うしとみ

2016-12-06 (火)

「適当な暮らし」のために

暮らしや生活に関する話が気になっている。「丁寧な暮らし」、「シンプルな暮らし」、「断捨離」、「ミニマリスト」……。

そういった書籍などを見つけるたびになんとなくチェックしているのだが、どうもピンとこない。わたしがよいと思う概念とはどうもズレているのだ。

わたしが送りたい生活は、もっと気楽なものだ。あまり難しいことは考えない。一生懸命にはならない。けれど、何も考えていないわけではない。ちょうどいい暮らし。「適当な」暮らしをしたい。そういう本を読みたい。読みたいけれど見つからないので、自分で書くしかないのかなあと思い始めている。

このブログでは、数年前から何度か、家事についての文章を書いている。ひとまず、それらをまとめて目次のようにしておきたい。ここへさらに事例を積み重ねたり、論を立ち上げたりしていければと思う。

まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ

自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト - うしとみ

「ひとり暮らしの炊事」の導入のために書いたもの。食事は、生活のなかでとても大きな要素だ。


一発芸の料理ができても、家事ができるとは言えない - うしとみ

学校では教えてくれない味噌汁の作り方 - うしとみ

生活についてよく考え始めたころの文章。


「きょうの料理ビギナーズ」が素晴らしい3つの理由 - うしとみ

もっと手前から部屋の片付けを考える『片づけの解剖図鑑』 - うしとみ

アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事 - うしとみ

書評など。どの分野にも、よい本はいくつもある。


これから書きたいこと。個別的指南をたくさん積み重ねていきたい。

・(適当な暮らしのために)買いたい食材、買ってはいけない食材。

・習慣化の考え方

・祭りと日々

・レベルの上げ方、殴り方

2016-11-03 (木)

2万円のエアロバイクを買うというひとつの答え

思い立って、エアロバイクを買った。

運動をする必要があることは理解し続けてきたつもりだし、運動をしようという意志もいつも持ち続けてきた。しかし、実践することはなかなか難しい。

どのような運動をするべきなのか。ランニングはダメだと思った。ランニングをしていた時期もあった。あのころ住んでいた家の近所は、わりと交通量が少なくて走りやすかったなと思い出す。走るためには着替えなくてはならないし、走ったあとも着替えなくてはならない。走る前後にはストレッチなども必要だろう。たしかに外を走るのは気持ちがいいものだけど、けっきょく私は「走るのが好き!」とは思わなかったわけだ。

水泳をしたいと思った。泳ぐのは好きだ。着替えやシャワーの問題が少ないのもいい。水泳がしたい。しかしプールが近くにない。徒歩5分、せめて自転車で10分くらいの距離にプールがあれば、しかも料金の安い市民プールがあれば。そのために引っ越すわけにもいかない。

筋トレはどうしても続かない。筋トレは毎日やらないほうがいい、みたいなことを言われるから苦手だ。毎日やらないほうがいい? ではいつやったらよいのか。1日ごとか。1日ごとでは曜日がズレていくから覚えにくい。習慣になりにくいじゃないか。それから、正しいフォームでやらないと効果がない、みたいなことを言われるのも苦手だ。正しいフォーム? それは誰に教えてもらえばよいのか。筋トレを自分だけで続けていくことも難しい。


そういうわけで、エアロバイクを買った。

とても気軽に運動ができる。

準備体操をする必要もない(本当はするべきなのかもしれないが、ママチャリに乗って買い物にいくときに準備体操をするだろうか?)。

着替える必要もない(自宅なのだから、外着でも寝間着でもべつに構わない)。

交通事故を気にかける必要もないし、正しいフォームで漕ぐことを考える必要もない。なんとなく乗り、なんとなく漕ぐ。

さらに素晴らしいことには、エアロバイクを漕ぎながらテレビを見たり本を読んだりすることさえできる(音楽を聞きながら外を走ることは、素敵だけれど危険ではないのかといつも思う)。

本を読むことさえできる!

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今回私が買ったエアロバイクは、背もたれがついていて、サイドハンドルもついている。とても楽に乗ることができる。

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そんなふうに気楽にエアロバイクに乗ることによって、本当にじゅうぶんな運動を実現できているのかという疑念があるかもしれない。

重要なのは、心拍数だ。

心拍数をじゅうぶんに上げ、それを一定時間維持することができれば、スタイルはどのようであっても構わないと考える。

『脳を鍛えるには運動しかない!』という力強く胡散臭いタイトルの書籍を完全に鵜呑みにしようとは思わないとしても、それでもこの本は支えになる。

第一章で紹介されるネーパーヴィル高校での体育の授業のエピソードは、体育の授業を強く忌み嫌いつづけてきた私にとって、あまりにも魅力的なものだった。私もネーパーヴィルで思春期をやり直すことができたら。本書では繰り返し、身体に負荷を掛けることが、いかに心を(脳を)良い方向へと変化させるのかを説明する。目からウロコが落ちる思いがしたのは、ダンスダンスレボリューションをプレイするエピソードだった。

