おはようございますにゃん

数時間眠ったが風邪が酷い。くしゃみ鼻水だけでなく熱も出てきた。今日レッスンがないのは幸いだが、病院か薬局に行こうと思う。昨晩からあれこれキーボードを試していて、それはどれも快適だけれども、稼ぐために時間の過半が奪われる。本末顛倒だなと思うが致し方がない。そうしてまた悪夢に魘された。なにかの団体の構想でその構成員が腕を折って廻っているという。とにかく猫を可愛がってあとは病院と図書館だ。

鶴見俊輔『読書のすすめ』

 倉庫を隣りのガス屋に貸す関係でなかの古い荷物を出してきて整理し、不要な家具類や大半棄てたのだが、後は小学生の頃から大学に至るまでの私の厖大な原稿と若干の書籍である。昨日はたまたま鶴見俊輔『読書のすすめ』(潮出版社)を出してきて読み始めたが、これが大変に面白かった。
 特に「花田清輝の方法」なる一文が面白かった。いま現在の私などは、鶴見のようなリベラルな市民主義者と左翼の間に溝を予想しがちであるが、当時の彼らにはそういう狭隘な精神はない。実のところ、いまもそういうことはほとんどないのだが、鶴見について書く前にそのことに一言すると、革命を目指すというようなラディカルの退潮はもはや決定的になっているので、60年安保のときは『共産党宣言』を持ってデモに集まったが、いまのシールズなどは『日本国憲法』だというところに時代の変化がある、というレイバーネット木下昌明の短評、かつての自民党ハト派、穏健保守の流れを汲む/継ぐのがシールズではないかという某記者氏の意見、『現代思想』誌『戦後70年』における樋口陽一杉田敦の対談における言葉の肯定的な意味における「生活保守主義」という観点。これを押さえておけば、左翼といっても共産党のかなりの部分までいまやリベラル市民派として、わけのわからぬ新左翼の教祖たちよりは鶴見の庶民思想、街頭思想を継承しているのだということがわかり、つねづね批判的にしか言及していないが、木下ちがやの発言からも了解されるところである。
 そういうふうに、左翼的な大胆な変革をあくまで目指すひとたちと、生活保守というかどうかはわからないが、とりあえず戦後70年現状の良いところを維持していきたいというひとたちとの決定的な対立や溝は薄れてきている、なくなってきているのだというふうにみるとしても、だからこそ余計に思想面では対立の線を引かざるを得ない一群のひとたちがいるということで、故・武井昭夫の流れを汲むひとたちと、それから文芸批評においてはスガ秀実である。スガは樋口ではないが、誰の主張だったか肯定的な意味合いでの生活保守主義という誰かの意見を揶揄していたが、スガ氏については私は最近の著作はほとんど全く読まず、『反原発の思想史』くらいまでで放擲して、後はツイートを読むくらいであるが、スガが吉本隆明を執拗に罵倒するのは、アルツハイマーなどと。それは最初からのことだが、いま現在の彼に思うに1960年の時点の吉本のポジションのヘゲモニー的な乗り越えや簒奪、超克を目指しているのではないか、ということで、その後いかにというかどこまで保守化したのだとしても、そこまでの吉本には戦後民主主義が「擬制」、欺瞞とまではいわないがフィクション、虚妄であるという強い批判はあった。フィクションだから駄目だというだけでは余りに幼稚だし、その後の吉本はというか、彼自身後年振り返るように、60年安保の敗北をもってもはや変革は不可能だとみてそういう意味で《戦後が終わった》と認識したのだった。そういう意味では、80年代の我が「転向」は既に当時に論理的には準備されていたと申し上げてもよい。
 話が本題の鶴見になかなか戻らないが、そのことに関連してもう少しいえば、標題優位どころか「歌詞オンリー」な吉本の歌謡曲論だが、彼は60年安保までは赤旗の歌やインターナショナルを好んで歌っていたが、それを機に以後歌えなくなってしまった、と書いている。『蛍の光』の二番以降が帝国主義的、植民地主義的な内容を含むのでいやだというレヴェルではないはずであり、60年にどういう転換があったのかと考えてみると、共産党への違和感だけならそもそもデビュー前の自滅的な労働運動を繰り返していた頃から強烈に持っていたはずであり、生真面目に過ぎるというか、そういうことと歌は関係ないだろうという吉本のその心境の変化は、共産党がどうのに限らない左翼的な運動や理念からの距離感を示すものだったのかもしれない。私自身も、労組をやめてからも長らくインターや国際学蓮の歌などはそれほど大嫌いでもなかった。組合関係だとか左翼だとか自称する連中にネットで滅茶苦茶に攻撃されるまでは、ということである。そういうものだろう。
