「価値」を巡って

意外に思われるかもしれないが、私は議論や論争を好まない。というのは、一々誤解を解くのが面倒臭いからである。何かを「指摘」しなければならない、という場合が無数にあるかもしれないのである。

com-postというウェッブサイトで、miyaさんという方から私への非常に長い反駁があり、少し読んでみたのだが、勿論彼を否定することが重要だとか、必要であるわけではない。私は、彼の主張を成り立たせている幾つかの前提を確認することが大事だと思う。

私の理解が正しければ、miyaさんによる私の批判の一番大きな、というか、唯一の論点というのは、ジャズの美学についての私の物の見方が科学主義的に偏向しているから、美学に固有な次元を逸してしまい、顛倒・倒錯である、というものである。彼の言うことが妥当なのかどうかというよりも、その前に前提的に確定しなければならないことが沢山ある、というのが私の印象である。

それはまず、哲学 / 科学 / 芸術の関係である。さらに、主観性 / 客観性 / 第三の次元(共同主観性、間主観性、相互主観性…)の関係である。また、「美学」なるもののステータスであり、「美」と呼ばれる現象がどのように成立しているのか、ということである。

そもそもこういうことの全てについて、まともに議論し、整備してからでなければ、miyaさんの言うような主張は展開できないのだし、だから、彼の言い分が正しいかどうかも検証することはできないのだ。

私が科学主義的であるというmiyaさんの主張は間違っていると思うが、というのは、ごく常識的に考えて、美的経験、美的判断から何らかの主観的、個人的なレヴェルを省くことなどできないからである。確かに私の考え方は客観主義的な傾向が強いとは思うが、それを直ちに科学主義ということはできない。

例えば、かつて私が主張したのは、まともな美学、批評が成立するためには、資料体(アーカイヴ)が必要だ、ということだったが、それは別に科学主義ではなくただの常識である。複数の批評家、複数のファン、複数の聴き手がいて、音楽、ジャズについて会話し、意見交換するとしたら、彼らは同一の対象について考え、語っているのでなければならない。そのためには、勿論個々の作品、記録がなければならないし、それらが系統的に集められたものも必要である。美的判断を巡ってどういう議論をしてみるにしても、そもそも共通の基盤がなければ、どうしてもそれは不可能なのである。

そして、そういうふうに客観化、一般化を目指すとしても、ジャズ、音楽、芸術、美的な対象、美的な経験についての議論や理論が「科学」、数学的な自然科学、物理学などをモデルにした「科学」になることができないのは、そこではどこまでも、美的な経験に固有な「価値」が問題になるからであり、その次元を還元したり消去することができないからである。

「価値」については、存在と価値、というような新カント派の枠組みがあるが、私が言いたいのはそういうことではない。むしろ、こういう文脈で理解していただきたいのだが、同じ「価値」という用語を用いていても、言語学と経済学では意味が異なる。或る言葉、或る単語の「価値」と、或る商品の「価値」を同列に語ることはできないのである。そこにはなんとなく漠然とした類比しかないのだ。

さて、美的な対象、美的な経験、美的な判断において「価値」を問題にすると、それらとはまた全く違う、という事実に気付く。我々が出発しなければならないのは、感性論 / 美学という「エステティック」の二重性である。

そして美的な対象といっても、自然美と芸術作品の美があり、その中間に、愛や性の領域、魅惑の領域、人間身体の問題がある。性的な魅力、誘引力というのは、芸術作品とは違うが、といって、ただの自然にも還元できないものである。ところが、歴史において初めて美の問題を提起したプラトンにとって問題であったのは、そういうもの、つまり、少年の美であった。

プラトンが美について主要に論じているのは、これまた記憶だけに頼った引用で非常に申し訳がないのだが、『パイドロス』であったはずである。そしてそこにおける議論の枠組みを思い起こしてみると、こういうことであったはずだ。我々が、美しい少年に遭遇して、彼の美に心打たれるとする。これは感覚的で感性的な経験である。ところで、プラトン主義の最も重要な部分は、そういう触発の経験から、我々が「美そのもの」、美のイデアに上昇できる、と論じるところである。

そして、細かい議論なのだが、古代世界のプラトンにおいては、我々が考えるような主観 / 客観の二分法はない。プラトンの考え方を確かめていくと、こういうことになる。誰か少年に遭遇して、その彼を美しいと思う、という、最初の感覚的で感性的な触発の契機においては、それは、近代の我々の見方では主観的であるはずだ。つまり、その少年を美しいと感じるのは個々人なのであり、そういう個々人の感覚はどこまでも個別的なのである。ところが、プラトン主義の核心は「美のイデア」を考えるというところにあり、これはもう、主観的なものでも個人的なものでもない。客観的というよりも対象的と言いたいし、さらに、20世紀の枠組みでは「存在」、存在論的なものだと言いたいが、とにかく、ただの相対主義的で恣意的な主観には還元できないものである。

