心をえぐる角度 −蛸壷屋オリジナル作品の魅力

 

 僕にもし才能があるとするならば、たいていの人が「凄い」とか「面白い」で片付けるものを、いかに表現すべきか執念深く考える頭にあると思います。

 こういう才能を持つ人は結構います。しかし、そうでない人もたくさんいます。

 

 残念ながら、世の中には「種明かし」にあふれています。手品を見て感動した人に「こんなトリックですよ」と解説するようなサイト。ネットでアクセスが集中するのは、そんな「種明かし」だったりします。

 しかし、「種明かし」と「感動」はイコールではありません。種明かしを知って満足したところで、その感動を誰かに与えることはできないわけですから。

 

 先日からグダグダと蛸壷屋の同人誌について書いているわけですが、なぜ、自分がその作品に魅せられたのかといえば、「心をえぐる角度にある」ことに、やっと気づきました。

 

 蛸壷屋同人誌には「残酷」とも思える描写があります。しかし、それはグロテスクなものではありません。涙を流していても、鼻水を垂らしていても、その表情には確かな「美意識」が宿っています。汚いものを見せつけようとしているのではありません。

 ただ、その心理描写が徹底しているからこそ、時として目をそむけたくなる場面が出てくるのです。

 そして、そこまでしなければ、描けないものがあります。

 

 

 例えば、蛸壷屋公式サイトからダウンロードできる「魔法少女R」という作品。

 この作品、僕は手放しで賞賛することはできません。一巻だけを見て、読むのをやめる人がいても仕方ないと思います。画風の好き嫌いが分かれるでしょうし、「和田」という男性キャラクターに好感を抱けない人が多いと思います。

 

 しかし、最終巻である第四巻まで読むことができたら、この作品を賞賛する人に共鳴できるはずです。

 

 それは、この第四巻のバトルの行方が、登場人物の内面に深く切り込んでいるからです。

 普通ならば、あそこまでは描かないでしょう。あそこまで書かなくても、物語は完結できたでしょう。

 

 このような切り込みの鋭さは、商業作品では、ほとんど見ることができません。

 締め切りのある商業作家の場合、担当編集者との打ち合わせで「まだ書き足りないんです」と言っても「いや、うまくできているよ」と言いくるめられます。優秀な担当編集者は、イメージを読者に託して都合よく終わらせるやり方を身につけています。

 そうして描かれた作品でも、読者は十分に満足できますし、感動できます。やがて、作家自身も「これで良かったのかな」と思うようになるでしょう。

 

 ただ、蛸壷屋の最終巻には、それ以上の深度があるんです。

 

 

 思わず、頭をよぎるのが、次の種田山頭火の自由律俳句。

 

 

   分け入っても分け入っても青い山

 

 

 どうせ「青い山」なのです。それでも、なぜ「分け入って」しまうのか。その「分け入って」しまう自分の感情とは何か?

 

 深く潜るためには、才能よりも時間が必要です。それは、短編と長編の違いのようなものです。

 長編小説でなければ、描くことのできない深みというものがあります。そのために、小説家は長編を書くのに驚くべきほどの時間をかけます。それは頭の良し悪しだけの問題ではありません。

 漫画は素晴らしい表現手段ですが、その多くは締め切りに追われて作成されています。だから、小説ほどの深みがない作品がほとんどです。

 

 ところが、同人誌の場合、その「深み」を表現できる可能性があります。締め切りはないし、分量の制限もない。「どうせ青い山なんだから」と助言を与える担当編集者もいません。

 

 

 その深みに潜るためには、孤独でなければなりません。布団の中でじっとうずくまるように、注意深く、慎重にその物語の中に潜っていかなければなりません。それは、他の人からすれば、笑ってしまうほどの、膨大な精神力と時間が必要です。

 ただ、それでなければ届かないものがあります。その境地に達してこそ、人の心をえぐるような感情をもたらすことができるのです。

 

 もし、フィクションに価値があるとするならば、物語を掘りさげる時間が許されていることでしょう。そうすることで、その世界に深みをもたらすことができるわけだし、心をえぐるものが作れるのです。

 

 

 社会は人々の望まない方向性に発展していきます。良かれと思った行為の弊害が、いつの間にか世界を侵食します。それを、想像力の至らなさのせいにするのは簡単なことですが、それで起こった事実をくつがえすことはできません。

 

 ゆえに、後出しジャンケンのように、我々は歴史を振り返ることしかできませんが、作り話にすぎないフィクションでは、その因果関係をリアルタイムで追求することができるのです。

 

 

 多くの読者は、作者と同じ深みまで達することはないでしょう。その前に、拒否反応を起こすはずです。ただ、彼らにも、自分が計りえぬ以上の「深度」があることはわかる。

 だから、彼らは言うのです。「凄い」「面白い」と。

 

 中には、作者の深度まで近づこうと努める者もいます。しかし、物事の深部には、いつも他者を寄せつけないものがあります。人間の心もそうだし、熱を放つ光源もそうです。それが心をえぐるのです。

 

 

 そのような心をえぐるものを僕も書きたい、と気づきました。いくら、他人から「面白い」「続きはまだか」と言われても、その深みに達したいと望む題材でなければ本気になれないのが僕の性分であるようです。

 我が身を傷つけるような深みに達し、そこから物語を編み出すスリルこそが、僕の求めているものなのです。

 

 そんなことを蛸壷屋の同人誌は教えてくれました。

 

 

 商業誌に比べると、同人誌には、執筆する余裕が許されています。漫画作品のすべてが、月刊連載や週刊連載に追われる必要はないと思います。そして、漫画という表現手段は、小説よりもダイレクトに人の感情を揺さぶることができます。

 

 連載時の興奮はさておき、単体の作品としてのクオリティを求めるのならば、同人作品が商業誌に劣っているわけではありません。そう思い込むのは、優良作品を知らないだけです。

 

 個人的には、蛸壷屋の「松陰神社」は、アニメ映画にすると、世界から賞賛を浴びるだけのクオリティがあると思うんですけどね。これほどの作品が在野にあるという事実は、日本の漫画文化の底力を見せつけることができるはずです。

 

 しかし、「涼宮ハルヒの消失」というコンテンツの引き伸ばし工作を数年がかりで続けているようなアニメ業界からすれば、キャラクター・ビジネスのできない作品なんて、マルティメディアで展開する価値がないんでしょうけど。

 

  

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