うしとみ

2017-08-13 (日)

夢眠ネムについて、あるいは誰かと夢を見ること

「夢眠ネム」について語らなくてはならない。

夢眠ネム|VOCALOID(TM)4

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夢眠ネムとはなにか。夢眠ねむの声をもとにつくられたVOCALOIDライブラリである。

夢眠ねむとは誰か。アイドルグループ「でんぱ組.inc」のメンバーである。いまわたしがいちばん応援しているアーティストのひとりだ。

わたしは夢眠ねむが好きだ。はっきり言わないと伝わらないこともあるので、書いておこう。


「初音ミク」が登場したときの衝撃を覚えている。音声合成の技術の粋としてではなく、愛されるキャラクターとして登場し受容されていったことの、あの驚きと感動をよく覚えている。

VOCALOIDには数多くのライブラリが発表されており、十分な知名度を持った人物が声を提供した製品もそれほど珍しくないようだ。GACKTや「SEKAI NO OWARI」のFukaseなどが有名所だろうか。


正直なところ、わたしにはVOCALOIDごとの音色がよく区別できない。たくさんのライブラリの様々な歌声すべてが1つのおなじ楽器として聞こえている。聴き分けられる人とは、耳や脳の機能が微妙に違うのだろうと思う。たとえるなら、NHK交響楽団とベルリン・フィルハーモニーの違いを聴き分けることが普通の人には難しいようなもの、かもしれない。


だから、夢眠ネムが発表されたときも、コンピレーションアルバムの製作が発表されたときも、わたしはいまいち乗り切れなかった。あまり楽しめないんじゃないかと思っていた。とはいえ、推している人がVOCALOIDになることなど、人生にそうそう起こることではない。ともかく買うしかない。ここで金を使うのがオタクのすすむ道だ。

ついでにMIDIキーボードも安いものを買った。これを機にずっと気になっていたDTMをやってみようかと考えたものの、いまのところ仕事に忙殺されており、とてもそれどころではない。余生に期待したい。


夢眠ネムのコンピレーションアルバムの話をするまえに、夢眠ねむについて確認しておこう。

アイドルにはいくつかのタグが設定される。夢眠ねむのテーマカラーは「ミントグリーン」で、キャッチフレーズは「永遠の魔法少女未満」。彼女がプロデュースしたキャラクター「たぬきゅん」も一部で大ブレイク中だ。でんぱ組.incとしての楽曲においては、その名にちなんで「夢」や「眠い」という歌詞を含むパートをよく担当する。


夢眠ねむとはなにか。それは、「夢眠ねむの中の人」のセルフプロデュースによって生み出された作品である。アイドルであり、アイドルというメディアアートである。このことは「夢眠ねむ」本人が幾度となく語っている*1


アイドル産業にはそもそも歪みがある。若い生身の人間たちが、大勢の他人の感情を動かすために歌い踊るのだから、歪みがあるのは間違いないだろう。

人気のあるアイドルたちはみなどこかで、その歪みを補正したり吸収したりしている。夢眠ねむの補正は「作品」という枠組みによって行われているようにわたしは思う。


『VOCALOID 夢眠ネム』の話をしよう。

このアルバムの楽曲は、すべて夢眠ネムの歌唱による。ただし、最後の曲だけは夢眠ねむ本人の歌唱がメインになっている。全曲を短くつなげたPVがYoutubeで公開されている。

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初めて視聴したとき、わたしは泣いた。アイドルを応援していると、ときどきとても幸せなことが起きる。


アルバム『VOCALOID 夢眠ネム』に収録された楽曲のほとんどすべては、じつは、誰が歌っても構わない。VOCALOIDの聴き分けが苦手なわたしにとっては、これらの曲を初音ミクが歌っていても違いを感じないかもしれない。夢眠ねむ本人がカバーしたものもいいだろう。ただし、最後の楽曲だけは別だ。

その曲のタイトルは『あるいは夢眠ねむという概念へのサクシード』。制作はMOSAIC.WAV。歌詞を引用する。

たとえわたしが消えてなくなっても/夢眠ねむは生き続ける/ただ、悩み貫いたこの思いが/忘れ去られることがこわいの?/だからいま・・・

夢眠ねむは概念になる

わたしの名前をあげる


わたしたちは身体を持っている。身体に縛られている以上、ひとつの場所にしかいることはできない。同時に複数の場所に遍在することはできない。それが生身の人間の限界だ。しかし。ふたたび『サクシード』から引用する。