プラトンは、近代の我々ならば、単に主観的で相対的だと考えるようなものについて、「イデア」を考えたのである。「善」、「美」というような価値だけではなく、例えば「大」がそうである。或る事物が大きいのは、他の事物との関係においてであり、そしてさらに、実は、それを知覚する人間にとって「大きい」のである。ところが、プラトンはそういう関係性を捨象してしまい、絶対的な「大」そのもの、「大」それ自体、「大のイデア」を想定する。我々がそれを誤謬と言っても、致し方がない。古代人であるプラトンは、そういうふうに考えたということなのだ。

さて、そういうプラトン主義と、近代以降成立する美学は異なっているのだが、それでもプラトンが設定した二重性の契機は重要であり、2012年の現在に至るまで我々を拘束している。美的な経験というパラダイムはその二重性の拘束を出ることができないのである。それはどのような二重性かといえば、我々を最初に触発するのが感覚的・感性論的な対象、具体的で個別的な対象であるのに対し、「美」を語ることで問題にされるのは、常に「それ以上」の何かである、ということだ。「イデア」を信じないのだとしても、その条件は同一なのである。つまり、純粋に感覚的な要素と、何らかの意味でそれを超え出た部分があるのではないかということであり、もし後者の次元を考慮しなければ、「美」の普遍性は成り立たない。そうすると、「美」の経験そのものが成り立たず、そこにあるのは、ただ単に、快・不快、快・苦、快適、趣味嗜好などであるだけだ、ということになる。そして、個別性、特殊性しかなく、個々人という多様性、差異という次元しかない。それを客観的と呼ぼうと、共同主観的と呼ぼうと、ただの主観や個人を超え出たレヴェルも問題にすることができないのである。

ここで一旦送ることにしたいが、この問題は引き続き考えていきたい。

http://d.hatena.ne.jp/tadashisettsu/20120710

about sexuality

記憶を辿ってみたのだが、私は、熱心にポルノ画像を蒐集する趣味はない。インターネットには無数の静止画、動画が転がっているだろうが、熱心に集めたことはないのである。その昔、最初にパソコンを購入した1998年頃のことだと思うが、outlook expressというメーラーに当時付属していた、ニュース・グループというものに非常に驚いた記憶がある。というのは、ほんのちょっと操作しただけで、あっという間に、大量の無修正の同性愛のセックスの画像が入ってきたからである。そのことにはびっくりしたが、しかしながら、その後、そのパソコンの機械はクラッシュしてしまった。パソコンを買い換えたが、そうすると、もうニュース・グループとかはなく、そうだとすると、あれこれ検索して地球の裏側のウェッブサイトまでエロ画像を漁りに行く元気は私にはなかった。

私はポルノのヴィデオ、DVDを購入したことも視聴したこともない。大学2年生の頃のことだが、大学のサークル、文学研究会の一年後輩の井本君などと新宿二丁目のルミエールに遊びに行ったが、そのとき私が購入したのは、どういうわけか、性転換手術のドキュメンタリーヴィデオであった。私はそれを1回か2回観たのだが、井本君がちょっと好奇心があるから貸してくれ、と言ってきて、貸したのだが、井本君は操作を間違えてそのヴィデオをぶっ壊してしまった。

思い出すのは、男性同性愛に限らず大量の資料を遥か昔、子供時代、小学生の頃から延々と調べ続けてきたということで、例えば10歳かそれ以前の段階で私が調べていたのは、カルーセル麻紀であった。彼女はモロッコで性転換手術(性別再適合手術)を受けたが、その前後に吉行淳之介と二度対談しており、私はそれをよく調べたのである。彼女に興味を持ったのは、最初は新聞記事で見掛けたからであった。確か夕刊だったと思うが、その記事には彼女の若い頃の写真と共にインタヴューが載っており、それが美しい印象だったから、興味関心を抱いたというわけである。

2Fのパソコンは、ご隠居さんというペンネームの、全国「精神病」者集団で知り合った方から無償で頂いたものなのだが、何しろただだから、ぼろであり、すぐに凍るが、それでも1Fの機械よりも使い易い。1Fのノートパソコンのほうが高い機械だが、電源ボタンを押してから使えるようになるまで1時間以上も掛かるから、本当にうんざりで厭になってしまう。現在は手書きでノートなどに書かず、全部、キーボードで打つので、パソコンは第二の身体というか身体の延長、一部のようなものであり、それが不自由なのは非常に苛立たしいことである。だから「もう買い換えよう」という会話を延々と家族でしているが、しかしながら、現実に購買行動を起こすことは決してないまま1年以上が経過してしまった、というようなことである。

ポルノ画像を集めないというのは、私が性に淡白だからではなく、写真を見ても致し方がないと思うし、それにかつてのニュース・グループはともかく、特に海外のポルノのサイトには有料部分に誘導したりするような悪意的なものが多いという情報を得ているからである。そこまで危険を冒さなければならないようなものだとは私には思えないのである。

