BLEACHの説話 現代学園異能から遠く離れて あるいは井上織姫の眼差し

BLEACH  1 (ジャンプコミックス)

BLEACH 1 (ジャンプコミックス)

序盤の幽霊退治の現代学園異能っぷりから逸脱していってもう今は完全に戦争とテロリズムの話になっている。ワンピースやナルトでも作中で「戦争」という言葉のイマージュを強調していて、長期連載の傾向ではあるのかなあと。むしろそういう戦争状態になってしまうことは異能バトルのジャンルに課せられた試練のようなものかもしれない。
ブリーチの作中でもちょくちょく「なぜ戦うのか?」みたいな問答を色んな立場から言わせたりしているのを一気読みして分かったっていうのが自分の中で大きい。去年の終わり頃からジャンプ読んでて、卍解奪われる辺りからだったと思うけどまだそこだけでは全体像を掴めてなくて、一護の出生の秘密とかやりだしたからツイッターでも「因縁話ツマンネ」とか書いてたりもしたんですけど、最初から読むと作家が描こうとしているもの、もしくは立ち向かっているものがしっかり見えてきたというか。最終章の序盤ではサブキャラに戦争とはなんぞやみたいなトークをさせたりしている。


これまでは、ルキアが連れていかれたので助ける。織姫が連れていかれたので助けるという大枠の目的がありましたが最終章はそういうヒロイン救出のためではなくて、ブリーチ世界そのものが敵というかあの世界での歴史設定の結節点としての大戦争をやらかすというので、非常に燃えます。つまりは、明確な動機を持たない状態で、「戦争のあるこの世界で少年漫画の主人公はどうあるべきか」という。
まあそんなことを思ったから単行本で読んでみようと思ったわけなんですが、うん。もちろん最低限の動機設定と構図は作ってあって打倒するキャラクターは明確に存在するのだけれど、血沸き肉踊る戦闘を演じて倒せばいいというものではない。ブリーチが立ち向かおうとしているものはもう少しややこしい。
ブリーチってソウルソサエティ編まではおもしろかったよなあ、という良心的な少年漫画ファンの意見を仮定してみよう。落ちモノヒロインと学園異能のお化け退治を経て、罰則として連れて行かれたルキアを助けるために仲間たちと一緒に乗り込んで、強敵を打ち破り、奪還を果たす。子供の意地を貫き、大人たちを倒す。まあ意地悪な読みですが、なるほど、よく出来た説話である。全22巻くらいか。00年代の佳作の中に数えられたかもしれない。でもブリーチはそうはならなかった。

こいつらがなんで戦ってるのか分からない、という原理的な突っ込みをいかにして回避するのか、というのが現実世界を舞台にした多くのフィクションの課題だった。近現代の世界観は「別に戦ってもいいし、別に戦わなくてもよい」という抗いがたい圧倒的な自由環境の中にあり、現実世界に準じた作品世界もその「別に戦わなくてもよい」という立場を不可避に獲得してしまうので、キャラクターたちが戦わなければならない事を読者に説得するのは非常に困難であった。
たとえば、シャーマンキング。ブリーチと同時期に連載してたこの漫画が「異能バトルって結局何なん?」っていう問いかけの袋小路に入って空中分解したその路線をブリーチが継いでると言っても、誰も信じないかもしれない。「やったらやり返される」というフレーズで端的に示されるシャーマンキングのテーマは漫画の枠組みを超えて読者にもアクチュアルに響く射程を持っていた。でもちょっと意地の悪い読みするとそんな問いかけってほとんどの読者にとっちゃどうでもいいことである。バトルモノ、冒険活劇モノで名作とされている少年漫画は基本的にはこの問いかけをスルーしてもいいように構図を作っていて、読者にもそういうふうに受け止められている。うしおととらなら、成長物語にしよう、主要登場人物たちが背負ったドラマにオトシマエをつけよう、ダイの大冒険なら、世界設定を一巡りしながらキャラクターの成長もそのテンポに合わせて見せていこう。読者はなんらかの近代的な規範をそこから読み込む。シャーマンキングはそこをアクチュアルに捉えようとしすぎて、何をすれば回答が出せるのか作者も分からなかったから中盤から迷走を始める。

シャーマンキング 32 (ジャンプコミックス)

シャーマンキング 32 (ジャンプコミックス)

