近況アップデート

Ustreamで話したことのすべてを繰り返すことはしませんが、ひとつだけ。素人考えですが、境界例状態の人が自己治癒できる可能性がひとつ考えられるのではないかと思います。それは簡単にいえば、諦めるということです。私の結論は消極的かもしれませんが、ちょっとほかに考えられません。神田橋條治の意見は、治療者として唯一可能な治療的関与は謝罪であるといっています。しかし私は必ずしも同意しません。少なくとも自分は、治療者(医者やカウンセラー)に謝罪してほしいとか全く思っていないし、そのようなことが「治療的」でありえるとも思いません。それに、神田橋條治はもしかしたら謝罪するかもしれませんが、世の中の治療者の99%は患者に謝罪などしないでしょう。では、そうだとしたら、境界例状態(神田橋は「厄介な症例」と呼んでいます)は治らないのでしょうか。治らないという意見もあります。つまり、加齢によって衰弱することが唯一、治癒といえるような治癒なのだという意見もあります。そのとおりかもしれません。ただ私は、それとはべつに自己治癒の試みが可能なのではないかと考える、というだけのことです。

近況アップデート

おはようございます。

恋愛の話をします。これまで人を好きになった、恋をしたことが3回あります。中学の頃、高校の頃、NAMの頃の3回です。大学とか大学院で出会ったような学生達は、なるほど知的だったかもしれませんが、自分にとって魅力は感じられませんでした。だから、大学に進んでから、漠然とつまらないと感じていました。自分が中学、高校で好きだったような人(同性)がいなかったからです。

中学で好きだった同級生はふたりいました。ひとりは、とても美しい少年でした。私は、中学にはいるときに、大分から船橋に引っ越してきました。登校してすぐに、彼と出会いました。彼の喋り方は完全にオネエ言葉でしたが、残念なことに、13歳の私は世の中のことに無知で、オネエ言葉とかいうのを知らなかったのです。だから、初めて会ったとき、歌舞伎かなにかでもやっているの?と的外れなことを訊いたりしました。今思い返せば、それは滑稽ですが。

もうひとりは、どちらかというと、より「少年っぽい」タイプ、「男の子っぽい」タイプでした。私はこの人にも非常に惹かれました。

ただ私は、中学生の頃、彼らに告白する勇気がまったくありませんでした。恋人どころかただの友達にさえ、なれなかったのです。卒業式の日にずいぶん後悔しました。卒業してしまえば、二度と会えない、会う機会はないのだということにも思い至りませんでした。中学を出てからずいぶん探しましたが、再会はかないませんでした。同窓会にもこなかったと思います。

高校生の頃好きになった人は、またまったくタイプが違っていて、自分でも戸惑いました。その人はバスケットボール部に入っていました。告白したわけではないですが、なんとなく私の気持ちが伝わってしまったようで、気持ち悪がられてしまいました。それは残念だし悲しいけれども、致し方がなかったと思います。

なんでその人のことが好きになってしまったのか、ということは、高校時代もそれ以降も考えました。私の結論は、生命力、生命感ということです。単に男らしいとか、かっこいいということとは違うように思いました。高校生のころから私は、自分に生命が欠けていると感じていました。だから生命的な人に惹かれたのだということだと思います。彼は明るい人でした。私は暗かった。

NAMの頃好きだった人は非常に知的でしたが、自分が惹かれたのはそこではなかったと思います。やはり高校時代とおなじで、生命力、生命感だということだと思いました。なにがきっかけだったか忘れましたが、私はついうっかり彼に告白してしまいましたが、当然のことながら、異性愛者である彼には受け入れてもらえず、気持ち悪いといわれてしまいました。でもそれも、致し方がなかったと思います。同性愛と異性愛の壁は越えられないと思うし、そのこととは別箇に、私自身に人間的、性的な魅力がまったくなかった、ということでしょう。

彼は友達にはなってくれました。けれども、私は彼にずいぶん迷惑をかけたし、困らせてしまったと思います。そのことは反省しているし、申し訳なかったと思います。当時既に私は死にたいという希望を頻繁に口走るような感じだったのですが、彼のほうは非常に健康な人でしたから、そういうことを言われても分からないし、どうしようもないのでただ困る、ということだったと思います。

彼からは、性的な接触、身体的な接触は絶対にするなといわれたので、それを(彼と会うことがなくなるまで、最後まで)守りました。彼の気持ち、人権、人格的な自由を尊重すべきだと思ったし、それに、なによりも(既に気持ち悪いといわれてしまっていたのだから)これ以上嫌われたくないと思いました。

