MG le Clézio 「2015年1月11日の翌日の娘への手紙。」

JMG le Clézio 「2015年1月11日の翌日の娘への手紙。」

« Lettre à ma fille, au lendemain du 11 janvier 2015 » par JMG Le Clézio, Le Monde, le 14 janvier 2015

お前は、テロリストたちの行為に抗議するあの巨大なデモに参加することを選んだ。僕は、お前が、犯罪行為に立ち向かい、狂信者たちの無差別的な暴力に立ち向かう者たちの列に伍してそこにいるこができたこと、そのことを、お前のためにうれしく思う。僕もお前と一緒にいたかった。だけど僕は遠く離れていて、実を言うと、あんなにもたくさんの人のいる運動に参加するには少し年を取りすぎたと感じている。お前は熱狂して戻ってきた。デモに参加した人々の真摯さと堅い決意を見て。たくさんの若者たちがいたし、そんなには若くはない人たちもいたことに。シャルリー・エブドをよく知っている人たちも中にはいたし、話を聞いただけの人もいた。でも、皆が、テロの卑劣さに憤っていた。殺された者たちの家族が、列の先頭に立ち、毅然と参加していたことに、お前は心を打れていた。

歩きながらお前は、アフリカ系の小さな子が、自分より背の高い手摺りのあるバルコニーの上からこちらを見ているのに気がついた。僕は、それが、フランスという国の人々の過去のすべての歴史の中でも、強烈な瞬間だったと思うのだ。方向を見失った知識人たちは、その歴史について、弱々しく悲観的で、膝を屈し無気力に陥っていると見たがっていた。この日のできごとは、私たちの多元的な社会を危ういものにしている、亡霊のような対立の脅威を退かせることになるだろう。

パリの街や他の場所を無防備で歩くには勇気が要ったに違いない。警察の連携行動ががあれほどに完璧だったにしても、新たなテロの危険はまちがいないなく存在した。お前の両親はひどく心配した。しかし、その危険に勇気をもって挑んだお前のほうが正しかった。そして、世界中からやってきたこれだけのいろいろな人を一つに集める時には、いつも奇跡的なことが起きるものだ。そしてたぶんそれは、お前の見た、バルコニーの手すりよりも小さな子供の目の中にも起きたかもしれず、彼はそれを一生忘れないだろう。

それは起きた。お前はその証人だ。

そして今、大事なのは、それを忘れないことだ。大事なのは -- それはお前の世代のにかかっている。というのも僕らは人種差別的犯罪や狂信的な暴走を止めるすべも知らず、止めることができなかっのだからだが - - お前がこれから生きていく世界が僕らの生きた世界よりもよりよいものになるように行動することだ。それはとても難しい仕事だし、やりとげられるのはほとんど無理かもしれない。それは、分かちあい、意を交しあうという試みだ。

これは戦争であるのだと聞いた。もしかして、悪霊がいたるとろにいて、ちょっと風が吹きさえすれば、またたく間に広がり、私たちを焼き尽すものかもしれない。しかし、考えるべきなのは、お前は分かっているかもしれないが、それとは別の戦争だ。不公正に対する戦争、一部の若者たちが打ち捨てられることに対する戦争だ。住民の -- フランスで、そして地球上の他の地域でも -- 一部の者たちを計算高くわざと忘れ、文化の恩恵と社会的成功の機会に与らせないようにしていることへの戦争が。

3人の、フランスに生まれ育った殺人者が、その犯罪の野蛮さで世界じゅうの人々を戦慄させた。しかし、彼らが野蛮人であるのではない。彼らは、私たちが、高校で、地下鉄で、日常の生活の中で毎日、いつの時だろうとすれ違うような人たちなのだ。その人生のある時点で、彼らは非行へと走った。悪い仲間とつきあうことになったためか、学校で落第したか、周りの世界が彼に門戸を閉ざして自分のいる場所がなくなったと思っためか。ある時点で、自分の運命を自分で決められる存在ではなくなった。ふと吹き込んだ復讐の思いが心の中の炎になり、そして、疎外の形でしかないものを宗教だと思ってしました。