そして、聖闘士星矢。この漫画が神々たちの内戦である、というのは論をまたない。現にまさしく、そのように描かれているのである。アテナの、ハーデスの、ポセイドンの、それら神々の神話を少年漫画の異能バトルの説話として再生しているのである。そこではなぜ戦うのかと問う必要はない。少なくとも、現実の位相に近い場所でそれを問う必要はない。聖闘士星矢とは神話である。
ブリーチを読む上で一つ注目すべきことは、いわゆる現代学園異能としてスタートしたということである。ブリーチの特異は、そのスタート地点から大きなクエスト毎に戦いの行われる位相をスライドさせていったことである。現世からソウルソサエティ、そして虚圏、それらは単なる物語の中での場所の移動ではなくて説話としてのあり方が変形しているのである。たとえば、説話の変形という意味ではワンピースは新世界というそれまでの冒険とは異なる新しい説話の舞台を用意した。少年漫画では設定に凝った作品以外では現実なら現実世界、ファンタシイなら一つの架空の世界を舞台にしている方が多いと思われる。ワンピースの新世界もひとつのファンタシイ世界に含まれていることを考えれば、説話の意味作用の移動の激しさはブリーチのほうが徹底している。世界設定の上では、現世とソウルソサエティは完全に別の異界として存在している。まさに「あの世」なのだ。
作品世界の舞台が連続性の中にあるのか、それとも無いのか、という問いにおいて、ブリーチは後者である。作品世界が連続性の中に置かれていれば、「なぜこいつらは戦っているのか?」という問いを回避できる。それに堪えることが出来る。RPGのような剣と魔法の世界が舞台なら「そこはそのような世界である」という連続性の中に置かれる。ワンピースもナルトもハンターハンターも基本的な世界設定は連続性の中にある。その妥当性はともかく、あれらの世界には連続性がある。さらにもう一度強調しよう。ブリーチは現代学園異能としてスタートした。そこに世界の連続性はない。
ブリーチが何か妙なことを始めるのは、破面編からである。良心的な少年漫画としての体裁を維持できなくなったバトル漫画として、上記にダラダラと書いてきたような課題と格闘を始めることになる。聖闘士星矢のような神話的な説話と、現代異能としての現実世界の連続性との葛藤という。
異能バトルっていうのは、つきつめると何も参照する規範のない荒野での殺し合いになるわけです。つまり、冥界、魔界、地獄、天国、という。シャーマンキングの「やったらやりかえされる」というのは現代社会の「別に戦ってもいいし、別に戦わなくてもいい」という近代的規範を剥ぎ取ってその冥界、魔界、地獄、天国の掟を現代にスライドしたときに何が起こってしまうのかっていうのを真面目に考えることだった。そこには宝探しのミッションもなければトーナメント方式の大会もなければバトルロワイアルもないのである(あらゆる構図が失効する)。だから、ブリーチにもまずは構図が要請される。
ブリーチに出てくる護廷十三隊とは、ソウルソサエティという異界の中で作られた統治機構、治安維持部隊である。そのことに注目しよう。破面編のボスキャラ藍染は、元々そこに所属していた。このことに注目しよう。藍染と一護は「別に戦ってもいいし、別に戦わなくともよい」のである。このことは作中のセリフでも言われている。連れて行かれた織姫を救出しさえすれば近現代の規範の中にきれいに納まる。藍染の起こしたテロは護廷十三隊という治安機構が解決すべき問題なのだ。
藍染がやろうとしたことは、統治機構に対する暴力革命によって現世とソウルソサエティの新しい世界のあり方を示そうとしたんですが、そのために色んな連中を食い物にしてきて、まあその因縁話を絡めてダラダラと「やったらやりかえされる」という世界観を異能バトルで描いてきた。そして、藍染も霊王という高次の存在に対して反逆を試みていたことが示唆される。つまり藍染は今の世界のあり方が気に食わなかった、それを作った連中に「やり返そうと」したのだ。
だから破面編は結局のところソウルソサエティの内戦であり、破面の連中っていうのは藍染が連れてきた傭兵にすぎないと。だから、死神と十刃の異能バトルがどれだけ格好良く描かれても、そのお互いの関わりの無さにおいて不毛としかいいようがないのである。だが作者はプロットの崩壊を招いても徹底的に死神と破面の総力戦への拘る。それは異能バトルというジャンルへのフェティッシュな自己言及である。「このキャラはどんな能力なのか」「このキャラとこのキャラはどちらが強いのか」という幼児性を帯びたフェティッシュがキャラクターの総力戦としていちいち描かれるのである。

そして、「やったらやり返される」という異能バトルの不可能性を突破する、もしくは破壊する存在が必要になった。それはもちろん主人公である黒埼一護である。彼は「別に戦ってもよいし、別に戦わなくともよい」という近代的な規範を無視して少年漫画という神話の中で狂った英雄として振舞うのである。グリムジョーやウルキオラや藍染の抱える不可能性と虚無はことごとく一護によって理不尽に曝け出され、頓挫し、崩壊する。ウルキオラ戦などは顕著である。「こんな勝ち方があるかよ」と暴走状態でウルキオラをフルボッコにして一護は理不尽に勝利してしまうのである。

