攝津正

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2011-08-28 生きる

[]夏目漱石『心 先生遺書』を読み始める。 09:35

白木秀雄の『ファンキー!登場!』を聴いている。

坂口安吾の『吹雪物語』が読めずに落ち込んでいたのだが、夏目漱石の『心 先生遺書』を読み始め、これが滅法面白いので興奮している。勿論『心』は高校の国語教科書などにも出てくるし、何度も読んだことがあり、筋書き・内容もほぼ把握しているのだが、それでも再読すると面白い

若き日の橋本治が、『蓮と刀』で、『心』を同性愛という視点から読んだが、私の見るところ、同性愛という概念を余程拡張解釈するのでないなら、その読解には無理がある。そうではなくて、『心』は人間人間の関係性が凝縮された物語なのである

太宰治が、夏目漱石通俗的と非難したが、「通俗的」かどうかはともかく、『心』は非常に面白い。冒頭、語り手の「私」と「先生」は鎌倉海水浴場出会うわけだが、その辺りの描写もかなり読み手を引き込む魅力に溢れている。東京に帰って、「私」が「先生」宅を訪問するようになっての二人の問答も面白い

先生」と奥さん(静)の間には子供ができない。そのことを「先生」は「天罰」と捉えている。「先生」にとって不妊は、科学医学の問題ではなく、倫理、罪責の問題なのである。現代人である我々が、それはおかしいと言っても、さしたる意味はあるまい。「先生」は罪責の念のもとに生きている人なのである

話は変わるが、今「天罰」と言って連想するのは、石原慎太郎だろう。だが、彼は悪い意味で「文学的」である。新・堕落論などといっても、坂口安吾と共通性はない。明治の「先生」に科学医学を持ち出すのが時代錯誤なように、現代の我々に「天罰」を語る石原時代錯誤であり場違いである

三四郎』の広田先生や『心』の「先生」の延長線上に、島田雅彦は『彼岸先生』を書いた。漱石的人物と共に島田流の悪意や毒気や捻りが加えられている。そういうふうに、漱石的人物は現代にも生きている。

それと同時に、現代の新しい批評家大杉重男など)は夏目漱石批判を書いている。『アンチ漱石』などである。ただ、これも、漱石が圧倒的に人口に膾炙している現状があって初めて成り立つ批判だと思う。その意味で、まずは漱石を読むところから始めねばならない。

ファンキー!登場+6

ファンキー!登場+6

[]ナンバー2を殺害=アルカイダに大打撃―米メディア 10:04

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110828-00000009-jij-int

アメリカ軍アルカイダのナンバー2を殺害したというニュースが流れている。ビンラディン殺害の時も思ったが、アルカイダのやっていることが良いとは思わないが、「犯罪者逮捕して法の下で裁く」という建前が音を立てて崩れていると感じる。いきなり軍が殺害、ですよ。もともとアメリカイスラエルと親近性があるが、やってることはイスラエル並みですよ。昔からだという声がありそうだが。

[]書くという営み 12:40

宮地香奈さんから代々木公園文芸部ヨヨミ』第二号を送っていただいた。感謝する次第である自分同人誌攝津正』を刊行して彼女に送りたいが、書けぬ。

書くという営みを持続するのは、楽しいことでもあり大変なことでもある。書き続ければ技術も向上するのだろうか。出版界や文壇を見るに、今後文芸商業的に成り立つ見込みは余りないと思われるので、対価を求めず書きたいから書くということになるのだろうか。

昨日Ustreamで喋ったが、芸術家や芸能者は障害者である、或いは逆に、障害者芸術家である、と言わざるを得ない状況になるのではないか自分の作品を一般大衆に売って生活する労働者としての芸術家概念破綻し、障害年金生活保護ベーシック・インカム等で扶助されながら作品生活を続ける芸術家、ということにならざるを得ないのではないか。良かれ悪しかれ。

この高度資本主義社会で、芸術や芸能、哲学等にしか能がないというのはそれ自体、もう社会的な「障害」と言っても良い。それくらいに思っている。つまりコミュニケーション障害であり発達障害である。そして、それでいい、とも思う。

[]ウルフの子さんに噛み付く山村工務店 12:45

マイミクウルフの子さんに山村工務店というアカウントが噛み付いている。のみならず仲介に入った私を、「イエスマン」「ウルフの子の喜び組」と罵倒する始末である。この人は、左翼界隈で私と面識があるかのようなことを仄めかしているが、知らないし、仮に面識があったとしても彼のヘイトスピーチはひどすぎる。学歴差別もひどいし、相手をいきなり「北朝鮮」と決め付けるのも傲慢不遜だ。

私はウルフの子さんに、山村工務店というアカウントmixi運営事務局に通報するように助言した。当然のことだと思う。

[]ざらすとろさんや千坂恭二@ガイストさんの思想表現への応答の試み 12:58

ざらすとろさんのことは右翼だと思っていたが、本人の弁によれば左翼とのことである。だが彼の主張は、民族派右翼というように、「民族派左翼とでも言うべきものである。彼は、6.11デモヘイトスピーチに反対する会と揉めた一方の当事者である。園良太さんとも対話したようだ。彼が第二次世界大戦太平洋戦争歴史認識についてtweetしていたので、応答しようかと思った。