今止めなければいけないのは、地獄へ落ちていくこの歩みだ。でなければ、こんなふうに皆で歩いたのは一時のもにしか過ぎず、何も変えることはないだろう。皆が参加しない限り何も起きないだろう。ゲットーの囲いを壊し、扉を開け、この国に住む一人一人に機会を与え、その声を聞き、彼が他から学べるのと同じくらい彼から学ばなけばいけない。私たちの民主的な社会の基盤を蝕んでいる病を癒すために、精神の荒廃を治さなければいけない。

人々のあの巨大な集まりの中にいて歩きながらお前の心を打ったに違いないのは、その気持だと僕は思う。その奇跡的な瞬間の間、階級や出自の壁、信仰の違い、人と人の間にある壁はもはやそこには無かっただろう。フランスという一つの民だけが存在した、複数のもので成りながら一つで、多様でありながら一つの心として鼓動していた。その日から、お前といっしょにいた男も女も、その頭の中、その心の中で歩み続け、そして、彼らの後には、その子供、孫たちがその歩みを続けていくだろう。

公式訳が出るなり、権利上問題があるときは削除します。ご一報ください。

セミラ・アダム事件

別件でネットを巡回していて、

ある男性の死 ちょっと、それって・・・
http://mezaki.blogspot.com/2010/05/blog-post.html

という記事に行きあたった。

今年の3月22日、エジプト航空で日本から強制送還中のアブバカール・アウドゥ・スラジュ(Abubakar Awudu Suraj)というガーナ人男性がエジプト航空機内で死亡した、事件に関してで、それをめぐる法務省の対応、国内外のメディアの扱いなどを伝える。


このことに関して思い出したのが、1998年にベルギーで起きた Semira Adamu 事件。ベルギーに難民認定を求めていた20歳のナイジェリア人女性 Semira Adamu (セミラ・アダム)が、認定を受け入れられず、強制送還となったとき、機内で死亡した事件だ。

英語だとこのあたりが、簡単に事実を伝える。

Semira の強制送還の問題は、送還以前からすでに人々の注目を集めていただけに、この死亡事故は人々に大きなショックを与えた。

このときの強制送還の任にあった警察官の行動の適法性、政府、特に内務省の対応をめぐって批判的世論が沸騰し、内務大臣が辞任する問題にまで発展した。さらにこれをきっかけに強制送還の際の対応についての報告書が国の諮問による委員会によってまとまめられた。

事件の起きた9月22日は、5年後、10年後にも追悼行事が行なわれている。

検索すると、この事件を扱ったページは、大部分がフランス語だが、それこそ読みきれないほどあり、この事件の波紋を伺わせる。

画像検索 : http://www.google.com/images?q=Sémira%20Adamu
当時の報道を伝えるベルギー国営テレビの動画記録 (2010年3月) : http://www.youtube.com/watch?v=3yJBLOX6XUk



セミラ・アダムの事件が、ベルギーの世論をゆるがすこれほど大きなものになったのは、人々の注意をひくようなセミラ・アダムをめぐるいろなファクター(二十歳の女性、強制結婚を避けるための出国と不法滞在 etc)、当時のベルギーの国内事情が複雑にからみあってのもので、今回の日本の件と単純な比較はできない。同様な強制送還時の死亡事故はフランスでも起っており、それほどの大事件とならずに、新聞やTVの一つの記事として過ぎていく。

しかし、日本のこの事件が国外、特に欧州にで報道されるとき、多くの人々がベルギーのこの事件を思い出しひそかに引き合いに出すであろうことは、想像に難くない。この種の問題に特別なかかわりのない、そして当時隣国のフランスにいた私でさえ記憶の隅をつつかれたくらいであるから、この問題に特別な関心をよせ、日々かかわりを持っている人には特にそうだろう。そして上のベルギーの放送局による番組の放映日でも分かるようにこの事件についての記憶は今でも更新されている。

冒頭の事件についての、あるいは同様の性質の問題についての、日本政府、日本人の対応が、外部の目からどう見られるかにかかわる一つの与件として、紹介しておきたい。

この事件に関しては、日本語では唯一、当時の Ovniの短報で読めるだけのようなので、この記事の意義も少しはあるとか思う。

yskszkさんのこと

id:yskszkさんのはてなの日記の昨年5月19日のエントリーに5月26日から27日につけられたトラックバック群によって、ご本人が5月25日にお亡くなりになっていたことを知ったのは、27日の夜のことだった。