そして最終章の千年血戦編も同様に主人公としての特権性を与えられている。
ブリーチの作品世界において、「死神」と「クインシー」は同じことをやっている。このことに注目しよう。現世でのバランスを維持するためにはホロウを退治する必要がある。しかし死神とクインシーはやがて違う思想を持つようになり、なにやら大昔に死神とクインシーは戦争になって死神が勝って、現在の統治体制を作り上げていった。このことに注目しよう。

見えざる帝国はかつて死神に滅ぼされたクインシーたちの末裔である。作者は愚直に「やったらやり返される」ことを引き受けようとしている。

ブリーチのクエスト毎のスライド。落ちモノヒロイン現代学園異能から、統治機構への殴りこみ、攫われたお姫様の救出、自身の出生の秘密を知り、異界の内戦に対して明確な動機のないまま首を突っ込むという。戦闘の規模の単純なインフレーションと平行して主人公の一護は霊感の強い少年から、神話の中の登場人物へとその存在における語られ方の位相を変えていくことになるのである。

最終章は今のところ「死神」と「クインシー」の1000年の因縁である。それでも、襲撃を受けるソウルソサエティの死神たちは一護が来てくれることを切望さえするのだ。それが英雄でなくてなんであろうか。破面編におけるグリムジョーやウルキオラのような主人公との因縁を持つキャラクターは配置されていないが、その代わりに出生の秘密がある。文字通りの神話的な、その世界において唯一無二であることの意味づけとしての秘密が与えられている。
ブリーチは現代学園異能から神話的な説話に飛躍することによって近現代の課題を振り切ろうとする。

BLEACH 27

BLEACH 27

そして、なんといっても、goodbye, halcyon daysである。

ブリーチ一気読みして思ったのは井上織姫ちゃん、嫌われるやろなあっていう。でもなぜ織姫ちゃんがこんなに嫌われそうな女の子として描かれなければならないのかって考えたときに少年漫画や少年性少女性やヒロイズムの性差とかが浮き上がってきてそれらの衝突の場が生成されていて、それらはまあテーマとしては昇華されてないけど読んでてすごくおもしろいことになっているなあと。破面編が終わってるんでもう織姫ちゃんがフィーチャアされることはもうあんまりないというか衝突の最前線に出てくることはもうないのだろうけど作者がその異能バトルにおぼろげに見出そうとしているもの、少年性少女性やヒロイズムの性差とは、みたいなものに迫りつつあったんだなあと。

織姫ちゃんの世界規模での嫌われっぷりはつまるところ、圧倒的に反時代的であるから、ということなのかなあと。もちろんそのようなあり方だからこそ素晴らしいという立場もあるのだけど、まあ少なくとも現代の先進国の価値観において井上織姫に憧れるというのはいささかしんどいというのはほとんどの読者が(とりわけ女性ならばなおさら)実感として持ってるだろう。さらに少年たちの決闘の神話の中に少女性を振りかざしながらしゃしゃり出てくるならなおさら鬱陶しい女だなと感じることだろう。

読者の欲望に応えるのはユースカルチャアの課題の一つである。女性キャラクターは女性読者が「あんな女の子になりたい」「あんなふうに活躍したい」「あんなふうに男の子に思われたい」という気持ちにさせるのがまあ、理想的であり、一般的である。(BLは守備範囲外です)

破面編の織姫ちゃんって一体なんだったのかっていうと、まあなんだか分からないけどエントロピーを拒絶して神の領域を侵すレベルのとんでもない能力を持っているらしくて、なんか胡散臭い白っぽい奴が妙な話を持ちかけてきて、自分の陣営に引っ張り込もうとする。なんか最近のアニメでもそういう奴がいたなあと。みんな分かるだろう、完全に魔法少女なんですよ、破面編の織姫ちゃんは。でも、ブリーチはニチアサでもなければ深夜アニメでもなかった。少年ジャンプだった。作者が久保帯人だった。だからそこでの衝突が起こった。

少女であることの特権、観念として高められた、少女的なるものの正体を、作者は井上織姫というキャラクターに託した。お姫様であること、魔法少女であること。聖母であること。実際、織姫は破面編で学校の制服からロングドレスへと衣装チェンジするのである。あの白いドレスは囚われの姫であることを示すと同時に魔法少女としての衣装でもあるのだ。