癒されるってどういうこと?/心をほどいてくれる誰かがいること/それには技術が必要?/ううん、いるだけでいいの/それじゃあわたしは・・・

あなたのそばにいたい


生身の身体は、いずれ衰え損なわれる。けれど、VOCALOIDに吹き込まれた声は、永遠である。孤独な身体を離れて、現在と未来のあらゆる場所に存在できる。

夢眠ねむは概念になる。概念は遍在する。遍在するならば、いつでも必要な人のそばにいることができる。


「概念になる」ときいてすぐに思い出すのは、『魔法少女まどか☆マギカ』のことだ。この話を始めると絶対に畳めなくなるのでやめておくが、ところで、「永遠の魔法少女未満」という夢眠ねむのキャッチフレーズはどういう意味なのだろうか。

「未満」ということは、つまり魔法少女ではない。魔法少女ではないということは、つまり普通の少女である。「ずっと普通の女の子」だと言うのだ。しかし。

VOCALOID 夢眠ネム

VOCALOID 夢眠ネム

彼女はいま、ひとつの永遠とともにある。

変わらない声を持ち、「わたしの名前をあげ」たキャラクターがいる。夢眠ねむのためにではなく、夢眠ネムのために、いくつもの歌が生まれた。夢眠ネムは歌い続ける。


『サクシード』は、夢眠ネムの音声を(おそらくまったく)調整していない。無調整のVOCALOIDと、オリジナルの人間が出会い直し、永遠になることを夢みる。このことにより「悲しいループ」は解消され、幸福なループとして、わたしたちはアルバムの1曲目『コズミックメロンソーダマジックラブ』の世界へ回帰する。夢眠ネムは、歌い続ける。


■■

アイドル産業が消費者を惹きつける魅力のひとつは、アイドルたち自身が未熟であることだ。努力し挑戦する物語を、わたしたちは消費してもいる。その欲求はけっして褒められたものではないとは思う。しかし、それでもたしかに、他の誰かといっしょに夢を見ることは、素敵なことだとも思うのだ。

わたしたちはみな「魔法少女未満」だ。きっと特別にはなれないわたしたちだから、特別な夢を見せてくれる誰かを憧れ続けている。

*1:「私も大学の専攻がメディアミックスだったんですが、自分に使えるメディアがわからなかったので、メディアに載る側のアイドル「夢眠ねむ」を卒業制作として提出したんです。だから、いまだに卒業制作をやり続けているとも言えるけど。(笑)」(『小説BOC 6』、中央公論新社、2017年、B12頁)

2017-02-07 (火)

カフェリブロつくば店の閉店によせて

筑波西武が閉店する。つくば市に電車が通る前のある一時期、つくば市の中心は、バスセンターと西武百貨店にあった。つくばエクスプレスが開通し、街の重心は次第に東京へ近づこうとし、並行してあらためてモータリゼーションが起こり、TX終点つくば駅は必ずしも活気にあふれる場所ではなくなっていく。百貨店の時代ももう終わった。筑波西武は閉店する。

筑波西武の5階にはリブロがある。いまから10数年前、大学生だったわたしは、リブロの魅力を知らなかった。本は大学の購買で買えば安かったし、マンガや小説が見たければ友朋堂に行くこともできた。書店の「棚」を気に留めるような学生ではなかった。大学生だった頃、わたしはいまよりもずっとずっと理系だった。人文書といわれるものにほとんど興味はなかった。リブロがブランドとしての力を持っていた時代のことをわたしは知らないし、筑波西武リブロがどんな書店であったのかをよく覚えていない。

おそらく2005年頃だったのではないかと思うのだが、リブロのなかにカフェが併設されるようになった。わたしがつくばへ来たばかりの頃には、まだカフェの営業はなかったような気がする。「あ、こんな場所ができたんだ」と思ったような記憶があるのだ。

カフェリブロは、購入前の本を持ち込むことができた。本を読みながらコーヒーを飲むことができた。それはとても素敵なことのように思えた。平日の昼間、他に客があまりいない時間帯を見計らいつつ、わたしはずいぶん長い時間を、カフェリブロで本を読みながら過ごした。

あの頃のわたしは、新潮クレスト・ブックスが大好きだった。カフェリブロの落ち着いた空間でゆったりと本を読もうと思ったとき、新潮クレスト・ブックスの装丁はとてもその雰囲気に似合っていた。「読む本があって、それを読むための場所がある」という順番ではなく、「その場所で本を読みたくて、そこに相応しい本を探す」という順番。新潮クレスト・ブックスは大学生には決して安くないし、コーヒー1杯で読むことのできる分量も限られていたけれど、たとえば『世界の果てのビートルズ』はカフェリブロのおかげで読むことのできた小説だ。サリンジャーも読んだ。村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーも読んだ。

