のためのメモ

カウンセラーが「現実を見よ(暗に、働け)」と言い、私が頑なにそれを拒絶している、という会話、この関係性は不毛で無意味なものではないだろうか。
私は「現実」を拒絶している。無職ひきこもりでしかない35歳の自分、という現実を。
ミーイズムが批判されることが多いが、自分のことだけで精一杯で他者を顧慮する余裕がないという状態は実際にあるのではないだろうか。私はそれを「自分苦」と呼んだ。
「自分苦」に留まる人は倫理的とはいえないであろう。だがそれはやむを得ないのだ。自分自身が生存、生活できないのに、どうして社会運動などができる? デモに行く交通費もないのに、何故集会やデモに行ける? 交通費を稼ぐつもりもなければ、その能力もないのだ。
だから私は、自宅にひきこもっている。
社会を1ミリたりとも変える余裕がない。自分自身すら変わらない、変われないのに、なんで他人を変えることなどできようか。世の中を変えることができようか。基本的に私は保守的である。現状維持、生存の維持以外関心がないのだから。
ここで一旦送る。

オスカー・ピーターソン / プリーズ・リクエスト

プリーズ・リクエスト

プリーズ・リクエスト

プリーズ・リクエスト

プリーズ・リクエスト

ジル・ドゥルーズ / 差異と反復

差異と反復

差異と反復

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

ドゥルーズ=ガタリ / アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス草稿

アンチ・オイディプス草稿

アンチ・オイディプスの使用マニュアル

アンチ・オイディプスの使用マニュアル

ドゥルーズ=ガタリ / 千のプラトー

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

ジャン=クレ・マルタン / ドゥルーズ: 変奏

ドゥルーズ・変奏

ドゥルーズ・変奏

ルイ・アルチュセール他 / 資本論を読む

資本論を読む〈上〉 (ちくま学芸文庫)

資本論を読む〈上〉 (ちくま学芸文庫)

資本論を読む〈中〉 (ちくま学芸文庫)

資本論を読む〈中〉 (ちくま学芸文庫)

資本論を読む〈下〉 (ちくま学芸文庫)

資本論を読む〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ / 権力への意志

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

の整理

ルソーの『社会契約論』でも読もうかと思って書棚の整理を始めたら数時間掛かり、しかも汗だくで二度水風呂に飛び込んだ。
結局、ドゥルーズ=ガタリの主著を出してきて少し読んだ。現代思想おたくの私は、結局こうなる(藁)。それと、フランス語では、マルシァル・ゲルーとピエール・マシュレのスピノザ注釈を出してくる。ゲルーのは分厚い2冊組、マシュレのは全5巻である。読めるものではない!
イギリス経験論、大陸合理論、カント、ドイツ観念論ヘーゲルキルケゴールニーチェハイデガー…も出してきた。プラトンも。
結局、哲学をやるとは、古今東西の哲学テキストを全部、隅々まで一行一行精読するという不可能な営みなのではないだろうか。全部・全体を読破するというのは激しく無理である。

まあ哲学もだが、小説も読みたいなという気持ちもあり。バルザックとか入門したいんだけれどもね。日本近代文学も。あれこれ読みたい。だが読む時間が(笑)。
関係ないが、昨日「シェストフ的不安」で検索したらヒットした長崎大学かどこかの文書(PDF)が面白かった。三木清などを論じているんだが、結構勉強になるし、面白い。日本浪漫派とか。私は保田は退屈で読めないんだよなあ。亀井勝一郎は読もうとしたことがない。
三木清全集とか読むべきですかね? 三木は各方面から馬鹿扱いされていて気の毒だ。私は彼の処女作、パスカル論を読んだことがあるが、秀逸だと思ったよ。うまいことハイデガーパスカル読解に応用してね。まあ、そういう器用なところが逆に嫌われるんだろうとは推測するけれども。

Paul Desmond / Desmond Blue

Desmond Blue

Desmond Blue

ジム・ホール(g)をフィーチャーしている。

の理由(わけ)

本の整理を始める前、船橋市立北図書館を徘徊したが、欝で何も借りる気力が起きず一冊も借りられずに帰ってきた。親に話したところ、「金がないから欝になるんだろう」とのこと。
いや、違うんだが。そもそも図書館で本借りるのただなんだけれど。そういうことではなくて、借りて、本を読み、また返して…という営みそのものに無意味さを感じるというか、自分の知的?営為そのものの無意味、無価値を感じて塞ぎ込むということなんだけれど、私が哲学書を書いて出版すると思い込んでいる親にはそういう自虐の気持ちは分からないんだろうな。

