平倉圭氏のゴダール論「ダイアグラム的類似」がpdf文書にて公開されている。

ここに示されているのは「徹底的に作品を見る」という態度で、例えばそこに何事かの外部を導入し「読む」という行為は否定されている。平倉氏は基本的に画面しか見ない。また画面間に現れた関係/横の繋がりしか見ない。映画の「奥」や「深層」に隠された「真実」などありはしない、ただ画面に写し出されたものを考える事が、ゴダールの映画を見ることなのだと宣しているように思える。


このような「単に画面を見る」「画面の関係を見る」という行為はどのようにして可能なのか。平倉氏はゴダールの映画を各ショットの単位だけでなく、ほとんどコンマ何秒という細かさで微分し取り上げ、それを並列に再配置して「ダイアグラム的類似」を抽出する。僕が興味を持つのはこのtxtの論理が収斂させてゆく意味内容ではない。平倉氏の手法、あるいは平倉氏の姿勢そのものにある。平倉氏のこのような微分的姿勢は、ビデオあるいはDVDなしではあり得ない。テープかディスクから再生される“映像”をモニターで見ながら、各ショットをキャプチャし、それを改めてビューアで比較検討する、そのてさばきが「ダイアグラム的類似」というtxtのほとんど全てだ。


ゴダールを論じる場合、こういったオペレートは正常だ。当然ながら、ゴダールの作品が、彼自身がビデオによる編集をする前から微分的性格を持っていることは既に自明だからだ。例えばそれは、60年制作の「勝手にしやがれ」で、主人公が警察に追われ、背後に付かれてから4つのショットの極端に短いシーンの繋ぎによって、あっというまに形勢が逆転し警官が主人公に射殺されてしまうという「圧縮」技法にも見えている。こういったシーンを注視しようとするならば、我々は一度その画面を止め=ディスクを操作し、別のソフトウエアによってそのカットを切り取り、「あの」シーンを「この」シーンとして確定し定着させなければならない。


このようなオペレートが必然的に招来する状況がある。それは流れる時間をもった「映画」が「映像」に還元されていくという事態を超えて、それが完全に静止した「写真」あるいは「図版」として固定していってしまうということだ。平倉氏の手にかかった時、ゴダールの映画は無数の写真、あるいは図版として解体され、一種の紙芝居として、あるいはパラパラ漫画として浮上してくる。そこで現出する光景は映画の消滅であり、映画の破壊とも見える。


この事を指して平倉氏を批判するものは、要するに「映画」というイメージ、スクリーンに流れるフィルムを透過した光りが産み出す「映画的なるもの」を追体験し反復しているだけで、ゴダールの映画、すなわち「作品」をまったく見ていないことを証明してしまう。ゴダールの「映画」が露出しているのは、映画というものは無数の静止画の連続であって、その連続にはなんの保障もないのであり、それが不意に「不連続」を写し出すこともありうる、更に言えばその「不連続」にこそ「映画」が宿る筈だということだ。その意味では平倉氏はむしろ従順といえる程ゴダールに従い、ゴダールによりそっている。そもそも「映画」を微分し映画を蒸発させているのはゴダールその人であって、「映画的なるもの」をゴダールの映画に付与するものこそゴダールを見のがしているのだと、平倉氏は言っているように見える。


平倉圭氏のゴダール論がある困難にぶつかっているとすれば、それが「見ることに内在」し「見たことについて語ってはならない」というゴダールを、言葉で記述しているという事だ。この事はややゆっくりと考えなければならない。それは優れてメディウムに関する問題と思える。ゴダールは映画を解体しながら、しかし(そのことによって)映画を「復活」させている。平倉氏は、そのゴダールを改めて分解しながらゴダールのイマージュにおいての復活を論じている。しかし、そこで語られたのはあくまで解体された映画、写真/図版の水準での「復活」の図示に留まっている。簡単に言えば平倉氏はゴダールの「解体」には追走しえたが、「復活」の水準では振り切られているように見える。例えば今渋谷で改めて上映されている「愛の世紀」でゴダールは、ある男女の「愛」を、驚く程ダイレクトに、言ってみればセンチメンタルに捉えている。また、ゴダールはビデオを援用しながら、しかしほとんどの場合作品を「フィルム=映画」として提出し、単なる「ビデオ=映像」としては提起しない。このような事態には、平倉氏の手法と記述だけでは恐らく追いつけないのだ*1


ここで平倉氏が立ち至っているのは、映画を論ずることの困難だけではない。今の僕には、やや飛躍しながらでしか言うことができないが、それは言葉を書くということの困難、言葉そのものが産み出す困難と見える。このtxtに明晰さだけを見たのでは十分ではない。無論、その明晰さが「映画を破壊している」と言っても意味がない。分析的手法が析出してしまった「不明晰」が、語られることなく現れているのが、平倉圭氏のゴダール論「ダイアグラム的類似」と思える。そして、このように語りえることは語り切ってしまうという姿勢が立ち上げた「語り得ない」ことが、どこかしらでゴダールの言う「見たことについて語ってはならない」という言葉に通じようとしている、と想像したくなるのは無理があるだろうか。

*1:だが、いったい誰がゴダールに追い付いているというのか?