うしとみ

2017-02-07 (火)

カフェリブロつくば店の閉店によせて

筑波西武が閉店する。つくば市に電車が通る前のある一時期、つくば市の中心は、バスセンターと西武百貨店にあった。つくばエクスプレスが開通し、街の重心は次第に東京へ近づこうとし、並行してあらためてモータリゼーションが起こり、TX終点つくば駅は必ずしも活気にあふれる場所ではなくなっていく。百貨店の時代ももう終わった。筑波西武は閉店する。

筑波西武の5階にはリブロがある。いまから10数年前、大学生だったわたしは、リブロの魅力を知らなかった。本は大学の購買で買えば安かったし、マンガや小説が見たければ友朋堂に行くこともできた。書店の「棚」を気に留めるような学生ではなかった。大学生だった頃、わたしはいまよりもずっとずっと理系だった。人文書といわれるものにほとんど興味はなかった。リブロがブランドとしての力を持っていた時代のことをわたしは知らないし、筑波西武リブロがどんな書店であったのかをよく覚えていない。

おそらく2005年頃だったのではないかと思うのだが、リブロのなかにカフェが併設されるようになった。わたしがつくばへ来たばかりの頃には、まだカフェの営業はなかったような気がする。「あ、こんな場所ができたんだ」と思ったような記憶があるのだ。

カフェリブロは、購入前の本を持ち込むことができた。本を読みながらコーヒーを飲むことができた。それはとても素敵なことのように思えた。平日の昼間、他に客があまりいない時間帯を見計らいつつ、わたしはずいぶん長い時間を、カフェリブロで本を読みながら過ごした。

あの頃のわたしは、新潮クレスト・ブックスが大好きだった。カフェリブロの落ち着いた空間でゆったりと本を読もうと思ったとき、新潮クレスト・ブックスの装丁はとてもその雰囲気に似合っていた。「読む本があって、それを読むための場所がある」という順番ではなく、「その場所で本を読みたくて、そこに相応しい本を探す」という順番。新潮クレスト・ブックスは大学生には決して安くないし、コーヒー1杯で読むことのできる分量も限られていたけれど、たとえば『世界の果てのビートルズ』はカフェリブロのおかげで読むことのできた小説だ。サリンジャーも読んだ。村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーも読んだ。

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ごく小さい頃、わたしは本が好きな子供だった。よく本を読んだ。中学生の頃も、高校生の頃も、周りと比べればけっこう本を読んでいた。でも、本が生涯の伴侶になりえたのは、あのとき筑波西武のカフェリブロに通っていたからだ。あの、ゆっくりと本を読むことを切実に必要としていた時期があったから、わたしはいまも本を読んでいる。

半公共的な空間で過ごすことの楽しみを教えてくれたのもまた、カフェリブロだった。友人たち数人でファミレスに行ったり、ラーメン屋に行ったり、居酒屋に行ったりすることは知っていた。恋人と小洒落たカフェに行くことも知っていた。けれど、ひとりで時間を過ごすために外へ行くことは、大学生だった頃のわたしにはまだ普通のことではなかった。カフェリブロの空間が好きだったから、わたしはひとりでいることをもっと好きになった。当時はまだSNSは普及していなかったから、ひとりになろうとすれば本当にひとりになることができた。けれどすぐ近くには、感じのいい店員がいて、静かな客が何組かいて、少し離れれば本屋が広がっている。そういう空間が好きだった。こういう空間が自分は好きなのだと知った。

コーヒーと出会った場所もまた、カフェリブロだ。わたしとコーヒーの関係を重要なものにした要因はいくつかあるけれど、そのうちのひとつは、間違いなくあの場所だった。ホイップクリームやアイスクリームやチョコレートソースの掛かったあまいデザートが好きになった理由もまた。

わたしはここでつくられた。

なにもかも変化していく。大切な場所はなくなってしまうし、大切な人はいなくなってしまう。その変化は、わたしがいなくなってしまう日までずっとわたしを襲う。長く生きるということは、大切なものをときどき失い続けるということなのだろう。

世界の果てのビートルズ    新潮クレスト・ブックス

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス

2017-01-04 (水)

かつて『ジーンダイバー』というアニメがあった

1993年に小学生だった私にとって、NHK教育で「天才てれびくん」放送開始されたことは特別なできごとだった。テレビのなかで、自分と同世代の子どもたちがたくさんいて、奇抜な衣装を身にまとい、不思議なCG合成といっしょに、なにやら面白そうなことをしている。「天才てれびくん」は小学生の私にとっての憧れの象徴であった。

天才てれびくんの虚構構造

放送開始とともに始まった番組内コーナーに『恐竜惑星』があり、その翌年には『ジーンダイバー』があった。実写とアニメを組み合わせた構成はとても斬新で、まさにバーチャルリアリティを叩きつけられているような視聴体験だった。なにしろ、直前のコーナーでは別の子役たちとともにワイワイ喋っていたうちの一人が、『恐竜惑星』が始まるとアニメーションになって恐竜と追いかけっこしているのだ。そのうち、アニメの世界にいた登場人物は実写パートに戻ってくる(実写パートは『恐竜惑星』のお芝居のなか)。

