攝津正

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2012-02-13 SAD, APD

[]警察きたる 00:05

警察官多数がずっと来ていたので、Ustreamもできなかった。別にそれは構わない。しかし、私は単に腹立たしいし情けない。これは私個人が自分の思想信条とか政治的意見として警察が好きかどうか、などということではない。恥ずかしいしとにかく情けなくひたすら悲しい。

私が1Fでの調べものを終えて20:00頃2Fに上がると、既に母親は完全に酔っ払っていた。僅か焼酎一杯しか飲んでいないのに、もう完全にどうにもならず駄目で、そこからはひたすら独演会である。ずっと喋り通し、喚き通しである。話を聞くと本当にしょうもない些細なことだ。夕食を作ったのに父親の態度が悪いというのだ。それで泣き喚いて父親を罵り続け、堪えかねた父親がちょっと手を出した。手を出したといっても、私は見ていたが、殴ったわけでもなく軽くはたいた程度である。すると母親は警察に通報するといって電話に手を掛けた。が、父親と私が止めた。

しかし、110番してしまっていて逆探知されたのか、それとも余りに大声で喧嘩が続いているので不審に思った隣人が通報したのかは分からないが、警察のほうから、どうしましたか、と電話が掛かってきた。私が電話に出て事情を説明すると、警察は警察官を向かわせますと。で、警察官数名が来た。最初は男女二人組だったが、警察官の数が増え、一番多いときで4人か5人くらいいたと記憶する。そのうち何人かは、別の事件だかトラブルの通報があって帰っていき、最後まで残っていたのは確か3人だった。

警察官が来ても母親の独演会は止まらない。警察の人が、私達の話を聞いてください、と遮ろうと、私が人の話を聞きなさいと制止しても、全く言うことを聞かず一方的に自分の話、自分の主張だけを延々3時間以上喋り続けた。

私が考えるのは、警察は権力だとかなんだとかいう建前ではなく、警察の仕事は犯罪捜査なのに、それを理解しない母親が延々と自分の苦労話、愚痴、被害妄想(父親に殺されるなど)、人生相談(金がないとか)等を一方的に喋り続けて止まらないというのは単に恥ずかしいということだ。我々家族も困るが、警察もひたすら困惑していた。若い警官が、母親に見えないよう、知られないように、私に「酒乱?」とメモを見せてきたので、私は頷いた。

Kさんという比較的年配の警察官と話し合ったのだが、ほんの少量の酒で感情の抑制ができないなら精神的な治療が必要ではないかと言われた。精神科とか、保健所で必ず相談するようにと言われた。そうすると応答したが、私は情けなかった。家族に精神病とか死にたくて堪らないというような人は私一人で十分過ぎると思うのに、父親も母親も、老人性うつ病だか酒乱だか知らないが、早く死にたいとか今日死ぬとか強情に言い張って警察官を困らせている。これは一体なんなんだ。繰り返すが、私が個人的に警察が好きか嫌いかというような問題ではない。しょうもない家族の話で警察を呼び、何時間も一方的に人生相談、愚痴をまくし立てて止まらないとは、一体警察を何だと思っているのか。警察は犯罪や事件の捜査が主要な仕事であり、酒飲みの老人のお守りが仕事ではない。私は恥ずかしいし、情けないし、腹が立つ。

今も、ようやく母親を寝かしつけたと思ったら、2Fの父親から母親が外に出て行ったから様子を見てくれと言われて追い掛けていったら、母親が、菓子の包みを持って、交番までお礼に行くなどというから、あなたは一体、自分がどれだけ迷惑なことをしたのか分かっているのか、警察を何だと思っているんだ、と厳しく叱責して家へと追い返したところだ。繰り返すが、私は本当に、ただひたすら情けない。どこまで馬鹿なことをやれば気が済むのか。

[]2012年2月12日(日)のFacebook「近況アップデート」纏め 00:39

2012年2月12日(日)のFacebook書き込みの纏めです。】

おはようございます。朝日新聞朝刊を調べたら、書評とか広告で、読みたい本が沢山、ありました。備忘のため書いておきます。アンリベルクソン『精神のエネルギー』(原章二訳、平凡社ライブラリー)、西郷信綱『古代人と夢』(西郷信綱著作集、記紀研究・古代研究II、平凡社、但し9450円は超高い!)、ハンス・ケルゼン著作集全7巻(慈学社)、『ハンス・ケルゼン自伝』(長尾龍一訳、慈学選書)、『古井由吉自撰作品』全8巻(河出書房新社)、ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(青木創訳、早川書房)、星川一星 aka いしだ壱成『No 原発, One Love!』(青志社)、トニー・ジャット『失われた20世紀』(河野真太郎ほか訳、NTT出版)、雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版)、砂田利一、長岡亮介野家啓一数学者の哲学+哲学者の数学 歴史を通じ現代を生きる思索』(東京図書)、有島武郎研究会編『有島武郎事典』(...勉誠出版)、黒古一夫編『ヒロシマナガサキからフクシマへ』(勉誠出版)、樋口映美編『流動する〈黒人〉コミュニティ アメリカ史を問う』(彩流社)、柿田秀樹『倫理のパフォーマンス イソクラテス哲学と民主主義批判』(彩流社)、『【復刻版】唯研ニュース 1933-1938年』全1巻(不二出版)、山田恭暉『福島原発行動隊 今、この国に必要なこと』(批評社)、松本雅彦・浅野弘毅編『死の臨床 高齢精神障害者の生と死』(批評社)、浅野弘毅・阿保順子編『高齢者の妄想 老いの孤独の一側面』(批評社)、芹沢俊介高岡健著『「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件』(批評社)、大澤真幸編著『3.11後の思想家25』(左右社)、石井淳蔵マーケティング思考の可能性』(岩波書店)、マイケル・ビッツ『ニューヨーク高校生マンガを描く 彼らの人生はどう変わったか』(沼田知加訳、岩波書店)、大谷幸生『都市空間のデザイン 歴史のなかの建築と都市』(岩波書店)、フェン・チャー、スザンヌ・ゲルラク編『デリダ 政治的なものの時代へ』(藤本一勇、澤里岳史編訳、岩波書店)、川出良枝、山岡龍一『西洋政治思想史 視座と論点』(岩波書店)、ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』(森村進、鳥澤円訳、岩波書店)、チョムスキー『言語基礎論集』(福井直樹編訳、岩波書店)、新装増補山川菊栄評論篇全8巻・別巻1 第8回第8巻『抵抗のかたち』(鈴木裕子編、岩波書店)、イスラーム哲学とキリスト教中世全3冊・第2回第3冊『神秘哲学』(竹下政孝、山内志朗編、岩波書店)、イスラーム原典叢書全12冊・第4回・第4巻『預言者ムハンマド伝 4』(イブン・イスハーク著、イブン・ヒシャーム編註、後藤明、医王秀行、高田康一、高野太輔訳、岩波書店)、花森安治『一戔五厘の旗』(暮しの手帖社)、花森安治花森安治戯文集』全3巻(LLPブックエンド)、『文芸別冊・花森安治 美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社)、以上。朝刊だけでこれだけ豊富に情報があるなら、新聞購読する意味はあるかな

