2011-12-25
ジョン・ガリアーノの存在しない20年代
2011年秋冬パリ・コレクション開幕直前の今年2月末、ジョン・ガリアーノがスキャンダルにみまわれた。カフェで反ユダヤ的な言動を行ったとして警察に一時拘束され、停職処分を表明していたクリスチャン・ディオール社は、ガリアーノが「ヒトラーが好きだ」と暴言を吐いている動画が流出したのを受け、3月1日付けで解雇を発表した。さらにディオールが91%の株式を保有するジョン・ガリアーノ社も解雇を発表、一時代を創ったデザイナーのキャリアは唐突に絶たれることとなった。
先の10年は、ファッションがショーという形式において頂点を極めた時代だった。”シアトリカルな”と盛んに形容された大掛かりな舞台装置上で繰り広げられるキャットウォークは、通例の作品発表としての枠組みを大きく逸脱し、芸術の高みへと上り詰めたのだ。しかしリーマン・ショックとそれに引き続く景気低迷はファッションショー自体を取りやめるブランドを続出させ、そのような派手なスタイルのショーは確実に失われていった。ジョン・ガリアーノはこの時代のモードにおいて中核を占める一人であり、数々の伝説的なショーを創り上げてきた。そして、情勢の変化にもかかわらず変わることなく壮麗なショーを発表し続けていたのだった。時代の要請は、ひどく滑稽なかたちで幕引きを迎えさせることとなった。
アレキサンダー・マックイーンの場合とは全く対称的だ。マックイーンのキャリアのピークは2006F/Wにあったと思う。期待されるものが大きすぎたのもあり、以降それを越えるような作品を見せることは遂になかった。そして周知のとおり、彼は自死というそれ以上ない象徴的な仕方で自らのキャリアに終止符を打ったのである。時代に寄り添うような、というよりも時代を創った人の最期だった。今年開催されたMoMAによる回顧展は当初には早急にすぎる感もあったが、終ってみれば真っ当な喪の作業を通過したように思えるものだった。
マックイーンの自殺の原因はごくプライヴェートなこととされており、そのことに全く異論はないのだが、時代の空気が以前よりも芸術性に対して不寛容になっていたのは確かだった。世界経済がその最たる要因であるのはたしかだが、より重層的な側面がある。マックイーン自身が指揮した最後のショー(2010S/S)はメゾン初となるストリーミング配信を行うものだった。これは意欲的なブランドに比べてかなり後塵を排したもので、かなり曖昧なサーヴィスだった。当然だ。誰が最高のドレスを最低の画質で観たいだろう?インターネットはモードを揺り動かした一大要因だったといえる。依然として動画インフラは十分とは言い難い状態だが、初期のものは本当に最悪だった。にもかかわらず、一刻を争う競合のなかで、ショーの配信はいかに名の売れたブランドといえども行わざるをえなかった。結果として、ラグジュアリーブランドは自らの顔に泥を塗り、それを横目にファストファッションは同じ土俵に這い上がった。リーマンショック以降は財政上の理由からショーを取り止めてプレゼンテーション形式での発表を行うブランドが続出したのだが、結果的に素材の良し悪しを無化してしまう低画質による動画配信よりもむしろ、画像によってスタイルが流布されるのはよりベターな選択だった。しかし今や手頃なニュースサイトを購読すれば日々何百型を下らない新しい服を観ることが出来る。コロンビアやマレーシアで開催されるファッションウィーク、各国の地方都市で撮られたスナップ、読めない文字で書かれた雑誌のエディトリアル等々がそれに等置される。tumblrだけはやってはいけない。キャットウォークは依然として魅力的だが、余程でなければ違うことに時間は割かれるようになった。
もう一つ、「リアルクローズ」というトレンドもまた、モードから芸術性を奪っていった。この奇妙な言葉は、00年代半ばには四大コレクションの批評において頻繁に使われ始めていたように記憶される。いかなる意図でこの用語を持て囃し出したのかは知る由もないが、当初のカウンターカルチャーとしての響きはもはや失われている。穏当であることを善しとする空気は独創的なデザイナーから着実に牙を抜いていった。服が売れない理由は不況を始めとして様々な要因があるにもかかわらず、「リアルクローズ」が理解のない経営陣に格好の口実を与えている現状を度々目にする羽目となったのだった。
00年代のモードが最も華やかだった頃、ガリアーノはよりアクチュアルに差別を体現していた。ディオールのクチュリエとして。