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ごく小さい頃、わたしは本が好きな子供だった。よく本を読んだ。中学生の頃も、高校生の頃も、周りと比べればけっこう本を読んでいた。でも、本が生涯の伴侶になりえたのは、あのとき筑波西武のカフェリブロに通っていたからだ。あの、ゆっくりと本を読むことを切実に必要としていた時期があったから、わたしはいまも本を読んでいる。

半公共的な空間で過ごすことの楽しみを教えてくれたのもまた、カフェリブロだった。友人たち数人でファミレスに行ったり、ラーメン屋に行ったり、居酒屋に行ったりすることは知っていた。恋人と小洒落たカフェに行くことも知っていた。けれど、ひとりで時間を過ごすために外へ行くことは、大学生だった頃のわたしにはまだ普通のことではなかった。カフェリブロの空間が好きだったから、わたしはひとりでいることをもっと好きになった。当時はまだSNSは普及していなかったから、ひとりになろうとすれば本当にひとりになることができた。けれどすぐ近くには、感じのいい店員がいて、静かな客が何組かいて、少し離れれば本屋が広がっている。そういう空間が好きだった。こういう空間が自分は好きなのだと知った。

コーヒーと出会った場所もまた、カフェリブロだ。わたしとコーヒーの関係を重要なものにした要因はいくつかあるけれど、そのうちのひとつは、間違いなくあの場所だった。ホイップクリームやアイスクリームやチョコレートソースの掛かったあまいデザートが好きになった理由もまた。

わたしはここでつくられた。

なにもかも変化していく。大切な場所はなくなってしまうし、大切な人はいなくなってしまう。その変化は、わたしがいなくなってしまう日までずっとわたしを襲う。長く生きるということは、大切なものをときどき失い続けるということなのだろう。

世界の果てのビートルズ    新潮クレスト・ブックス

世界の果てのビートルズ 新潮クレスト・ブックス

2017-01-04 (水)

かつて『ジーンダイバー』というアニメがあった

1993年に小学生だった私にとって、NHK教育で「天才てれびくん」放送開始されたことは特別なできごとだった。テレビのなかで、自分と同世代の子どもたちがたくさんいて、奇抜な衣装を身にまとい、不思議なCG合成といっしょに、なにやら面白そうなことをしている。「天才てれびくん」は小学生の私にとっての憧れの象徴であった。

天才てれびくんの虚構構造

放送開始とともに始まった番組内コーナーに『恐竜惑星』があり、その翌年には『ジーンダイバー』があった。実写とアニメを組み合わせた構成はとても斬新で、まさにバーチャルリアリティを叩きつけられているような視聴体験だった。なにしろ、直前のコーナーで別の子役たちとともにワイワイ喋っていたうちの一人が、『恐竜惑星』が始まるとアニメーションになって恐竜と追いかけっこしているのだ。登場人物は『恐竜惑星』というコーナーのなかで、アニメーションと実写を行き来する。

「天才てれびくん」という番組全体が、クロマキー合成を基調にした虚構世界を舞台にしている。その虚構世界の中に「『恐竜惑星』実写パート」があり、そして『恐竜惑星』世界の中での現実として「バーチャル空間=アニメパート」がある。実写パートにいる子役にとって、アニメパートは同一世界線でのできごとである。また「天才てれびくん」内において、(少なくとも番組開始当時は)(私の記憶の限りでは)「恐竜惑星」という物語は同一世界線でのできごとである。さらに、「天才てれびくん」内には、視聴者がリアルタイムで参加する電話ゲームのコーナーもあった。こうして仕組まれた虚構の多重化は、「恐竜惑星」の世界がほんとうに現実と地続きになっているかのような印象を与えた。

もちろん小学生の私だって、ほかのテレビドラマを観たことはあったはずだし、大河ドラマに出ていた俳優がたとえばクイズ番組に出ているのを観たこともあっただろうけれど、それとはまた少し話が違う。どこまでが虚構でどこまでが現実なのか、そんなことを小学生の私は言語化はできなかっただろうけれど、強い衝撃を受けていたに違いない。