昔の記憶だが、1980年代の終わりである。千葉県船橋市の七林中学校というところに私は通っていたのだが、同級生にゲイの少年がいたが、彼は不良グループからいじめられていただけではなく、兄から深刻な家庭内暴力を受けていた。そして、同級生にはそういう人々が結構いた。中学校を卒業して以降、そのゲイの少年と再会する機会は二度となかったのだが、大学生か大学院生の頃だったと思うが、気紛れにインターネットで検索して彼のことを少し調べてみたことがある。そうすると、彼が東京理科大学に進学し、登山のサークルに入った、というところまでは分かった。その大学の登山サークルのウェッブサイトがあって、そこのなかの写真に彼の姿があった。その写真のなかの大学生になった彼の姿は、中学生の頃とほとんど変わっていなかったので、私は懐かしさを覚えた。だが、大学を出てから彼がどうなったのか、何処にいるのか、というようなことは、全く判明しなかった。

私が言いたかったのは、性的な魅力とか美などは、画像、写真のような二次元の媒体では表現できない雰囲気とか匂いのようなものとしてもあらわれるのではないのか、ということである。その少年は美しかったけれども、彼の魅力はそれだけではなく、声や話し方でもあり、また、何処から由来するのか分析することができない不思議な体臭でもあった。そういうものをフェロモンというのかどうかは私には分からない。

大分市から船橋市に移り住み、中学校に初めて登校してみたのだが、そのとき彼と出会った。彼の喋り方は、所謂オネエ言葉だったが、13歳の頃の私にはその知識・概念がなく、当惑して、歌舞伎役者の家の子供なのか、と間抜けな感想を漏らしたことを、非常によく覚えている。

私の考え方は、13歳のときにその少年と出会ったが、告白したり恋愛する機会がないまま学校を卒業してしまい、その後会う機会がなかったとすると、そういう機会は二度と訪れない、というものである。実際、37歳の現在に至るまでなかったのである。大学院生の頃だったと思うが、津田沼に当時住んでいた結構美しい少年(といっても、大学生か専門学校生だったと思う)と会ったことがあるのだが、そのときの経験は苦々しいものであった。というのは、彼の部屋で彼と会話すると、彼は美しいから、多数の男達から求められ、別に愛撫されても全く何も感じないのだ、ということだった。そして、金銭を要求してきたのである。私は支払わなかったが、そうすると、その彼と二度と会うことはなかった。

浅草の三社祭を見物し、その後、上野から新宿へと廻り、駅で大量の群集を長時間観察して考えてみたのだが、自然は数限りない美を産み出し続ける、と思った。新宿駅を歩いている通行人を見れば、なかには若くて美しい青少年も沢山いるし、新宿という土地柄、その一定の割合は同性愛者であったりバイセクシュアルなのではないか、と私は推測したが、さらに推論を進めて、現在少年である人々も、やがて歳を取り、成熟した大人の男になっていく、という現実をよく認識してみた。また、そういうふうになれば、また新しい世代の人々が10代の終わりという微妙な年頃に差し掛かり、やはりその一定数は非常に美しく魅力的であるに違いない、というふうにも推測してみた。そういうふうにして無限に続くのである。

私が考えたのは、何も自然という要因だけではなく、社会とか人為的な要因でもある。というのは、私にはその具体的な理由の個別詳細までは分からないのだが、同性愛的な少年のなかには、非常に中性的な、或いは女性的な美しさを称えている人々が一定の割合でいるが、それは彼らの生理的な理由、例えば性ホルモンによってそうなったのかもしれないし、彼らが個人の努力で(といってもどういう方法があり得るのか私は知らないのだが)それを実現しているのかもしれないのだが、とにかく、驚くほど美しい人々が大量におり、未来永劫存在し生成し続けるに違いない、ということである。

私がセクシュアリティについての理論的な論争、例えば本質主義構成主義の論争について疑問なのは、そういうものはそういう経験的で感性的な現実を少しも説明しないからである。私が上述のように観察した事態は、どうしてそういうふうになっているのか、ということを、そういう理論の数々は全く何も教えてくれないのである。私としても彼ら理論家よりも優れた仮説、合理的な仮説があるわけではないのだが、そこには自然の産出性、つまり、次々に美しい個体、美しい身体を産み出し続けるという産出性と、人為的で社会的な要因が複雑に絡まり合っているに違いない、というくらいは推察したのである。

