うしとみ

2016-08-07 (日)

『シン・ゴジラ』感想(ネタバレについて、ゴジラのいない世界、いっけん描かれていないように見えるもの)

映画『シン・ゴジラ』を2回観た。少なくとももう1度は映画館で観るだろう。

以下、内容に触れる。


ツイッターなどを見ると、多くの人が「ネタバレにならないように」などと書き、「一切の情報を入れずに観てほしい」などと書いている。しかし私はこれがどうもピンとこない。ゴジラにネタバレがあるものだろうか、と思ってしまう。ネタバレとはなんだ、結末か。結末ではないだろう。怪獣映画がバッドエンドで終わるのは難しいだろう(『巨神兵東京に現わる』が珍しい例外なのであって)。

演出に触れることもネタバレであるという指摘には同意する。あるいはたとえば、蒲田に上陸した不明巨大生物についての情報がないまま観られてよかったということも思う。

とはいえ、やっぱり私には「ネタバレ」がよくわからない。よくわからないという自覚があるので、むやみに触れないようによく注意していきたい。

「庵野監督の作品だから、面白かったかどうかというコメント自体がネタバレになる」という指摘はなるほどそうかと思った。私は庵野監督にそれほど人生をにぎられていないので、この作品をたんに新作怪獣映画として楽しんでいられるのかもしれない。


私たちがいまいる世界は、「ゴジラという想像上の存在」が存在する世界だ。ゴジラ映画の作品内世界は、「ゴジラというリアルな存在」が存在する世界だ。興味深いなと感じるのは、『シン・ゴジラ』の世界は、「ゴジラというリアルな存在」も「巨大怪獣という想像上の存在」もそれまで存在しなかった世界である点だ。

たとえばウルトラマンの世界では、ウルトラマンも怪獣も既存のものとして存在している。ファーストインパクトはさておき、2回目以降は「また怪獣が出た!」「またウルトラマンが助けに来てくれた!」となるわけである。あるいはニンジャスレイヤーの世界では、忍者は想像上の存在として認識されているが、実は存在しているという設定だ。だからニンジャに出会った一般人は「ニンジャ! ニンジャナンデ!」と叫び失禁する。

『シン・ゴジラ』の世界の人々は、出現した巨大不明生物に対して「怪獣だ!」とも「アニメみたいだ!」とも「ハリウッド映画じゃないんだぞ!」とも言わない。あの世界は、私たちがいまいる世界にとてもよく似た世界であるけれど、その点において決定的に虚構世界なのだなと思う。

むやみにメタ的な線を引きたくないという演出上の意図があったのかもしれないが、それこそ庵野監督であればそういうメタなネタを入れてきそうにも思える。制作上の理由はともかく、興味深いと思う。


『シン・ゴジラ』は人間ドラマが描かれていない、などの指摘を散見する。そうかもしれない。登場する政治家、官僚、自衛隊などの人々は、みな「仕事をする人」だ。その割りきった作劇こそがこの映画の魅力であるという指摘に、私も同意する。

それはさておき。

人間ドラマや「家族の絆」のようなものが皆無であると思ってしまうのは適切ではない。巨災対のサブリーダー的役割を担う、津田寛治の演じる森厚労省医政局研究開発振興課長について指摘したい。巨災対が組織されたシーンで「便宜上ここは私が仕切るが」と言いながらメンバー紹介を華麗に行う森課長だが、彼の携帯電話の待受画面には妻と子の写真が設定されている。非常時であっても、彼にはプライベートが存在し続けている。巨災対のメンバーの食事シーンが数回出てくるが、森課長は「いただきます」の姿勢をしているし、「ごちそうさまでした」と声に出している。彼には人生がある。彼にすら人生がある、と言い換えてもよい。ゴジラが現れるまでにはそれぞれに長い日常があったことを視聴者に感じさせる、数少ない役回りといえる。

政府が立川に移管されてから最初の巨災対ミーティングにおいて、矢口の挨拶に唇を噛み締めつつ聞き、しかしその後の一瞬の空白をキャンセルすべく「さあ、仕事にかかろう」と声を出すシーン。私はいまあのシーンを思い出して少し泣いている。家族は無事だろうか。連絡を取ることはできただろうか。

矢口のようにも赤坂のようにもなれないけれど、あの森のようになれたらいいな、とすこし思う。

2016-07-18 (月)