私自身が、いつものようにずるずるとはてなの日記を更新しなくなって、そしてはてな自体に間遠になっていても、定期的に日記を読んでいる数少ない書き手だった。そのころは、そうした日記をモバイルのフィードリーダーで読むのが常になっていたので、その異常なトラックバック群の存在に気がつかなかった。

ところがなにかの拍子に27日の夜、PCのブラウザで彼の日記を読みに行き、その不思議なトラックバック群を目にした。最初はその意味がわからず、何の冗談だろうと思っていたが、それらが真に意味することを悟ったときには、月並だが、頭から冷水を浴せられたような気持がした。

一度も面識のない方の死にこれほどショックを受けたのは初めての経験と言ってよい。

いくつかのことを思い出す。

右も左もわからないまま、はてなの日記を書き出していたころ、あるエントリーでアクセスが急増したと思ったら、それが彼の日記で紹介されていたためであった。そこからいろいろな方の日記とのつながりできたことを思えば、彼は、私に「はてな界デビュー」をさせてくれた大先輩であった。実はその著書や、書きぶりによって、しばらく私は、彼をはてなの関係者の方かと思っていた。

10年以上、日本を空け、日本のことにずいぶんとうとくなっていた私にとって、彼の日記は、日本の文化事情、特に私より下の世代のそれについての窓であった。私が日本に戻ってもそれはかなり続き、その日記が更新されている間、実のところ、アンテナどころか羅針盤のような存在になっていた。岩波的教養主義ニューアカデミズム的言説、そして私の知らない90年代後半以降のさまざまな潮流のいずれにも一定の敬意と批判をもった彼の文章は、私にとって、同じことばを共有しながら、私の知らないことを教えてくれるとても親切なものであった。帰国後の文化ショックをかなりの程度防いでくれたとかけなしに思う。それだけに、彼の日記が書かれなくなるということはひとつの慣れた視点を失うということでもあった。自分なりのスタンスで日本のサブカルチュア事情が見られるようになり、彼の書いていたものも相対化できるようになったと思えるようになってきたのが、実は最近のことであるくらい、その存在は大きかった。


yskszkさんが亡くなられる大きな遠因となったのが2006年10月の自宅のアパートでの階段からの転落事故であるのは確かだと思うが。それについてきわめて個人的なひとつの苦い思い出がある。

yskszkさんは、2005年11月末の日記で、引越し先を探していて絶好の物件が見つかったがフリーランスという立場ゆえに、不動産屋、大家との交渉が難航しているという趣旨のことを書いていた。その日記を見て、「フランスでは、こういうときは通常、納税証明書が有力な書類なのだが」と思い、それをコメントに書こうと思いながら、書かずじまいになってしまった。たぶんご存じではないかと思ったのと、何かにつけて「フランスでは」といちいちコメントに書くのも無粋なことだと自己規制したのである。

しかし、後で知ったのだが、ご本人がSNSの日記で、収入を証明する手段がなくて困ったと書いていて、それに対し、課税証明書を貰えばいいという他の方のコメントがあった。そして実際にその手段を用いて不動産屋と交渉しようとしたが、すでにタッチの差で物件は契約されていたという事情が次いで書かれていた。それが12月のことだった。

最初のはてなの日記にのコメントに納税証明書の話を書いていれば、その手段で11月末の段階で契約ができたかもしれないと、その日記を見たとき、しまったと思った。そして、それから1年後、ご本人が2006年末の日記で、アパートでの階段から転落事故の遠因が不動産契約の問題にあったと書いているのを読んだとき、改めて、あのとき気軽にコメントを書いていればそれは避けられたかもしれないと、また苦く思い出した。訃報に接したとき、その思いが当然のようにまた心をよぎった。

