【感想】いとうせいこう『想像ラジオ』(評価・B)

 

想像ラジオ

想像ラジオ

 

死者の恨み・生者の「罪の意識」をなぐさめる《鎮魂文学》
被災地を考えるのは重荷だと耳を閉ざしている人に伝えたい物語
 

 東日本大震災から三年たつ。「震災を風化させるな」と人は言う。僕は「はい」と答える。不謹慎だと思われないように細心の注意を払いながら。
 

 震災後に流行したものに「ホトケさんオチ」というものがあった。被災地にボランティアに行った人の体験談でよく使われたものだ。最初、彼らは「圧倒的な無力感を味わった」と語る。しかし、聞き手はそれでは満足できない。具体的なネタを求めている。そこで使われたのが「ホトケさんオチ」だ。つまり「死体を見た」という話である。被災地の惨状を自分の目で見ていない聞き手は、その話を聞いて、納得するのだ。なにしろ、テレビでは死体の映像はカットされる。現地に行かないと死体を見ることができない。
 当時、死体を見なければボランティアを名乗る資格なし、みたいな風潮があった。おかげで「ホトケさんオチ」は、ある種の様式美を備えることになった。避難所や被害地の様子をひとしきり話したあと、声を落として神妙にそれは語られる。聞き手はため息をつき「すごかったんだなあ」とつぶやく。そうして、震災を恐怖の対象から、過去の出来事として風化しようとしたのだ。
 火葬が追いつかず仮に土葬された被災地の様子をネットで見て胸を痛めながら、僕はまわりの「ホトケさんオチ」を無言で聞いていた。その死体がかつて人間であり、家族や友人がいたことを、うまく想像できないまま。
 

 

 僕が震災に直接関係のない人間だ。分類すると(1)被災した人(2)被災者が身内にいる人(3)ボランティア等で震災直後の被災地に行った者(4)いずれにも該当しない人、となるだろうか。僕は(4)である。
 僕のまわりに東北出身の人はいる。ただ、僕は彼らに震災の話題を語るのを避けた。どんな言葉をかけていいかわからなかったし、それ以上に、重荷を背負いたくなかったからだ。
 年金問題や消費税増税、そして原発問題と、我々の前には様々な困難が立ちふさがっているように見える。それだけで精一杯なのに、東北からは「震災を風化させるな!」という声が鳴り響く。僕は「はい」と答える。その口調は耳ざわりだけど、不謹慎と思われたら、こちらの負けなのだ。僕は答える。「はい、そうです」
 

 そんな僕が震災から3年たった今年の3月11日に《震災後文学の代表作》とされる『想像ラジオ』を読もうと決意したのはなぜか。それは日曜の新聞に掲載された読書欄に影響されたからである。
 自分の文章力の向上と、読書の幅を広げたいという理由で、3月2日の新聞読書欄の書評を全文そっくり写そうと考えた。読売新聞と朝日新聞のものを書き写そうとしたが、あいにく、行き着けの喫茶店では、読売新聞は他の客が読んでいる最中だった。だから、朝日新聞の読書欄の書評を写すことにした。
 その書評で、もっとも印象的だったのが、小島信夫の『ラヴ・レター』の紹介文だった。「物語の遠近法がゆるやかに外れ、主語は分裂する」という表現は、とうてい僕には思いつかないと感心した。評者は、いとうせいこうという作家らしい。僕は小島信夫の作品を読もうと考える一方で、その評者の名も頭の片隅に置いた。
 翌週、3月9日の読書欄は、読売新聞・朝日新聞ともに震災後文学の特集をしていた。そこで紹介されていたのが、この『想像ラジオ』である。作者は、いとうせいこうという人らしい。そう、小島信夫の魅力を750字で見事に書き上げた評者の作品である。
 僕はこのようにして『想像ラジオ』を手にした。3月11日は仕事だったが、その夜のうちに読み終えようと決意した。しかし、読み終えたのは翌日である。
 

