進路相談

芸音音楽アカデミーに通ってきている、ドラムの高校生の子が受験なので、小論文や面接の話題を振ってくる。レッスン時間の半分以上は、時事問題解説や、小論文等の技法についての話。音楽レッスンというより、進路相談の観を呈しているが、まあそれでもいいのである。私が知っていることでよければ、幾らでも教えますよ。

チャーリー・パーカー / パーフェクト・コンプリート・コレクション

パーフェクト・コンプリート・コレクション

パーフェクト・コンプリート・コレクション

映画の中に閉じ込められる夢

武の映画に閉じ込められる夢を以前観たが、その続きのようである。
武の映画で、観客にリアリティを感じさせる特殊な効果技法が発案され、それがゲームにも応用されている。
映画館の裏の怪談を登っていくと、縊死した武の死体がある。だが、これは映画の一部であり、映画の新作の始まりなのだ。
奇妙な一団が現われ、映画の一部だという感を強くする。
場面は大学の部室の前になり、どこもかしかもラジオが警報を鳴らし、みんな窓に出てきてラジオを聞けという。だが私は、映画に過ぎないのだと笑っている。
大学まで警備員制服の父親が迎えに来て、警備会社から無線連絡が入ったから心配になって来たのだという。私は、どうせ映画なのに、と思う。
説明を聞くと、原爆を作る技術が流出し誰でも作れるようになったのだという。それで電力会社?は全て閉鎖している。
また場面が切り替わり、お年寄りがタクシーに乗ろうとしているが、エネルギーが高騰し超インフレになっているので、初乗りが一万幾らである。お年寄りはテレホンカードのようなもの?を提示しタクシーの運転手がそれを差し込むと七万幾らと出て、では乗っていいでしょうということになる。お年寄りはタクシーに乗り込むが少し走ったところでもう、止まってしまう。お年寄りは何十枚もカードを差し出す。
不審な中年男がおり、歌詞?詩集?を売っている。女性は(ここでは私の意識はこの女性に宿っている)それを買おうとするが、同行した人がああいうものを買うのは不審がられるからやめたほうがいいと言う。しかし女性は男から歌詞を買う。すると、男はマイクロチップのようなものを女性に託し、「これがないとわれわれの原爆は爆発しない。このチップを…博士と誰々に渡して欲しい」と囁く。同行者は聞き耳をそばだてて会話内容を聞こうとする。女性は組織の名前を尋ねる。男は「アルジャジーラは真実を伝えるNPO」と答える。
ここで目が醒める。

ミッツ・マングローブと同い年

最近TVでよく見掛ける女装ゲイ、徳光家の最終兵器、徳光和夫の甥、ミッツ・マングローブは私と同い年、35歳である。
彼をTVで観るたびに、自分はセクマイとしては失敗したなーと思う。つまり彼は成功しているという意味ですが。
同性と恋愛関係、性関係を構築することができなかった。人間関係形成の無力。貧乏。酒飲めない。等々。

TV出て高額報酬貰いたいな〜。だけど何もすることないしな(笑)。いや、笑い事じゃないけど。TV出られるほどの芸は何もない。

ミッツ・マングローブ話続き

ミッツ・マングローブは結構なお坊ちゃんなんだよね。慶應出た上イギリス留学して音楽とかやってる。
で、23歳で自宅で男とセックスしてる現場を母親に目撃されて親バレする。
彼みたいなあり方って幸せなんだろうかなーとかふと考える。私も水商売の夜の世界で生きるのが夢だったが対人コミュニケーション能力著しく低く無理っぽ。ゲイバーとか働きたかったが…。無理だってーの。

今田勝 / インタープレイ・ナウ

インタープレイ・ナウ(紙ジャケット仕様)

インタープレイ・ナウ(紙ジャケット仕様)

