他生の縁

わたしは、外を歩くときに人よりきょろきょろしているらしく、
街で知り合いを見つける確率が非常に高い。


知り合いでなくても、たとえば、朝、最寄りの駅で同じ電車の同じ車両に乗った人が、
帰りの電車でまた同じ車両にいるのを見つけたり、
地下鉄の通路ですれ違った人とデパートのエスカレータでまたいっしょになったり、
人にいってもわかってもらえないから、一人ひそかに驚いているようなことがよくある。



「ヒト顔認識能力」というものがあるとしたら、わたしのそれは高いのかも知れない。
ただ、それ以前に、人と人って、これほど頻繁に、複数回すれ違っているということではないのか、と思う。
つまり、世の中は「袖摺りあうも他生の縁」に満ちているということだ。


「ここで会ったが百年目」なんてとんでもない。
「ここで会ったが2時間後」なんてことが、街のそこかしこで起きている。


とはいっても、さっき表参道駅の通路ですれ違ったスタイリッシュな黒縁眼鏡の女性に、
新宿伊勢丹1階のハンドバッグ売り場の横に上がってくるエスカレータでまた会ったからといって
「さきほどは」と挨拶できないのはもどかしい。



世間がもっとオープンになり、知らない同士ももっと声を掛け合ってもよくなったらいいのに、
と残念に思うのはそんなときだ。


いまのところ、街なかで、知らない人に気軽に声をかけるのは、
おばさんか常識をやや逸脱した人に限られる。



と、書いて気がついたら、わたしは上の特徴二つを兼ね備えているではないか。
おばさんで、常識をやや逸脱した人。
衝撃。



わたしも、本気で黒縁眼鏡の女性と話し込みたいわけではないのだけれど、
会釈くらいはしてみたい。
彼女も地下鉄通路の一件を覚えていてくれて、
会釈を返してくれたら、うれしいだろうなあ。



現実にはそれすら叶わず、
でも、袖摺り合った別れの名残りを胸にしまってまた歩きだすというのも、
それはそれで、いいものだ。