攝津正『生きる』

二千十年一月二十一日木曜日執筆開始

その日攝津は午前三時半に目覚めた。少し早過ぎる起床であるが、前日床に就くのが早過ぎたので、丁度良いのだろうと思っている。昨日欠勤してしまったが、今日は出勤出来るだろうと思っている。それが当たり前なのだが、当たり前の事が難しい。
昨日一昨日と、ほとんど死に掛けていた、と攝津は振り返る。自分は「死」と戯れるうちに「死」のすぐそば迄来ていた。それは危険な遊戯であった。しかし、格好悪くても、ダサくても、「生きよう」、と攝津は思った。
生きるとは生存する事であり生活する事である。金銭をやり繰りし、生活を回す事である。それをやらなければ、と攝津は思った。両親からは経済観念が無いと烙印を押されてしまったが、それでは駄目だと思う。これからは生活に必要な現実感覚を持って生を営んでいかねば、と攝津は考えた。

攝津は生存は無意味にして無価値なりという説を奉じていた。そしてそれを攝津哲学と称したが、独創的な説ではないのもよく承知していた。只攝津は、意味なり価値は人間が創っていくものだと考えていた。
生きる事は善い、という考えは、小泉義之と彼に影響された左翼活動家集団の常套句だったが、攝津はそれを早速借用していた。生きる事は善い、良い言葉ではないか。確かに生きる事は、それ自体で、善いであろう。生存の目的は生存そのものに他なるまい。
生存は無意味にして無価値なりという攝津哲学と生きる事は善いという小泉原理主義が何処で一致するのか、攝津自身にも不可解だったが、無意味にして無価値なる生存をそのようなものとしてそのまままるごと肯定するのだ、と攝津は考えていた。快楽は快楽として、苦痛は苦痛として肯定する事。それが自分の主義だ、と攝津は考えた。(続く)

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長編私小説第二段『生きる』連載開始しました。
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松本茜『プレイング・ニューヨーク』

バップ娘という事なら、鳥尾さん中島弘恵もいると思うのだが。

プレイング・ニューヨーク

プレイング・ニューヨーク

仮面の酷薄-3

摂津正の仮面の酷薄 → 仮面の酷薄と改題します。

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僕は、同性愛の出会い系サイトで何人もの男と寝たが、それは単に性的関係であるに過ぎず、恋愛には発展しなかった。性的行為の後はいつも虚しさが襲った。出会い系サイトや『バディ』などのゲイ雑誌で知り合った人の中で、僕の審美眼に適う男の子は一人しかいなかった。その一人も、おじさんらと性行為に溺れ、体を売ろうかなどと言っては僕から金を巻き上げようとする、そういう子だった。だが彼は美しかった! 僕は彼に再会したかったが、無理だった。
僕は一時動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)に在籍していた事がある。大学生の頃だ。僕は、自分が同性愛者かどうか、経験を通じて知りたい、と願ったのだ。結果は、精神病的錯乱だった。訳の分からぬ混乱の裡に僕は会を辞めた。
今もって、僕には自分が同性愛者かどうか分からぬのだ。同性と寝る事はある、だが愛する事は無い。まだ運命の人と出会ってないだけなのか? だがそんな出会いが何処にある?
他方、女性も美しいと僕は思う。只女性と性的関係を持つ事は、かつての大学生の頃の自分ならともかく、今の自分には無理だと思う。それは、精神病の薬のせいで、性的不能になっているからだ。パキシルというのだが、それを飲むと性欲が無くなり勃起、射精出来なくなる。恐らくそれを生涯飲まねばならぬのであろうから、生涯不能なままであろう。性的不能なら、自分が何者であるか思い煩う事に何の値打ちがあろうか! 要するに僕は不能者である。それだけではないか?(続く)

『鏡子の家』読了など

朝七時過ぎに家を出、父の車に乗り浦安の倉庫へ向かう。帰りは電車で、十九時四十五分に帰宅する。車の中で、ずっと読み続けていた三島由紀夫鏡子の家』を遂に読了した。僕の満足は大きなものであった。
八時間弱労働したが、素晴らしい同僚や環境に恵まれている事に、感謝せずにはいられない。
ところで若いうちに、哲学青年、文学青年、音楽青年等であるのは別に普通で恥ずかしくないと思うのだが、三十四、五歳にもなって、文学中年やってますというのは、かなり恥ずかしいのではあるまいか、と思う。と同時に、年少の自分には分からなかったであろう多くを、今読書して気付けているとも思う。
帰りの電車内では、矢野沙織『BEBOP AT THE SAVOY』を繰り返し聴いていた。矢野沙織自身も勿論いいが、バックのギターやオルガン等が素晴らしい、と感じた。
帰宅すると、立花泰彦さんから、CD画集『彼方へ』が届いていた。実に有難い。これから、画を見、音楽を聴かせていただくことにしよう。
マーレで、杉原さんの勧めに従い小野善康『景気と経済政策』(岩波新書)、ジョゼフ・E・スティグリッツスティグリッツ教授の経済教室』(ダイヤモンド社)、ポール・クルーグマンクルーグマン教授の経済入門』(ちくま学芸文庫)を借りてくるが、そして前二者については少し読んでみるが、どうもいまいち興味が持てない。実学に無関心な「遅れてきた文学中年」の欠陥だろうか、と自嘲する。