あの戦争において、日本が一方的に悪い「だけ」であるというのは事実誤認であろう。現実としては欺瞞だったとしても、大東亜共栄圏という理念虚妄だったとしても)を掲げていたわけだから、ざらすとろさんの言うように亜細亜主義吟味すべきだし、千坂恭二@ガイストさんの言うように「極右」「反動」を吟味することも必要だろう。

前もって言っておけば、私は凡庸な左翼リベラルだし、護憲派から、目が醒めるような斬新な認識など出てきようもないのだが、次のように思う。

1945年以前の日本が悪いとすれば、それは帝国主義列強を模倣し彼らに伍そうとしたことであろうと考えている。そして帝国主義戦前スタンダードであった。大日本帝国スタンダード、標準、普通を目指したが故に誤っていたと思うのである明治維新以来。

しかし、そのように語れば、当然、欧米列強に伍そうとしていなければ、他のアジア諸国のように欧米帝国主義列強植民地になってしまっていたはずではないか? という反論が来るのは間違いない。そして、「日本植民地になるべきだった」とは言えないから、ここで議論はアポリアに陥る。

第一次世界大戦にせよ第二次世界大戦にせよ、善悪正義ナイーヴに持ち出して裁断することはできないはずだ。そこには大きな背景として帝国主義とその行き詰まりという問題圏があったはずで、日独伊の「ファシズム」もこの帝国主義の行き詰まりへの応答の試みとしてあったはずなのである

その歴史を再び吟味する必要を感じる。

[]Sonny Stitt, It's Magic 14:40

イッツ・マジック

イッツ・マジック

[]日記 14:51

昨晩就寝が遅かったので、今朝は午前九時頃目覚めた。一階に降りてインターネットをやっていたが、老母と一緒に、改装セールで安売りのウエルシア薬局咲が丘店に行って、半額や二十五パーセントオフの商品を買い漁ってきた。それからマルエツ二和向台店に行って、老父の飲む冷酒と綿棒を買ってきた。帰宅して、二階で軽い朝食を済ませ、一階に再び降りて『ファンキー!登場!』を聴き、それから津軽三味線稽古を一時間程。それを終え、ソニー・スティットの『イッツ・マジック』を掛けながらmixi日記更新している。今ココ。

それにしても昨晩のジャズトゥナイトは非常に充実していた。V.S.O.P. Quintetも良かったが、共に八十歳になるソニー・ロリンズオーネット・コールマンの初共演の音源(!)が流され、ジャズファンとしては感涙にむせんだ。これは非常に感動的である

[]Lester Young, How High The Moon 18:03

T/O.

[]立ち位置の話 18:18

自分では左翼、共産主義者だと思っているが、自分ルーツNAM New Associationist Movement(2000-2003年)にあると思っているので、左翼、共産主義者の主流派とは異なるということになる。

NAMの特徴は、暴力革命を一切否定したことで、私はその立場を離れたことが一度もない。また、機動戦(街頭に出ての実力闘争)よりも陣地戦を重視するのも一貫している。

自分は今でもNAMであり、左翼、共産主義者であると言いたいところだが、そのへんは微妙である

大まかに言って、政治立ち位置というのは、左翼 / リベラル / 保守 / 右翼とあると思うが、左翼からリベラルに近付いてきたのであるNAM社会民主主義を否定していたが、自分社会民主主義に近付いた。

デモに出掛けることもなくなった。

凡庸なことしか語らなくなった。

自分で思うのは、「どうして自分の話はこんなにつまらないのだろう?」ということだ。享楽というか、エンターテイメント性がない。左翼にも右翼にも享楽がある。しかし、リベラル保守にはそれがない。現実主義者には享楽がないのである禁欲であると言ってもいい。或る日一挙に体制を転覆できるなどと夢想したりしないのが現実主義者である。己のしがない現実に執着するのが現実主義者である。それは日和見主義ということではないのか? 或いはそうかもしれない。

左翼であれ右翼であれ、革命的言説は人を興奮させる。だが、「革命」を断念し禁欲している者は、退屈で常識的で穏健な話をするしかない。それはそれでやむを得ないところだろうと思っている。

[]立ち位置の話。続き。 18:33

政治的に穏健になったように性的にもそうなった。クイア・ラディカルを標榜せず「自然主義者」になった。自然主義者というのは、厳密な定義は考えていないが、いかなる生/性のありようをも「自然」なものとして肯定する、という立場である

同性愛の欲望を持ったならそれはそれでよく、異性を好きになってもそれはそれで自分を受け入れる。ただそれだけである。自らの自然本性 natureに忠実であり、自らの自然に沿って無理なく変化していこうという立場である

知的概念が先行して、性の可変性を狭めてしまうことがないように、自由自在であろうとする。それを理念とする。そういう感じである

[]Art Tatum, The Art Of Tatum 23:28

ジ・アート・オブ・テイタム

ジ・アート・オブ・テイタム

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