MONT BLUEで平体文枝展を見た。40cm×40cmのスクエアのキャンバスに油絵の具で描かれた絵画が6点展示されていた。平体氏の作品に感じられるのは、もったりとした絵の具を重ねていくことで浮かび上がる色彩の、とても微妙で複雑な輝き方だ。例えば平体氏のつくり出す「青」は、白や緑とまじりながらややくすみ、コバルトブルーともウルトラマリンともつかない、平体氏の「描き」からしか生まれない「青」だし、「茶色」も、同様に、作品を前にしている時でしか思い返せない「茶色」だ。ここで展示されている作品では、そのような色彩の絡まりあい、積み上がり方が、繊細であるにも関わらず一定の強度を獲得しているように見える。


「ゲーム」は画面上辺に、わずかに左下がりの線分が見え、その下、画面の大きな部分をうろこ状の、主に褐色を基調にした、反復される文様が描かれている。そして画面右下には、濃い青の層が覗き見える。表面的にはこのような像が浮かび上がっているが、絵の具の粘度を押して引き延ばされた、その力が画面を強く支えていて、単純なイリュージョンだけを示している絵ではない。ここで平体氏は、けして演出的にマチエールを組織しているわけではないが、そのある一定の時間をかけて積層された絵の具が、いわば文章における「文体」のように、独自の肌を事後的に成り立たせている。


平体氏の作品における色彩は、このような絵肌と不可分だ。もちろん、絵の具を用いた絵なら当たり前なのかもしれないが、平体氏の色彩は、絵の具と描きのねばりの中から、芽吹く植物のように頭をもたげているものなのだと思える。絵の具の混ざりあいや重なりあいからゆっくりと浮上してきた色彩は、視覚的というよりは触覚的なあり方をしていて、その手触りが、ふとどこか、記憶の底から呼び覚まされるようなイリュージョンを発生させている。平体氏の作品は、もしかしたら図版や画像で見ると映像的なものに見える可能性もある。が、実作を見れば絵の具のマテリアルの存在感と、ビジュアルの予感のようなものが一体となっていて、手で練り上げられた視覚とも言いたくなるものになっている。


「追分」と題された作品などは、とても「良い雰囲気」を漂わせていて、その「良い感じ」が、なんとなく「もう一声!」と言いたくなるようなもどかしさを感じさせもするのだが、それがどことなく納得させられてしまうのは、今回の展示が行われたMONT BLUEというギャラリーのためかもしれない。このギャラリーは、たぶん建築関係の事務所らしいところで、展示用のライトなどが設置された壁面以外は、純然たる仕事場として使われている。僕が訪れたときも、二人の人が働いている最中で、電話で何か交渉ごとをしていたり、そのことをその二人で話し合っていたりした。作品が展示されているわきには、その人たちのものらしいコートがかけられていたりもした。通常こういう要素は、鑑賞の邪魔になるのかもしれないが、そのような、作品と無関係な人の気配が、作品の「良い感じ」と微妙に交差するような所があって、いろんな夾雑物が包括されるような展覧会になっていた。


こういうのは偶然の産物で、人によったら違う見方をするかもしれない、「作品外」の要素だが、僕がそう言い切りたくないのは、平体氏の絵画が、何か「世界」と、密接な繋がりを持っていると思えたせいなのだ。平体氏の絵画は、単なる視覚的イラストレーションでもなければ、ゴリゴリのモダニズム絵画、というものでもない。なんとなくそれら全て、更に言えば絵画的・美術的意識をこえた、平体氏の捉える「この世界全部」を、論理だけや、逆に生理だけに特化して切り捨てることなく総体として持っているような感覚がある。そのような態度が、あの絵の具の中からゆっくりと発せられる色彩を生み出して、その画面は、近くにある「上着」や「仕事の会話」とぶつかったりせずに、うまく響きあっているような気がしたのだ。


もちろん、こんなことは単なる推測で、作品は作品として独立して見られるべきだと言えばそれまでだし、上記で書いたような、ある種の物足りなさを感じなくもないのだけども、いずれにせよ、平体氏の絵画は、独特の、それでいて自閉していない広がりを持つものだと思えた。


●平体文枝