『ジーンダイバー』

『ジーンダイバー』は名作である。詳しいあらすじなどは、Wikipediaの記事を参照されたい。

簡単かつ大胆にネタバレを言えば、仮想タイムマシンが存在し、歴史改変が可能になってしまった世界で、歴史を変えようとする勢力と歴史が変わらないようにしたい勢力が争う、というのが前半のお話。後半では、じつは地球の歴史には外部からの介入者がいて、生命の進化は介入者によって仕組まれたものだったことが判明する。しかもその介入者にとっては人類は失敗作であったため、遡って生命進化をキャンセルして無機物が知性体となるように歴史改変を行おうとしている……というのが終盤。なかなかハードなSFだ。

最後の敵(進化への介入者)、「スネーカー」と主人公の最終話の対話は、かんたんな善悪の対決ではない。絶対にわかりあうことのできない異なる起源をもつ知性どうしが、自身の願望のために他者を排除することを選ぶのか、互いを尊重して共存する道を選ぶのか。我が主人公は、自らの体内に入りこみ自己増殖を続けるマイクロマシンを受け入れるかわりに、全宇宙の有機知性体が自我を持ち続けることの許しを得る。絶対的な死を受け入れることにも似た、しかしそれ以上に巨大な決断。思い出していただきたいが、『ジーンダイバー』は小学生向けのテレビ番組のなかの1コーナーである。

『ジーンダイバー』の主人公である「唯」は、その第一話において傷ついた動物を助け、手当をする。このとき動物に噛まれた傷がきっかけとなり、すべての物語が駆動していく。最終話近くで唯は、スネーカーによる精神攻撃を受ける(「エヴァ」を連想するが、そのテレビ放送までにはまだ2年ほどある)。極限状態の幻影のなかで、唯は自己犠牲をともなって小動物を助ける。この行動がスネーカーを困惑させ、反撃へとつながっていく。我が主人公は一貫して、やさしさ・思いやりによって駆動されていて、その判断が最終的に宇宙を救う。一貫性のある登場人物が描かれることで物語の説得力は増し、またジュブナイルとしての要請にも応えている。

名作である。

まどマギを知るものとして

私たちは、『魔法少女まどか☆マギカ』を知っている。人類の歴史には進化への介入者がいて、人類とそれとの関係は、家畜と人類の関係のようなものであった。最後はひとりの少女の自己犠牲的な選択によって、宇宙が書き換えられる。こうしてみると、よく似ているように思える。親しみやすい絵柄をつかってハードな物語を描いている点も、またよく似ている。

せっかく2017年に生きているのだから、この2つの物語を並べたり重ねたりしながら考えてみたいところだ。現在の私の手には負えないが、時期を待ちたい。


『ジーンダイバー』は有名な作品ではない。しかし、歴史に残るべき作品だろう。残念ながら作品へのアクセス難易度は高い。文章を残すことで少しでも貢献できればと思う。

ジーンダイバー DVD-BOX

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2016-12-06 (火)

「適当な暮らし」のために

暮らしや生活に関する話が気になっている。「丁寧な暮らし」、「シンプルな暮らし」、「断捨離」、「ミニマリスト」……。

そういった書籍などを見つけるたびになんとなくチェックしているのだが、どうもピンとこない。わたしがよいと思う概念とはどうもズレているのだ。

わたしが送りたい生活は、もっと気楽なものだ。あまり難しいことは考えない。一生懸命にはならない。けれど、何も考えていないわけではない。ちょうどいい暮らし。「適当な」暮らしをしたい。そういう本を読みたい。読みたいけれど見つからないので、自分で書くしかないのかなあと思い始めている。

このブログでは、数年前から何度か、家事についての文章を書いている。ひとまず、それらをまとめて目次のようにしておきたい。ここへさらに事例を積み重ねたり、論を立ち上げたりしていければと思う。

まず、ご飯より始めよ(生き延びるための自炊入門) - うしとみ

自炊スターターキット、あるいは一人暮らしで買わなくてもいいものリスト - うしとみ

「ひとり暮らしの炊事」の導入のために書いたもの。食事は、生活のなかでとても大きな要素だ。


一発芸の料理ができても、家事ができるとは言えない - うしとみ

学校では教えてくれない味噌汁の作り方 - うしとみ

生活についてよく考え始めたころの文章。


「きょうの料理ビギナーズ」が素晴らしい3つの理由 - うしとみ

もっと手前から部屋の片付けを考える『片づけの解剖図鑑』 - うしとみ

アイドルとしての栗原はるみ、思想としての家事 - うしとみ

書評など。どの分野にも、よい本はいくつもある。


これから書きたいこと。個別的指南をたくさん積み重ねていきたい。

・(適当な暮らしのために)買いたい食材、買ってはいけない食材。

・習慣化の考え方

・祭りと日々

・レベルの上げ方、殴り方