そうか、そういうことでもいいのか。

ランニングマシンとかエアロバイクとかやるくらいなら外を走ったほうがいい、そう考えていた時期が私にもあった。でも、けっきょく私は「外を走ることの喜び」は別に感じていなかったのであり、有酸素運動をして心拍数を上げたいだけなのだ。それならマシンでよいのではないか。

今回私が買ったエアロバイクは、2万円以下だ。スポーツジムに通おうとしたら、すぐに2万円くらい出ていってしまう。外に行くにはシューズもウエアも揃えなくてはならない。エアロバイクなら裸足で乗ってもいい(本当はよくない)。


運動はしたほうがいい。したい。でも、運動を続けている自分を想像できない。私はずっとそうだった。これからもそうだろうか。

エアロバイクならば、なんとなく乗り続けるような気がしている。朝、出かける前に。帰宅後に。寝付けない夜に。なにも、毎日欠かさず30km走ることを強いられているわけではない。

できるんじゃないだろうか。まだ買ってから数日だけど、けっこう楽しい気がしているのだ。

2016-08-07 (日)

『シン・ゴジラ』感想(ネタバレについて、ゴジラのいない世界、いっけん描かれていないように見えるもの)

映画『シン・ゴジラ』を2回観た。少なくとももう1度は映画館で観るだろう。

以下、内容に触れる。


ツイッターなどを見ると、多くの人が「ネタバレにならないように」などと書き、「一切の情報を入れずに観てほしい」などと書いている。しかし私はこれがどうもピンとこない。ゴジラにネタバレがあるものだろうか、と思ってしまう。ネタバレとはなんだ、結末か。結末ではないだろう。怪獣映画がバッドエンドで終わるのは難しいだろう(『巨神兵東京に現わる』が珍しい例外なのであって)。

演出に触れることもネタバレであるという指摘には同意する。あるいはたとえば、蒲田に上陸した不明巨大生物についての情報がないまま観られてよかったということも思う。

とはいえ、やっぱり私には「ネタバレ」がよくわからない。よくわからないという自覚があるので、むやみに触れないようによく注意していきたい。

「庵野監督の作品だから、面白かったかどうかというコメント自体がネタバレになる」という指摘はなるほどそうかと思った。私は庵野監督にそれほど人生をにぎられていないので、この作品をたんに新作怪獣映画として楽しんでいられるのかもしれない。


私たちがいまいる世界は、「ゴジラという想像上の存在」が存在する世界だ。ゴジラ映画の作品内世界は、「ゴジラというリアルな存在」が存在する世界だ。興味深いなと感じるのは、『シン・ゴジラ』の世界は、「ゴジラというリアルな存在」も「巨大怪獣という想像上の存在」もそれまで存在しなかった世界である点だ。

たとえばウルトラマンの世界では、ウルトラマンも怪獣も既存のものとして存在している。ファーストインパクトはさておき、2回目以降は「また怪獣が出た!」「またウルトラマンが助けに来てくれた!」となるわけである。あるいはニンジャスレイヤーの世界では、忍者は想像上の存在として認識されているが、実は存在しているという設定だ。だからニンジャに出会った一般人は「ニンジャ! ニンジャナンデ!」と叫び失禁する。

『シン・ゴジラ』の世界の人々は、出現した巨大不明生物に対して「怪獣だ!」とも「アニメみたいだ!」とも「ハリウッド映画じゃないんだぞ!」とも言わない。あの世界は、私たちがいまいる世界にとてもよく似た世界であるけれど、その点において決定的に虚構世界なのだなと思う。

むやみにメタ的な線を引きたくないという演出上の意図があったのかもしれないが、それこそ庵野監督であればそういうメタなネタを入れてきそうにも思える。制作上の理由はともかく、興味深いと思う。


『シン・ゴジラ』は人間ドラマが描かれていない、などの指摘を散見する。そうかもしれない。登場する政治家、官僚、自衛隊などの人々は、みな「仕事をする人」だ。その割りきった作劇こそがこの映画の魅力であるという指摘に、私も同意する。