彼と最後に会ったのがいつだったかもう覚えていません。彼は充実した職業生活、家庭生活を送っているときいています。私は、彼が幸福に暮らしているということを、ただ喜ぶべきなのだと思っています。今彼とは付き合いはありません。それは、恋愛や性という意味でも、友人という意味でも、政治的な意味でも、或いは知的な意味でも、彼にとって私がまったく価値がないからだと思います。それはもうしょうがない、と思っています。私自身が、自分に意味があると思っていないのです。

そういえば3.11の後、彼にメールして、避難したほうがいいといいました。彼の子供がまだ幼いのを知っていたからです。私の意見を聞いたわけではなく彼自身が考えていたのでしょうが、彼は家族で避難する決断をしました。倉数さんや菅原さん(それほど有名ではないですが、そういう小説家の知り合いがいるのです)も、彼らの子供が幼いと知っていましたから、おなじ助言をしました。ただ、彼らは関東に留まる決断をしました。菅原さんは、メールで、うちの子供は逃げないといっている、と返答してきましたが、まだ子供なのに、放射能の危険性などが分かっているのだろうか、と疑問に思いました。けれどもそれ以上強くいう権利は私にはありませんでした。

善意や利他心に意味があると考えませんが、すこしは利他的な動機が残っていたということです。つまり子供が幼いならば、危険からは防御されるべきだというようなことです。成人した大人が、危険性を理解したうえで、それでも自分の意志で留まる、避難しない、というのはまったくべつの問題です。

今いったことに限らず、誰かを守りたいという動機がたしかに自分にはあります。しかし、そのような動機からの行為が現実には無意味な場合が多いのも、長い経験からよく承知しています。

話は変わりますが、ドラムの大学生君が練習したいというので朝からずっと座って待っています。9:00の約束でしたが、もう11:00なのに、来ません。これはとても困ります。私は朝食も摂ることができずにただ待っているのですから。約束の時間は守らなければだめです。

ドラムの子は芸音をやめて、プロのジャズドラマーの先生の指導を受けます。だから彼はもう、私の生徒ではありません。

ただ、彼は団地に住んでいますから、ドラムセットを持って帰っても置く場所がありません。レッスンはやめても、ドラムセットを置かせてほしいし、練習をしたいそうですが、私は彼の希望にできるだけ添いたいと思っています。

くだらないと感じますが、それが私なりの「善意」であるということです。自分が良い教師であった、と思いません。せめて彼が能力や可能性を伸ばすことができるように配慮するというくらいしかできません。

私が彼の我儘(約束の時間を破る、とか)を許しているのは、彼がとても若いと考えるからです。十代なのですから、大学生といってもまだ子供です。そして若い、というのは、凡庸な表現になってしまいますが、特権的です。なぜなら、歳を取ってしまえば、二度と若くあることはできないのですから。

しかし、朝からずっと待ち侘びているので、食事も摂れず、降圧剤も飲めず(私は高血圧なのです)、困っています。13:00からはカラオケ教室があります。もう残り時間がありません。困りました。

我儘を許すことだけが優しさではない、とは思います。しかし、インターネットの他者に苛酷な私しか知らない人には意外でしょうが、私は他人に厳しく接することができない、その能力がないのです。

昔から、自分は滅びてもいいから、他人には生き延びて欲しい、という感情があります。そのような心理を、フロイトは正確に、「道徳的マゾヒズム」と表現しました。

まあこうした一切のことは、くだらないし、暗いと思いますが、自分にはそのように考えることしかできないということです。

3時間以上も待っていたのだから、もうそろそろいいでしょう。一度電話があり、10:00になるとのことでしたが、10:00にも来ませんでした。でも、べつにいいのです。どうせ暇なのだし。

「自分は滅びてもいいから、他人には生き延びて欲しい」というような信念の起源を遡ると、大学時代からすでにそのように考えていたことが分かります。つまり、自分は絶対にうまくいかないが、すなわち滅びるけれども、しかし「別の誰か」が代わりに成功するのだから、それでいいではないか、というような考えです。

『右大臣実朝』

平家ハ、アカルイ。

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html

惜別 (新潮文庫)

惜別 (新潮文庫)

近況アップデート

ついてないというか、どうも、すっぽかされ続ける一日、のようですね。大学生君は寝坊してこられなかったそうです。カラオケのおばさんたちも、用事やら病気(旦那さんが入院だとか)でやってきません。これで経営が成り立つのか心配ですが、致し方がないでしょう。

自分のはてなダイアリーを読み直してみました。気付いたことがあります。(1) 文章が圧倒的に下手です。客観的にいって、読むに堪えません。(2) ろくなことを考えていません。(3) 去年末、yukieさんと絶交したあたりから、極端に不安定な状態に陥ってしまったようですね。彼氏とも別れる寸前までいったし、TwitterFacebookmixiなどの繋がりもほぼ全て断ち切ってしまいました。(4) ごく最近膨大に文章を書き始めていますが、どうも「フラッシュバック」がきっかけのようですね。そのように自分で解釈します。

