメは、全体的に説明不足だったと思う。
例えば、第10話の「花火」の場面。あれは、秩父地方の「龍勢」という伝統あるものだったらしいんだけど、知らない人には「ちょっとショボイ」と感じたんじゃないのかな、と。
できれば、それぞれの回で、物語の舞台となった秩父のことを、一枚絵とめんまのナレーションで紹介したりとかできなかったのか。一分ぐらいでもいいからさ。
そんなものに毎回一分をさくほどの余裕はなかったのかもしれないけど、あのアニメの最大の魅力は、秩父の町をうまく描いている、というものだったから。
アニメを見て、視聴者は「よし、秩父に行って、聖地巡りするぞー!」と思うかもしれないけど、なかには僕のように「自分の故郷を舞台にするならば、どこにしようかな」と感じたりする人もいたはずだ。
僕の故郷なんて、他人に自慢するものなんて何もないけど、僕なりに生きてきて、ひそかに好きだった景色があったりする。
「あの花」を見て僕が強く思ったのは、秩父って町が聖地にふさわしい場所かってことよりも、秩父って町をどのように描いたか、ということ。どんな町にだって、誰かの心をゆさぶるような景色はあるわけで、そういう視点で故郷を見つめ直すのもいいかもしれない、と僕は感じた。それぞれの人には、それぞれ見てきたものがあるし、自分の心を揺さぶるものは、他人の心を揺さぶることだってできるはずなのだ、たぶん。
それにしても、最終話は目の前のニンジンに全力疾走するような話だった。これまでもそういう印象があったけど、特に、最終話はその傾向が強かった。
見終わったあとで、いろいろ話を整理すると「おーなるほど」と思うんだけど、それを伝えるために、わざわざ修羅場を演出するのはどうかな、と。
そりゃ修羅場のほうが、心に残りやすいし、わかりやすいのかもしれない。でも、この作品に関しては、違うやり方もあったのではないかと僕は思ったり。
なんだか、岩井俊二の映画みたいだった。印象的なシーンはあったけど、物語全般として見ると「もうちょい良い進め方があったんじゃないか」と感じるような。
さて、今週の日曜に思いついて、月・火・水の三日間で、このブログでサクっとまとめた「ビフォア・ザ・超平和バスターズ」という二次創作について。あのままでは原作ファンは読んでも楽しめないと思うけれど、うまく加工したら「あの花」を見て感じた印象に彩りを添えることができるんじゃないかと感じている。
まあ、それは「ハルヒコ」プロジェクトが一段落ついてからにしたいけど、最終話が放映されたとたん、公式がいろいろしゃべり始めて、二次創作の余白を台無しにしてしまうので(「まどマギ」的に)一週間以内にはまとめたいと考えている。少なくとも、読んで損はしないようなものにはなる予定。
ハルヒの驚愕「γ」、キョン⇒キョン子
四年ぶりのシリーズ最新刊である『涼宮ハルヒの驚愕』を読んでから、僕の中で二つのアイディアが生まれた。
(1)涼宮ハルヒの驚愕γ
このブログで書いたように(⇒参考記事)、僕は『驚愕』の内容に大いに不満だった。
それを解消すべく、新たに「γ」という並行世界を自作することを思いついた。
九曜や藤原との面会が終わったあと、キョンのもとに橘京子から電話がかかる。「あの、できれば、もう一度、会いたいのですが……」
そのぎこちない口調は、それが彼女の意志ではなく、彼女の属する組織の企みであることをキョンは感じた。やれやれ、まるで宗教の勧誘かよ、とキョンは思う。
それでも、キョンはその誘いに乗った。一つは、彼が橘京子を軽く見ていたからであり、もう一つは、古泉一樹の属する機関についてもっと知りたかったからだ。
そんなキョンの好奇心がきっかけで、最悪の事態である「もう一人の神」佐々木の覚醒を招くとは思いもしないまま……。
と、そんな感じで、超能力者サイドを中心として語られる原作補完の二次創作である。原作よりも、はるかに物分りの悪い佐々木になる予定。