小さなことで他人の運命に関与できたかも知れないと思い上がるセンチメンタルなナルシズムは慎みたいのだが、それでも、ひょっとしたらという思いは苦く残る。

事故のあと、新潟に戻られているとき個人的なメッセージをお送りしたことがある。上の件とは関係がない。多方面への知的な興味をかかえながら何かを探し求めているようなようすが、まるで同年代のころの自分を見ているような気がしたからである。励ましの口調になるのが、さしでがましく、おしつけがましくなるのを恐れたが、こちらがほろっとするような真摯なお返事がありほっとした。かといって、それから個人的な濃いコミュニケーションがあったわけではなく、そのあと2度ほど事務的な通信があっただけである。

一度だけお会いできたかもしれないチャンスがあった。2008年の2月だかにプライヴェートな集りにお誘いしたが、スケジュールが合わなくて実現しなかった。彼の新しい引越し先が、私の居所と遠くないゆえ、次の機会にはぜひという話にはなっていた。4月になり身辺が忙しくなり、それが一段落したらと思いつつゴールデンウィークも越え、夏休み前にはぜひと思っていた矢先の訃報だった。それだけにその訃報に接したとき、しまった、という思いがまず浮かんだ。

チャンスがありながら結局お会いできずじまいだったことをひどく残念に思う気持ちがあると同時に、しかし、お会いしていれば、おそらく無念さが今と比べものになならないほど増したことを思うと、それでよかったのかもしれないというあきらめのような結論にいつも落ち着く。

訃報のあとすぐに、追悼の日記を書くことを当然のように思った。が、当時、殺人的なスケジュールの中で生きており、ここで日記を書けば、私自身が脳内出血で倒れて死ぬと、皮肉なひとりごとを胸の中で言い、他人の死を強く頭の中に意識しながら、短かい睡眠時間でぶっとおしで仕事していた。その去年の今ごろを今思い出す。

彼の死は、それから何ヶ月も、不思議なことに、親い友人の死と同じくらい、あるいはそれ以上に強く意識の中に残った。より強く、というのは適切な言いかたでないかもしれない。いままでになかった、そしてなかなかふりほどけない形でといったほうがいいだろうか。彼とは全然関係ないのに、通勤路を歩いていて、ある特定の場所にくると突然思い出すということが続いたりした。もちろんそれもだんだん間があいてくるのは、現実に親しい者の死で経験するばあいとおなじである。

彼を思い出させる物理的痕跡として、手元に、彼から譲ってもらったフランス語の書籍、Génération Otaku がある。改めて探せば、もしかしたら書類入れか反故紙の束のなかにそれを送ってきた封筒があり、彼の手跡も見つかるかもしれない。しかし、その筆跡は記憶になく、あらためてそれを探そうという気にもならない。

鈴木芳樹著『スローブログ宣言!』を読む。日本に戻ってきて最初に買った本の一つである。彼のブログに対するスタンスが改めて理解でき、再読してもおもしろい。そういえば買ったとも読んだとも彼には言わなかった。

しかしそうしたものより何より、彼の存在を私に感じさせるものが、今でもはてなの日記である。

それは、新しい形の死者とのつきあいかたを要求しているように私は思える。私は彼を最初からネットの人として知った。そしてその最後の最後まで彼は私にとってネットの人、ブログの人だった。というより、はてなというコミュニティの日記の人だった。

ある人を著述や芸術作品を通して知り、その人に強い親近感を持ったり、その人に私淑したりということは昔からある。その人物の死は、読者、受け手にとって大きな喪失である。ばあいによっては、残された作品よりも、その人の死、特に夭折こそが、人々の記憶に強く刻まれることもある。しかしそこでは記憶は作品として、あるいは死という歴史的事象として、過去に過去に押しやられ、それに拮抗する形で、人々は記憶をよびさまし、「思い出は胸の中に生きている」という思いが補償のように発動されるような気がする。

それに対し、yskszkという人の、はてなの日記SNSの日記(そして私は熱心な「フォロワー」ではなかったがそのTwitterのメッセージ)は、何か、閉じられないものとして、いつも、そこに、手を伸ばせば届くところにあるような気がするのだ(彼が自己ドメイン、自己サーバーでブログを書いていれば話はまた違ったのかもしれないのだが)。死者の残した作品、遺作というより、更新が途中でとまってしまったひとつの状態のものとして、宙吊りになりながら生き続けているような印象を与える。そして、私にとっての彼は、彼がそこに書いているそのものがほとんどすべてであっただけに、彼が隣り合せに生きている、あるいは、隣り合せに死んでいるという思いが強まる。私のように1回、1回のエントリーを閉じたテキストとして書いていくタイプの書き手ではなく、彼が、いみじくもスローブログの書き手だっただけに、それはなお強くなる。

