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2006-10-04

終わってしまった展覧会だが、レントゲンヴェルゲで行われていた内海聖史展について。白い壁面に、5cm×5cmのパネルが、縦22点、横46点等間隔に並べられている。画布が張られているパネルに綿棒を使って油絵の具を刻印している。おおよそ1点1点に関してはその中で主導的な色調が定められていて、全体に壁に様々な色のタッチが散乱しているようにも見える。詳細に見れば個々の作品中にも複数の色彩が使われていて、個別に独立してみる事も可能となっている。白く下地が造られたパネルには画布の目が浮かんでいて、そこに円形のタッチが、周辺部で盛り上がりをみせながら圧着している。部屋の上部には梁があり、そのことによって下がって全体を見ようと思うと上辺の一部が隠れてしまう。観客は思わず作品に近付かざるを得ない。そして、一度近付いてしまえば、視界を1012個の作品で覆われてしまう。ここでは、いわば「全体」を見るというメタ化した位置に立つことができない。


作品に巻き込まれること、言い方をやや抽象的にすれば、作品に自らの身体の知覚ごと浸らされ、その内部へと取り込まれていくような状態が、今回の内海聖史展においてはより明瞭に意図されている。内海氏は過去の作品においては主に、大きなキャンバスで観客を覆っていくような作品を製作していて、今回のような小さなサイズの作品は、いわば一種の選択可能性として、付随的に提示されるにとどまっていた。しかし、その個数を1012個という膨大さに拡張し、精密に展示することで、いままで単なる可能性の予感に過ぎなかった「極小絵画」は、ほとんど個々のピースが一つ一つのタッチとして基底面から浮上するようでありながら、まったく同時に1つ1つの絵画としても機能するような、確固とした「作品」として提出された。


過去の大作では、壁面への完全なはめ込みによるパネルの厚みの消去によって基底材の存在を感じさせず、絵画の表面だけが表れているような状態が目指されていた。しかし、その大きさは確実に物体としての質量を喚起させずにはいられないし、その絵の具の高密度な集積が、内海氏の絵画に強さを与え、いわば見る者の視線を表面の抵抗感によって跳ね返していく、硬質な手ごたえを発揮していた(参考:id:eyck:20051019)。この、一定の評価を獲得していた「巨大さ」による「強さ」を今回内海氏はあっさりと放り投げている。「小ささ」のもつ「軽さ」によっても内海氏の言う“絵の具の美しさ”を引出し得ることを示している。ここでは絵の具は、それを支える基底材の存在感を相当に切り詰めることで、まるで絵の具自体が空中に浮き出し、軽快に見る者を取り囲むような環境を具現化させている。


去年の個展においても記述したが、くり返して言えば内海氏の作品の観客のコントロールを、単純なインスタレーションと呼ぶことはできない。それはむしろ視覚の貴族支配に近い。インスタレーションが、いわば観客に依存し、観客の支持なしではなりたたない「民主的ファシズム」であるのとは違い、内海氏は完全に観客から主導権を奪い、けっして観客に権利・権力など与えない。そこでは観客は、いやがおうでも色彩の快楽に溺れ、その色彩を享受する以外の選択肢を持たない。かつての大作が、いわば強権的な絵の具の「古典的貴族支配」を示していたとすれば、今回の作品は、より柔らかで、極めて現代的な-こういってよければ未来的な支配構造にシフトしている。


ほとんどこわもての表情をみせることなく、気付けばその絵の具の輝きに包まれてしまっているかのような感覚は、この作家が「大きさ一本やり」の作家ではないことを示している。過去の大作では、ややもするとその「質」が、「大きさ」によるものと誤解される可能性があったが(ベルクソンのいう量と質の混同に近い)、例えそれが小さく、薄く、軽いものであっても、この幸福な貴族支配は確実に動作することを示している。その羽ばたくような色の群れは、細かな宝石の破片のようにも、キャンディーやジュエリービーンズのようにも見える。いまだ「数」というものを必要としている点にかろうじてエクズキューズを持つ事は可能だろうが、しかし先だって行われた「ふなばし現代美術展」において、ごく平均的なサイズの作品を他の作家達に混ざって提示しながら、その絵の具の鮮やかさを確かに示しえていたことを考えれば、そういった反抗も限定的にならざるをえない。なんと言っても、今回の作品は販売においては「バラ売り」されているのだ。


ここで決定的な力を持っている「貴き族」が、けっして内海聖史という、たかだか一個人ではないことには注意を払わなければならない。もしそうなら、つまり「支配者」が画家その人であったなら、内海氏の作品は幼い誇大妄想にすぎなくなる。内海氏の作品は、いかなる形態をとろうと唯物的基礎に支えられている。つまり、ここでは絵の具という不可解なモノがその高貴な力を発揮しているのであって、言い方によっては、内海氏が一番その力に支配されているのだ。内海氏の作品が、明らかに強い拘束力を発揮しながら、しかしどうにも「ごう慢さ」を持ち得ないのは、内海氏は観客にも美術的文脈にもまったくおもねるそぶりをみせず、ただただ彼の信ずる「色彩」、絵の具というものの美しさに対し根源においてに謙虚で、自らの持てる全てをそれに対して奉仕しているからにほかならない。ゆるぎない絵の具への帰依を基礎におき、いまだその可能性に疑いを持たない内海氏は、驚くべき事に成長を開始したばかりの作家であって、その展開に危うさを指摘することはいくらでも可能かもしれないが、むしろその上昇感覚(当たり前だが美術的キャリアなどの事ではなく、あくまで内海氏の作品が与える垂直的感覚のことを指す)に身を委ねることの方が、明らかに生産的だと思えた。