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2011-12-10 変化しないために変化し続ける倫理は普遍へと至るか・内海聖史展

表参道void+で内海聖史「シンプルなゲーム」展。三坪の会場の正面の壁に、縦に細長いパネルを基底材とした絵画12分割されて設置されている。パネルごとに基調色が定められている。青、紫、赤、黄と光がプリズム分解されたように並べられるが、キャンバスの地の空け方などは連続しており、全体で一枚の作品としての統一性をもっている。また、各パネルも例えば青系の色味が多い中に一点だけオレンジが配されているなど、けしてモノトーンではない。照明は空間手前に蛍光灯が2本立てかけられており、作品に正対すると光源が目に入らない。脇に入る小部屋にも一点小品が高い位置に置かれている。ロビーをはさんで反対の部屋にはやはり正面にほぼ黒(とはいえリッチブラックのように見える)、僅かに赤みののぞく作品が設置されている。地形模型のようにところどころ厚く絵の具が盛り上がる。この部屋のほかの壁面には三坪の部屋に一定の期間ごとに設置された作品が立てかけられている(配慮の行き届いた展示にもなっている)。星型、あるいは三角形のシェイプド・キャンバスに、おのおの赤や青、黄の基調色を置きながら部分的に他の色も使っている。最大のものは天井サイズに一致させられたらしい緑を基調とした作品になる。どれも綿棒で油絵の具を押し付けた細かい円形のタッチの集積で描かれる。混色を周到に避け、あるいは繊細に統御した色彩はにごりがない。


キャンバスの形態が変化していても、それは例えばステラのように作品内部の要請によってもたらされたものではない(ステラの変形キャンバスはあくまで画面内のストライプの運動によって確定された)。しかし、かといって内海の作品はオールオーバーに広がる「模様」を空間の矩形に合わせてカットした壁紙ではない。例えば長方形の室内の角を斜めに塞ぐような三角形のキャンバスはむしろこの展示室と交錯する別の空間(void)を予感させるし、星型のキャンバスは記号的に直裁に「星」あるいは「星空」を想起させる。星、虹=太陽、天井、斜め上の斜面の形成と、今回の内海の作品は明らかに上昇、あるいは天上のイメージと連結する。また、主に色彩において、形象としてはまったくの抽象だが外部の現実の植物や花、水などをどこかで連想させもする。フォーマルというよりはむしろロマン主義的な側面があるが(そういう意味ではステラなどより小林正人などに近いだろう)、内海の絵画がイメージに内属しないのは、綿棒で押し付けられ引き剥がされる絵の具の集積と、その隙間にある綿布の強い対比が物質性としてむしろ彫刻的な空間を形作るからだろう。


内海聖史は原理的な意味においていつも変わらない。内海の絵を見るとき、人は常に同じものを感受する。無論、展覧会のたびに作品は、展示空間は異なる。光線も(場合によっては毎時間。先のギャラリエ・アンドウの個展を想起せよ)異なる。そしてそのような変化に内海ほど敏感に反応する画家も稀有だ。環境が何か変われば、内海は精密にその変化を測定する。そのつど会場模型をつくり、隙のない展示計画を練り、着実に実現する。内海の「絵画」に次々とやってくる諸条件は、たちどころに観測され変数として扱われ、適切にプランニングされた作品が正確無比に送り込まれていく。では、いったい内海の絵画の比類なき「正確さ」は、その精度は、一体何に基づくのか。無論、いかに空間が、環境が変化しようと変るはずの無い「美しさ」に対してだけ正確なのだ


内海は毎回絶対変わらないものを提示しつづけるために、毎回絶対同じ製作を、同じ作品を反復しない。かみくだいていえば、内海ほど同じ場所に辿りつくためには同じ道を通ってはいけないことを理解し実践している作家も珍しい。成功を反復していればその成功は形骸化する、などという事は、ちょっとでもキャリアのある作家は皆知っている。そしてそのことを知った上で、多くの作家が特定のスタイルを洗練と称して形骸化させていく。現代日本の絵画において信じがたいほどブリリアントな「成功」を収めている内海に、そのような形骸化の予感は無い。それは、内海が、同じ事を実現するために辿る道筋を、実に即物的な現実条件として毎回一から考え直し組立て直しているからに他ならない。展示場所のボリュームが僅かに違えばそれだけで内海は基本から、すなわち作品のサイズから基底材の構成から絵の具の選択からタッチのサイズから考え直している。そしてそれは“いつも同じになっちゃうと退屈だから目先を変えて”するような、気楽なものではない。何一つ変わらない、微動だにしない「美」を今回も獲得するために、そこへのルートはゼロから歩き始められなければいけないのだろう。


内海にとって、狭小の空間に一週間ごとに異なる作品を異なる展示として見せていく行為は、展示と作品の唯一無二性をゆるめて遊んでみた結果なのでは、恐らくない。内海が展示に、作品製作に厳密なのは目的ではなく手段、つまり同じ場所にたどり着くための毎回異なる道筋なのだ。内海にとって「美」はたぶんずっと自由なのであり、その自由さが唯一の展示によってしか示されないのはむしろ、絵画の美に対し十分に厳密とはいえなかったのではないだろうか。実際、別室に出番を終えた体で、実際には細かい配慮の行き届いた形で「置かれている」作品群は、制作という水準では十分以上に厳密に作られており、明らかにそのまま鑑賞に堪える。以前も指摘したことだけれども、内海の絵画の質は、展示会場に対しジャストフィットで作られながら、いつしか絵画としての強度がその必要な閾値を遥かに越え出てしまい、結果的にその設置場所をほとんど選ばないまでに自立していく。これが、展示会場やその他の諸条件を一つずつ踏み越えて行きながら内海の絵画が獲得する、けして変わらない美の姿だと言っていい。


周到な計画と密度の高い描画が、そのような、余りにナイーブな「美」に結晶することに戸惑いを覚える人は正しい。「美」は確認不可能であり外部性を持たず相互に交換できない。「美」は誰とも共有できない。すくなくともそれを共有していることを確定されない。ウィトゲンシュタイン召還すれば、私の見ている青は、あなたの見ている青と同じかどうかは分からないのだ。にも関わらず、内海の迷いない「美」は、たしかにあなたを貫く。内海は作品の判断は二秒で決まると言い切る。それは内海の作品があなたを貫くのに二秒あれば十分だというに等しい。ここに作家の傲慢自己絶対化を見るべきではない。あなたを貫いているのは個別の、固有の自分ではなく「美」なのだと内海は言っているのだ。自分は自分という限定されたそのつどの道を歩いてそこに、つまり「美」にたどり着くだけだと。ここに美、というものの魔法が潜んでいる。誰とも交換できない、誰とも確認しあえない美は、しかし、だからこそ確信されてしまう。その確信は普遍へと繋がろうとしているが、作家自身はそのような普遍に対してどこまでも謙虚に見える。会期は終了している。