はてなダイアリーは2003年から書いており、膨大なので、全部は読めません。去年の12月くらいまで読みました。圧倒的に退屈でつまらないということだけは、本当によく分かりました。自分がこの程度のところまでしか到達ができなかったのは残念だと思いますが、しかし人間には能力の限界があるので、致し方がないでしょう。

近況アップデート

彼氏が遊びに来ました。カラオケのおばさん連中も来ないし、大学生君も荻窪velvet sunのjam sessionには行かないと電話してきたので、彼氏と二人でのんびり楽しみました。今日は私は、快楽を得ることを自分に許しました。もし死んでしまったら性を楽しむこともできませんからね。普段は彼氏に遠慮したりして自分自身が楽しむことができないことが多いのですが、今日は、楽しんでもいい、と自分で自分を許すことにしました。それはこのところ精神病的な苦痛が余りにひどいので、すこしは快楽でもなければ生きていけない、と思ったからです。実際彼氏と会っている間は楽しかった。しかし、ついさっき彼氏は帰りましたが、彼氏がいなくなった途端、元の精神病状態に逆戻りなのは致し方がないのでしょう。

「今日は私は、快楽を得ることを自分に許しました。」「今日は、楽しんでもいい、と自分で自分を許すことにしました。」→このような発想は、ストイックとか倫理的というのとはちがい、ただ単に病理的だと思います(道徳的マゾヒズム)。普通の人は恋人とのデートを楽しんでいいかどうか、自分で自分に許可を求めたりしません。ただ楽しむだけだし、それでなんの問題もないはずです。そうできないというところが、やはり私は病的だということなのでしょう。

いーぐる掲示板への投稿

しばらくこの掲示板、後藤さんのはてなダイアリー、com-postなどを閲覧したり書き込むのをやめていました。理由は自分としてcom-postの大西順子バロック』評に納得できなかったからです。大西順子の全作品(勿論リーダー作に限ります)を1月に聴き返してみました。自分はこれは肯定すべき音楽と感じました。しかし、個々の作品の評価はいろいろとあるでしょうから、それはそれでいいでしょう。

本題に入りますが、後藤さんのはてなダイアリーのthink21-22や、com-postの「往復書簡」で示されている意見への批判を、非公開(IDがあれば誰でも読めるので厳密には非公開ではないですが)のFacebookで書きました。それを私のはてなダイアリーで公開してほしい、という人がいました。しかし、私はためらいました。後藤さんの主張そのものを正確に把握し直す必要があるし、参照されているもの(フーコー)を再検討する必要があったからです。勿論私は後藤さんとちがって、「ジャズを聴くことのプロ」ではないので、ジョシュア・レッドマンなど音源を無限に参照することは不可能ですが(CDを購入するお金がまったくありません)。

さて、最終的な報告ではなく、中間的な報告ですが、もしかしたら退屈かもしれません。ご笑覧いただければ幸いです。

(1) 後藤さんがthink21-22で展開された思考を私なりに要約すれば、後藤さんはこれまではメルロ=ポンティ的な知覚体験というレヴェルで考えてきたけれども、或る時期から(後藤さんはジョシュア・レッドマンサウンドを例に挙げておられます)、そのような経験の連続性という観点からは理解できないジャズが出てきたとおっしゃっています。そこで、「フーコー的切断面」というものに思い至ったけれども、メルロ=ポンティフーコーが両立するのか疑問である。こういうことだったと思います。

続きも書きましたが、どうしても超長文になってしまうので、書き込みを躊躇します。どうすればいいかは後藤さんのご判断に任せます。

自分の考えを(長文ではなく)箇条書きで記します。

フーコー現象学の関係は微妙だと思います。現象学をそんなに簡単に否定できると思いません。例えばドゥルーズは、『狂気の歴史』を、まだ現象学風に体験に依拠している、しかし実際には「知」以前にはなにもないのだ、と批判しています。しかし私は、「狂気」のような主題を体験を一切参照、依拠せずに論じることができるのか疑問です。ジャズ聴取が主題であればなおさらでしょう。

・『言葉と物』で展開され『知の考古学』で再吟味された方法をジャズ(ジャズ聴取、ジャズ体験)にも使えるか、どうかは微妙です。普通の疑問として、フーコーが扱った「人文諸科学」とジャズでは、まったく違うということがあります。人文科学は精密科学ほどやかましくはないですが、やはり真/偽の分割を生み出すための学問性のようなものが要求されます。ジャズ、ジャズ体験、ジャズ聴取、その歴史の場合に、「エピステーメー」のようなものを語れるのでしょうか。