今日はこれから芸音音楽アカデミーのレッスンです。正午頃まで。

休憩です。自分が良い教師か悪い教師かというのは、自分では分かりません。無愛想な先生なのは確かです。私はピアノを弾くだけで余計なことは言いませんから。但し、傲慢かもしれませんが、自分の音楽、演奏にはそれなりに自信があります。念のためにいえば、YouTubeにアップしているような演奏ではないですよ。譜面があるスタンダード、10歳からずっと弾き続けてきた曲の数々です。14歳の頃とは違って、速弾きが良い音楽の条件だとは思いません。その意味では、歳を取って自分は変わりました。14歳、中学生の頃は、クラシックならホロヴィッツジャズならパウエルを聴いて、そういう演奏に接するのは生まれて初めてなので、吃驚仰天したわけですね。だから、当時、自分の音楽を全否定した。しかし、37歳の私はそうではない。パウエルパウエル、自分は自分、と考えます。非常に淡々としたものです。別に有名にならずとも、「プロ」になれずとも別に構わない。自分は自分の音楽を演奏するだけでいい、そう思っています。

大学生君がドラムを叩いて私はピアノを弾くのですが、少し大袈裟にいえば、毎回、これが最後の演奏かも、と思いながら演奏しています。生徒は芸音をやめるかもしれない。それは彼の自由、権利だし、私はむしろ彼のことを思って、芸音などやめて東京でやっていくほうがいいよ、と言っている。それに、私のほうに、体調が悪化するとかなにかあるかもしれない。ただ、経験からいうのですが、「これを最後に」と思って演奏しても特に意味がない、というか、聴き手にはなにも伝わらないものです。大学に入ったばかりの頃、神奈川の従妹を訪ねたことがありました。私は、会話もせずに、ただひたすらピアノを弾いていた。ベートーヴェンピアノソナタを弾いたと記憶しています。「これを最後に」とかいっても、なにしろまだ大学生だから、別に自分が死ぬだろうと予感したわけではない。ただ、もう二度と会うことはないだろう、と考えたのです。実際、従兄とも従妹ともその後、二度と会っていません。風の噂でもう二人ともとうに結婚したと聞いています。従妹が働いているかどうか知りませんが、従兄は美容師を開業しているそうです。私は懸命にピアノを弾いたけれども、それで親戚に自分の気持ちが伝わったとも特に思いません。

アカーにいた頃、東大の学生となにかの用事で東大を訪ねたのですが、或る教室にピアノが置いてあった。私はそのときも、「これを最後に」と思って演奏したのですが(セロニアス・モンクを弾いたと記憶します)、だからといって、その東大生になにかが伝達できたとは思わない。気持ちを伝達することができないというのは、致し方がないことだと私は考えます。

レッスン終わりました。従兄、従妹と二度と会えないと考えたならなぜ、ピアノを弾くよりも話をしなかったのか、と不思議に思われるかもしれませんが、私は当時既に、人間の言葉を喋りたくなかったのです。言葉、特に会話を通じて誰かになにかが伝わるとは全く考えていなかった。勿論だからといって、音楽でならばなにかが伝わるのかというと、それは別問題です。実際、従兄、従妹にも、東大生にも、なにも伝わらなかった。しかし私は、それは致し方がないと思う、ということです。

10代からずっとそのように考え、信じてきた自分は暗いと思いますが、しかしそれもまた、致し方がない。

(中略)

しかし、現実問題として、ただこれだけのちっぽけなことを確認するのに丸一日掛かるようでは、哲学などできませんね。非常に疲弊しています。書庫から哲学書を300-400冊出してきて猛烈に読み出したので、父親が、遂に私がなにか凄いことをやり始めたのかと一瞬、期待したけれども、全くそうではないと分かって落胆したようですが、期待に添えなくてとても申し訳がない、済まないというふうに感じます。

[]朝の思索 10:05

皆様おはようございます。御元気でしょうか。私はといえば、朝から書庫漁りに没頭していました。肝腎の本ならないんですけれど。私は、ホワイトヘッドについて日本語で書かれたもので、市井三郎の『ホワイトヘッドの哲学』(第三文明社・レグルス文庫、1980年)が一番明晰で優れていると思っているんです。ホワイトヘッド関連書は多くありますよ。しかし、私が読む限り、まず、ホワイトヘッドの著作集の邦訳者の多数がそうですが、ホワイトヘッド西田幾多郎とか仏教思想と関連づけようというタイプが非常に多い。私にはよく分かりませんが、確かに『過程と実在』の結論部分が彼なりの神の概念を積極的に語っているのは事実なので(ちなみに、以前、『数学原理(プリンキピア・マティマティカ)』をホワイトヘッドと共に書いたラッセルは、そういうふうに「形而上学」になってしまった晩年のホワイトヘッドが嫌いだったそうです)、京都学派や宗教と結びつけようという発想をする人が多いのは分かります。プロセス学会というのもあったと思うけれど、やはり神というか宗教的な話だったと記憶します。市井さんのホワイトヘッド解説書は一切そういうことがないんです。世俗的、合理的、平明です。ホワイトヘッド自身がそうだったのかということは別にして、私は市井さんのような書き方、考え方に好感を持ちます。