 さてここでようやく話を鶴見に戻すことができるが、鶴見の花田論で面白いのは生活綴り方運動への評価である。これまた木下ちがやが肯定的にSNSとからめて評価し、他方吉本は作文として言葉を書く大衆はもはや大衆ではないと???を述べていたとか述べていないとかだが、それは先日示したように『自立の思想的拠点』所収の「日本のナショナリズム」である。しかし、80−90年代の言語論言語観から鑑みるに、吉本の難解な語彙による批判は教条的であったとしても、作文の時点で大衆存在ではないからいかんという次元だけであったというのはどうも木下の側の単純化ではないかと疑う。これまた吉本のソシュール曲解といわれるものだが、前田秀樹『沈黙するソシュール』の書評で彼は、ソシュールが語られた言葉のみを言語学の対象としたことからソシュールの絶望が生まれた、自分はそのような絶望を回避するために最初から書かれた言葉だけしか対象にしなかった、と述べている。『言語にとって美とはなにか』でよく揶揄される、古代人が海を見て「う」と思わず漏らしたというそれこそ《フィクション》としか捉えようのない何かを思い起こせば、へえ、そうかいというようなものだが、その初源の光景の《幻視》はともかく、彼の主要な関心は書き言葉どころか日本近代文学の言葉にしかなかった、というのは明瞭なことだろう。そこで綴り方〜大衆存在がどうのの議論に戻るならば、どうしようもないドタバタナンセンス喜劇にしてしまわない唯一の解釈は、素朴な大衆存在なるものをそんなに簡単に接近可能ななにかとして想定することがそもそも間違いである、それがただの作文であれSNSであれ、《書く》ということそのものを含めた何らかの間接性、媒介性の考慮が二重三重に必要だという、俗流であろうとなかろうとヘーゲル思想的な媒介、反省の観点からみるべきではないか、ということであろう。
 鶴見に戻る。八〇ページから八一ページである。
 《それから、生活綴り方について。これは『さまざまな戦後』の「記録芸術論」に出てきます。久野さんと私の書いた『現代日本の思想』の「生活綴り方運動」のところで批判した同じ線上で出てくるんですけれども、花田の生活綴り方運動の批判は、生活綴り方運動は“実感を固定する”ということなんです。ある時ある場合に自分はこう感じたという実感をそのまま生活綴り方で記録として書き得たと思ったところに、実感の描写そのものが固定する、実感を描写したとしても、それがピンでとめたような死んだ記号になる、ということなんです。もしそれがもとの生きている状況における実感だとすれば、実感なるものも絶えずゴムまりのようにバウンドして動いている。いくつもの可能性を持っているんです。それが生活綴り方の中で死んでとらえられるんじゃないか、そして実感はこれだというのが固定してしまうんじゃないか、という批判です。
 これは豊田正子批判に集中するわけで、そのような実感の固定したとらえ方をすれば必ず硬直化するんで、ある教条にべったり自分を結びつける方向に行くのは、当然の発展として出てくるんじゃないか、ということでしょうね。私は生活綴り方はそのような落とし穴をもっていると思います。だからといって、トータルに否定するのではない。実感をピンでとめるのではなく、生ける記号として使いこなす道も生活綴り方の中にまたある、と私は思います。だから、花田の批判が一つはさまることで、「やっぱり生活綴り方運動じゃだめなんだ。真のマルクス主義に目覚めよう」というのでは、花田の批評を生かすことにはならない。そういうことを花田は要求しているのではない。おのずから別の生活綴り方運動があり得る、別のものに目を向けるという方向があります。》
 私の感想をいえば、実感の固定が教条への硬直に飛躍する、転化するというのは非常によくわかる。もうひとつは、このひとたちは批判や批評ということをなにか生産的に活かすということをよく知っていた、そういうことの達人であってもはやそれは立場は超えている。他方いまはそのことが一番欠けているのではないか、ということである。