それはそうと、私が言いたかったのはこういうことである。今述べたことから、私は、何も焦らなくてもいいのかもしれない、と一旦は考えてみたのである。というのは、将来においても幾らでも無限に美しい少年がいるはずなのだから、自分と気が合う人々が現れるまで気長に待てばいい、という考え方である。ただ、そうはいっても、そういうことを空想しているうちに、生涯が無駄に終わってしまうのだ、というどうしようもない事実も、認識しないわけにはいかないのである。

about music and sexuality

miyaさんは私のいうことが必要以上に難しい、と書いていたのだが、私自身はそうは思わないが。

もし私のいうことが難しく感じられるとしたら、事柄自体、問題自体が難しいからで、冷たいようだが、安易な解決など存在していないのである。

miyaさんは彼が科学と呼ぶものとは別に美学を考えたいらしいが、別に反対ではない。ただ、私の意見は、どこまでも現実的な条件から出発するのでなければならない、ということである。それは例えば、一人の人間が「全て」を聴くことは物理的に不可能だ、ということである。もし私がパウエルの全録音を聴いたとすれば、その経験を吟味するところしかどんな美学も批評も始まらない。そして、1990年代以降の新しい音楽の数々をそれほど聴いていないし、よく知らないのだとすれば、そういう現実の条件、唯物的な条件を変更することはできないのである。

私の文章が難解だというmiyaさんの苦情は、他者や共同体に開かれていない、という文句に繋がっているのだが、それは致し方がないことである。というのは、私は少しも妥協しないからである。

miyaさんの長大な反駁を読んでも、論旨が分からないのだが、彼がバークリー・メソッドについて言いたいことも理解できないし、私の文章を部分的に掴まえて揚げ足取りばかりしている、というのも、呆れてしまうが、「人間とはそういうものだ」というのが私の考え方である。

miyaさんは、バークリー・メソッドを解説する人々は既に膨大にいるから、その理論や論理を批判的に検討して深めて貰いたい、とか言っているが、私に理解できないのは、私は別にバークリー音楽院に行ったというわけでもなく、そういうことをしなければならない理由もないからである。

miyaさんがこういうことをどのくらい知っているのか分からないが、バークリー・メソッド、というか、ジャズなどのポピュラー音楽でよく使われる記譜法、技術を検討すると、過去のクラシック音楽、バッハ以降19世紀に至るまでの過程で確立されてきた調性についての理論をそのまま流用しただけではないのか、ということがある。例えば、ハ短調をCmなどと略して書くのだし、私はピアノしか知らないが、クラシックのピアノの譜面は二段になっている。つまり、ト音記号で書かれる右手と、ヘ音記号で書かれる左手に分かれているのだが、一般のジャズなどポピュラーの楽譜は一段である。つまり、メロディーにコードネームが付属しているというかたちなのである。

そういうものを批判的に吟味して欲しいというmiyaさんの言い分は私には理解できないが、ただ単に歴史を参照すればいいのであり、そうすると、1950年代から1970年くらいに掛けて、様々なオルナティヴが実行されてきた、ということが分かる。二つだけ挙げれば、マイルス・デイヴィスのモードという考え方とフリー・ジャズである。そして、1958年から半世紀以上経過した現在に至るまでのごく最近の流れを検討してみれば、多くの人々が、フリーではなく一定の調性に沿って、ロマンティックな(こういう漠然とした一般的な括りが妥当かどうか分からないが)演奏をしているのだし、そういう現実を考慮、検討するしかないのだが。

さらにジャズ以外の音楽史も参照すべきで、そうするとそこに観察されるのは、古典派、ロマン派、後期ロマン派と19世紀に近付くにつれてどんどん調性が複雑化してきた、という歴史である。そして、20世紀にはシェーンベルグ以降の現代音楽が存在していた。20世紀の音楽といっても本当に多様であり、一筋縄ではいかないし、単純化することもできない。

クラシックであろうとジャズであろうと、音楽には歴史があるが、歴史があるから、どんどん進歩・進化・発展するということはできない。そういう発展の果てに調性がすっかり解体してしまったのだとしても、演奏する側も聴く側も、感性、「耳」が直ちに変わる、ということはないのである。

一つの可能性として、歴史的な限定とは別箇に、或る種の調性、ロマンティックなものが人間には聴き易いのかもしれない、ということがある。そうすると、音楽史がどうあれ、現実に創り続けられる音楽の大多数は、現代音楽とかフリー・ジャズのようなものでは「ない」、ということになるはずだ。

また、前衛的な音楽を創る、ということと、聴き手が存在しているのかとか、売れるのかという問題もあり、音楽家も生活していかなければならない以上、そういう商業的な次元を無視することはできない。また、純粋な商売というだけの次元でなくても、名前は忘れたが、こういうことがあった。20世紀のヨーロッパのコンサート・ピアニストで結構有名な人だが、彼は趣味で現代音楽の作曲をしていた。ところが、それを自らの演奏会では演奏しなかったどころか、自分が作曲している事実をひた隠しにしていたのである。彼は、古典派、ロマン派を演奏する自分の活動は聴衆に受け容れられても、現代音楽的な作曲は受け容れられない、と思っていたのである。