この世の理を覆す魔法少女であることと囚われのお姫様であることを託されているキャラクターはそりゃ破綻と一緒にいるしかない。そして井上織姫というキャラクターは生々しい女の子としての欲望も持っていた。魔法少女としてヒロイックに決断したはずが王子様である一護にキス未遂したり、グリムジョーみたいなイケメンにちょい絡まれ、ウルキオラの虚無の中に心を見出す。さらに「助けて黒崎君!」と叫べばヒーローの一護が覚醒する。そりゃあ女性読者は激おこプンプンドリームである。もちろん男性読者も織姫うざい派が多いけど。しかしそういう織姫の役割は作者の中で少年性と少女性が衝突した結果なのである。久保帯人の場合は圧倒的に少年性の側に比重があるからああいう展開になる。たとえばウルキオラにボコられた一護が瀕死の状態でもグリムジョーとの決闘のために「治せ」と脅されるシーンはちょっと読み方を変えれば少年性が少女性を蔑ろにしているということになる。自分の持ってるすごい力なら一護を治せるけど治したらまた戦って瀕死になるだろう。好きな男の子には傷ついてほしくないっていうごく普通の健気な少女性を男性キャラクターたちの少年性とエゴイズムで塗り替えられ、自分の能力で治ったヒーローがズタボロになりに行くのを黙って見送るという。けっこうひどい話だったりする。さらに、一護とウルキオラの決闘はもう二人の騎士によるお姫様の奪い合いの構図で、作者もそういうふうに見えるように描いている。作中の誰も織姫を魔法少女として見てない。藍染もなんか突然「もう用済みだ」とか言い出すしw
織姫のトンデモ能力なら藍染の野望を阻止できるどうこうで破面側でちょっと内紛みたいなことやろうとするはずなんだけど(織姫の力で崩玉をどうこうするというプロットは放置されたのです)、久保帯人はそういう少女のエゴイスティックな自己犠牲とかを信用してない、もしくは興味がなかったw  ブリーチがやったことはお姫様を見届け人にした騎士の決闘であり、そのお姫様の叫び声で覚醒する英雄であったという。 

結局、久保帯人は織姫の魔法少女としてのヒロイズムを御しきれずに強引にスポイルした。少年たちへの同化を志向さえしているのですが、まあそこまでは踏み込まずともよい。

フィクションに対するよくある批判で、作者の理想を投影していて気持ち悪い、というものがある。

井上織姫は、作者の思う少女の理想形であり、そしてその理想形を描こうとしたがゆえに破綻を呼び込むことになったのである。そして説話の中で発現したのは魔法少女のエゴイズムとヒロイズムを抱え込み、ウルキオラの抱える虚無を「怖くないよ」と手を差し伸べ、包み込む聖母であり、その悲鳴で王子を覚醒させることの出来るお姫様である。それらはことごとく作者の要請する少年たちの輝きのための引き立て役として存在させられていた。
それでも、井上織姫が作中の中で見つめる眼差しとその対象は、作者にとって必要だった。そのような眼差しを持つ少女がいることを自分の作品の世界観に要求した。それを実行した。どのような形であれ、「やったらやりかえされる」荒野での死と闘争に対して何がしかの栄光と名誉を与えようとするものが必要だった。今風にわかりやすく言えば、「絶望で終わらせたりしない」である。ただそのような眼差しは、まどかマギカのそれとは違って、魔法少女の超越性から放たれるのではなく、作者によって少年たちの死闘を見つめさせられ、井上織姫というキャラクターを魔法少女としてスポイルしたあとに残った少女としての立場によって獲得された眼差しである。
少女のヒロイズムとは一体なんなのだろうか。男と同等であることだろうか、純粋で無垢で愚かで短絡であることを貫くことだろうか、魔法少女であり、聖母でありお姫様であることだろうか。その問いかけに作者が提示した井上織姫は愚かしいほどに反時代的である。
近年のメジャー作品においてここまで徹底して反時代的な少女性を背負った女性キャラクターとして練り上げられた存在は、私の知る範囲では井上織姫だけである。(同傾向としてかろうじて連想するのはSAOのアスナであるが、織姫に比べると、その背負わされた象徴性は大したことはない。せいぜいがトロフィー扱いだ)

井上織姫というキャラクターは、明らかに作者にとって特別な存在であり、少年たちとは異なる眼差しを与えられている。今の長期休載に入る直前のジャンプに載っている話で、井上織姫は次のようなことを言う。虚圏での、特訓の幕間にあるセリフである。

「でもさ、こんな風に人間の私たちが虚圏で普通に過ごしたり、破面の人たちを助けたり 死神の人たちのために頑張ったり こういうのなんかいいなあって思って こういうのがずっと続けばいいのになって ずっとみんなで助け合って お互いの世界を大切にしあって そのままずっと戦いなんて始まりませんでしたってーー」

そして次のページから見えざる帝国によるソウルソサエティへの侵攻が始まる。
内戦状態における二つの陣営の総力戦。その中でひたすらフェティッシュに溺れながら不毛な異能バトルを続ける妄執こそがブリーチの作品性である。少女性によって語られる戦争のない世界というユートピアへの夢想は久保帯人においては否定されるために置かれるのだ。