市井三郎(ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E

市井三郎サイト:市井自主ゼミのホームページ

http://www.ichiisaburo.com/

プリンキピア・マティマティカ(ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB

それからドゥルーズ統合失調症患者に興味がなかったと以前書きましたが、確かめてみたら、正確にはラボルド精神病院に興味関心がなかったということでした。引用してみましょう。

フェリックス・ガタリ、粉川哲夫、杉村昌昭『政治から記号まで 思想の発生現場から』(インパクト出版会)p.137-138

杉村 厳密さと不正確さというのは、必ずしも矛盾することではないという例が多分、ドゥルーズ=ガタリの特徴かもしれない。一見、厳密な概念でずっとやってきた哲学史家のドゥルーズにとって、自分の考えていたことをある種非常に不正確だけれども新しい言葉でガタリが言いあてるという関係。不正確さの持つ力というですか。ダニエル・ルロというラボルドで唯一の女性の精神科医がいますが、彼女は60年代、ちょうどアルジェリア戦争の後くらいに、理論物理学専攻の学生だったとき偶然ガタリに連れられてラボルドに行って、そのままラボルドで医師になったという女性なんです。彼女は理論物理学をやっていたせいもあって概念規定に非常に厳密なライプの精神科医なんです。だから彼女は、ガタリが書いていることは非常に不正確だと言うわけです。それで、彼が唱えるスキゾアナリーズ(この本の中で分裂性分析と訳しいなおしましたけど)って何なんだと、ガタリに聞いたっていうんです。そうしたら、お前が毎日ラボルドでやっていることだと答えたんだって(笑)。そういうアバウトなところが逆に言うと魅力なんだね。

ダニエル・ルロのドクター論文を読ませるためにドゥルーズラボルドに呼んできたことがあるそうです。その論文をドゥルーズは高く評価したらしいんだけれども、彼にはラボルドには一切興味を示さなかったそうです(笑)。やっぱりドゥルーズの方が現場の科学ではなくて概念の科学への志向が強いんでしょうね。(後略)

(引用終わり)

ダニエル・ルロ Danielle Roulotには、『不可能の風景──精神病の臨床』という論文集があるそうです。Danielle Roulot "Paysage de l'impossible - Clinique des psychoses" Les editions du Champs social, 1999. しかし、その邦訳はありません。我々が日本語で唯一読めるのは、「精神医学の特殊性と非-特殊性──フェリックス・ガタリに」という短いエッセイだけです(フェリックス・ガタリ、ジャン・ウリ、フランソワ・トスケル、高江洲義英、菅原道哉、ダニエル・ルロ、市川信也(写真)『精神の管理社会をどう超えるか? 制度論的精神療法の現場から』杉村昌昭、三脇康生、村澤真保呂(編訳者・解説)、松籟社、2000年4月7日 初版発行、p.281-290)。私は彼女のこのエッセイが非常に好きで、一時期愛読して本当に繰り返し、繰り返し読んでいました。基本的なトーンはとても暗い。しかし、その暗さが好きだったんですね。少しだけ引用しましょう。p.282-283の箇所。

(引用開始)

「生きるということは本当はどのように成り立っているのだろうか?」精神病患者、神経症患者、不安に苛まれる人、あるいは単に人間である人、そういった人たちが私に投げかける根本的問題はこのことにほかならない。

今朝──べつに普通の朝となんらかわりのない朝だが──、そういった人たちのなかの4人が、口をそろえて私にこういった。「私は死ぬ理由よりもたくさんの生きる理由をもっていない」。

世間では「狂人」とされている彼ら、「障害をもった大人」、「欠陥人間」とされ、病院に収容されている彼らは、少なくともそう口にすることができる。私は医者であるが、このセリフを心のなかで言い返してみる。すると、私はリラックスすることができる。少なくとも「彼ら」は、生きているための理由よりもたくさんの死ぬ理由をもっていない(まだ?)のだ……。

彼らの話を聞いていると、ならず者や暴力など、社会学者が「社会現象」と名づけているもののことが、よりよく分かるような気がする……彼らは他者の生がなんの価値ももっていない人びとなのだ。なぜそうなのかというと、彼らの生そのものが彼らの目から見てなんの価値ももっていないからだ。彼らは、彼らの行為によって、「生きるということは本当はどのように成り立っているのだろうか?」という発問をわれわれに投げかけているのだ。彼らもまた、「生きる理由」ではなくて、生が生きるに値するという気持ちそのものを失っているのである。

(引用終了)

もう一ヶ所、p.288-289を引用させてください。長くなりましたので、引用はこれが最後です。

(引用開始)

ウィニコットは、ある遺稿のなかで、ひとりの若い分裂病患者が──彼によると、この女性は自殺したのだが──彼に次のように繰り返し言っていたという話を語っている。「私があなたにお願いしたいことはひとつだけ、私が偽りの理由ではなくて本当の理由で自殺するために私に手をかしてほしいということです」……「私にはそれができなかった」、「そして彼女はついにやむをえず自殺した」と、ウィニコットは言っている。自殺するための「本当の理由」とは何か? 生きるための「本当の理由」とは何か?

さて、ならず者、暴力をふるう者、アルキの二世たち、亡命者の二世たち、この世の生きにくさを告白する勇気をまだもっている人びと、都市郊外の腕白者たち──彼らにとって失業問題はわれわれが彼らの無秩序ぶりを説明するための「理由」でしかなく、それ自体が無秩序の原因であるわけではない──、もはや話すこともできずに絶望を「行動する」だけの人びと、いったい誰が彼らのために話すことができるのだろうか?