例えば、現代日本で、山下洋輔は超有名人で、ジャズ・ピアニストといえば、多くの日本人が真っ先に彼のことを思い浮かべると思うのだが、そういう事態は例外的なのではないか、と疑うべきであろう。私は、日本人の大多数が実験的、前衛的な音楽を好むとはどうしても思えないのである。

アメリカにおいて、セシル・テイラーが超有名人だとか、一般の聴衆に広く受け容れられている、というような現実があるのだろうか。それはないはずだ。では、テイラーと山下洋輔の場合どこが違うのかということになるし、大多数の人々は山下洋輔の音楽をよく調べておらず、ごく一般的なイメージを持っているだけなのではないか、と推測したほうがいいと思う。

山下洋輔=ピアノに肘打ち、といった一般的なイメージがあるが、人々は山下洋輔の音楽と板橋文夫の音楽の違いを考慮しないし、山下とほぼ同世代には色々なピアニストがいるのだが、例えば、本田竹広佐藤允彦菊地雅章などがいるが、そういう音楽をよく検討していないのである。それは致し方がないことなのだが、逆に、広く知られている山下洋輔は誤解されているのではないのか、と考えてみたほうがいいと思う。

バークリー・メソッドはクラシックの楽典を引き写し、記号化、簡略化しただけのものだ、と断言していいのかどうかは分からないのだが、ジャズには、例えばブルース、ブルース・コード、ブルース・ノートなどもある。そこから見えてくるのはもう少し複雑な事情である。

例えば、5番目の音だったと思うが、それを少し下げる。それも、一音、半音下げるのではなく、微妙に下げる、というようなことで、だからそれは、ピアノでは表現できない。そしてそういう微妙な表現と、黒人の黒人性が結び付けられることがあるが、白人 / 黒人などの人種、ナショナリティを考慮すると次の難問がある。

それはジャズを含めたアメリカのポピュラー音楽に聴き取られることが多い「黒さ」、ブラックネスが、アフロ・アメリカン、アメリカ黒人にしか妥当しないかもしれず、アフリカの音楽を調べると、その印象は実は「白い」かもしれない、というようなことである。

我々が歴史的、経験的に熟知しているのは、「黒っぽさ」が完璧に「学習可能」だという事実である。それは初期のジョー・ザヴィヌルに見ることができるが、彼は元々ウィーン子であり、ヨーロッパの白人である。ところがそのザヴィヌルは、あっという間に、ほぼ数年で、当時の「ファンキー」を理解・習得してしまい、キャノンボール・アダレイのバンドで「マーシーマーシーマーシー」というファンク・ジャズの代表曲を作曲・演奏したのである。

それから、私はコンサートで何度も聴いたことがあるが、我々の多くはアフリカの音楽そのものをよく知らないのかもしれない。だが、渡辺貞夫の歩みを見てみればいいのだが、彼は、パーカーのビバップから出発し、バークリー音楽院に留学した後音楽性の幅を広げてボサ・ノヴァビートルズ・ナンバーを演奏し、『カリフォルニア・シャワー』でフュージョンを確立し爆発的なセールスを記録したが、その彼が或るとき、アフリカに赴き、アフリカの音楽の影響を深く受けてアルバムを創ったことがある。"Sadao Watanabe"という渡辺貞夫の笑顔のアップがジャケ写のアルバムなのだが、そういうものを聴き、参照して、そこから間接的にアフリカを窺うこともできるのである。

デューク・エリントンの「ジャングル・スタイル」を検討してみれば、エリントンは、ニューヨークの都会っ子である。社会的地位も高く、経済的にも恵まれている。1930年代のアメリカにはまだ人種差別はあったが、それでも、彼は別に19世紀の奴隷ではないし、元々のアフリカというルーツからも完全に切り離されている。「ジャングル・スタイル」、我々がよく知る「キャラヴァン」などで表現されているものというのは、想像され妄想されたアフリカなのである。そういう想像的な次元は以後もずっと続く。ガレスピーの「チュニジアの夜」はどうだろうか。他にも沢山あるだろう。

ナショナリズムについてよくいわれるように、そういうものは想像的に回復され取り返されたものなのである。現在アフリカに存在する音楽が「オリジナル」かどうかまでは分からないが、とにかく、アフリカの音楽とアメリカの音楽、特にアフロ・アメリカンの音楽の雰囲気や気分などは違うのではないか、ということを考慮したほうがいいであろう。

ナショナリズムナショナリティなどが、言語を通じて構成、仮構されるだけではなく、音楽などを通じてもそうである、という可能性がある。近代の日本でいえば、演歌とか歌謡曲を考えてみればいいと思うが、元々「演歌」というのは、自由民権運動と関わりがあり、そういう運動の弁士が、大衆に自分の政治的主張を分かり易く伝えるために音楽を取り入れたのだが、その後少しして、「演歌」の内容は決定的に変質した。それは純粋に音楽的には、ヨーロッパの過去の音楽の技法と理論を少し取り入れたということだし、歌詞の内容としては男女の恋愛を歌うものが大多数になったということである。日本に住む多くの人々の感情が、そういう音楽を通じて触発され形成されてきたのではないか、という歴史的な可能性がある。

