サブカル論争

仕事の合間にちょこっと片手間に更新してるだけなんだが、僕は傍観者としてネットを眺めるだけで、でも不思議に思うことがたくさんある。最近のTwitterの「サブカル論争」などもそうで、政治学者の(「自称」ではないらしい。「詐称」でも。僕は「運子の海を漂う詐称哲学者」だそうだがw)こたつ猫こと木下ちがや氏によれば、まあリツイートですが、それで3.11以来のさまざまないざこざの「結着がつい」て「なにかが炙り出された」そうだが、僕にはなんのことやらさっぱりわからない。

「詐称」哲学者というよりも『沙粧妙子』マニアの「沙粧」ヲタとしては、90年代サブカルがいい悪いとかなんの話だかわからない。どうやら冷笑的で参加しないとか、もっとざっくばらんに申し上げれば俺たちに協力しないのがけしからんというような話のようだ。そうして、まあ、神学者連中やろくでもない詭弁家やデマゴーグ、イデオローグには他人を非難する理由はでっち上げやケチ、難癖を含めて幾らでも見つかるわけである。

サブカルがどうの、90年代がとかわけがわからない、意味不明だが、どうもその只中にいた山本夜羽音氏や北田暁大氏らも木下氏らに賛意を示して「転向」している。「転向」っていっちゃ悪いかな? 東浩紀氏も「転向」したそうだが、実に素晴らしいことである。80−90年代の気分で非政治的に惰眠を貪っていてはいけない、けしからんそうだが、知ったことではない。僕は「非転向」である。もちろんトチ狂った政治主義者どもの意味でそうなのではない。

この手のことは最低限の法整備だけしてあとはほっとくのが一番いいのである。それ以上はすべて余計だ。君らは素晴らしい人間性による美しい社会を作りたいのかもしれないが、そんなもん作っていただかなくて結構。僕は全力で邪魔をします。反革命としてね。昨日一番笑ったのは「ベビーカー論争」。確かに電車に妊婦やベビーカーを押したお母さんがいたら席くらい譲ったほうが優しい人だなとなるかもしれない。だが、あんたらのそのくだらねえパリサイ人根性は一体なんですか? 僕は今後絶対に席を譲らないことに決めました。

だいたい橋下騒動からそうだった。橋下の政治的失言からあちこちに飛び火して、東氏も「男性の身体は性欲をインストールしたマシーン」でやられたが、友人のI氏も矛先が自分に向かわないかと神経質になっていた。I氏は風俗通いをしていると公言していたからだが、必ずしも杞憂や被害妄想ともいえないのは、共産党性風俗産業の規制強化を掲げていますのでね。どこまで飛び火するかわからないわけだ。

フェミの、またそれ以外の女性や理解ある男性たちからの非難の声も予想されるが、I氏に関しては僕は彼ではないので代理で反論するとかいうことはあり得ない。だが、今回の「サブカル」がどうのについては首を傾げ、全くどうかした政治狂どもの寄り集まりなのだと結論している。

話がちがや?

2ちゃんねるで早速、「差別感情剥き出しのレイシスト・ブタダシ」とか書かれたが、僕が君たちを侮蔑するように君たちのほうも侮蔑は自由である。「そうさ?」と佐野史郎のモノマネで言いたい。

そんなことはともかくとして、市民運動や左派が反差別、反レイシズムなどの「政治的に正しい」何かを提起しても、「そうはいってもオレはそんなに正しい生き方してないし、倫理や道徳や正義を強いられても……。それに言う資格あるのか?」と躊躇するのが普通である。だけれども、「ザイトクがひどすぎるから。現場の声を聴いてくれ」とか言われて、とりあえず「そうなのかな」と思うくらいだ。ところが、話があっちゃこっちゃ飛んで、やっぱおまえにも「正しい生き方」を求めるとかいうことになったら、「話がちがや?」と思わないか? 僕は思う。

今回のサブカル論争でいわゆるカウンター側と小田嶋・町山両氏らのやりとりを見ていてそう思ったが、唐突なようだが戦前の小林秀雄と左派の関係を思い出した。類比は限界があるので、そういう留保をつけたうえでの話ですが。柄谷が『近代日本の批評』昭和篇(戦前)で主張した、もともとは平野謙の推測だという小林秀雄が広汎な抵抗のつながりを模索していたという説がある。左翼にとどまらない文学者や政治的自由主義者たちを含めたということだが、仮に平野・柄谷の推測が正しかったとしても(これは大川隆法にでも訊かないと分からない)、左翼知識人・言論人、戸坂潤や中野重治の反応は冷たかった。上述の推測が正しいかどうかを確証する方法はなくても、戸坂の『日本イデオロギー論』における小林を含めた「自由主義者」への批判を読むことはできる。いろいろな意見はあろうが僕はろくでもないと思うが、左翼ってのは100年経っても変わらない部分があるのかなと感じる。

なるほど僕はもちろん(当たり前)、町山氏や小田嶋氏も小林秀雄ではない。木下ちがや氏や野間易通氏も戸坂や中野ではない。それはそうだが、「政治的自由主義者」……。文化人とかなんですが。小林とか西田幾多郎とかね。そういうものに教条的な批判ばかり差し向ける左翼ってどうなのよ。文学主義とか文学者とかに「サブカル」を代入してごらん。政治的自由主義の代わりに経済的新自由主義とかを代入してごらん。そうして本当のところ、問題は政治や経済だけではない。まさに文化なのだ。文化というか主観性というか、ひとびとの……。そこに介入するやり方をどう思うのか、是非皆さんにおうかがいしてみたいところだ。

いやウソだ。君らの意見なんか読みたくない。