すでに少なからぬ人が経験し、経験しはじめていることなのだろうが、ネット空間のテキストとして他人の生とつきあい、閉じられていない生の痕跡とともに、他人の死とつきあっていくという体験はこれから普通のものになっていき、私たちは、そのつきあいかたを憶えていくのだろう。私は id:yskszk という一人の大いなる才能をもった書き手によってその洗礼を受けることとなった。


追記 : 多くの方、特に id:temjinus さん、猫屋さんには、リアルでお世話になりながら、音信不通で不義理のしっぱなしです。非礼をここでおわびし、そしてあらためてご挨拶したいと思います。そして私がここを留守にしている間に、多くの方が大きな変化、激動を体験されていることに蔭ながら思いを馳せています。id:kiyonobumie さん、そしてid:kmiura さんのことを強く思っています。何度目かのスローブログ宣言になるかどうかはわかりませんが、どうしても書かなければいけないテキストをひとまず送信します。

アメリカから反CPEのミューズ現る−−シャロン・ストーン

fenestrae2006-03-20


フランスのCPE(初回雇用契約制度)反対運動について記事があまりまとまらないので明日にしようと思っていましたが、変な小ネタを見てしまったので、さっと紹介。

「この法律は適切でない」とシャロン・ストーン
Pour Sharon Stone la loi est indaptée

NOUVELOBS.COM | 20.03.06 | 18:14

氷の微笑2 Basic Instanct 2」のプロモーションに訪仏中の女優シャロン・ストーンは、CPEを適切でないとして、「何で雇用されるのか何で解雇されるのか人は知る権利がある」と述べた。
Sharon Stone. L'actrice, en visite en France pour la promotion de Basic Instinct 2, a jugé le CPE inadapté. "Les gens ont le droit de savoir pourquoi ils sont embauchés ou virés".

「何で〜」は、雇用されて最初の2年間は、理由を通告しなくても解雇できるというCPEの議論を呼ぶ措置に触れたもの。

記事から語録だけ採集すると他に、

  • 「人の弱みにつけこむのはよくない。」
  • 「たとえ私がブロンドでも、もしかしたら、私がブロンドだからかもしれないけど、私はあたり前のことには闘う。」
  • 「このデモが正しいことはよくわかる。」

だそうです。

2番目のブロンド云々は「ブロンドの女は頭が弱い」という決まり文句を前提としたアイロニー(のはず)。

CPEも政治の分野から流行の社会現象になってきたよう。

この人の一種の軽薄さは好きです。たとえ偽善的気分的左翼と言われようと。先週はイスラエル訪問でも話題を生んだ。ジェーン・フォンダが捨てた地歩を占めているような気がする。フランスで人気があり受勲するのもむべなるかなというところ。

20日月曜日の反CPE運動の状況は猫屋さんのところによいまとめ

反CPE運動、ル・モンド掲載分析2題

fenestrae2006-03-19


フランスのCPE(初回雇用契約)法反対デモは18日土曜日に警察発表で50万人、主催者発表で150万人を動員。主催者側としては満足すべき成果で、撤回要求にはずみがつく。

現場からの個人的な感想としては、これだけの人手のデモは2002年4月末5月初めの、国民戦線のル・ペンが大統領選挙の第1回投票を通過した後の、反国民戦線デモ以来。学生の運動としてはたぶん1994年以来の規模。

運動に高校生、大学生だけでなく、一般労働者も加わってきた。労働組合員でなくても、学生の両親、祖父母という立場で参加するものも。これまで複数の大学の学長が個人的に撤回要求を表明していたが、全国学長会議の統一意見で、半年の凍結検討期間を置くよう政府に提案。複数の世論調査でも60%以上が撤回に賛成している。抗議行動の次の段階はゼネストとの声も。一方、ヴィルパン首相は撤回は絶対しないと強気のまま。が、かなり政治的には追いつめられており、これを乗り切れかどうかで、大統領選挙に向けての政治生命が決まると言ってもいい。

