管 啓次郎 / 本は読めないものだから心配するな


【 管 啓次郎 / 本は読めないものだから心配するな / 左右社 (268P) ・ 2009年(130327-0330) 】



・内容
 本は読めないものだから心配するな。あらゆる読書論の真実はこれにつきるんじゃないだろうか。旅の途上で、満天の星の下で、本を語り、世界に通じるためのレッスンを語る、実用的にして非啓蒙的な、読書批評エッセイ集。


          


人は一生のあいだにどれだけの本を読むか。ジョージ・オーウェル900冊。ヴァルター・ベンヤミン1700冊。レヴィ=ストロースは一冊の本を書くのに7000冊に目を通したという。もちろん正確な記録ではないし、作家と批評家、人類学者の読書量を単純に比較できるものではない。「読んだ」とはいってもその濃度は人それぞれだし、内容まで確かに記憶されているものとなると、また違った数になるだろう。
本を読んだって、そのうちのほとんどは忘れてしまう。読んだのに、読まないのと同じ結果になる。ならば読まなくたっていいではないか。 ―いや、でも……
口ごもりながらも読書家はそれぞれにその先に続く反論を持つはずだ。必ずしも愉悦快楽とばかりにいえないのに、なぜ読むのか。読まずにいられないのか。本とは何なのか。そういうことを文学者らしい鮮やかな警句を散りばめて書いてある。

 「いま、ここ」に欠落を覚えるかぎり、われわれは本を買い、ふと我にかえって青ざめ、しょいこんでしまった未踏の未来に愕然とする。それでも本を買うことは、たとえばタンポポの綿毛を吹いて風に飛ばすことにも似ている。この行為には陽光があり、遠い青空や地平線がある。心を外に連れ出してくれる動きがある。それはこの場所この現在を、別の可能性へと強引に結びつけてくれる。本とは一種のタイムマシンにして空飛ぶ絨毯である。


管さんが2000年代に「ユリイカ」「すばる」「Coyote」他に発表した文章をまとめたエッセイ集。発表媒体はばらばらで、書評だったり紀行文だったり散文だったり日記調だったりする様々な文章が目次も章立てもなく無造作に並んでいる。それなのに整然と、ただ一つのテーマについて書いてあるような印象を覚えるのは、‘管啓次郎節’ともいえそうな、弾力のあるスタイリッシュな詩的文体のせいだろう。
この世には二つの「共和国」がある。効率的な利潤を追及する貨幣の共和国と、あらゆる書店と図書館と個人蔵書がつながった本の共和国。前者がドルと英語が支配するシステムだとするなら、それに対抗するのが組織化しえない後者のネットワークなのだという。一冊の本を起点にして支離滅裂に広がっていく世界を旅に擬えて魅力たっぷりに語る。いつもとちがう角を曲がれ。見知らぬ道を往け。初めての風に吹かれろ。書かれなくとも読まれなくとも文として記憶される経験が必ずや後に続く者たちの標になるのだから、と。



著者お得意のレヴィ=ストロース、ル・クレジオ、フリオ・コルタサルあたりからちょっと意外な多和田葉子上橋菜穂子森山大道『犬の記憶』と畠山直哉の写真集、吉増剛造田村隆一の詩集、浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』等々、ランダムに取りあげた読書体験を通して、「読まないこと」も含めた「読むこと」の深甚な可能性を伝える。
自分の手もとにある本の事実上唯一の読者は自分だけであり、読まなければただの紙屑にすぎない。あらゆる文は読まれたがっている。解釈され、翻訳されるのを待っている。そして新しい世界へと広がっていくのを望んでいる。
引用されている多和田葉子さんの読書論が良かった。少女期の多和田さんは一日一冊読んだ。ほとんどの内容は忘れてしまったが、それでもいい、「読書によって、頭の中にものを考えるリズム感覚や空間がつくられていった」のだからという。そして、年齢とともに本を読むスピードが落ちるのは、「新しい本に書かれていることが、もともと頭の中に入っている考えにぶつかって、簡単には入れないからなのだろう」と仰るのだった。そうそう、自分もそうなんです、頭の中にいろいろ(ガラクタばっかり…)あるんです。そうじゃないかと思ってたんですよ。さすが、よくわかってらっしゃる!と急に多和田葉子に勝手な親近感を覚えたのであった。

 自分の肉体とその位置(地理的な、歴史的な、社会的な、文化的な)に囚われたまま生きるしかないひとりひとりの人間が、その限定を多方面にむかって超越してゆく唯一の道は、文を摂取し、摂取しつづけ、さらにはそれを反芻し、肉体化してゆくことだ。文によって想像力を拡大してゆくことだ。そして文にはそれ自体、反省的な判断を下す性質とさらにその先をめざして進む性質がそなわっているので、一旦、読みはじめたら、読むこと自体がさらに遠いところ深いところ広いところへと人を連れてゆくことにもなる。それはそうならざるをえないと思う。


子どもが生まれると親は子に動物のぬいぐるみを与え、絵本を読み聞かす。まだ両親の顔しか知らず、家から出たこともない子どもに、ペットではない、おそらく一生のあいだ現実に触れる機会のなさそうな野生動物を教える。これはどういうことなのだろう。
未知の世界への想像力。そのせいで、われわれは長じても本を読むのではないだろうか。自然界の、科学の、歴史の、同じ民族の、異民族の、宇宙人の、誰かの、あるいはヴァンパイアの。現実生活とは無関係の本を媒介にして読書家は知らず知らずに世界と通信しているのではないか? 本は旅券でもあるのではないか?
言うまでもないが、比較文学者であり翻訳家にして詩人でもある著者の読書論、文学論だから、すべてを了解できたわけではない。でも、ついつい本を買ってしまう悪癖が治らず、書店にいるときは「たぶんちょっと頭がおかしい」著者に大いに共感し、励まされるのだ。
「人は経験を文にして記憶する。文を鍛えるためには文を読む以外にない」 ―自分で書いてみるとまったく説得力がなくて情けないのだが(笑)― 読書の理屈づけとしては(あるいは正当化する言い訳としては)これ以上のものはなさそうである。「文を鍛えるために」読んでいるのだなんて、一回ぐらいふんぞり返って口にしてみたいものだ。どうせ困った顔をされるに決まっているが。