無題

 窓の外は雨が降っている。予報によれば、不安定な気候は木曜迄続くそうだ。今朝──いや今晩は、元気な猫二匹に起こされた。気付けば二匹とも戸の隙間から入り込んでいたのだ。まんマルとボンねこの二匹だが、これ以上仔猫が増えても飼い続けるのは大変なので、避妊手術も必要かなあと思案する。かわいそうだが、家中猫屋敷のようになっても……。猫は可愛いのだが、餌代も掛かるしトイレの世話もしないといけないし、構って遊んであげないといけないし……。そういえば昔知り合いが引用していたが、モンテーニュだかに人間が猫と遊ぶとき、実は猫に遊ばれているのではないかどうかはわからない、という箴言があるそうだ。モラリスト……人性観察家というだけでなく、猫性観察家か。
 もう配布が必要なものは在住地区に四〇〇前後しかないので、雨が強いおりは配布には出ない。本日は九時から病院でリハビリである。十一時にはメール便の荷物が届くと思う。リハビリはここ数日多忙を極め、特にはやっていないが、仕事で右手も使うため動きもどんどん良くなってきてはいるようだ。だが、まだ痛みはあるし若干熱を持っているし、昨日も原付の下敷きになってしまったが、幸いにもかすり傷一つ負わなかった。やはり神の御加護があるのだろうか。
 反対派は「戦争法案」と呼ぶが、それはともかくとしていま話題になっている安保法案への反対が六六パーセントだという報道がJNNか何かで出たのを先程ヤフーで拝見した。見出しだけで中身は読んでいないが──読む必要がないし──、昨日の配布と配達が「六六六部」という幸先と縁起の良い数字だったことを想い出した。尤もそれ以外に二つ仕事はやっており、それは加算していないから適当なのだが。日曜日の午前に、勿論私が観ているわけではなく両親が観ていたのだが、関口宏サンデーモーニングでシールズなどの国会前抗議や「総がかり」が絶讃されているのを見掛けて不愉快というか鼻もちならなかった。あらゆる政治的発言や批判や「行動」が嫌いだからだが、これまたジャギやアミバ的なダークな嫉妬感情なのだろうか。とか、また漫画に飛躍するわけだが。漫画の話に転ずれば、漫画なのだからコミカルであり、省略や類型化が効いているのは当たり前のこととして、嫉妬や裏切りなどの捉え方や描き方も毎回同じだなあとは思う。
 『北斗の拳』についてそのテーマは「悪の可愛らしさ」だと申し上げたのは、人間そのものの面白さが誇張的に描かれているということであって、ケンシロウやレイなどの善玉、ベイビーフェイス、ヒーローは人形のようなものである。人形といえば、初回登場時のユリアは精巧な人形だったわけだが、この漫画に出てくる女性たちはほとんど全員お人形のようである。そうでなければ、マミアのように「女を捨てて」戦いに生きる女性、さもなくば子供であるかだが、そこに『少年ジャンプ』的なというか、食い気色気より戦いという傾向や嗜好や価値観の色濃い表出を看て取るのも、あながち間違いではないように思われる。

無題

 昨日のエントリーを「独りよがり」「意味不明」という声があって驚いている。内容への賛否、文章の出来不出来についての感想はあると思うが、書いてあることがわからないということだけはあり得ない。Twitterなど世の中の論調をチェックしていると、冷笑派はありもしないウヨサヨを脳内ででっち上げて喋々している、というものがある。なるほど、そういうこともあるのかもしれないし、そういうことを並べ立てるひとは御自分はウヨサヨ関係なく「いのち」のために動いているとかいう結構な御自覚なのかもしれない。けれどもウヨサヨでないとしても、そういう人々とそうではない圧倒的多数の人々の間には越えがたい距離がある。もちろん、そんなことは当人たちにも重々承知されていて、挑発のために敢えてそういうことを喧伝しているのだろう。だとすれば、挑発に乗って発奮するのではなく無視する、または「逆をやる」のが得策である。
 わたすはただ単に「普通の市民」である。いのちだの未来の子どもだののためにやっているだけだ、という御目出度い連中のほかに自覚的にウヨサヨの「敵対性」を語るよりイデオロギー的な連中もいる。はじめに申し上げたものとそういうやや「戦略的」(?)な連中が混在しているのがややこしいところだが、ぼくが思うに冷戦終結イデオロギーは終わって、すべてが「コモンセンス」になったというダグラス・ラミスの意見ほどその後誤謬が露和になったものはちょっとほかにない。反戦平和も脱原発も少しも「コモンセンス(常識)」ではない。普通でも当たり前でもなんでもない。ソ連という仮想敵国がなくなったとか、ホンモノだか虚偽だか外部の人間にはあずかり知らぬところだが、社会主義体制の巨大な親玉が崩壊したとか、だから、戦争に反対しても他国や異なる体制の陣営を擁護する為にする議論や行動だと疑われなくなったとか、脱原発もただ単なる素直な常識とやらになって、少々込み入ったモンダイは消えうせたとかいうことはない。まったくない。少なくとも3.11以降のその手の主張の大多数にぼくは賛同しない。 ── おまえはそう政治的社会的問題にすり替えるが、文章や演奏の内容が低次元なのだと非難されれば、それはすいませんねと舌を出すしかないが、それはともかくとして……。
 確かに自分の文章やそのほかの何やかやは大したものではないであろう。その証拠にこの年齢になっても世に出ていない。それはそうだが、ウヨサヨ脱原発/反反原発(?)、政治モンダイと無関係とか、脳内で捏造したウヨサヨのイメージだというわけには参らない。わからないとか何だとかかんだとか、独りよがりだとか意味不明だと謗られた昨日のエントリーですが、ぼくが列挙したひとたちは妄想や捏造ではなく、事実存在したひとたちでしょう。そうして一体どういう反新自由主義反グローバリズムなのか、フード左翼なのかと心底呆れたが、ひとがそのへんのスーパーで半額で買ってきたマンゴー・ジュースを愛飲していたら《プランテーション・ジュース》だとか非難されるというのは、ほんの偶然や表層においてであっても、運動とかいうそれこそわけのわからぬ妄動と関わってなければあり得なかったことでしょう。そういうことには本当に心底迷惑しているんだ。《俺は左翼でもなんでもないが、だがしかし》というならば、恐らくC3のいうように、「新自由主義」とかいうのが悪口になるなんてさすが共産党板だな、と呆れるのが本当だろうと思います。