私たちには身体がある――細馬宏通『介護するからだ』

『介護するからだ』は、とてもおもしろい本だ。介護や医療に関わる人だけでなく、多くの人に読まれてほしいと思う。

この文章で言いたいことは、これだけだ。この先の文章は、長い蛇足ということになる。

ブログを書くことから、ずいぶん離れてしまった。ツイッターには常駐していて、ときどきいろいろと書いているが、長い話はほとんどしない。時事ネタへのツッコミもあまりやらなくなった。

これには理由がある。「それをわたしが言う必要はあるか?」と考えてしまうこと。いまや誰もが(本当に誰もが)ネット上で発言をしている。わたしが考えるようなことは、わたし以外の何万という人も考える。そして何十人かがそれを言語化してネットに投稿する。わたしが登場する必要は、あるだろうか?

10年前はそうではなかったと思う。ネット上でまとまった発言をしている人の数はもっと少なかった。この10年で日本人の数がきゅうに増えたわけではない。ネットで書く人が増えたのだ。かつて、わたしが「わたしに似た人たちの代弁者」になりえた(そういう幻想を抱けた)時期があった。いまはそうではない。

『介護するからだ』の著者である細馬宏通さんのことを、わたしは『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』の著者であり、『今日の「あまちゃん」から』の著者であり、映画『マッドマックス』の音韻に注目した人だと認識していた。「映像作品の分析をする人」だと思っていた。

今日の「あまちゃん」から

今日の「あまちゃん」から

だから、医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から本が出ると知ったときには驚いた。介護と映画はぜんぜん関係ないだろう、と。

本書を読むと、実はちゃんと関係があるのだとすぐにわかる。細馬さんは認知症高齢者グループホームにビデオカメラを携えて訪れ、介護する人や介護される人のようすを撮影する。そのビデオを「一コマ一コマ」見返すことで、なにげなく行われている行為を分析し、そこに繊細な機微があることに気付いたりしている。本の帯には「目利きの人間行動学者」と紹介されているが、細馬さんが人間の行動をよーく見てきたからこそ、この本ができたのであり、また以前の本もできたのだなあと思う。

私たちのほとんどは、おそらく、介護したり介護されたりすることになる。介護はまったく他人事ではない。

しかしながら、いまのわたしは、「介護について考えることは重要なことだ」とは思っていない。わたしにとっては、それはまだ現実になっていないことだから。顕在化していない問題を熟考できる器用さを、わたしは持っていない。

けれど、わたしにとってすでに現実になっていることがある。

身体がある、ということだ。身体を動かしながら生きている、ということだ。これは現実である。

たとえば、狭い道を向こうからも人が歩いてくる。すれ違おうとして、なぜか同じ方向に避けてしまう。健康であっても、身体コミュニケーションは決して簡単なことではない。

それなら、介護の現場を観察することから得られる知見はあるに違いない。健康であるよりも制限されたモデルになっているわけだから。細馬さんがそう考えているかどうかはわからないが、わたしはそう思う。

私たちには身体がある。私たちは身体を通して生きている。当たり前すぎて忘れていたことを、本書によって思い出す。

人生で起こることは統計的に予測できるのに、「わたしの人生に起こること」を正確に予期することはできない。わたしは介護することもされることもなく死ぬかもしれない。

そんなことを考えている人は、たぶん何万人もいるだろう。でもその人たちのなかに、本書を読んだ人は何人いただろうか。おもしろく読んだ人は何人いるだろうか。介護にも医療にも書評にも縁のない誰かは、わたしのほかに本当にいるんだろうか。ふと、そんなことを思って、こんな文章をブログに書く。

2016-01-09 (土)

「洋ニンジン」を知っていますか(食品スーパー旅行記)

正月休みを利用して、関西方面へ行ってきました。

旅行に行ったときは、できるだけ食品スーパーへ立ち寄るようにしています。そこに生活する人がいるかぎり、その土地には食品スーパーがあります。日本中のどこでもスーパーなんて同じだろうと思われるかもしれませんが、いろいろな場所を訪ねていると、意外な地方性がみえてきてとても面白いのです。

まずは、私が食品スーパー巡りをするきっかけになった場所から紹介しましょう。

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この写真は、長野県松本市の中心部にある、ごく普通の食品スーパーの、キノコ売り場の様子です。

