「ゼロをイチに変える」ことを重視する、とよく言われる。
しかし「イチができてはじめてゼロがそこにあったことを知る」というのが正しい。人間の知識はいつもうしろを振り返ることによってしか認識できないもんだよ。
「ゼロをつくる」
実家で「フォトリーディング」とよばれる速読法の本をみつけて埃をはたいて使ってみて、例によってその日のうちに本質を見いだした。
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フォトリーディング・メソッドは
- モチベーションの惹起
- プレビュー
- 周辺視野による無意識への文書投射(これを特に「フォトリーディング」と呼ぶ)
- 斜め読み
- (速めの)通読
という、いわゆる「読書」に対して系統的な準備運動を追加するものだ。
当然、上に掲げた本は関心を引かせるためのパンフレットである。書籍というのは表現の自由のもとに、かなり阿漕なアジビラ、パンフレットをつくることができる。この本も例に漏れない。こういう本の読み方というのは、たしかに正しいことを書いてありながら、微妙に力点をずらしているか、最も重要な点を抜かしてあるかしてあるものだ。そして高額のセミナーに引き込むのである。もちろん私はフォトリーディングがインチキだなどというつもりもない。この商法についても異論はない。人はもうけなければいけない。
このフォトリーディングという手法にはいくつかの注意があるな、ということに気が付いた。
- 目的なく本は読めない
- 目的はどんなに浅はかであってもよい、決めることが重要
- 内容をさらっと理解したい等決めれば、「そこまで踏み込んで読む必要はない」として行為の可能性を限定できる
- 無意識への投射(フォトリーディング)では内容は理解できない、あくまで次の段階で斜め読みをしながら理解していく
- 神聖喜劇の東堂太郎のように一字一句を記憶できるというわけではない
- 実はけっこう時間がかかる(なにもしないで数十分-24時間寝かせる段階がフォトリーディングから次の段階までの間にある)
われわれは多くの場合「何気なく」本を読む。それ自身は何ら責められることはない。ただし、そのときはどうしてもダラダラと読んでしまう。
一方で、何か「速く本を読まなくては」というときには、つまり目的があるわけだが、意外と速く読み終えてしまうことがある。ここに「フォトリーディング」と呼ばれる手法の核があるようだ。無論、ここに示したのは私自身の理解であるし、異論はあろうかと思う。だから「でもそんなので大丈夫なの……」という人たちに反論することは出来ないし、私自信じつは半信半疑である。
そこに出てくるのが「疑いはスピードを落とす」という実に洗脳論的な文句が登場してああこれはあれだなと思うわけだ。NLPとかポジティブシンキングとかだ。*1
どうしてフォトリーディングは、いわゆる「ふつうの意味での読書」、つまり4と5の過程だが、その前段階に、最長1日もの時間をかけるか。
要するに「ゼロをつくる」ということになる。
もう少し言うと、「イチにならない状態をつくる」ということである。
だって、「プレビュー」の時点で、目次、見出し、とかとか、要約に当たる部分をだいたい読んでしまうわけだよ。それでもうふつうの読書という活動における3割ぐらいはやっちまってる。
ふつうの読書においては霧の中を四苦八苦して進む。フォトリーディングはそこをカンニングしておく。この点に関して、たぶんNLPなどの心理屋にはノウハウが蓄積されているのだと思う。いちど目にした文章や図像というのがきっと「なじみ深いもの」になるのだ。おそらくこれがカラクリだ。ふつうの読書者にすればチーティングである。ずるっこだ。ただし読書には内容の受け取り方の巧拙以外にルールはない。だからチーティングだろうがなんだろうが、読めればいいのである。
ふつうの読書が復習を重視するところを、フォトリーディングは予習に力点を置いた方法論であると考えるのが良さそうだ。
*1:私が洗脳論に興味があるのはそれがまったく有効だからだ。