フジテレビを見ての感想

もう寝ようと思って2階に上がったが、まだ10時前、早かった。私は、10時から教育TVでサンデルの哲学討論番組が見たいと希望したのだが、父親に退けられて、フジTVのニュースバラエティを見た。
例によって、中国漁船の船長解放問題をやっていた。そして、木村太郎キャスターが、「中国にとって一番嫌なこと、つまり憲法9条改正をやればいい」と主張していた。
私は、憲法9条改憲に反対である。戦争の放棄という理念を、いまだ手放すべきではないと思うからだ。だが、今回の中国問題のような場合、どうするのか。
以前から、グローバリゼーションに伴って近代的な主権国家は意味がなくなってくる、という議論がよくあったが、現在、まさに領土という古典的なテーマにおいて、主権国家が強力に回帰してきている。そのような状況にどう対応するのがいいのか。
尖閣諸島が日本固有の領土だという主張を認めるとして、それから先をどうするのか。
尖閣諸島が日本の主権の及ぶ領土なのだとしたら、その範囲内での違法行為に関し、根拠が曖昧なまま中国人船長を釈放した行為は、日本が中国の様々な(政治的、経済的等々)圧力に屈したと解されても仕方がない。実際、海外メディアはそのように報じているようである。
しかし、日本は尖閣諸島を自己の固有の領土とし、中国は魚釣島を自国の領土と主張して譲らないのであれば、衝突は不可避に思える。
木村キャスターの言うように、憲法9条があるせいで甘く見られたとは言えないと思う。中国の圧力は、今回、政治・経済・文化等多方面に渉っている。中国国民(中国以外に在住する中国人も含めて)の愛国心ナショナリズム教育も強力な模様である。政治・経済・文化の交流を断たれて苦しんでいるのは、日本のほうであるようにみえる。菅総理戦略的互恵関係と繰り返すが、「互恵」関係があるとは思えない。発展しつつある中国のマネーが日本の資本主義経済に不可欠になっているようにみえる。
つまり、状況を総合的に見ると、日本には理があるがそれでも不利であるようにみえる。中国は日本を拒めるが、日本に中国を拒むことができぬとしたら、互恵関係、対等な関係でなく従属関係であろう。中国の強硬姿勢はアジアにおける覇権を狙っているとも思われ、日本が従属的な立場に当然あるべきものと(中国側に)考えられている可能性は極めて大きい。
この状況を改善する方法があるのかどうか、私には分からないが、国際的な上位の調停機関のようなものは存在しないのだろうか。日本の主張と中国の主張を公平に判定し、裁定するような中立的な機関はないのだろうか。もしそのような機関がないとしたら、日中両国の剥き出しの力関係になってしまい、大変まずいように思う。

もう1つフジTVのバラエティーで不快になったのは、日本資本主義の勝者の法則なるものを特集していたことだ。そこで取り上げられていたのは、牛丼のすき家、宝島社の雑誌『Sweet』などだが、私はそれら企業の提供する商品(モノ・サービス)がいいとは全然思わなかった。むしろ巨大な無駄だと思える。つまり、私は、反資本主義までいかないとしても、非資本主義的だということだ。
私自身や、私の関係するもの、例えば芸音音楽アカデミーCafe LETSは現在の日本資本主義における敗者であることは間違いない。しかし、敗者には敗者の言い分、意見がある。ニーチェが病者の光学と言ったように、敗者の光学があるのである。
その視点からすれば、ブックオフTSUTAYAなどの台頭と書店、古書店、CD屋などの不振、廃業などは密接に関わっていると思える。人々の多様な欲望を見事に捕捉するグローバル企業は必ず競争に勝利し、動きののろい(スローな)中小自営は必ず敗北する。
それは商売のみならず、文化形態も変えずにはいない。先日、大西順子と日野皓正のUstreamを見たが、音楽業界不況は音楽のありようも変えつつある。例えば、CDは無償、無料で配布してライヴに来てもらいそこで金を落としてもらうなどだ。だが、不況でライヴハウスも潰れている。大西と日野の対談でも、解決策はミュージシャン自身にも見出せず、だからこそUstreamなどを試みているとのことだった。
同様のことが文学の世界にも言える。吉本隆明が、文学と音楽の世界が真っ先に「超資本主義的」になると語っていたのは、(それ自体は間違っていたとしても)資本主義としてのあり方が変容しつつあるという意味では正しい。
簡単にいうと、ものすごく売れる一部商品と、その他の膨大な「売れ残りの商品」(岡崎乾二郎)とに二極化するということで、これが「プロ」としての音楽家なり哲学者なり作家なりの存立を困難にしている。他方、アマチュア、ヴォランティアとしては、誰でもが、文字通り意志するだけで哲学者、作家、芸術家であり、発表媒体もインターネットを通じて無数にある。
通俗的にいえば、インターネット関連で金を取るのは困難ということなのだが(ニコニコ動画は数少ない成功モデルである)、無償、無料で公開するというつもりならできることが無数にある。それが今の状況である。今書いているこのmixiの文章もそうだ。アマチュア、草の根的生産の生産物(無償)である。
冒頭の勝者、敗者ということでいうなら、敗者でありながら無限に生き延びられるゾンビ的な?道があるということだ。それがクリエーターにとって幸運なことか不運なことかは知らない。しかし、私どもが、商売として成り立たない生産活動を地下で?続けているというのは端的に事実である。私が興味があるのは、勝者の法則ではなく、敗者のゾンビ的サヴァイヴァルの道のほうだ。そう言えばすっきりするように思う。