(2)『涼宮ハルヒコの溜息』の完結
このブログでは、主要人物の性別を逆転させた「アナザーSOS団」による『涼宮ハルヒコの憂鬱」という二次創作を連載した。それを完結させたあと、第二弾として連載を始めたのが『涼宮ハルヒコの溜息』である。
原作とは似て非なる物語であるこの「アナザーSOS団」の小説だが、いろいろ事情があって、第二弾は未完に終わっている。
さて、原作のハルヒシリーズの『驚愕』は、四年間の長い年月をへての新作である。その内容は素直に喜べなかったものの、このことに対しては、ファンの一人として敬意を表するべきで、そのために、自分の書きかけの二次創作を完結させようと思い至ったのである。
この二つのアイディアを僕は同時に構想していた。
すると、困った問題がでてきた。
「キョン」という名称である。
僕は「涼宮ハルヒコ」シリーズで、主人公の語り手を、女の子にしながらも「キョン」とした。
なぜなら、女の子に「キョン」はありえても「キョン子」はありえないだろう、と思ったからだ。
でも、構想をノートにまとめるうちに、異なるそれぞれのキャラが同じ名称なのは、おかしいのじゃないか、と考えるようになった。
まあ、単純にいえば、どっちのアイディアなのか、頭でうまく整理できなくなったわけで。
そこで、試しに、テキストエディタの置換モードで、『ハルヒコの憂鬱』をキョン子に代えて読んでみることにした。
すると、これが、なかなかピッタリだったのである。
僕の「ハルヒコ」シリーズの語り手は、美少女という設定ではない。
みんなに軽い扱いを受けていて、あまり女の子あつかいをされていない。それがために、涼宮ハルヒコみたいな変人と仲良くなったりするのが、僕の二次創作のヒロインなのである。
実際のところ、かわいい子に「キョン」と呼ぶことはなくても、「キョン子」と呼ぶことはないはずだ。
「キョン子」というのは、どこかしら、間抜けな感じがする。
だが、それがいいのだ。
キョン子が「平凡な女の子」と自己分析できるのは、美人ではないからである。
読者はそれを「キョン子」という、あまりかわいくないあだ名で呼ばれていることで実感することができるだろうと。
いわば、キョン子というのは、美少女のかわいくない連れである。
皆さんにも心当たりがあるだろう。美人をねらってアタックすると、あまりかわいくない友達がセットでついてきて、大いに計画を乱されたことが。
でも、合コンでは、結構、そういう子を相手にするのが面白かったりする。
まあ、たいていのかわいい子は、華のあるグループに属している。地味な子は、地味なグループを形成している。
だが、学校では孤立している美少女はわりと多い。
なぜなら、彼女は美人であるがゆえに、学校以外の世界を知っているからである。年上の彼氏と付き合ったり、モデルとかやったり、劇団に入ってたりとか。クラスの友情にすべてをかける余裕がないのである。
だから、美人というのは孤立しがちなわけで、でも、それだと学校生活に支障をきたすから、一人だけ友達を持ったりする。
それは、はたから見れば、かなりアンバランスなコンビではある。
でも、美人の子は、けっこう、その友達のことを認めていたりするのだ。
美少女狩りに忙しい男子からすれば、邪魔者以外の何者でもないが、美少女の友達やってる子は、何かしら個性があって、話しててなかなか楽しかったりする。実際、彼女たちに近いグループの男子には、その子のほうがもてたりする。
まあ、キョン子というのは、そういう女の子である。
ということで、明日から、以前に連載していた『ハルヒコの憂鬱』と、完結していない『ハルヒコの溜息』を、語り手を「キョン子」と改めて、不定期連載することにした。
いろいろと手直ししたところもあるので、一度読んだ人も再読すれば、それなりに楽しい暇つぶしができると思う。
