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2004-08-04

fenestrae2004-08-04

写真家アンリ・カルチエ=ブレッソン逝去 05:38 写真家のアンリ・カルチエ=ブレッソン逝去を含むブックマーク

20世紀写真界の巨匠の一人アンリ・カルチエ=ブレッソン氏が月曜日リル・スュル・ラ・ソルグ l'Isle-sur-la-Sorgue (ヴォクリューズ Vocluse 県)で逝去と近親者が水曜日に発表。享年95歳。

ル・モンドメールによる臨時ニュース (19h05)*1

LE MONDE.FR : URGENT mercredi 4 août 2004
Le photographe Henri Cartier-Bresson est mort
Henri Cartier-Bresson, un des grands maîtres de la photographie du XXe siècle, est décédé lundi à l'âge de 95 ans à l'Isle-sur-la-Sorgue (Vaucluse), a-t-on appris mercredi auprès de son entourage. (AFP.)

20時のテレビニュースでも大きく扱っていた。
詳報が現在 lemonde.fr のトップで、フォトギャラリーも用意されている。

気に入ってた、パリカフェでカップルがキスする写真を引用したいと思うけど、この辺の人は著作権がやかましいからたぶん無理...

それでも恐る恐るやってみる↑

「彼ら」の蛮行と「私たち」の謝罪 「彼ら」の蛮行と「私たち」の謝罪を含むブックマーク

昨日の日記で、シュレーダー首相ワルシャワ蜂起60周年記念式典での演説を一部紹介したが、関連ニュースを改めて検索中に、ある記事の訳語の選択が気になった。

読売-Yahoo!Japanの8月2日の記事は、「「恥ずかしさで身がすくむ」独首相、ポーランドで演説」と題し、シュレーダー首相の演説を「夜の式典では「ナチスの蛮行とそれがもたらしたポーランド国民の苦しみを思うと、恥ずかしさで身がすくむ」と演説。」と伝える。実はシュレーダー氏のことばにこれに正確に対応する部分はない。私のほうでは、「私たちは今日ナチ軍隊の重い罪を前にして恥辱とともにこうべを垂れます。」と訳した "Wir beugen uns heute in Scham angesichts der Verbrechen der Nazi-Truppen." と他の部分を合わせて作られた要約のようだ。こういう短い記事では許される範囲の要約とは思うが、「身がすくむ」と「こうべを垂れる」では、謝罪の明確さにおいてニュアンスが違う。問題の動詞 sich beugenは字義通りには「弓のように」身体が折れ曲がる、身体を折れ曲げること。受動的に考えれば、恥ずかしさに打ちひしがれてこうべが下がるという意に解せないこともないが、いずれにしても、単に「身がすくむ」としてしまっては、シュレーダー首相が記念碑の前に頭を垂れている象徴的なシーン(→昨日の日記の写真)の意味を十全に伝えることができない。ちなみに英語メディア報道では なべて We bow と訳している("Schroeder: We bow in shame" cnn.com)。

また簡潔なニュース調にしてしまうとニュアンスが消えてしまうのが人称代名詞の選びかた。上の文とそれに続く文でシュレーダー氏の演説は主語に wir (私たち)を選び、その謝罪の表明がドイツ国民を代表してのものだということがはっきり示されている。またナチの蛮行に触れる際に、sie (彼ら)ということばを選ぶ。「彼らが犯した罪に対しわれわれが謝罪する」というレトリックの構造になっており、これは現在のドイツの立場そのものである。日本国体の連続性にこだわったあまり、このようなレトリックを使いながら上手にしかし徹底的に謝る仕方を与えてくれるような体制選択の機会を逸してしまったことに思いが至る。

要約された新聞記事を通すと、元の発言の簡単なことばづかいからかなり本質的なことを汲み取り、そうした事柄について考える機会が失われる傾向がある。なので世界じゅうのいろいろな問題に関してせっせと発言者のオリジナルな弁をきちんと紹介していくメディア−−それがなければブログ−−がもっともっとたくさんあっていいと思うのですが皆さんどうでせう。