あきらかに多いのです。もしあなたが長野県民でなければ、近所のスーパーに行ってキノコ売り場を見てみてください。品種も、物量も、こんなに並んでいないはずです。

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この写真のスーパー以外にも何軒か行きましたが、やはりキノコ売り場は充実していました。これは、ホクトという企業が長野県内にあることの影響かもしれません。そのへんの山にちょっと入れば採れるという事情もあるかもしれません。*1


次の写真は、今回の旅行で訪れた、岡山県津山市の東津山駅近くにある食品スーパーの様子です。

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津山ではB級グルメとして「ホルモンうどん」が有名です。おそらく、もともと畜産が盛んな土地であり、そのためホルモンの消費が多かったのではないでしょうか。そこから焼きうどんの具材にホルモンを使うようになり名物になったという経緯がありそうです。それはともかく、普通の食品スーパーでは、こんなにホルモンは売られていません。しかし津山に住む人たちにとっては、これが普通なのかもしれません。

テレビ番組「ブラタモリ」では、ちょっとした地形からその土地の物語を読み解く展開が面白いものですが、B級グルメにもその土地の歴史を想像する可能性があるのかもしれません。*2


ところで、津山ではもうひとつ気になることがありました。「にんじん」が「洋にんじん」という札で売られているのです。

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「洋にんじん」という表記をはじめに見たときは、正月の時期だから、金時人参と区別するためなのだろうと思いました。しかし2店舗、3店舗と「洋にんじん」が続くのが気になり、思い切って店員さんに尋ねてみました。

「あの、ヘンなこと聞くんですけど、ニンジンって前から洋ニンジンって書いてありましたっけ?」。店員さんは怪訝な顔で「うちは前から洋ニンジンですね」と答えてくれました。

これまで私は、静岡と茨城に長く住み、その後は東京周辺のベッドタウンなどを転々としています。炊事はいつもしていてスーパーには通っていますが、「洋にんじん」という表記を見た覚えはありません。ニンジンはニンジンであり、京人参や金時人参が特別なはずです。ニンジンはニンジンです。


今回の旅行では、姫路へも立ち寄っていました。姫路駅から姫路城へと続く道のわきには、地元向けの商店街があります。ここの食品スーパーでも、「洋にんじん」と書かれていました。もしかすると関西では「にんじん」ではなく「洋にんじん」が主流なのか……?

ところが、岡山駅ちかくのイオンモールやイトーヨーカドーでは、「にんじん」と書かれているのです。どういうことなのか。津山と姫路にのみあらわれた偶然だったのでしょうか。


東京へ戻る途中で、京都の宇治にも寄ってきました。主目的はアニメの舞台探訪でしたが、もちろんスーパーは確認します。*3

JR宇治駅近くのスーパーでも、やはり「洋にんじん」でした。そうだろうそうだろう、満足して京都へ向かいます。

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京都駅の近くには(あまり京都という街のイメージとは合いませんが)、大きなショッピングモールがあります。ここにも行きたい。歩き通しの旅程で、脚が悲鳴をあげていましたが、どうしてもイオンモールKYOTOの野菜売り場でニンジンを見たい。

はたしてそこには、ひとつの答えがありました。

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スーパーが付けた値札には、「にんじん」とあります。一方で、ニンジンの包装紙には「西洋にんじん」と書いてあり、横にはJA京都の文字も見えます。つまり、京都の生産者にとっては「ニンジン」といえば西洋ニンジンのことではなく、京人参ではないものについてわざわざ「西洋ニンジン」と表記するということなのでしょう。しかしイオンモールやイトーヨーカドーのような全国展開するチェーン店では、商品名称はすべて統一されていて、だから関西でも「にんじん」表記になっているということなのでしょう。


いかがでしょうか。この面白さがうまく伝わるものかどうかわかりませんが、私はとても面白いと思っているのです。

私たちが当たり前のことだと思っていた「にんじん」や「キノコ」の売られ方が、同じ国の中でこんなにも違っている*4。それは、長野のスーパーではイナゴの佃煮が売っているとか、津山のスーパーでホルモンが売っているといったこと以上に興味深いことのように思うのです。

みなさんも、遠くの街へ行く機会があれば、食品スーパーを覗いてみてください。その街に住む人々がどのような当たり前を生きているのか、そして自分がいつもどのような当たり前を生きているのかを、見つけることになるかもしれませんよ。