このように学生たちを駆り立てるものについてはいろいろと分析があるが、ル・モンドが17、18日と角度をまったく異にする2人の専門家の見解をインタビュー形式で紹介している。

まず一つはネット版18日掲載の「若者は代議制民主主義の欠陥を嘆いている Les jeunes déplorent les failles de la démocratie représentative」と題された、コミュニケーション学の研究者ティエリ・ルフェーブル Thierry Lefebvre のもの。以下、かなりルーズな全訳。

  • なんらかの抗議運動への参加というのはしばしば若者の政治的な社会化の最初の形態となる。あなたは2003年以来、パリの高校生や大学生の様々な運動を観察しているが、これらの運動に連続性はあるか。

フィヨン法[2005年に当時の教育相が提案した、大学入学資格試験・中等教育学習内容の簡素化を主な内容とした法案]への反対運動で最も活動的だった高校生の大部分は今、大学にいる。そして彼らの多く者が現在の運動の中にいる。彼らはすでに一定の経験があり、それが、大学を閉鎖するというような、運動の具体的な組識のしかたに生かされた。しかし彼にさらに、組織化されていない、どの学生組合にも政党の青年部にも加わっていない者たちが加わっている。というわけで、学生総会に「組織化された者たち」がいて、彼らが運動の舵をとり、ビラを作ったりするわけだが、一方には「組識化されない者たち」がいて、彼らが実際に現場での運動を担っている。

また多くの学生がUNEF[社会党系のフランス最大の学生組合]による運動回収の試みに警戒的である。彼らは、UNEFの社会党への接近や、彼が批判する政権左翼に反対しているからだ。この見地からいうと、1986年の大運動とはまったく関係がない。86年のときは、UNEFからSOS-Racismeといった左翼系の組識がはるかに大きな影響力を持った。

  • 大学改革の問題ではなく、若者の多くがまだ知らない労働界の問題をとりあげた運動のこうした盛り上がりをどのように説明するか。

これは社会全体のさらに大きな展望に向かって自らを投げかける運動だ。さらにいえば、これらの若者はこれまで歴史に参加していないという思い、歴史からつねに忘れられているという思いを抱いてきた。そこにとつぜん自らが主役となった。彼らはもともと代議制民主主義の欠陥に大きな不満を持ち、政党や議員、そしてメディアにも非常に批判的だ。多くの者がテレビを見ず、ネットサーフで、オルターナティヴのウェッブサイトをいろいろと見る。そして大部分の若者が、今そこに、大学キャンパスの日常ルーチンから抜け出す機会を与えてくれる呼び声を感じている。

  • この運動は現代社会の個人主義に対する大きな抵抗の表現だという見方なのか。

そうだ。忘れてはなならないのは、この世代は大学に消費者として−−デジタルプレーヤーのイヤフォンを耳にしながら−−通う世代でもあるということだ。こうしたルーチンの世界をうち破るにはなにか派手な出来事が必要だった。そして運動の組識者たちは、大学の閉鎖を提案するとき、そのことを知っていた。一方多くの若者は視野の狭窄を蒙っており、そしてある意味で、集団抗議行動への参加は、彼らにとって、社会に対する自らの視野を広げ、これまでのいつもの会話の内容に変化を与えてくれるものと感じられている。

私の感想では、分析者自身がかなり運動の熱気に巻き込まれており、今回の運動の規模を強調するあまり、小規模ながら例年つづいている高校生、大学生の運動の文脈の質的な共通点が軽視されているように思う。これについては次の記事で。

上の分析とはまったく別の角度からもう少し、社会・階層構造の変化をもう少し「冷たく」分析しているのが、「反CPE運動は中産階級におけるバンリュウ反乱の再現 "Le mouvement anti-CPE est la réplique, dans les classes moyennes, de celui des banlieues"」というタイトルでネット版17日づけでル・モンドに掲載された、フランソワ・デュベ François Dubet という若者の労働問題を研究している社会学者のインタヴュー。これは長いので途中まで。