(引用終了)

このようなことは、私がしばらく前に書いたことに関わっています。私は、倉数茂さんが『黒揚羽の夏』(ポプラ文庫ピュアフル)を書いたとき、倒錯者(快楽殺人者)の心理がよく分からず苦労したそうだが、しかし、自分には簡単に分かってしまうと言いました。倉数さんの小説のなかで犯人が、毎日生きているだけで地獄だというような感覚が分かるか、と問い掛けていましたが、私には分かるのです。しかし、その小説の主人公である子供達は、そんなもの分かるはずないじゃないか、と応答しました。そのこともよく理解できます。生存は地獄だというような感覚を持つ人を理解できない「健康な」人もいるし、というか、そのような人々が社会の多数派であるのは当然でしょう。もう一つ、私は、社会が不条理、不平等なのはしょうがないんじゃないか、とも言いました。つまり、政治的な改革が解決できる部分もあるが、どうにもならない部分も膨大にある、ということです。雨宮処凛さんのような人が『生きさせろ! 難民化する若者たち』(2007年3月、太田出版)のような本を書いて、それがヒットする、というのは分かります。ただ、私にはどうすれば「生きる」ことができるというのか、全く分からない。社会保障社会福祉が充実すればいいのでしょうか。それは勿論必要です。しかし、そのような、政治的、経済的、社会的なアプローチでは全くどうにもならないこともある。その意味で、私は個人的には雨宮さんの前著『すごい生き方』(2006年1月、サンクチュアリ出版)のほうを評価します。

雨宮処凛公式ホームページ

http://www3.tokai.or.jp/amamiya/

雨宮処凛ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E5%87%A6%E5%87%9B

雨宮処凛オフィシャルブログ

http://ameblo.jp/amamiyakarin/

雨宮処凛すごい生き方ブログ

http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/

雨宮処凛 on Twitter

https://twitter.com/#!/karin_amamiya

[]朝の思索、続き 11:06

鈴木健太郎さんがどこかで書いていたのを読んだのですが、浅田彰が、雨宮処凛は右翼から左翼に転向したんだから、またすぐ右翼に転向するだろう、という意味のことを言っているそうです。私は一般に、誰であれ、転向したり、意見や主張を変えるのは全く自由だと考えますが、それにしても、浅田彰の発言は、もし事実なら(私は浅田を全く読みません)、失礼極まりないですね。

私が思うのは、右翼から左翼に、左翼から右翼に転向したりする、それが変節であるかどうか、不誠実なのかどうか、といったことではないんです。先程も書いた通り、私の意識は、例えば雨宮さんであれば、『すごい生き方』と『生きさせろ』との間に存在する微妙だが決定的な違いに向けられます。つまり、雨宮さんは、社会運動労働運動、生存運動が「生きづらさ」に関して、素晴らしい救済だと考えるようになった。しかし、本当にそうなのだろうか、というようなことです。

私の狭い経験、知見の範囲では、社会は、「不平等」だとまでは言わないとしても、少なくとも不均質です。社会「一般」なるものがのっぺりと存在しているわけではなく、社会のなかには当然のことながら様々な場があり、どこにいるか(いたか)、によって社会経験というのは全く異なります。

雨宮さんにしても、自殺未遂イベント=「平成のええじゃないか」をやったり(『すごい生き方』p.51-52)、「自傷系サイト」のオフ会に参加したりしている(同書、p.63)。彼女が知っていた人でも、「何人かは自殺したり、自殺か事故かわからない状態で亡くなっていった」(同書、同箇所)。自殺志願者などが集まる「負」のエネルギーに満ちた場所というのが社会には無数にあります。そのような場に関わるなら、死んでいく人に多く出会うのも当然でしょう。私自身の経験でいえば、「あかね」がそうだったでしょうか。勿論、だめ連そのものと交流イヴェントスペースとしてのあかねは別です。しかし、だめ連やその本の流れであかねに来るという人が圧倒的に多かった。彼らは、自分自身は完全に「駄目」であると思い、周り(他人)からもそう思われていた人々でした。だから、だめ連やあかねに救いを求めにきたのです。しかし、残酷なようですが、どこにも救いなどありはしない。あかねの客、利用者のなかには、あかね関係で死んでいった人々の数が余りにも多過ぎてもう、誰が誰だか分からないほどだという人もいます。私が覚えているのは、当時(2003年)あかねを中心的にやっていた、究極Q太郎さんの話です。彼の記憶では、あかねの関係者で最初に死んだのは、柄谷さんのファンだったのでしょうか、「探究」と名乗っていた若者で、彼は自殺だったそうです。

それから、前も書きましたが、大学という同じ場、同じ環境であれ、決して均質ではありません。勿論大学生の大多数はなんの問題もなくそこを通過する。しかし、そうできない人もいる。私は大学では、文学研究会というサークルと芸術ウピョピョン会「狼」というサークルに入っていましたが、文学研究会のほうはなんの問題もなかったが、ウピョピョン会のほうは、精神的にダメージを蒙って抑鬱に陥り、卒業することもままならない、実家に帰ってしまう、という人が多かった。つまり、同じ大学サークルでも、文学研究会とウピョピョン会とでは場として全く均質ではなかった、ということでしょう。

[]昼の思索 13:49

300-400冊、哲学書を出してきたといっても、全部読む(読める)わけでもなく、全てを愛しているわけでもありません。私の愛、共感は極めて限られている。例えば、ドゥルーズのなかで、或いは、ありとあらゆる哲学書のなかで、または、全ての本のなかで、私が一番好きなのは、ジル・ドゥルーズクレール・パルネ『ドゥルーズの思想』(田村毅訳、大修館書店)です。原書は持っていません。文学研究会(美学芸術学研究会)の或る先輩が、私にこの本の原書を売りたいと言ってきたことがあるのですが、私のほうはお金がなかったので断りました。最近、新しい翻訳が出ましたが、図書館でざっと読んだ程度で、精読したり、自分が持っている旧訳と突き合わせて厳密に比較対照したりはしていません。そのような気力もない、といいますか。新しい翻訳は、ジル・ドゥルーズクレール・パルネ『ディアローグ ドゥルーズの思想』(江川隆男、増田靖彦訳、河出文庫)で、文庫化される前は『対話』という題名で単行本で出ていました。私が図書館で読んだのは、単行本のほうだったと思います。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0-%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%AB-%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4309463665