 本書は《震災後文学の代表作》という前評判にとらわれすぎると肩すかしを食らうだろう。
 第一章はDJアークなる男の自分語りが延々と続く。その話は確かに面白い。彼は大学で東京に出て、バンドマンになったもののメジャーデビューは果たせぬまま、裏方として音楽事務所に入る。そこで、新人アーティストをマネージメントする仕事を十数年続ける。彼らを「売り出す」べく、ライブハウスのドサ回りをしたり、無理やり海外に行かせて修行させたりする仕事である。若者のみずみずしい才能を、盆栽のように整える作業だ。結局、社会的成功をおさめることなく、故郷の海沿いの街に帰ったのは一日前。既婚で子供もいる38歳の男である。
 第二章は一転して、被災地に向かうボランティアの視点の物語。彼らは自分が生きていることに「罪の意識」を感じているとまで言う。実は、これこそが、僕が震災について真面目に向き合わなかった理由で、被災地のことを知れば知るほど重荷になるのが嫌だったのだ。彼らの気持ちは痛いほどわかるものの、それを受けとめたくない思いがあった。ここで、僕は3月11日に読みきることをあきらめた。僕にだって仕事があるし、様々な悩みがある。被災地で苦しむ人のことを忘れてはいないけど、それは僕の運命ではない。
 

 しかし、翌日、第三章を読んで、僕は小説という形式で被災の犠牲者による架空ラジオを物語ることの意義に気づいたのだ。
 具体的には、大場キイチさんの言葉である。
 

「歌舞伎やらで魂魄この世にとどまりてと来たら、たいていは恨みはらさでおくべきか…と続くんじゃないでしょうか」
 

 後悔ゆえに成仏できない犠牲者たち。僕は震災後に必死で耳を傾けたニュースで語られた様々なエピソードを思いだす。
 ある人は、預金通帳を忘れたことに気づき、家に戻ったところで津波に巻きこまれた。ある町では、古人が津波が来る到達点を刻んでいたのに、それを無視して町開発をした。僕はそれを教訓話としてとらえたのだけれど、実際にはそれで犠牲になった人たちがいる。もし、魂が存在するのならば、被災地はそんな恨み節に満ちているのではないか。
 

 震災関係の動画で、もっとも僕の心をとらえたのが、カメラマンの映像と証言だ。
 


報道カメラマン 津波から間一髪逃げ延びる - Youtube
 

 津波があっという間に襲う恐ろしさもさることながら、7分30以降に語られた言葉が、僕の胸をひきさく。
 

「ほかに誰かいないか、と思って、まわりに声をかけたんですよ。そうしたら、至るところから、まだまだ人の声が聞こえてきて。だんだん雪も降ってきて、どんどん冷えこんできて……。(夜の)11時から12時ぐらいに確認したときには、返事がないんですよ。(でも)12時すぎぐらいから自衛隊が動きだしているようだったんで、まあだいじょうぶだろうと思って……。朝、開けてみたらですね、その、車の上で、亡くなっていました。もうちょっと、ずっと声をかけつづけていたら……」
 

 このカメラマンの行動を責めることはできまい。彼はできるだけのことはした。それでも、助けを求めた声は、今後も彼の人生にまとわりつくのではないか。
 このような声を、震災で生き残った人たちは耳にしたはずだ。自分が生きのびるために振りきった、助けを求める声。だからこそ、被災者の人々は生きていることに「罪の意識」を感じているのではないか。
 

 この『想像ラジオ』はその魂を慰めるための物語なのだ。生者と、そして死者の。
 

 作者はこの物語を『東日本大震災』という2011年の出来事に固定化しないように、細心の注意を払っている。今作はドキュメンタリーでもノンフィクションでもない。
 作者が被災後にどのような行動をとったのかは知らない。ただ、作者は被災した人たちに「鎮魂」の物語が必要だと考えたのだ。
 その試みは、多くの被災者たちを慰めたのだろう。ニュースやドキュメンタリーでは癒せない傷を、この小説は癒やすことができた。
 だからこそ「震災後文学の代表作」として評価されているのだ。
 

 読み終えて、僕は震災以降に忘れていた感情をよみがえらせることができた。しかし、東日本大震災をまったく知らない人に、この物語が響くがどうかは疑問だ。一気呵成に読める物語ではないし、「鎮魂」を抜きにして語れる内容ではない。
 だから、小説としての評価はBとした。ただ、このような困難な主題を、小説という形で表現した作者には、心から敬服したい。
 

 「震災を風化させるな」と声高に叫ばれる風潮に「はい」としか答えられない人は、どうぞ、本書を手にしていただきたい。多くの被災者をなぐさめた物語を読むことは、被災して苦しむ人々の思いを知ることになるはずだ。