周知のとおり、パリ・オートクチュールは虫の息だ。限られた人だけに許される装いという意味でのオートクチュールはその役割を終えつつある。カール・ラガーフェルドやリカルド・ティッシらフェティシストが創り出すクチュールはわれわれに馴染み深く理解し易いものである。対して、ガリアーノがディオールのデザイナーに就任したことの事件性は、通俗的な理解の枠組みを超えた特異な創造性にあった。オートクチュールの歴史のなかでガリアーノだけが成しえたことは、服そのものによる奢汰である。贅を尽くすというだけではぬるい。万人の理解を超えた作品に贅を尽くすことによって、万人の労苦を無に帰すのだ。そういった意味で、ガリアーノのクチュールが最高の輝きを放ったのは2008年春のオートクチュール・コレクションである。時は金融バブルの最中である。「誰が儲けているのかわからない」といわれていた。投資が投資を呼び、実体のない金が溢れていた。ガリアーノはジョン・シンガー・サージェントの『マダムX』(1884年、パリのサロンに出品された資産家夫人を描いた肖像画で、人妻にしてはあまりに官能的で下品としてスキャンダルを巻き起こした)をテーマに掲げ、60年代のドレスやジャポニスムに範を取りつつも殆ど甲虫や蛾のようなスタイルの女を登場させた。醜悪スレスレの造形は、最高の素材と細密極まりない技巧、選び抜かれたモデルたちによって、一型の例外もなく息を呑む美しさをみせる。贋金はここに実体を得たのだった。凡そ70億の苦役が消尽されるかのようにして。件の暴言など取るに足らない余程覆滅的な差別がここにはあった。
ガリアーノが産み出してきた作品の最も稀有な特徴はその官能的なイマージュにあるように思われる。ここでいう官能とは媚態を晒すようなものではなく内在的なものだ。つまり、男を誘うというよりも慄かせるよるな、自らの身体をあたかも他者のそれであるかのように楽しむ、あの女の享楽である。ガリアーノの設える舞台は、それを引き出すために必要不可欠なものであったように思われる。演劇=装いとして。
今のところ最後の登壇となっているジョン・ガリアーノ2011年春夏コレクションはオペラ=コミック座を会場に、往年の名モデルたちをキャスティングして披露された。テーマは実在した女詐欺師マリア・ラニ。1920年代末のパリで、女優を称した彼女はマティス、コクトー、シャガール、デ・キリコ、フジタ、ルオー等々の錚々たる画家たちにホラー映画に使うと嘘をつき、2年間に50枚もの自分の肖像画を描かせたうえ、絵を売り払って行方を眩ませた。ガリアーノ自らが「ガリアーノの女性像にぴったりだと思った」と語ったように、この上なくふさわしいストーリーに思える。
マリア・ラニなる女の、女優を演じるという多重のヴェールは、ガリアーノが追い求めたエレガンスを的確に表している。ちょうど彼が得意とするレイヤードされたスタイルのようだ。ガリアーノが20〜30年代のスタイルにアルコールや向精神薬と同様にアディクトしていたことをわれわれは知っている。20年代という時代は、シャネルが女性服にメンズスタイルを導入し、現代の女性像が基礎創られた時代である。ジョン・リヴィエールが「仮装としての女性性」を発表したのは1929年のことだ。女らしさと仮装のあいだには違いはなにもないと断じたこの論文に、フラッパーガールが行き交った当時の服飾文化の到達した段階を窺い知ることが出来る。女であるということ、女性の書かれないことを止めない不在の本質こそが装いを可能とする。ウィメンズモードにおける『マスキュリン/フェミニン』という阿部千登勢やフィービー・ファイロが強調して止まないキーワードは、装うことが常に女性的な行為であることを端的に表している。服飾批評において「マスキュリンなメンズファッション」という表現が依然として野暮ったい印象を維持しているのはその傍証である。
赤文字系と呼ばれる共産主義的服飾文化において提唱された「女子力」なる標語は、仮装としての女性性を扱っているようにみえるが、その背後に「女子力のない不器用な女」がいることを想定している限りにおいて転倒している。そうではない。女という同一性などないのだ。むしろニーチェに倣ってこういうべきだろう。「あらゆる力はあらゆる瞬間にその最終的な結論を出している」のだと。ヴェールの下にはなにものも存在しない。
ガリアーノが提案し続けていたのは不在を装うことである。対して、リアルクローズが目指しているのは実在を装うことである。では、すべてが嘘であるなら、不在を偽装することと実在を偽装することにいかなる違いがあるのだろうか。存在しないことを装うべき理由があるのか?