日本人のボディコンタクト2題 日本人のボディコンタクト2題を含むブックマーク

はてなで同じころ目にした、日本人ヨーロッパ人のボディコンタクトの違いについての2つの異なる文章。

渡独当初からしばらくはどこか緊張して「抱擁させていただきます、失礼」、がしっ、という感じだった。だきついちゃうぞ、と素直に感情と行動が一致するようになったのはドイツに来ておそらく5年ぐらい経ってからだと思う。そんなわけで、今や抱擁大好き人間で、なんで日本ではこれやんないんだろうなあ、と少々さみしい。特に、ひさしぶりに会った日本人の女友達と別れ際に、思わず手を広げて抱擁しそうになっている自分を「日本でやったらセクハラ也、観念観念」などと思いつつ抑えている自分がなんか変態か私、とひとりつぶやくのだった。でもなんかやっぱり寂しいよな、と思いそのたびに上記、スキンシップは生命活動の要諦、という話を都合よく頭の中で引用していたのだった。「日本人よ、もっと抱きつけ」ということで。

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20040802#p3


古い日本人、真性の日本人が時折、皮相ばかりの西欧化に反逆する。そのいい例があのメトロの混雑ぶりだ。単純な連中はあれを『殺人的』などというが、これは何も理解していない者の言うことだ。ああして毎朝日本人は過去の伝統に帰り、共同体の中に個を失い、いわば魂の里帰りを果たしているのだ。個人としての『家』を出て共同体としての企業という『家』へ入るまでの空白の時間を耐えるために、日本人は『源泉回帰』を果たすのだ。ああして押しつぶされ、ごちゃ混ぜにされながら、日本人は英雄山中鹿之助のように『神よ艱難辛苦を我に与えたまえ』とサドマゾ的にも高貴な祈りを呟くまでもなく、(そんなものはすでに骨肉と化している)自身が一人ではないこと、数十万、数百万という固体のなかに溶け出す一人、いやもう『一人』などという西洋文明の概念では規定できない存在として、ある共同体への帰属を確認するわけだ。

http://d.hatena.ne.jp/temjinus/20040803

挨拶としての抱擁を家族でも避ける日本人が、電車の混雑の中で見知らぬ人々と胸から下半身までびったり密着したまま30分も1時間も耐えられるのは確かに不思議だ。待ち行列を作るときでも日本人のほうが次第に無用に前を詰め、しまいにはおしくらまんじゅう状態にしてしまうことが多い。官憲も道路いっぱいに広がるフランス式デモよりも芋虫のように密着したジグザグデモのほうに寛容だったようだ。国民全体のボディコンタクトの総量が決まっているならば個対個の抱擁の分はすでに消費されていることになる。

*1ル・モンドネット上臨時扱いにしメールを配信するニュースは、タイミングがあう限り原則的にとりあえず紹介します。日本でマイナーなニュースでもフランスでのニュースヴァリューのヒエラルキーが分かって面白いので。

temjinustemjinus 2004/08/05 15:04 おや、ここは書き込み欄が大きい。
それはそうと、写真、ついに出しましたね。
夏期休暇無きに等しきはてなファン
ですね。

fenestraefenestrae 2004/08/05 16:01 コメント欄>ほんとだ。スタイルシートをいじって大きくしてあったのに反映されない、一行じゃ小さすぎる、とどこかで書いのが、通じたのか。
カルティエ・ブレッソンの死亡記事、ル・モンドの現在の記事で死亡場所が、リード文の中で à Céreste (Alpes-de-Haute-Provence)、本文の中で à l’Isle-sur-la Sorgue (Vaucluse) と1記事内に2つのデータ。
一晩たったら直るのかと思ったらそのままです。書き込むときにカルティエ・ブレッソンじゃ一件もGoogle-Japanにひっかからなかったので、カルチエにしたら、はてなじゃいまやカルティエが標準。

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