演歌・歌謡曲、現在のJ-POPなども含めてだが、今作られている楽曲の大多数が似たりよったりであり、事実上過去の膨大な楽曲からのサンプリングである、という現実がある。いつからそうだったのかは分からないし、最初からそうだったという可能性もあるが、とにかく、現在あるのは過去の表現を使い廻している、というようなプロセスである。それは、一定の難しさの範囲で、調性のなかで、その他、大衆、聴衆に一般的に受容して貰えるための条件を考慮して楽曲を作ると、どうしてもそうなってしまうということであり、そこでは「新しさ」は不可能なのである。だからといって、いきなり現代音楽、無調とか、フリーになれば、「新しく」なるのかというと、そういう問題でもないが、とにかく現在の商業的な制約のもとで可能なことが著しく限られているようだ、ということだけはどうみても事実である。そして最後に一言だけいえば、特に若い人々だが、彼らの感情や主観性は、そういうふうに粗製濫造される商品によって媒介、触発され、成り立っているのである。例えば、彼らの参照は「浜崎あゆみ」などなのだし、そのことを教養主義的にあれこれ言っても致し方がないであろう。

例えば私は、カラオケ教室を経営しているが、演歌にも新曲、新譜というものがある。それを生徒が持ってくるから、検討してみるのだが、毎度毎度、既視感に襲われる。どれもこれも、何処かで聴いたことがある音楽ばかりなのだ。別に盗作というわけではなくて、現在の条件では、どうしてもそうなってしまう、ということなのである。

ただまあ、一言いっておけば、そういうなかにも、たまにいい曲があるし、それがヒットしたりする場合もある。誰でも知っている例を挙げれば、坂本冬実の「また君に恋してる」などである。

ヒット曲、名曲が生まれる条件は色々とあるだろうが、商業主義や市場を問題にする音楽社会学だけでは、その謎を解くことはできない。例えば、美空ひばりの「川の流れのように」に独特の何かがあるとすれば、それはどういうものなのか、ということを、社会学的な分析だけで解明することは不可能であろう。

音楽に限らず美の規範、美意識などの変異を考察したほうがいいと思う。例えば、先程、プラトンは『パイドロス』で少年の美を問題にしたと申し上げたが、プラトン少年愛と現代の我々が考える同性愛が違うというのは、フーコーや彼が参照するドーヴァー(『古代ギリシアの同性愛』)などを読まなくても明らかだと思うが、もう少し内容に立ち入る必要がある。

アテナイにおいては、当時の一定の条件のなかで少年愛が成立していた。例えば、自由市民とか、年齢の違いに基づく「教育」として少年愛が考えられていた、とかである。もし奴隷の少年なら、彼はただ単に肉体を消費され享楽されてしまっただけで、彼自身の自由などは少しも問題にされなかったと思うが、自由人同士、市民同士の関係であれば、そこが違った、ということである。

フーコーやドーヴァーなどを参照して分かるのは、そういう少年愛の実践が、当時の直接民主主義的な政治体制、そして、「対等」であることを理念とする関係性などと密接に結び付いていたことが分かる。少年と彼を愛する年長者、「念者」との関係を考えてみると、色々と制約、条件があったのである。例えば、フーコー、ドーヴァーを読んでそう言っていたのだと思うが、昔浅田彰が言及していたが、古代ギリシアアテナイの性的な実践においては、少年の側は快楽を感じてはいけない、とされていたそうで、勿論現実にはそういうことはなかったとしても、規範としてはそうだった、ということである。

もう一つは、直接民主主義的な政治への市民としての参加、という問題もある。少年もやがて大人になり、都市国家の政治に関わっていくわけだが、若い頃他の男性に従属していたとか、或いは、売春をしていた、という事実が暴かれたり、事実でなくてもそういう噂を立てられてみんなが信じてしまえば、政治的に失脚してしまう、ということがあったようである。

フーコーなどの論点は、古代世界においては、同性愛 / 異性愛という概念の対ではなく、能動 / 受動という対が問題だった、ということなのだが、そうすると、少し難しい問題が生じてくる。少年と念者の間には、恋愛関係や性的な関係があっただろうが、少年が念者に従属する、ということではいけなかったし、もしそうであれば、政治的な権利、市民としての権利を(能動ではなく受動に陥ったという理由で)喪うことになってしまった。

廻り道をしたが、私が最初、言うつもりだったのは、美意識が古代と現代で違う、ということである。アテナイでは、美の規範は少年であり、それも、髭が生えていないような年齢の少年であった。現代の同性愛における美意識や性的な好みは多種多様だが、一つ確かにいえるのは、そういう少年愛的なものだけが美の規範ではない、という事実である。