長くなったので、一旦ここで送る。

補足的考察

先程の記事を補足すれば、私も、大勢としては(つまり長い目でみれば)近代的な主権国家国民国家は衰退していくだろうと思う。しかし現状は過渡期であり、まだ露骨に近代的な「主権」原理が幅を利かす場面も出てくる、ということだ。

もう一つ、資本主義について。親資本主義、反資本主義、非資本主義という態度について述べようと思う。
社会主義共産主義圏の大半が崩壊した現在、グローバルに世界を覆っているのは世界市場という信仰、世界化された資本主義というありようだと思える。
そこで改めて、資本主義の展開を積極的に肯定し、それに寄り添う立場と、資本主義を「破壊」したり転覆したりしようとする立場と、資本主義から「脱出」しオルタナティブを求める立場があり得ると思う。それをそれぞれ、親資本主義、反資本主義、非資本主義と呼んでみる。私の立場は明確に、非資本主義である。つまり、破壊、転覆、闘争などは好まないが、資本主義の押し付けてくる画一的な集団的主観性(例えば、宝島社の『Sweets』がいい例だろう)も好まない。
私は主に、ジャズを好んでいるのだが、ジャズについて考察してみようと思う。
ジャズは商業音楽である。つまり、資本主義的である。しかし、同時に、セールスが全てではない。
セールスが全てではないが、しかし他方、存続もしていかねばならぬ。ここに全てのジャズミュージシャンやジャズ関係者(ジャズ喫茶の経営者やジャズ雑誌の編集者など)の悩みがある。
例えば大西順子が、渋谷のBunkamuraオーチャードホールで9月30日にライヴをやるのだが、その広告をうちの母親が朝日新聞の朝刊で見て驚いていた。なんとソニー・ロリンズの来日公演(7000円)より高かったというのである(9500円)。勿論、私ども貧民は参れない。行きたくとも行けない。
そのことは残念だが、他方、ペイするためには仕方なかったのだろうな、とも思うのである。
他方、荻窪ヴェルヴェットサンを拠点とするスガダイローのように、自身のライヴを積極的にUstreamで配信しているミュージシャンもいる。それも、結局は、販売促進になる。スガダイローは、来月、『渋さ知らズを弾く』というCDを発売する。(言い忘れたが、大西順子オーチャードホールでのライヴも、新作CD『バロック』の発売記念公演である。)
CDとライヴ、ライヴとCDとUstreamなどが複雑に関係して、現在のジャズ情勢は成り立っている。
ジャズ批評にしても、有料のジャズ雑誌はあるが(『スイングジャーナル』が休刊したとしても)、無償のウェブで公開されている媒体としてcom-postや「快楽ジャズ通信」などがある。
何をぐだぐだ言っているかというと、私の関わっているジャズという音楽も、資本主義との関係で極めて苦境に立たされ、変容し、複雑な情勢になってきているということである。
それは今に始まった話ではなく、少なくともビートルズ、いや、エルヴィス・プレスリーにまで遡らねばならぬ。つまり、ロックという大衆に滅茶苦茶「売れる」音楽の誕生、それとの関係で自らを考えねばならぬということで、それを一番徹底したのが、かのマイルス・デイヴィスであった。
ロックに対するジャズ側の反応は、当初、嘲笑であった。ディジー・ガレスピーに「スクール・デイズ」という曲があるが、これは、ロックの音楽的な単純さを揶揄し諷刺したものである。しかし、歴史は、ディジーではなく、マイルス・デイヴィスの正しさを証明した。
フリージャズとは違って、マイルスは、ジャズは売れねばならぬと考えていた。彼は、何故自分よりマイケル・ジャクソンが売れるのか、などと真剣に自問する人間であった。
例えば、M.J.Q.ジョン・ルイスなどは、メンバーのミルト・ジャクソンなどが漏らした経済的な不満に対し、ポップスターは芸能人だがわれわれジャズメンは芸術家なのだから仕方がない、と応答していた。しかし、マイルスはそのように考える男ではなかった。彼は、ロックやポップスが自分の音楽より売れるとしたら、自分の音楽にない何かがそこにあるからだと考えた男であった。かくして、マイルスは自己の音楽を更新し続けた。
そのマイルスの描いた軌跡も「歴史」になった。私どもはそれ「以後」(ポスト〜)の歴史的境位を生きている。今偶然、ウィントン・マルサリスの『ブラック・コーズ』を聴いているが、ウィントンも「マイルス以後」を真剣に考えた男であった。そして彼の出した答えは「ジャズの伝統への回帰」であった。しかし、それは、ジャズが半ばクラシックのようなもの(伝統芸能)になるということでもある。商業音楽としてのジャズというテーゼを考える時、複雑な状況が現出する由縁である。

バロック

バロック

渋さ知らズを弾く

渋さ知らズを弾く

ブラック・コーズ

ブラック・コーズ