ちなみに翻訳をされている増田さんという方は研究室の先輩でしたが、検索してみると、非常に面白いテーマのことを現在調べているようですね。

働くことと「価値」

http://www.waseda.jp/prj-iip/th01_02.html

貨幣の探究

http://www.waseda.jp/prj-iip/th03_03.html

研究員の方々は、存じ上げている方ばかりです。

http://www.waseda.jp/prj-iip/member.html

トップページも紹介しておきましょう。「早稲田大学交域哲学研究所」です。

http://www.waseda.jp/prj-iip/index.html

増田さんは研究室の先輩だといいましたが、交流とか付き合いは一切、ありませんでした。一時Facebookで「友達」登録させていただきましたが、私が余りにも深刻な抑鬱状態に陥ったとき、「友達」を解消してしまいました。1100人以上いた「友達」の9割以上を解消しました。それほど深刻な精神状況であったということです。それは今も変わりません。

ついでに想い出話をすれば、学部の頃と違って、大学院では一切一人も友人を作らず、他者となにも関係しませんでした。当時から既に、他者と関わるのが厭で、拒絶していたのです。

ドゥルーズの本に戻れば、好きな本だといいましたが、前も書いた通り、読むことと生きることは当然、全く違います。もし仮にドゥルーズ的な倫理とか美学があるとしても、私はそれに従っているわけではない。具体的にいいましょう。但し、これから引くのは、ドゥルーズではなくパルネの文章かもしれません。それは特定できない。

p.84

(引用開始)

われわれに、距離と同一化という二つの罠を仕掛けるのは、世界そのものだと言わねばならない。世界には多くの神経症患者と狂人がおり、彼らはわれわれをも彼らの状態に引きずり落とし、彼らの毒、ヒステリー自己陶酔、陰険な伝染病に感染させない限り、われわれを手放しはしない。殺菌された科学的視点へとわれわれを招く博士やら学者、そして真の狂人、偏執狂も多勢いる。二つの罠、すなわち感染と同一化の鏡がわれわれに仕掛ける罠、合意の眼差しがわれわれに示す罠、この二つを警戒せねばならない。

(引用終了)

p.85-86

(引用開始)

あなたの哀れな共感とやらであなたは狂人を利用し、狂気を賞賛し、そして彼らを見捨てて、あなたは川岸に踏みとどまる……という反論もあろう。それは正しくない。われわれは、愛しうるようになるために、愛から、所有、同一化をすっかり抜き出そうとしているのだ。狂気からは、狂気に宿る生を引き出そうと試みる、絶えずその生を死なせ生そのものに刃向かわせている狂人を憎みながらも。アルコールからは、それに宿る生を抽出しようと試みる、酒を飲まずに。水だけで酔払うヘンリー・ミラーの名場面を想い出そう。アルコール、麻薬、狂気なしですますこと、生成変化とはこれだ、より豊かな生のための酔払い=になること。これが共感であり、組合せだ。出世することの反対、ベッドを整えること、同一化の道化でも、距離を置いた冷酷な博士でもないこと。自分でベッドを整えて寝る、誰も布団を掛けに来はしない。同一化の太ったママ、または、距離を置いた社会的な博士の手で、布団を掛けてもらうのを望む人が多すぎる。確かに、狂人、神経症患者、アルコール中毒者、麻薬中毒者、伝染病患者らは、出来る限りそれなしですませて欲しいし、われわれの共感自体も、そのようなことはわれわれの関知しないことだという点にある。各人が各々の道を歩むべきだ。だが、そうしうるようになるのは難しい。

(引用終了)

現在の私がこのようなドゥルーズの主張に同意するかというと、全く同意しません。ドゥルーズが正しくないと斥けている、「あなたの哀れな共感とやらであなたは狂人を利用し、狂気を賞賛し、そして彼らを見捨てて、あなたは川岸に踏みとどまる……という反論」のほうが妥当で、ドゥルーズは文章は非常に巧いし美しいけれども、しかしただそれだけで、詭弁だと思います。それには自分なりの経験、体験、見聞などのせいです。狂気やアルコールを斥けながら、それらに宿る生だけを引き出そうといっても、そんなことは端的に不可能であって、単なる現実に無知な哲学者の妄想でしかない。実際、ドゥルーズ自身、『意味の論理学』を書いていた頃、アルコールの問題が深刻でした。彼が酒をやめたのは、彼の思想信条とはなんの関係もなく、身体疾患、肺病が重篤になってもう飲めなくなったというだけのことです。

話を変えますと、デス見沢先生と絶縁したといいましたが、それは非常に長い間彼の掲示板を閲覧してきて、「闇のソーシャルワーカー」と名乗っているけれども実際には精神科医である彼が、自殺したいという人にどういう返答をするか、大体ほぼ予測できてしまうようになったからです。いや、以前から分かっていましたが、もう読み続ける意欲がなくなったということです。以下に紹介しますが、彼の意見というのは、「「死」を抱いて生きな。」というこの言葉に尽きています。それでもいいのですが、しかし、それでは余りにも苦しい。

それから、食事をして後で、雨宮処凛が若い頃やっていた、維新赤誠塾について書きます。

Tamalunch Factory No Future(タマランチ工房)

http://www.dango.ne.jp/nofuture/index.html

闇の医療相談室入口

http://www.dango.ne.jp/nofuture/judgement.html

Q.541(消滅願望)

http://www.dango.ne.jp/nofuture/judgement58.html#Q.541

(引用開始)

A.541 質問者は生きてるよなあ。まあ今生きてないにしても、かつて生きてたという過去の事実は変わらない。過去とか事実とは何か。それは「他者の記憶」ということ。したがって、一度でも生を受け他人と交流を持ったものが、その記録も記憶もどこにも全く残っていない、ということはありえない。他人の記憶を消す方法は全人類、いや全生命体の抹殺、痕跡を残すのすら嫌だったら地球、いや宇宙ごと破壊するしかない。その「流産をしてきた子」というのも、しっかりと質問者の記憶の中に記録されてるダロ?