*1:総務省統計局の家計調査ランキングが面白い。( http://www.stat.go.jp/data/kakei/5.htm )「生鮮食品」のファイルから、「生しいたけ」と「他のきのこ」の欄を見てみよう。「他のきのこ」ランキングに注目すると、長野市は消費量1位となっている。次に「生しいたけ」を見ると、長野の生しいたけ消費量は、なんと下から2番目である。このデータから考えられるのは、長野においては生しいたけなど普通のキノコは眼中にあらず、生しいたけ以外のキノコを食べまくっているということだ。なお、山形や新潟も、長野と同じ傾向が見られる。那覇は「生しいたけ」も「他のきのこ」も最下位であり、キノコ食の習慣自体があまりないのだろう。富山は生しいたけもそれ以外のキノコもよく食べるようだ。(平成24年〜平成26年平均の資料を参照)

*2:東津山駅そばの地元系スーパー2店舗では、たしかにホルモンが充実していた。しかし津山駅近くの天満屋の食品フロアには、ホルモンがなかった。YouMeマート津山店へは立ち寄れなかったのが悔やまれる。

*3:観光地は住宅街と比べると、やはり食品スーパーは駅から遠く、規模も小さくなりがちだと感じる。

*4:他には、油揚げの形状、食パンの切り数、鮮魚の産地、調味料のバリエーションなどに着目するのも面白い。

2015-12-05 (土)

繰り返される生活を見つめること

この記事は、家庭を支える技術 Advent Calendar 2015 の5日目の記事として書かれています。

ここでの「技術」ということばは、ゴリゴリと音を立てながらコードを書くプログラマであったり、ネガティブな意味の乗らない「ハッカー」のような人たちを連想させるものですが、わたしはそういった技術はもちあわせていません。しかしそのような人の家庭ももちろん、「技術」によって支えられているのです。


同じような日々を繰り返すことでわたしたちの生活は進んでいきます。同じようなことばかりですから、どんどん忘れていってしまいます。昨日の夕飯はなんだったのか、布団を干したのはいつ以来なのか、髪を切ったのはいつだったか。反復周期は単一ではなく、だからなおさら忘れてしまう。忘れたくないことも忘れてしまうし、忘れてもそんなに困らないけれど思い出せれば便利かもしれないという程度のことももちろん忘れてしまう。


どうせわたしたちはなんでもネットに書いてしまうのだから、書けることはなんでもネットに書いてしまえばいいのだと思います。それらは勝手に蓄積されていき、適宜参照できるとよい。蓄積ストレスの低さ、手軽さ、検索性にすぐれたウェブサービスが、Twilogです。

Twilog - Twitterのつぶやきをブログ形式で保存

なにをいまさら。Twilogが便利なのは自明であり、議論の余地はありません。


先日、久しぶりにチャーハンをつくりました。かつてチャーハンのつくりかたを調べてツイートしたことがあったのではないかと思いTwilogを検索すると、自分好みにアレンジの入ったレシピを書いていたことがわかりました。そんなことはすっかり忘れていたのです。

あるいは、夕食にホワイトシチューをつくったとき、その副菜や主食をどうするのかは悩ましい問題です。広大なインターネットにはさまざまな知見がありますが、知らない誰かの意見よりも自分の過去ログのほうが助けになります。知らない誰かは知らない誰かのために夕食をつくっているのであり、わたしはわたしのために夕食をつくっているのですから。


かつてのわたしがこんなことを書いています。

Twilogを確認したところ、自分がかなりの頻度で喉を痛めていることに気付く。定常的な対策をするべき頻度だと思われるが、その自覚はなかった。

https://twitter.com/ffi/status/524147051655725057

記録には認識を変化させる可能性がありますが、この記述が活かされるためには、Twilogを「喉」とか「風邪」といったワードで検索しなければなりません。それは現実的な行動ではないでしょう。ライフログがいまよりも能動的にわたしに働きかけてくる仕組みができないものかと思っています。

とはいえ、そのためにはログ投稿ツールはTwitterでは難しいでしょう。わたしの家庭の健康にまで口を出せるライフログは、無造作に公開するようなものではないはずです。専用の投稿先(紙の日記帳や、限定公開SNSなど)をつくることはいままでに何度も失敗してきました。『ハーモニー』のWatchMeのようなシステムをすこしだけ夢想しますが、それはもっと大きな世界の話。「家庭」を支えるのは、もっと手の届くところにある技術であってほしいなどとも思います。


以前にはこんな記事も書いています。

まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ

自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト - うしとみ

明日は主幹のkei_sさん。