ただいえることは、実在を詐称するような世界は信用を失うということだ。これは経済のアナロジーなどではない。情欲の次元においてそうなのだ。かつてインターネットが普及し始めた頃、少なからぬ人々が仮想化の振興に警鐘を鳴らしていたことを思い出そう。その文脈でいうところの仮想化とはおそらく不在を装うことであろう。いまやネットが装っているのは社会という固有性である。それを人々は推奨しさえする。実在へと向かう欲望が安堵をもたらすのは、それが男性的な欲望であり、すべての人にその作用は支配的なので、あたかもペニスをしゃぶっているかのように安堵しているのだ。性差が開く偶然の領野は、男性的欲望が拠るところの同一性を脅かすものとして禁忌され、ことの両義性において羨望の的となる。装うことが常に女性的な行為であるのは、女性だけが同一性を消し去ることができるからである。
ラカンの「女は存在しない」はやはり、解剖学的性差として受け取るべきではない。解剖学的な性が女である者が必ずしも女性的な欲望だけに従っているわけではないのだ。リアルクローズという不自由な限定が従うのは男性的欲望である。ここ数年で服飾文化における長きにわたるゲイと女の結託は着実に弛んできており、女性自らの手による提案が主流となりつつある。実際に新しい創造性を見せているのは女性であり、今後もこの傾向は続いていくだろう。いま遡及的に見出すことができるのは、ゲイによるあの過剰なまでの演劇性が産み出していた独特の女らしさだ。ガリアーノとのトラウマティックな別れはモード界にその不在の女を語の忠実な意味における”現実”として構成したのだ。男を、そして女を篭絡するために、あなたは妹や人妻を、女優を偽装しなければならない。
2011-09-11
画像に盲目――tumblrとオイディプスコンプレックス
tumblrに言葉は必要ありません。ネットの社会化について大量の言説が注がれる中、その裏に潜む視覚化の流れは公然の秘密であり、これからもそれについては口をつぐまねばなりません。というのも、視覚的明証性のうちに言葉を廃することの耐え難いまでの魅惑は、コミュニケーション装置が抑圧してしかるべき言語の過剩さを横溢させ、言語/制度的社会に辱めを受けさせることになるからです。「視覚化」という現象は言語の領野から離反することを指すのではありません。全く逆に、われわれの視覚は言語と分かちがたく結ばれており、視覚化は言語の持つ本来の淫猥さを白日の下に晒すのです。リブログ、ひいては共有という行為の持つ強迫性は、われわれにとっての共有が何よりも言語の共有を措いて他なく、それが暴力的に為し遂げられて以降、われわれを捉えて離さないことを示します。
フロイトは「快感原則の彼岸」において、生後一年半の子どもを観察し、糸巻きを寝具越しに投げ、姿を消すと「fort(いない)」と言い、引き戻して姿を現すと「da(いた)」と言う一連の遊戯を観察しています。精神分析学において言語獲得の発端と措定されるこのfort-daは、後にJとTにキーアサインされ永遠に反復され続けるわけですが、見るということを原理的な水準で極めて的確に表象しています。それは快原則に不在の他者、記号-象徴が混濁した複雑な様態です。まず母親=他者の不在と現前がその契機となり、記号への置き換えが起こるわけですが、ここでは否定の論理が極めて重要な役割を果たしています。他者の不在はその否定によって現前へと転化し、現前はその否定によって不在へと転化します。否定の機能によって支えられることでfort-daは互いに呼び合い、対象の不在を補填するやいなやそれを解消するように連鎖し、快感原則(不快→快)に従って反復するわけです。昨今の自閉症についての知見は以上のことをより平明に現しているように思われます。一般に自閉症者は「想像すること」が苦手であるとされますが、想像は目に見えるものを否定することで初めて可能となります。われわれは否定によって視野に死角を認め、その外部に世界が広がりを持つことを常に想像しているわけですが、予め他者の存在しない世界においてはそのような機能は生じないということです。(他人の心的状態や言外の意味への想像についても同様に否定の機能との関わりを指摘できます。)サヴァン症候群の瞬間記憶能力が極端な形で示すように、自閉症者は通常発達の人間よりも視覚能力に優れる場合が多いといわれますが、むしろ視覚野と言語野のオーディナリーな連携は十全に視ることを阻害しているのであり、通常発達の人間における言語獲得とは見ないための目を得ることでもあるといえます。自閉症者の世界は目に見える限りで閉じていますが、われわれは想像という神経症的力能によって欠如をこそ見ることで世界の充溢を永遠に先送りし、目を潰さんばかりにリブログを繰り返すのです。