全宇宙を破壊することが自分に出来ないんだったら、この生きてきた痕跡を引きずって生きるなりなんなりするしかナイ。世界が有り続けるかぎり「無」は望めない。せいぜい「死」だけだ。しかも死は望む望まないに関わらずやってくる。

ていうか、そもそもこの投稿、質問者の「痕跡」になっちまうんだがネエ。

「死」を抱いて生きな。苦しみは薬で和らぐ。(回答者:デス見沢

(引用終了)

維新赤誠塾 伊藤秀人のホームページ

http://www.k5.dion.ne.jp/~hide-cha/

[]昼の思索、続き 15:40

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社)、p.38

じじつ、何も秘密にする必要はないが、結局、フロイトは分裂症患者が好きではないのだ。かれは、オイディプス化に対するかれらの抵抗をきらっている。フロイト自身は、むしろかれらを獣のようなものとして扱おうとする傾向をもっている。フロイトはこういっている。かれらは言葉を物そのものだと思っている。かれらは無感動でナルシシストで、実在から切断されているので、かれらには転移の操作をほどこすことができない。「望ましい類似とはいえない」が、かれらは哲学者に似ている、と。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)』(宇野邦一訳、河出文庫)、p.53

なぜなら何も秘密にする必要はなく、結局フロイトは分裂病者が好きではないのだ。彼は、オイディプス化に対する彼らの抵抗をきらい、むしろ彼らを獣のように扱う傾向をもっている。フロイトはこういっている。彼らは言葉を物そのものと取り違え、無感動でナルシシストで、現実から切断されていて、転移をうけつけず、哲学者に似ている。「これは望ましくない類似である」と。

Gilles Deleuze, Felix Guattari, "L'Anti-OEdipe" Les Editions De Minuit, p.30-31

Car enfin, il ne faut rien se cacher, Freud n'aime pas les schizophrenes, il n'aime pas leur resistance a l'oedipianisation, il a plutot tendance a les traiter comme des betes : ils prennent les mots pour des choses, dit-il, ils son apathique, narcissiques, coupes du reel, incapables de transfert, ils ressemblent a des philosophes, "ressemblance indesirable".

Gilles Deleuze, Felix Guattari, "Anti- Oefipus: Capitalism and Schizophrenia", translated from the French by Robert Hurley, Mark Seem and Helen R. Lane, Preface by Michel Foucault, University of Minnesota Press, Minneapolis, p.23

For we must not delude ourselves: Freud doesn't like schizophrenics. He doesn't like their resistance to being oedipalized, and tends to treat them more or less as animals. They mistake words for things, he says. They are apathetic, narcissistic, cut off from reality, incapable of achieving transference; they resemble philosophers - "an undesirable ressemblance."

(引用終わり)

以上を探すために『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』を見てみましたが、昨日の話と関連させていえば、私に評価する資格や能力があるかはともかく、『アンチ・オイディプス』よりも『千のプラトー』ほうが遥かに優れている、と思います。いや、優れているかどうか、ということではないかもしれませんが、少なくとも遥かに内容豊富で面白いということは確かでしょう。しかし、さっぱり一般受けしなかった。だから、多数の読者に受け入れられるかどうか、とか、読書界で話題沸騰するかどうか、とか、売れるかどうか、ということと、論述の内容が卓越しているかどうかは関係がないのではないか、と思います。『アンチ・オイディプス』を倫理であるとか、非ファシスト的な内容だというなら、もっと強い意味で『千のプラトー』にはそういえるでしょう。しかし一般読者に読まれず、売れないし、黙殺に近い評価だったというのは、大衆文化状況において或る著書なりがどういう反応、反響でもって迎えられるかというのは、かなりの部分、偶然の要素とか、或いは「時代の空気」などと呼ばれる曖昧なものによるのではないかと思います。実際『アンチ・オイディプス』は、68年革命を思想化した唯一の書物、などとも言われたことがあります。当時の急進的な政治的雰囲気が、『アンチ・オイディプス』の激しいフロイト批判とマッチしたということが大きいのではないでしょうか。

フロイト(とユング)の話をする前に寄り道すると、ドゥルーズ=ガタリが絶讚したこともあってか、ガブリエル・タルドの『模倣の法則』その他の主著が新しい翻訳で出たり、タルドを積極的に参照した論考が翻訳されたり日本語で書かれたり、ということがありました。そのこと自体は良いことだと思いますが、ただ、私は実際に読んだのですが、タルドの議論や思想がドゥルーズ=ガタリの褒めるほど卓越したものだとは全く思いませんでした。例えばタルドは、当時(明治期)の日本のことを模倣の達人だと絶讚しているのですが、その当の日本人であるところの我々は、日本の近代化がそんなに単純に素晴らしいといえるものではなく、様々な問題を抱えていたことを知っているはずです。タルドは勿論とうに亡くなっているのでそれを知りませんでしたが、無謀な十五年戦争など昭和前期の日本を見ていたならば、それでも日本を模倣の達人、模倣の成功例と高く評価したかは疑問です。

さて、本題に入りますが、フロイトユングの話です。

ドゥルーズ=ガタリフロイト統合失調症患者のことを嫌いだったといっていますが、このことはちょっと考えてみるべき問題です。思想的にどうのというよりも、別種の現実の条件があったからです。

フロイトユングも同じ医者であったといっても、どういう条件で臨床をやっていたのかということが全然違います。フロイトは医者といっても、個人開業医でした。他方ユングのほうは、彼のことを詳しく調べたわけではないのですが、大きな精神病院に勤務していたはずです。

そこからどのようなことがいえるのかといいますと、フロイトの場合、好きか嫌いかという以前に、重篤な統合失調症の患者、特に急性期の患者を診察したり治療できるような状況になかったということがいえます。実際、精神分析のための寝椅子しかないような診察室にいるフロイトのもとを、激しい発作を起こしている急性期の患者が訪れるなどということはあり得ないし、意味がありません。フロイトが診て症例報告を書いている患者のなかで精神病圏にあったと推測されているのは「狼男」症例だけです。だから『千のプラトー』でも「狼男」症例が分析されているわけですが、その「狼男」にしても、興奮して暴れるだとか、自傷他害の恐れがあるような患者ではありませんでした。

