- 裸足で散歩 - かな



 午前6時に目覚め、これが曇った朝なのかその後待っていれば照るのか解らない西の東京にあった。家人が出払っているここ数日、ひとりであることをよくして冷蔵庫の整理を兼ねた簡素な食事をしていたら肉不足か鉄分不足か何か、朝、掃除をしながら下を向いたら想像するに黄土色的苦いものを吐きそうになった。週末に向け仕事があるのでしっかりしなくてはと思いながらも鈍い空の下、実務をサボる口実か愉しみのためかしらず、誘われ、漱石を読む。わたしはクドい質なの仕方ない。で、氏の明治39年漱石の断片より–––


 昨日までは大臣がどんな我儘までも出来た世の中なり。故に今日も大臣なれば何でも出来る世と思へり。昨日までは岩崎の勢ならば何でも意の如くなりたるが故に今日も岩崎の勢ならば出来ぬことはあるまじと思へり。彼ら大臣たり岩崎たる者もまたしか思へり。彼らは自己の顔を鏡に照らして知らぬ間に容色の衰ふるを自覚せぬ愚人と同じく、先例を以て未来を計らんとす。愚もまた甚し。


 ~夏目漱石


 *


 人の世とは外的な状況により常に神経衰弱になるべく導かれる危機と背中合わせにありながらもいざ精神が栄養不良のサインを出せば、さっとい人々は朝の洗顔の鏡に浮き彫りになった自らの顔を見ることで背中を正し案配を知ることもできる。
 それを怠ると人の顔とは、人相とは、悪くなっていくものだろう。そういう人らは、いくら宝探しをしても爽やかな顔を朝の鏡に見る事はなかなかできないだろう。
 わたしは例え太れずとも、そのような顔にはなりたくはないと徘徊するドン・ジュアンのふりをして裸足でペタペタ歩くつもりで過ごす心持ちでいるのだが、今日、ふと、こんなことを思い出した。


 以前、或る人が、或る人のことを「あの人は悪い顔をしているねぇ」
 と言っていた、ということを聞いたのだ。
 それは恐らく、呑んだ席でのことだったのだろうが、人によっては、その年齢による表情の変化だけでは済まされない、何だろう…頭や胸の中に付着していく輪郭を増やしていくことにより、本物の自分を遠くへ追いやってしまい、ただ余計なものを背負うことで、それを自分の体験としてしまう人もあるのかもしれない。
 人の目というものは、鏡に似ているのね。


 こんな気侭なことを書くのも数日ひとりで暮らしている変なゆとりが故なのだろう。
 ひとりでない時、このごろのわたしは日常の中、snsに辿り着く余裕もない。
 それは決して忙しぶっているのではない。
 それほど、人の暮らしというものは個人的なものであり、実はわたしたちそれぞれがその個人を守るためにも、ときどきに、世間の中で顔を合わせ合って生きていく必要もある、ということを感じる、というまでのことだ。


「その笑顔を忘れない」


 と、記憶にある人々が人生の中で多くあることこそ、宝なのだろう。


『裸足で散歩』という映画があったが、あれは実に愉快であったが。

 


 桜井李早の枕草子 ©