  • CPE反対運動についてどういう分析をしているか

この運動は、消費者としてまた学生として社会から受け入れてはいるが、そこから未来を与えられてはいないと感じる年齢層の気持ちの表現である。若者のすべての集団動員でそうであるように、この運動は、技術的な措置−−初回雇用契約法−−を、象徴的な争点に変えた。何年か前のCIPや、去年のバカロレアの改革のばあいと同じように、初回雇用契約制は一つの大きな傾向を促進するものだととらえられた。すなわち、この国での機会の分配、リソースやチャンスの分配において、この30年、若者を調整の変数として扱うという傾向である。

不安定な雇用をちょうだいするもの、無賃金の研修をちょうだいする者、派遣雇用をちょうだいする者は彼らなのだ。しかも、初任給と在職最終給与の差は絶えず拡大している。しだいしだいに、中にいる者たち−−給与の差はあれ人生設計ができ、アパートを借りられ、ローンが組める者たち−−と、外にいる者たち−−バンリュウの住人、増大する不安の中に生きる中産階級の学生たち−−の間を分ける内部の境界線が引かれるような思いが広がっている。ある年齢層の失業率が25%にも達すれば、それに属する者が、境界線の不利な側に落ちるかもしれないと思うのはあっという間だ。

  • 自立的なバンリュウの運動と反CPEの高校生や大学生の動員にはなんらかの関係があるか。

昨年11月に反乱を起こしたバンリュウの若者たちはすでに境界線の不利な側にいる。これらの地区では、25歳以下の失業率はときには40%以上と、もはや耐え難いレベルに達している。かれらの反乱は、「危険な階級」古典的な社会的反抗だ。壊し、燃やす。反CPE運動は、本質的には、中産階級におけるバンリュウ反乱の再現だ。この二つの世界は互いに不信感を持っている。バンリュウの若者は学生たちは自分たちより恵まれていると思っているし、学生たちはバンリュウの壊し屋たちが自分たちのデモをだいなしにしにくることを恐れている。しかし、両者の不安は非常に近い。一方はすでに「外」にいて、もう一方はそこに加わることを恐れている。

これは、1968年の運動のようなロマンチックな運動からはほど遠い。68年の運動は、大学教育に大量に参加する歴史的にはじめてのチャンスを得た世代、失業は遠い世界のできごとであった世代を結集したものだった。20年来労働運動の記憶は、あらたな権利や勝利を獲得した経験をほとんど持っていない。社会を覆っているのは、不安に強く彩られた運動だ。すでに1981年に始まっていたバンリュウの暴動、この20年絶えることのない学生の運動のような。

  • この運動は、大量高学歴化にともなう期待が満たされない結果か。

くりかえされる学生のこのような運動は、フランス特有の社会的現象で、それには二重の原因がある。労働の世界において、雇用者も労働組合も、若者の不安定な立場や彼らをシステムに組み入れることも重要な関心事としてこなかったことだ。雇用者は若者の職業訓練にほとんど関心を持たず、労働組合は保護されたセクターに引きこもっている。教育の世界でも状況は同じだ。フランスは教育システムをマス化し、学業期間を延ばした。しかし、リセアンや大学生の中の少数グループの例外−−グランゼコールと技術系専門大学、そしていくつかの職業高校の学科−−を除いては、教育制度は職業とは最大限に離れている。

今日、大学を卒業する者の2人に1人は自分の受けた教育と何の関係もない職につく。これが個人的そして集団的な大きなエネルギーの浪費となる。1965年には該当世代の15%しか大学入学資格を得ず、このため大学入学資格をもった若者は中間あるいは上級管理職以上の職につくことができた。今日、世代の70%が高校を終えるとこの免状を得る世の中では、大学入学資格所有者がスーパーのレジで働いているのはしばしばだ。学歴のもたらす期待と実際の労働現場の間のこうしたよじれが非常に強い欲求不満をもたらしている。

...
以下略

デュベが言うようにフランス特有の部分もあるが、必ずしもフランスだけの問題かどうか。コメントが長くなりそうなので、これもあとでまとめて、CPEの問題についての私自身のまとめ的感想といっしょに次の記事で。