他方ユングは、統合失調症精神分裂病に積極的に取り組んでいました。現在の精神医学の水準からみてどう評価されるのかは知りませんが、『分裂病の心理』という初期の著作があったはずです。柄谷行人のような知識人らにおいては、ユングの評判は頗る悪い。単なる凡庸なロマン主義者、フロイトの発見を無にしてしまった、ナチ、とか散々です。私はフロイト人文書院の著作集で全部読みましたが(但し、これは非常に不正確な翻訳だったといわれているので、「読んだ」うちに入らないかもしれません。最近、岩波書店から新しい翻訳のフロイト全集が出ていますが、図書館で頼んだのに、何故か届きませんでした)、ユングはほとんど読んでいないのですが、恐らくそのような悪口にも根拠はあるのでしょう。ただ、私は、凡庸なロマン主義者だから、ナチに共感したから、思想的に全部駄目だ、というふうには考えません。

最後におまけですが、大学院を出た頃、ラカン精読掲示板で、フロイト郵便というホームページ管理人さん(カンリマンさん)と、カトリーヌ・ジャコブさんというジャン=リュックナンシーの弟子であった人と知的交流がありました。しかしその彼らとも完全に絶交してしまいました。ネットの縁というのは、貴重だとしても脆いものですね。さて、今回も維新赤誠塾の話にはなりませんでしたが、それはまた後ほど。

フロイト郵便

http://homepage3.nifty.com/freud/

[]夕方の思索 19:11

警察に忠告されたので、船橋市保健所に電話して相談してみましたが、船橋北病院という精神病院を紹介されました。自分は佐々木病院に通っているんだが、そこでは駄目なんですか、と保健所職員に訊いてみたら、どうも佐々木病院にはアルコールの問題を専門に扱う体制がないらしいんですね。だから、船橋北病院に行ってくれと。ただ、今すぐ緊急に行きなさい、という話ではありません。当面、様子を見て、母親の具合、状況が良くないようだったら通院してくださいとのことでした。なので、保健所職員に御礼を述べて電話を切りました。

両親の煙草がないというので、ウエルシアに買い物に行きました。母親は体調が良くないというので私一人で行きました。煙草の他に、マヨネーズケチャップ(いずれもトップバリューの商品)、木綿豆腐を買いました。

久しぶりに津軽三味線の稽古をしました。両親が揃っていたので、演奏を終えて自分の考えを話しましたが、その内容が余りにも暗いので、両親も驚いていたようです。

まず、私が言ったのは、昨日のことにしても自分が悪い、申し訳ない、ということです。そもそも両親が喧嘩になったのは、父親が不機嫌で荒れていたからでしょうが、それも私のせいというか、本を出してきて猛烈に書いているから、なにか有意義なことをやり始めたのかと思ったら、そうではなかった、ということで落胆、幻滅させてしまった。だから父親も厭になったのだろう。そういうふうに考えると、非常に申し訳ないと感じる、と言いました。

それと、母親にせよ、警察の人が来ても、何度も何度も繰り言のように、息子は早稲田大学に行った、大学院にも行った、だから偉い、素晴らしいんだ、と言い続けていたわけですが、そのように言われても私のほうは暗い気持ちにしかなりません。もう何十年も前のことにそれだけ執着してそのことばかり言い続けるというのは、母親にとって人生で良かったことがそれしかなかったのだ、と解釈しました。彼女にとって、自分の息子が早稲田に行ったということは誇りである。しかし、それ以外なにもない。私にせよ、大学、大学院を出た後、なにか立派なことをやったわけでも一切ない。むしろNAMのようなくだらないことしかやっていない。そして現在は、ただのひきこもりである。そうしたことに母親が絶望するのも全く当然だと感じました。だから母親にも謝罪しました。

念のためにいうと、母親と私とでは考え方が全く違います。早稲田大学に行ったことは確かに事実ですが、在学中もそれ以降も、そのことを誇りとか名誉に感じたことは一切ありません。そもそも私は、学歴などになんの興味関心もないし、もし学歴が高ければ偉いなどというならば、東大の連中はもっと偉いという話にしかならないだろうとしか思いません。

大学院にせよ、院にまで行って勉強したから名誉だという気持ちも全くありません。そもそも私は、自分の存在を社会的に葬るために大学院に入ったのだし、自分の計画の通りに研究が終わったら死ぬつもりであった、自殺するつもりであったということは以前書いた通りです。幸か不幸か、大学院を放逐されて計画通りにはならなかったので死ななかったというだけです。そして世間にはドゥルージアンを自称する人が掃いて捨てるほどいるわけですが、彼らに興味を持ったこともありません。例外もいるかもしれませんが、ドゥルージアンを名乗る人の言説には嫌悪、軽蔑しか感じませんでした。現在は研究水準が上がっているかもしれませんが、90年代当時は、本当にどうしようもない議論だな、という感想しかあり得ない議論しかしない「ドゥルージアン」ばかりでした。一人だけいえば、名前は挙げませんが、ドゥルーズヒューム論の真似をしてくだらないベンサム論を書いた人とか。しかし、彼だけではない。私は基本的にはどんな議論、どんな言説にも寛容であるべきだ、おおらかであるべきだとは思っていますが、しかししょうもない議論に賛同したり心を動かされるということはあり得ません。まあ、先日ジャズ批評家の「理論」をあげつらったときもそうだったかもしれませんが、私は、哲学的、理論的な議論にはシビアな傾向があります。良くないことだと自分で思っているんですが。

あれこれ書きたいことはありますが、どうも纏まらないので、一旦ここで一区切りにしましょう。

[]夜の思索 20:44

Michel Camilo and Tomatito "Spain Again"を聴いています。敦賀明子 Akiko Tsurugaさんの"Sakura"も近日中に(明日か明後日?)届く予定です。楽しみです。ここ数日、ずっと有線放送のA-9【美食空間ジャズ】というソロピアノ、ソロギターのチャンネルを聴いていたのですが(哲学に熱中していて、CDを選択、交換する時間も勿体無かったので)、非常に素晴らしかった。ジャズを聴ける回路が沢山あって幸せだと感じます。