古代ギリシアだけではなく、例えば、近世、江戸時代の日本でも、同性愛的な、或いは男色の美の規範は当時少年だったのではないか、と推測できるが、次のような歴史的な経緯を考察してみたらどうだろうか。歌舞伎が生まれると、最初は女性が演じていたが、売春など風俗を紊乱するという理由で禁止された。そうすると、若衆歌舞伎というかたちで少年が演じるようになったが、その彼らも性的な対象になったし、また売春などをしたので、それも禁じられた。そして最終的に、前髪を剃り落とした成年の男達によって演じられる、という形態になった。そういう男達、役者達は性の対象にならなかったのかどうか、は分からないのだが、当時、女性だけではなく、基準としては前髪がある、剃っていない、ということだが、少年も性的な対象と見られていた、ということは推察できると思う。

古代ギリシアアテナイを考えてみると、当時には、近代の我々にとっての「人格」、「自由」などはなかったはずだが、そうはいっても、自由市民と奴隷の区別はあった。推察してみると、奴隷の人々は、女性であれ少年であれ、主人、奴隷所有者の恣意で、肉体を消費され享楽されていたのではないか、と思われる。そういうことは当時、広く行われていたはずだが、問題にされてきたのは、自由人同士の困難な関係性のほうである。

そういうことから私が考えたのは、現代社会の問題性である。例えば、日本人男性がアジア諸国に買春ツアーに繰り出す場合がよくあり、倫理的に非難されているが、その対象は女性であったり少年であったりする。そしてそういう関係性は、純粋に貨幣、金銭を介した売る / 買うというものである。

私は別に、そういうことが道徳的に善いか悪いかを言いたいわけではないのだが、古代人が奴隷との関係だけで満足できなかったように、現代人の多くも買春ツアーだけでは満足できないのではないだろうか、ということである。

何もフィリピンとかタイまで行かなくても、新宿二丁目には売り専バーがあるが、ドキュメンタリーの類いを参照すると、その客達というのは、ビジネスマンなどとして働いていて、故に少し金銭ならあるが、しかし時間がないし、一々恋愛しているような暇がない、余裕がない、といったタイプの人々である。だから彼らは少年を金銭で買うわけだが、ただそれだけの関係で満足できるのだろうか、ということである。セックス・ワークの是非については議論があり、そういう商売をする人々も個人の自由であり、人権ではないか、という意見があるし、それはそうだと思うが、売る側も買う側も、貨幣による関係だけでは最終的に満足できない可能性もあるのである。

金銭関係に還元されない「恋愛」、性に還元されない「愛情」などは、プラトンにおける二重性、感覚的な快に還元されない「美」を想起させるし、それらは、イデオロギーとまでは言わないが、想像的な次元である可能性がある。

例えば、結婚を考慮してみても、現在の日本がどうかは分からないが、かつては、自分だけでは暮らしていくことができないという理由で結婚を選択していた女性が多かったはずだし、そこには、事実上従属関係があったはずである。それが全てではないのだとしても、経済的な利害が関わっていたわけである。

身体的、生理的なレヴェルを考えてみると、女性の身体の構造のことはよく知らないが、男性の身体についていえば、性的な欲望、欲求が高まる場合があり、それは、一定の性的な行為の結果、射精に到達すると消滅する。それはただ単に生理的な過程だから、排泄と同じだが、人間の性的な行為とか、さらには恋愛も含めたそれが、生理的な過程、ただの自然、生物などに還元されることはないであろう。

よくロマンティック・ラヴとか情熱的な恋愛などが、近代のイデオロギーなのだ、という意見を耳にするし、実際にそうだろうとは思うが、では、近代以前の人々が、純粋に生理的な欲求という理由だけでセックスをし、経済的な動機だけで夫婦関係や家族などを創っていたのかどうかは、もう少し検討してみたほうがいいような気がする。

『問いただす人』

2000年より前に読んだバークリの経済論について書きたいが、それは東京大学出版会から1971年に翻訳・出版された『問いただす人』というものである。そこでバークリが展開している主張を一言でいえば、アイルランド中央銀行を創って貰いたい、というものである。

当時イングランドには中央銀行があったようだが、アイルランドにはまだなかったようで、バークリはアイルランドの知識人としてそれを憂慮したのである。というのは、銀行も私立、私企業としてのみあり、倒産も多く、経済が混乱していたからだ。

そういうバークリの意見は、「存在するとは知覚されることである」という彼の唯心論哲学の体系とは関係がないし、そういう意味で彼は「実践的」な人だったのではないだろうか。晩年には「タール水」というものに嵌ってしまったのだが、どうも彼はそれが医学的にも有効で、人々を救う、と思い込んだようだが、実際には効能は確かめられないようである。今日でいえばホメオパシーを想定すればいいのではないかと思うが、効果が定かではない民間療法は今も昔も多いわけである。