・ヒント程度に留めますが(というより、私自身がそう詳しいわけではないですが)、フーコーエピステーメーという発想の源泉のひとつが、ヴォリンガー、ヴェルフリンらの美術史、美学における様式の概念にあるのではないかという岡崎乾二郎さんの推測は検討する価値があります。彼らは、カントの『判断力批判』に影響された批評や美学を否定し、客観的な様式の継起というかたちで美術の歴史を把握することが学問的なのだと考えました。同じようなことがジャズに、また音楽一般にいえるかどうか、吟味する価値があると思います。

・ジャズにフーコー的な読みができるかどうかは、私の個人的な意見では、「視聴覚的なアーカイヴ」が成り立つかどうか、にかかっています。つまり、テキストの唯物性、合理性(検証/反証可能性)、客観性を担保できるかどうか、ということです。後藤さんが主張されていることが、一個人の感想などではないということが証明できるのかどうか、と言い換えてもいいでしょう。音楽一般、またジャズにおいてアーカイヴが成り立つかどうかすこし考えました。クラシックであれば楽譜があるでしょう。けれどもクラシックでさえ、演奏という次元を考慮すれば楽譜だけでは駄目だと思います。具体的な音源、例えばCDが必要になります。また、即興演奏を採譜したもの(アート・テイタムチャーリー・パーカーバド・パウエルセロニアス・モンクから、果ては最近のミシェル・カミロに至るまでそのような採譜が販売されていますが)も有効でしょう。

・すこし脱線すれば、超人的なアイディアマンといわれる岡崎さんですが、彼、というよりも、正確にいえば彼の周りの人々、弟子、学生らが日々、四谷の芸術学校でどのような地道なことをやっているかというのを私は少し知っています。彼らは、膨大な美術作品(絵画)を延々とスキャニングしてパソコンに取り込み、データ化しているのです。私の考えでは、彼らがやっていることは、美術領域において「視聴覚的なアーカイヴ」を作ろうとしているのです。さて、音楽やジャズにおいて、同じような作業は可能でしょうか(やっているとすれば、どういう人々でしょうか)。

・それから本当に個人的、私的な感想になりますが、ジャズはそれが生まれて以来というもの、頻繁にスタイルを変貌させてきたわけです。後藤さんが指摘されている変化がそれとは異質な決定的な切断、断絶であり、「ポストモダン・ジャズ」というようなものなのか、自分には俄かには信じがたいところがあります。後藤さんは、現在のジャズが自分らの経験値ではうまく把握できない異質な(新しい)ものだといわれますが、同じようなことは、ビバップが出てきたとき、或いはフリージャズが出てきたとき、当時のジャズの批評家や聴衆も感じていたのではないでしょうか。つまり、繰り返しになりますが、どうして後藤さんがおっしゃる近年の変化が決定的な切断といえるのかということの、具体的な根拠がよく分かりません。

結局長くなってしまいました。どうも失礼しました。

いーぐる掲示板への投稿

連続投稿すみません。
後藤さんのブログのthink連載はとても面白いし、参考になっていますが、前から気になっているところがあります。それはピュタゴラス主義(つまり、数的、数学的な神秘主義、そしてそれを音楽と結びつける考え方)を批判したくだりです。

後藤さんがおっしゃっていることは妥当なのでしょうが、もうすこし広く言いますと、プラトン主義の批判なのではないでしょうか。というか、イデア論の問題点に気付いた晩年のプラトンピュタゴラスの考えに接近した可能性もあります。彼の思想傾向からして、感覚、知覚、「大地」を肯定するようになったとは到底考えられないからです。
ジャズの美学の基礎づけのようなことでもう5年以上前ですが、後藤さんと論争して、「プラトン主義」を批判され、私がそれを撤回したということがありました。私が思うのは、歴史的にみて、人間の考え方のパターンは限られているのではないか、ということです。後藤さんのように(現象学的に)具体的な生きられた知覚体験を重視する考えもあれば、netjazzさん(懐かしいですね)のように楽理を重視する(プラトニズムとまではいわないとしても、本質論的な)立場もあるということでしょう。今現在私が、いずれが妥当なのかを自信をもって断言することはできないのですが。それは非常に長い時間をかけて(一生をかけて、といってもいいでしょう)考えている、ということですが。
ちなみに、com-post往復書簡で後藤さん以外の方、miyaさんが展開しておられる思想は、私にはよく分からないというか、不明な点が多々あります。私が頭が悪いだけかもしれませんが、もうちょっと慎重に吟味したほうがいいように感じています。たとえば、あのようにソシュールを援用するのは妥当なのでしょうか。