『相棒』の杉下右京警部を気取るわけではないですが(彼ほど有能でもない)、細かいことが気になってしまうのが私の悪い癖で、さっきも次のくだりが引っ掛かりました。

フロイトは、もっと正確に、シュレーバーにおける病気の重要なる転機を強調している。その転機とは、シュレーバーが、女性になることをみずから受けいれ、自然治癒の過程に入る時点のことである。この過程は、《自然=生産》という両者の一体化の境地にシュレーバーを導くことになるものである。(この境地は、新しい人間性の生産である。)」(市倉宏祐訳、p.31)

フロイトは、もっと正確に、シュレーバーの病気における重要な転機を強調している。それは、シュレーバーが、みずから女性になることを受けいれ、自己治癒のプロセスの中に入り、このプロセスが〈自然=生産〉という同一性に彼を引き戻すときである(新しい人間性の生産)。」(宇野邦一訳、p.42)

どこが気になるのかといえば、前も書いたように、どこで読んだのかは忘れましたが、シュレーバーは実は自然治癒(自己治癒)せず、晩年は廃人化、痴呆化して糞尿垂れ流し状態だったという情報を得ているので、ここで言われているのは本当かな、と思ってしまうわけです。勿論、私の記憶、情報のほうが間違っている可能性もあります。Facebookで指摘されたのですが、自殺率は統計的には下がっていると以前書きましたが、それは私の認識が誤りで、1998年以降自殺者は増え自殺率も上昇しているという統計データがあるとのことです。そのように、記憶だけで書いていると正確でない場合があるので、最近はできるだけ確認するように心掛けていますが、それでも、資料が手元にない(図書館など)とか限界もあります。

シュレーバー回想録』には2種類邦訳があり、いずれも優れた文章だということは以前書きました。ドゥルーズ=ガタリは、これをあれこれ「読解」していますが、しかし本当は、合理的に解釈することが可能なのか疑問です。何故なら、現代の精神医学でいえばどのような疾患に相当するのか知りませんが(統合失調症でしょうか)、狂人の妄想なのですから。シュレーバーがこれを堂々と出版できたのは、彼のそれまでの社会的地位が非常に高かったからです。そしてそれだけではなく、晩年には廃人になってしまったという私の情報が仮に正しかったとしても、一時的には本を書き出版できるくらいには快復したというのも事実なのでしょう。

私の記憶では、『シュレーバー回想録』の中心をなしているのは、以前紹介した「人間玩弄」という概念、そして「女性神経」という概念です。シュレーバーは、神が人間を、自分を玩弄する、弄ぶということで苦しんでいるのですが、彼は女性神経なるものによって「神の女」になることでそれに対抗しようとします。そのあたりのロジックは、私には意味不明ですが、フロイトからドゥルーズ=ガタリに至るまで様々な意見があるようですね。ただ、個人的には合理化不可能なものを無理に合理化せずともいいのではないか、と思うのですが。

[]夜の思索、続き 21:31

Archiveから「文学」をクリック→「金原ひとみ「ヘビにピアス」 ─ 文藝春秋 2004年3月号より / 池田孔介」をクリック

文藝春秋のインタヴューで、彼女がある時期に好んで読んでいた本としてバタイユ花村萬月をならべて挙げていたのには笑ってしまった。このような無意識を持った作家がこれからどのように展開していくのか、それはしかし、あまりに恐い。」

私は金原ひとみを一冊も読んでないし興味ないが、「バタイユ花村萬月」を並べたら池田孔介から嗤われてしまうんかい。1980年代吉本隆明だったら、『資本論』と『窓ぎわのトットちゃん』を等価なものとして読むんだ、と力説していたわけですが。

まあ別に吉本隆明が正しいなどというつもりはありませんが、池田孔介のような発想には基本的に不快感を感じます。私は大衆文化状況を肯定しますので(なぜなら、大衆文化状況が進んでいなかったら、自分が哲学書を手に取ることすらあり得なかった)。フーコー菓子パンのように売れようが別にいいじゃん?と思いますし。池田孔介みたいな大衆文化状況の猥雑を嗤う人は、エリート的な階層秩序が堅固な社会のほうがいいと思っているんでしょうか。私はそうは思いません。

Daily Commentary

http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/daily/index.html

[]"Perfidia" 21:47

Perfidia / Ellis Larkinsが圧倒的に素晴らしかったです。Ellis Larkinsって知らないですが。

A-09【美食空間向けジャズ

http://music.usen.com/modules/A/content0009.html

[]"Dance Of Infidels" 21:50

Dance Of Infidels / Frank Strazzeri これも圧倒的に素晴らしい。

[]哲学者の逸話:ベルクソンの晩年、フッサールの幼年期 23:15

市川浩『ベルクソン』(講談社学術文庫)、p.104

それかあらぬか、1940年の暮、ベルクソンは「私はあまりにも長く生きすぎた」とフロリス・ドラットルにもらしたという。パリの冬は凍りつくように寒く、石炭不足のため暖房は消えたままだった。リューマチによる強直をやわらげるため医師に命じられた運動を廊下でしていたベルクソンは、風邪をひいて肺充血にかかり、3日のわずらいののち1941年1月4日に息を引きとった。

田島節夫『フッサール』(講談社学術文庫)、p.39-40

幼い頃からのフッサールの人となりを示すつぎのような逸話がある。ある日、彼はナイフを土産にもらったことがあるが、切れ味があまりよくなかったので、一生懸命にこれを研ぎにかかった。ところがナイフを鋭くすることばかりに気をとられていた少年フッサールは、刃金の部分がだんだん小さくなり、ついに無くなってしまったことに気がつかなかった、というのである。この話は、フランス現象学研究の先達として知られたエマニュエル・レヴィナスが、晩年の本人の口から聴いたものであるが、フッサールはこの幼時の思い出に象徴的意味を託していたようで、その話をするときは沈痛な調子であった、という。

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