レーニンの『唯物論と経験批判論』ではマッハ主義、科学者のエルンスト・マッハに影響された当時の知識人・活動家が批判されているが、レーニンはそこで、マッハ主義の起源はバークリであり、マッハ主義はバークリの唯心論の再版であり、現代科学で粉飾しても内容は同一だ、と考えたわけである。本当にそうなのかどうかは、マッハそのものをよく調べなければ分からないのだが、そういうレーニンの立場から窺えるし考えるべきなのは、近代的な、つまり19世紀後半・20世紀以降の唯物論の成り立ちとその前史である。

近代以降唯物論とされてきたようなものは、中世には唯名論、17世紀には経験論、18世紀には感覚論、機械論的唯物論などとして徐々に展開され、19世紀にはマルクスエンゲルスの立場が正統的なものと考えられ、20世紀にはそれをレーニン以降の人々が展開してきたはずである。そうすると、バークリは一応経験論哲学ということになっているのに、どうして、ということになるわけだが、イギリス経験論のなかでもバークリは特殊なのではないだろうか。

ヒュームにおける懐疑論的な契機においては、ひょっとしたら物理学的な知の確実性も疑われるのかもしれないが、それでも、ジョン・ロックデイヴィッド・ヒュームにとってはニュートンの物理学は知の規範であり、ニュートンが物体について遂行し実現したのと同じことを知性、精神、心についてやりたい、というのが、彼らの認識論の成立の動機である。世俗的な人間であるロックとヒュームは、ニュートンを疑うとか否定する契機や理由はなかったはずだが、聖職者であったバークリの場合はそこが違う。

ロックが導入した「観念」という用語を自分なりに発展させながら、バークリは、確か、ニュートンの物理学に論争を挑んでいたはずだが、彼なりの哲学の原理からみれば、そういう自然科学の知識の確実性も疑わしいのではないか、という議論だったと思う。

別に物理学を疑ったからそれが良くないという話でもないのだが、少なくとも、イギリス経験論として一括りにされていても、ロック、バークリ、ヒュームの立場はそれぞれ違うし、それから特に、世俗的で現実的な傾向のロック、ヒュームと、宗教を擁護するバークリではそもそも哲学の動機が異なる、ということに注意したほうがいいであろう。存在するとは知覚されることだ、という意見を徹底すれば、誰も知覚していない出来事は無いのと同じだ、という極論が出てくるが、バークリは、実は、世界の全てを神が見ている、知覚している、という救いを用意している。現代の我々がそういうキリスト教的な発想に同意できるかどうかは、全く別問題なのだが。

限りなく、限りなく……

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』について色々考えることもあるが、その一つは、ジェヴォンズを取り上げるなら、マルクス経済学と近代経済学の関係という難問に行き当たるはずなのに、彼らがそのことを少しも考えていない、ということである。

彼らは「限界効用」説に非常に特殊な解釈を施しているのだが、その当否はともかく、ジェヴォンズについてごく簡単に振り返っておくと、彼は19世紀イギリスの万能人的な思想家だが、若くして死んだために、その仕事はどの分野でも先駆者的なもの、萌芽的なものに留まっている。例えば、近代経済学新古典派経済学理論を確立したのはマーシャルなどであって、ジェヴォンズではない。また彼は、科学認識論、科学方法論について書いただけではなく、近代の記号論理学のパイオニアの一人でもあったが、彼の論理学、論理思想が主流、スタンダードになったというわけでもない。

どうしてドゥルーズジェヴォンズを好んだのかといえば、ジェヴォンズが「快楽と苦痛の微積分学」といういかにもドゥルーズ好みの物言いをしているからなのだが、そうはいっても、たまたまジェヴォンズがそういうことを口走ったということと、「限界効用」理論が快楽と苦痛の微積分学の実現なのかどうかは別問題である。

「限界効用」理論などを戦前、福本和夫は非科学的と看做したのだが、少なくとも、心理的であることは確かである。例えば、私が、喉が渇いているとする。ところが、水を飲むことができない。そういう状態が続くと、そのうちに、渇きは極限的な状態に到達する。そこでようやく、一杯の水を飲み干すとすると、そのときの快楽は強烈であり、最大である。ところが、水を、二杯、三杯、それ以上というふうにどんどん飲むと、快楽は薄れていく。

ドゥルーズ=ガタリの解釈が特殊だというのは、そういう「限界効用」を、アルコール中毒の患者の「最後の一杯」とか、夫婦喧嘩における「最後の決定的な一言」と結び付けるからなのだが、確かにそういう事象にしても心理的なものではあるが、経済学的にどうこう説明することができるものではないように思われる。そういう意味で、ドゥルーズは妙に文学的であり、実存的である。