それはさておき。

人間ドラマや「家族の絆」のようなものが皆無であると思ってしまうのは適切ではない。巨災対のサブリーダー的役割を担う、津田寛治の演じる森厚労省医政局研究開発振興課長について指摘したい。巨災対が組織されたシーンで「便宜上ここは私が仕切るが」と言いながらメンバー紹介を華麗に行う森課長だが、彼の携帯電話の待受画面には妻と子の写真が設定されている。非常時であっても、彼にはプライベートが存在し続けている。巨災対のメンバーの食事シーンが数回出てくるが、森課長は「いただきます」の姿勢をしているし、「ごちそうさまでした」と声に出している。彼には人生がある。彼にすら人生がある、と言い換えてもよい。ゴジラが現れるまでにはそれぞれに長い日常があったことを視聴者に感じさせる、数少ない役回りといえる。

政府が立川に移管されてから最初の巨災対ミーティングにおいて、矢口の挨拶に唇を噛み締めつつ聞き、しかしその後の一瞬の空白をキャンセルすべく「さあ、仕事にかかろう」と声を出すシーン。私はいまあのシーンを思い出して少し泣いている。家族は無事だろうか。連絡を取ることはできただろうか。

矢口のようにも赤坂のようにもなれないけれど、あの森のようになれたらいいな、とすこし思う。

2016-07-18 (月)

私たちには身体がある――細馬宏通『介護するからだ』

『介護するからだ』は、とてもおもしろい本だ。介護や医療に関わる人だけでなく、多くの人に読まれてほしいと思う。

この文章で言いたいことは、これだけだ。この先の文章は、長い蛇足ということになる。

ブログを書くことから、ずいぶん離れてしまった。ツイッターには常駐していて、ときどきいろいろと書いているが、長い話はほとんどしない。時事ネタへのツッコミもあまりやらなくなった。

これには理由がある。「それをわたしが言う必要はあるか?」と考えてしまうこと。いまや誰もが(本当に誰もが)ネット上で発言をしている。わたしが考えるようなことは、わたし以外の何万という人も考える。そして何十人かがそれを言語化してネットに投稿する。わたしが登場する必要は、あるだろうか?

10年前はそうではなかったと思う。ネット上でまとまった発言をしている人の数はもっと少なかった。この10年で日本人の数がきゅうに増えたわけではない。ネットで書く人が増えたのだ。かつて、わたしが「わたしに似た人たちの代弁者」になりえた(そういう幻想を抱けた)時期があった。いまはそうではない。

『介護するからだ』の著者である細馬宏通さんのことを、わたしは『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』の著者であり、『今日の「あまちゃん」から』の著者であり、映画『マッドマックス』の音韻に注目した人だと認識していた。「映像作品の分析をする人」だと思っていた。

今日の「あまちゃん」から

今日の「あまちゃん」から

だから、医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から本が出ると知ったときには驚いた。介護と映画はぜんぜん関係ないだろう、と。

本書を読むと、実はちゃんと関係があるのだとすぐにわかる。細馬さんは認知症高齢者グループホームにビデオカメラを携えて訪れ、介護する人や介護される人のようすを撮影する。そのビデオを「一コマ一コマ」見返すことで、なにげなく行われている行為を分析し、そこに繊細な機微があることに気付いたりしている。本の帯には「目利きの人間行動学者」と紹介されているが、細馬さんが人間の行動をよーく見てきたからこそ、この本ができたのであり、また以前の本もできたのだなあと思う。

私たちのほとんどは、おそらく、介護したり介護されたりすることになる。介護はまったく他人事ではない。

しかしながら、いまのわたしは、「介護について考えることは重要なことだ」とは思っていない。わたしにとっては、それはまだ現実になっていないことだから。顕在化していない問題を熟考できる器用さを、わたしは持っていない。

けれど、わたしにとってすでに現実になっていることがある。

身体がある、ということだ。身体を動かしながら生きている、ということだ。これは現実である。

たとえば、狭い道を向こうからも人が歩いてくる。すれ違おうとして、なぜか同じ方向に避けてしまう。健康であっても、身体コミュニケーションは決して簡単なことではない。

それなら、介護の現場を観察することから得られる知見はあるに違いない。健康であるよりも制限されたモデルになっているわけだから。細馬さんがそう考えているかどうかはわからないが、わたしはそう思う。

私たちには身体がある。私たちは身体を通して生きている。当たり前すぎて忘れていたことを、本書によって思い出す。

人生で起こることは統計的に予測できるのに、「わたしの人生に起こること」を正確に予期することはできない。わたしは介護することもされることもなく死ぬかもしれない。

そんなことを考えている人は、たぶん何万人もいるだろう。でもその人たちのなかに、本書を読んだ人は何人いただろうか。おもしろく読んだ人は何人いるだろうか。介護にも医療にも書評にも縁のない誰かは、わたしのほかに本当にいるんだろうか。ふと、そんなことを思って、こんな文章をブログに書く。