「天才てれびくん」という番組全体が、クロマキー合成を基調にした虚構世界を舞台にしている。その虚構世界の中に「『恐竜惑星』実写パート」があり、そして『恐竜惑星』世界の中での現実として「バーチャル空間=アニメパート」がある。実写パートにいる子役にとって、アニメパートは同一世界線でのできごとである。また「天才てれびくん」内において、(少なくとも番組開始当時は)(私の記憶の限りでは)「恐竜惑星」という物語は同一世界線でのできごとである。さらに、「天才てれびくん」内には、視聴者がリアルタイムで参加する電話ゲームのコーナーもあった。こうして仕組まれた虚構の多重化は、「恐竜惑星」の世界がほんとうに現実と地続きになっているかのような印象を与えた。

もちろん小学生の私だってテレビドラマを観たことはあったはずだし、大河ドラマに出ていた人がクイズ番組に出ているのを観たこともあっただろうけれど、それとはまた少し話が違う。どこまでが虚構でどこまでが現実なのか、そんなことを小学生の私は言語化はしなかっただろうけれど、強い衝撃を受けていたに違いない。

『ジーンダイバー』

『ジーンダイバー』は名作である。詳しいあらすじなどは、Wikipediaの記事を参照されたい。

簡単かつ大胆にネタバレを言えば、仮想タイムマシンが存在し、歴史改変が可能になってしまった世界で、歴史を変えようとする勢力と歴史が変わらないようにしたい勢力が争う、というのが前半のお話。後半では、じつは地球の歴史には外部からの介入者がいて、生命の進化は介入者によって仕組まれたものだったことが判明する。しかもその介入者にとっては人類は失敗作であったため、遡って生命進化をキャンセルして無機物が知性体となるように歴史改変を行おうとしている……というのが終盤。なかなかハードなSFだ。

最後の敵(進化への介入者)、「スネーカー」と主人公の最終話の対話は、かんたんな善悪の対決ではない。絶対にわかりあうことのできない異なる起源をもつ知性どうしが、自身の願望のために他者を排除することを選ぶのか、互いを尊重して共存する道を選ぶのか。我が主人公は、自らの体内に入りこみ自己増殖を続けるマイクロマシンを受け入れるかわりに、全宇宙の有機知性体が自我を持ち続けることの許しを得る。絶対的な死を受け入れることにも似た、しかしそれ以上に巨大な決断。思い出していただきたいが、『ジーンダイバー』は小学生向けのテレビ番組のなかの1コーナーである。

『ジーンダイバー』の主人公である「唯」は、その第一話において傷ついた動物を助け、手当をする。このときに動物に噛まれた傷がきっかけとなり、すべての物語が駆動していく。最終話近くで唯は、スネーカーによる精神攻撃を受ける(エヴァのテレビ放送までにはまだ2年ほどある)。極限状態の幻影のなかで、唯は自己犠牲をともなって小動物を助ける。この行動がスネーカーを困惑させ、反撃へとつながっていく。我が主人公は一貫して、やさしさ・思いやりによって駆動されているし、その判断が最終的には宇宙を救う。一貫性のある登場人物が描かれることで物語の説得力は増し、またジュブナイルとしての要請にも応えている。

名作である。

まどマギを知るものとして

私たちは、『魔法少女まどか☆マギカ』を知っている。人類の歴史には進化への介入者がいて、人類とそれとの関係は、家畜と人類の関係のようなものであった。最後はひとりの少女の選択によって、宇宙が書き換えられる。こうしてみると、SFとしてよく似ているように思える。親しみやすい絵柄をつかってハードな物語を描いている点も、またよく似ている。

せっかく2017年に生きているのだから、この2つの物語を並べたり重ねたりしながら考えてみたいところだ。現在の私の手には負えないが、時期を待ちたい。


『ジーンダイバー』は有名な作品ではない。しかし、歴史に残るべき作品だろう。残念ながら作品へのアクセス難易度は高い。文章を残すことで少しでも貢献できればと思う。

ジーンダイバー DVD-BOX

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2016-12-06 (火)

「適当な暮らし」のために

暮らしや生活に関する話が気になっている。「丁寧な暮らし」、「シンプルな暮らし」、「断捨離」、「ミニマリスト」……。

そういった書籍などを見つけるたびになんとなくチェックしているのだが、どうもピンとこない。わたしがよいと思う概念とはどうもズレているのだ。

わたしが送りたい生活は、もっと気楽なものだ。あまり難しいことは考えない。一生懸命にはならない。けれど、何も考えていないわけではない。ちょうどいい暮らし。「適当な」暮らしをしたい。そういう本を読みたい。読みたいけれど見つからないので、自分で書くしかないのかなあと思い始めている。

このブログでは、数年前から何度か、家事についての文章を書いている。ひとまず、それらをまとめて目次のようにしておきたい。ここへさらに事例を積み重ねたり、論を立ち上げたりしていければと思う。

まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ

自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト - うしとみ

「ひとり暮らしの炊事」の導入のために書いたもの。食事は、生活のなかでとても大きな要素だ。


一発芸の料理ができても、家事ができるとは言えない - うしとみ

学校では教えてくれない味噌汁の作り方 - うしとみ

生活についてよく考え始めたころの文章。


「きょうの料理ビギナーズ」が素晴らしい3つの理由 - うしとみ

もっと手前から部屋の片付けを考える『片づけの解剖図鑑』 - うしとみ

アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事 - うしとみ

書評など。どの分野にも、よい本はいくつもある。


これから書きたいこと。個別的指南をたくさん積み重ねていきたい。

・(適当な暮らしのために)買いたい食材、買ってはいけない食材。

・習慣化の考え方

・祭りと日々

・レベルの上げ方、殴り方

2016-11-03 (木)

2万円のエアロバイクを買うというひとつの答え

思い立って、エアロバイクを買った。

運動をする必要があることは理解し続けてきたつもりだし、運動をしようという意志もいつも持ち続けてきた。しかし、実践することはなかなか難しい。

どのような運動をするべきなのか。ランニングはダメだと思った。ランニングをしていた時期もあった。あのころ住んでいた家の近所は、わりと交通量が少なくて走りやすかったなと思い出す。走るためには着替えなくてはならないし、走ったあとも着替えなくてはならない。走る前後にはストレッチなども必要だろう。たしかに外を走るのは気持ちがいいものだけど、けっきょく私は「走るのが好き!」とは思わなかったわけだ。

水泳をしたいと思った。泳ぐのは好きだ。着替えやシャワーの問題が少ないのもいい。水泳がしたい。しかしプールが近くにない。徒歩5分、せめて自転車で10分くらいの距離にプールがあれば、しかも料金の安い市民プールがあれば。そのために引っ越すわけにもいかない。

筋トレはどうしても続かない。筋トレは毎日やらないほうがいい、みたいなことを言われるから苦手だ。毎日やらないほうがいい? ではいつやったらよいのか。1日ごとか。1日ごとでは曜日がズレていくから覚えにくい。習慣になりにくいじゃないか。それから、正しいフォームでやらないと効果がない、みたいなことを言われるのも苦手だ。正しいフォーム? それは誰に教えてもらえばよいのか。筋トレを自分だけで続けていくことも難しい。


そういうわけで、エアロバイクを買った。

とても気軽に運動ができる。

準備体操をする必要もない(本当はするべきなのかもしれないが、ママチャリに乗って買い物にいくときに準備体操をするだろうか?)。

着替える必要もない(自宅なのだから、外着でも寝間着でもべつに構わない)。

交通事故を気にかける必要もないし、正しいフォームで漕ぐことを考える必要もない。なんとなく乗り、なんとなく漕ぐ。

さらに素晴らしいことには、エアロバイクを漕ぎながらテレビを見たり本を読んだりすることさえできる(音楽を聞きながら外を走ることは、素敵だけれど危険ではないのかといつも思う)。

本を読むことさえできる!

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今回私が買ったエアロバイクは、背もたれがついていて、サイドハンドルもついている。とても楽に乗ることができる。

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そんなふうに気楽にエアロバイクに乗ることによって、本当にじゅうぶんな運動を実現できているのかという疑念があるかもしれない。

重要なのは、心拍数だ。

心拍数をじゅうぶんに上げ、それを一定時間維持することができれば、スタイルはどのようであっても構わないと考える。

『脳を鍛えるには運動しかない!』という力強く胡散臭いタイトルの書籍を完全に鵜呑みにしようとは思わないとしても、それでもこの本は支えになる。

第一章で紹介されるネーパーヴィル高校での体育の授業のエピソードは、体育の授業を強く忌み嫌いつづけてきた私にとって、あまりにも魅力的なものだった。私もネーパーヴィルで思春期をやり直すことができたら。本書では繰り返し、身体に負荷を掛けることが、いかに心を(脳を)良い方向へと変化させるのかを説明する。目からウロコが落ちる思いがしたのは、ダンスダンスレボリューションをプレイするエピソードだった。

そうか、そういうことでもいいのか。

ランニングマシンとかエアロバイクとかやるくらいなら外を走ったほうがいい、そう考えていた時期が私にもあった。でも、けっきょく私は「外を走ることの喜び」は別に感じていなかったのであり、有酸素運動をして心拍数を上げたいだけなのだ。それならマシンでよいのではないか。

今回私が買ったエアロバイクは、2万円以下だ。スポーツジムに通おうとしたら、すぐに2万円くらい出ていってしまう。外に行くにはシューズもウエアも揃えなくてはならない。エアロバイクなら裸足で乗ってもいい(本当はよくない)。


運動はしたほうがいい。したい。でも、運動を続けている自分を想像できない。私はずっとそうだった。これからもそうだろうか。

エアロバイクならば、なんとなく乗り続けるような気がしている。朝、出かける前に。帰宅後に。寝付けない夜に。なにも、毎日欠かさず30km走ることを強いられているわけではない。

できるんじゃないだろうか。まだ買ってから数日だけど、けっこう楽しい気がしているのだ。