欠如を見るということについて、一つ例をあげたいと思います。一体、何がおしおきなのでしょうか。この画像はおそらくブログからの転載で、一見これといった見処のない凡庸なものですが、ここに不在を認める者にとっては重大なものです。
これは2003年から2004年にかけてテレビ放映された実写版「美少女戦士セーラームーン」でセーラー戦士を務めた女優たちの近影なのですが、セーラーマーズこと北川景子さんが不在なのです。
思い起こせば実写版セーラームーンに費やされた無為は当時のニート的感性にとってかけがえのないもので、特に語ることもないほどですが、かといって老成した現在の北川景子に関心はありません。それが存在しないことによって帯びるこの魅力はなんなのでしょうか。この画像はそれが存在しないということのみにおいて凝視を迫るわけですが、そのとき私はここに写し出されたものを見ておらず、強いていえば欠如を見ているに過ぎません。さらに、私は取り立てて北川景子の画像が見たいわけではないのです。おそらく当時の北川景子すら該当物ではなく、失われている北川景子こそに惹かれています。それはいくらダッシュボードを眺め続けたところでいつまでも失われているにもかかわらず。
ここには賭博の様相があります。実写版放映当時、わたしたちは「どうせレイちゃんの黒歴史になるんじゃろねー」と軽口を叩いていたのですが、この画像はそれを現に象徴化しているのです。私は北川景子の成功をとうに知っていましたが、それは私の主観にとってどうでもいいことで、この画像がそれを象徴化することによって初めて私は衝撃を受けるのです。
フロイトはドストエフスキーの病的賭博を扱った論文のなかで、その症状の形成を父親の事故死に結びつけています。ドストエフスキーは父親を殺したいほど憎んでおり、そのオイディプス的な空想が現実と化すことによって彼の症状は形成されたとします。精神分析の時制において、重要なのは症状であり、実際に父親を殺したいほどに憎んでいたのかどうかは本質的な事柄ではありません。象徴化された死が、症状を形成するのです。北川景子の成功は特に重要なことではありません。この取るに足らないような画像こそが、その不在を象徴化しているがゆえに重要なのです。
このような卑俗な例を挙げたのは奇をてらったように思われるかもしれませんが違います。今ここにある不在は、かつてベラスケスが重層的不在によって人を謎のヴェールへと包み込んだような類のものではありません。もはや国王ばかりか、作家すらも存在せず、モデルたちの視線は一点に向かいます。直接に、鑑賞者たる主体こそが不在であることを訴えるのです。我々は見ているのではなく、見られているに過ぎない。この不安を鎮めるのは、プラド美術館の中空に漂う歴史などではありません。Jキーなのです。まなざしが取り返しのつかないかたちで私たちを言葉の世界に招きいれたようにしてまた、児戯が反復します。リブログが。
あらゆる嗜癖には他者/象徴秩序への憎悪が根底にあり、そのふるまいはfort-daを反復するように見えます。ラカンはfort-daを「物(das ding)の殺害」と呼んでいますが、ドストエフスキーの目にするルーレットの回転は実際には分節不可能な全体であり、それをあたかも予め分節されているかのように扱う(その手つきをフロイトは無論、手淫と関連付けています)行為は端的に物の殺害にほかなりません。また、心理学が仰々しく証明するように、病的賭博は儲けることではなく、損失を蒙ることによってこそ強化されます。それは糸巻き遊びの観察において「fort(いない)」が「da(いた)」よりも頻繁に演じられていたことと関係するでしょう。この記号の遊戯を記号表現(エクリチュール)へと進展させるのがいわゆるオイディプス・コンプレックスです。(進展させるというよりは否認によって退行させるのが実際の順路なのですが)この悪名高い理論について、ここで構造論的な意義を云々する余裕はありませんが、精神分析が言語獲得の神話とした『オイディプス王』の視覚との関係を述べない訳にはいきません。ソポクレスの『オイディプス王』には周知のように目の隠喩が頻出するのですが、この悲劇において”去勢”は自ら目を抉るという表現で描写されています。すなわち、例の近親相姦の真理について盲目であったオイディプスは、真理が明らかになるとともに自ら目を抉るのです。これはアポリアでしょう。主体は真理が見えていないか、さもなくば目が見えていないのです。さらに耐え難いことに、この神話に死のカタルシスは許されていないのです。目を潰したオイディプスにコロス(デバイの長老たち)はこう声をかけます。「思えばあなたのお計らいが、正しかったとは申しかねます。盲いて生きてあるよりは、もはやこの世にあらぬがまし」。しかし、英雄的な死は決して訪れません。見えない目で、永遠に画像を欲するのです。