無題

 昨日のエントリーを「独りよがり」「意味不明」という声があって驚いている。内容への賛否、文章の出来不出来についての感想はあると思うが、書いてあることがわからないということだけはあり得ない。Twitterなど世の中の論調をチェックしていると、冷笑派はありもしないウヨサヨを脳内ででっち上げて喋々している、というものがある。なるほど、そういうこともあるのかもしれないし、そういうことを並べ立てるひとは御自分はウヨサヨ関係なく「いのち」のために動いているとかいう結構な御自覚なのかもしれない。けれどもウヨサヨでないとしても、そういう人々とそうではない圧倒的多数の人々の間には越えがたい距離がある。もちろん、そんなことは当人たちにも重々承知されていて、挑発のために敢えてそういうことを喧伝しているのだろう。だとすれば、挑発に乗って発奮するのではなく無視する、または「逆をやる」のが得策である。
 わたすはただ単に「普通の市民」である。いのちだの未来の子どもだののためにやっているだけだ、という御目出度い連中のほかに自覚的にウヨサヨの「敵対性」を語るよりイデオロギー的な連中もいる。はじめに申し上げたものとそういうやや「戦略的」(?)な連中が混在しているのがややこしいところだが、ぼくが思うに冷戦終結イデオロギーは終わって、すべてが「コモンセンス」になったというダグラス・ラミスの意見ほどその後誤謬が露和になったものはちょっとほかにない。反戦平和も脱原発も少しも「コモンセンス(常識)」ではない。普通でも当たり前でもなんでもない。ソ連という仮想敵国がなくなったとか、ホンモノだか虚偽だか外部の人間にはあずかり知らぬところだが、社会主義体制の巨大な親玉が崩壊したとか、だから、戦争に反対しても他国や異なる体制の陣営を擁護する為にする議論や行動だと疑われなくなったとか、脱原発もただ単なる素直な常識とやらになって、少々込み入ったモンダイは消えうせたとかいうことはない。まったくない。少なくとも3.11以降のその手の主張の大多数にぼくは賛同しない。 ── おまえはそう政治的社会的問題にすり替えるが、文章や演奏の内容が低次元なのだと非難されれば、それはすいませんねと舌を出すしかないが、それはともかくとして……。
 確かに自分の文章やそのほかの何やかやは大したものではないであろう。その証拠にこの年齢になっても世に出ていない。それはそうだが、ウヨサヨ脱原発/反反原発(?)、政治モンダイと無関係とか、脳内で捏造したウヨサヨのイメージだというわけには参らない。わからないとか何だとかかんだとか、独りよがりだとか意味不明だと謗られた昨日のエントリーですが、ぼくが列挙したひとたちは妄想や捏造ではなく、事実存在したひとたちでしょう。そうして一体どういう反新自由主義反グローバリズムなのか、フード左翼なのかと心底呆れたが、ひとがそのへんのスーパーで半額で買ってきたマンゴー・ジュースを愛飲していたら《プランテーション・ジュース》だとか非難されるというのは、ほんの偶然や表層においてであっても、運動とかいうそれこそわけのわからぬ妄動と関わってなければあり得なかったことでしょう。そういうことには本当に心底迷惑しているんだ。《俺は左翼でもなんでもないが、だがしかし》というならば、恐らくC3のいうように、「新自由主義」とかいうのが悪口になるなんてさすが共産党板だな、と呆れるのが本当だろうと思います。