私の原点=ルソー社会契約論批評

私の原点は、津田沼高校に入った年に、吉本隆明に依拠してルソーの『社会契約論』を批評したことである。
要点は簡単で、社会契約など擬制=虚構(フィクション)に過ぎない、ということだ。だがこれは、社会契約論者も含めて、誰もが認めることだろう。つまり、事実として現実に社会契約があったかどうかは問題ではない、論理的=理論的構成(後からの)としてあるのだ、と彼らは言い返すであろう。
だが問題はそこではない。私がルソーに反撥したのは、彼の社会契約の論理では、個々人は個別の意志を一般意志に譲渡してしまうので、社会が個人に対して決定的に優位にあり、全体主義的なものを許容するかのように思えたところだ。
そこで私は、個々人の自然権は完全には譲渡し得ないことなどを説いたが、それがスピノザ『国家論』(岩波文庫)の主要な論点であるのを知ったのは後のことだ。
スピノザにおいては、個々人の自然権が完全に社会体に譲渡されてしまうことはない。言い換えれば、個々人の力能は厳然と「ある」。社会にも何にも規制されずに「ある」。ホッブス(自然状態から国家への移行を必然と説き絶対主義を正当化する)ともロック(超越的な自然法を持ち出す)ともルソー(個別の意志は一般意志に吸収される)とも異なるところだ。誤解を恐れずにいえば、スピノザには抵抗権があるのである。抵抗権とは厳密にいえば、国家が法で承認する権利ではない。国家が不正で不当な時、その国家そのものに不服従する力能の発揚である。だから抵抗権は憲法学においても、論争の的になってきた。(RAMカタログの批評文を参照のこと。)抵抗権ないし革命権の起源はロックの『市民政府論』に求められてきたが、スピノザの『国家論』にもそれを読み得る。但しスピノザは両義的=曖昧である。柄谷行人も言うように、スピノザは民衆、多数者(マルチチュード)を肯定的に語ってはいない。というのも、スピノザの庇護者であった有力者が、煽動された暴徒に虐殺されるという出来事を体験しているからである。民衆、多数者は『エティカ』の語る「自由な人間」ではあり得ない。そのことを見据えたリアルな政治論が、『国家論』なのである。
まあ、そのような思考は中学、高校の頃から現在に至るまで数十年間、私において持続している。ルソーは嫌いだったけれども、もう一度読んでみよう、丁寧に微細に読んでみようと思って本の整理を始めた次第である。

思想の持続

「まあ、そのような思考は中学、高校の頃から現在に至るまで数十年間、私において持続している。」と私は書いた。では、何故なのだろうか。
それは根本的には、公立中学校という規律・訓練(ディシプリン)の場、集団生活、統制の場への違和、抵抗、反抗からきていると言い得る。私は、不登校=登校拒否であった。そしてその頃からの志と感情が、現在も持続し、労働拒否に繋がっていると思える。
それはどういうことかというと、中学校などは、大学や大学院とは異なり、学問の場ではなく、集団への個人の適応、埋没を強制する場だったからと言えると思う。校則の拘束(洒落だが)などその最たるものである。
私は、中学でも高校でも生徒会役員をやったが、公には校則を変えること、なくすことはできなかった。言い換えれば私は、活動家、革命家としては無能だった。しかし、私は、「撤退」=exitを選んだのである。それが不登校=登校拒否だ。
集団なり社会に馴染めないということ、適応できない、いやむしろ積極的能動的に適応を拒絶するということ、それが過去の私、そして現在の私を形成している。
私の思考は隅から隅まで反社会的である。或いは非社会的である。それを反社会的人格障害と呼びたければ呼べばいいだろう。私としては、そのようなものとして何とか生き延びることを目指すだけである。サヴァイヴァルの倫理。

リー・コニッツ・アンド・トリオ・ミンサラー / ディープ・リー

ディープ・リー

ディープ・リー

リー・コニッツ(as)
フローリアン・ウェーバー(p)
ジェフ・デンソン(b)
ジヴ・ラヴィッツ(ds)

自己価値創造

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に、公的教授と私的思想家という対立概念が出てくる。公的教授とは、『差異と反復』の註では「哲学労働者」と呼ばれていたもので、カントからヘーゲルに至る(そして、現在においても多くの哲学者がそのようなありようで日々の生活の糧を得ている)大学教授としての、国家公務員としての思想家のことである。それに対して、私的思想家とは、ニーチェキルケゴールのような存在である。
しかし、それにしても、そのようにして食っていくか、生活・生存していくかという唯物的な(笑)問題が残る。ニーチェには援助者がおり、キルケゴールには遺産があった。スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたというのは伝説で、実際にはパトロンがいた。
前にもどこかで書いたが、『アワーミュージック』の渋谷慶一郎が、音楽家が食っていくには、大学から生活を保障してもらうか、超有名になるかしかない、という意味のことを書いていて、私はそれは物書きの世界でも同じだと思った。大学に就職すれば食える。批評家では食えない。私の友人らもこの問題にぶち当たって苦闘している。そして勿論、私自身も!
ネグリ=ハートが自己価値創造と呼ぶ営みに関わる全ての人間に共通する課題だと思うが、己の求めるものを追求しつつ、いかに生活していくか、食っていくか。熟考せねばならぬ。

ONJO / Otomo Yoshihide's New Jazz Orchestra

ONJO-Otomo Yoshihide’s New Jazz Orchestra

ONJO-Otomo Yoshihide’s New Jazz Orchestra

ナット・アダレイ / オートバイオグラフィー

オートバイオグラフィー

オートバイオグラフィー