2011-04-16 QBの確実な殺し方――『魔法少女まどか☆マギカ』における魂と身体

既に各処で指摘されていることですが、この作品にはヲタクないし男性一般のセクシュアリティーへの批判と見受けられる側面があります。
ここ数年来のアニメ諸作に顯著な男性人物を排した人形偏愛症傾向に対して、少女間の関係を中心に据えつつも登場人物をヒステリー化することにより男性原理を浮彫りにし、性的な暗喩と拒絶が示されています。
魔法少女になることで魂と身体が分離されていると知ったとき、まどかたちは感情を露わにします。ここで問われているのは第二次性徴期の「少女の身体の所有」という、極めて男性的なプロブレマティックです。例の電車内でさやかを激高させるサラリーマンの輕薄な会話は、野暮ったいまでにこの点を明確にしています。かつて斎藤環が描写した戦闘美少女たちは「ファルスを持った少女」だったわけですが、まどか☆マギカにおいては本性的に欠如の記号にすぎないファルスを”ソウルジェム”という形態のある物質として持つことで、少女たちの中身は空にされているのです。所謂「日常系アニメ」のフォーム確立によって戦闘美少女は去勢され、性を潛在化することで強迫的に薄い本を増刷させてきた、そうした系譜上にこの作品を症候として位置附けることができます。
所有し、所有される自らの身体という觀念は、契約以前、つまり少女たちの「日常」においてはなかったものです。オープニングでまどかが無い乳を擦り合わせるシーンが象徴的に示しているように、このアニメでは變身することによって初めて自己同一性が獲得されます。(但し、空の肉体の上に。)魔法少女は取り返しのつかないかたちで身体の所有という問題に晒され、魂と調和した固有の身体を希求します。”魔女”はさながら、かつて持っていた身体に執着する魂とも捉えることが出来るでしょう。
もうすぐ物語は終焉します。もし、ワルプルギスの夜が解決され、まどかの強大な魔法力を使うなどして日常が取り戻されるのであれば、彼女たちは自らに固有の身体を確かめ、彼女たちのアイデンティティーはより強く保たれることに成るでしょう。
この未来は、致命的です。
繰り返しになりますが、契約以前の、第二次性徴期の少女は固有の身体など持っていません。少女は生成しているのであり、常にメタモルフォーゼする可能性を祕めているのです。固有の身体を、アイデンティティーを持つことは、実のところ、一つの身体への隸属という耐え難い状態に他なりません。日常が取り戻されたとして、それはメタモルフォーゼという魔法少女の神祕、女の子の永遠の憧れを、所有可能な固有の身体という男性的な枠に封じてしまう救いようの無い結末なのです。
諸悪の根源、QBという不氣味な存在にとって、身体は容れ物に過ぎず、それが破壊されても易々と別の体に蘇生します。それゆえ、この悪の根を絶つのは非常な困難に思われます。
ここで重要なのは、彼がいつも同じ形態に顕現することです。QBのもつ同一性、固有性は、詰まるところ「キャラクター」の同一性です。
われわれはこれまで、数え切れぬほどキャラクターに陵辱を繰り返し、責め苦を負わせ続けてきたわけですが、彼女/彼たちは終ぞ死に至ることなく、幾度も幾度も処女として蘇って来ました。それでもわれわれが厭くことなくキャラを犯すのは、翻って自らの同一性、固有性を解放したいがためでないとしたらなんなのでしょうか?それはかつて叶うことなく、時間が帰っても、メガネでも、パンツでも、却ってその同じものに固執することを止めません。
QBを確実に殺すためには、あなたが愛するキャラクターを確実に殺さねばなりません。そして少女に變身を、メタモルフォーゼを返すのです。そのときこそ、QBは回復不可能なまでに穴を開けられるのではないでしょうか。
参照記事:
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