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2006-01-31

フランス思想の「いま」を伝える...官製サイト フランス思想の「いま」を伝える...官製サイトを含むブックマーク

しばらく前から気になっていたのだが、日本語Webサイトで紹介されている気配がないのでとりあげてみる。

哲学を中心としたいわゆる「フランス現代思想」だけでなく、経済社会・文化等々の領域での現在のフランスの話題を紹介するサイト。昨年夏にスタート

フランス語版と英語版があってそれぞれ表紙が

以前にフランスCNNとして話題になったCFI(Canal France International)の派生プロジェクトとして作られいる。国から予算が下りていて、外務省サイトでも宣伝し官製のわけだが、ル・モンド、ARTE、France Cultureくらいのバランス感覚で作られている。アメリカの文化支配に対抗して、右から左までひっくるめて、食から哲学まで今のフランスの潮流を「フランス思想」ということで積極的にプロモーションしましょうというようなものだと思う(といってもあまり右的なものは見つけようがないけど)。皮肉な見方をすれば、かつての反体制知識人あたりが今やフランスの有力な輸出文化資源ということ。

なんだかんだいって現代のフランス思想マップ、言論界の動きを知るのに便利で、最大の利点は、なんといっても全部の内容が英仏語版両方あること。特に、フランス語が得意でない人にお勧めフランス語が読めるというだけで、一昔前の知識や限られた範囲の情報を頼りに「フランス通」とうことに特権的地位を見出している不勉強な人たち(って自分にもダイレクトにはねかえってくるわけですが)を、これでがががーんと追い抜いていきましょう。いやまじめな話、紹介しようと思い立って昨日から本格的に探索してあれこれ読みながら、けっこうよくまとめられている記事があるのに感心し、自分の不勉強ぶりを反省。

さて、内容はというと...これほんとは、私でなくて、モノの性質上フランス大使館がもっと宣伝すべきだと思うのだが...

とりあえず目にとまった内容をランダムにいくつか紹介(リンクはあえて英語版のほうに貼ります。フランス語版への切り替えは右上の国旗マークから。)


と、いうことで宣伝おしまい。ふう〜っ。最近反政府言辞が多かったので、これくらいは体制協力しておいてもいいでしょう。


英語版のほかに日本語版もあるともっと便利だろうから、だれかそれなりに名前のある人たちがフランス政府企画書を書いてみれば、予算が下りて、お弟子さんたちの小口バイトくらいにはなるのかも。案外すでに準備中かもしれませんが。その辺のことはよくわからないので単なる思いつき。

猫屋猫屋 2006/02/01 08:24 クーリエ・インターナショナルの日本語版が出たと言う話もどこかで聞きました。かなり薄いらしいけれども、、。クーリエのアイデアはいいんだけど、日本でどれだけ読者が取れるかがネックでしょう。日本は大体情報過多だし、内容が尖ってないとだめだしねえ。

fenestraefenestrae 2006/02/01 08:41 クーリエの日本語版がオリジナル版より内容が薄いという話はどこかで読みました。以前にディプロマティックよりクーリエのほうがフランス語のとりあえずの勉強にはいいと書いた覚えがあるのですが。ニュースってほんとはあの大判の紙のやつを週に1回くらいのペースでゆっくり眺めるというのがいいような気もしまていますが。

「フランスの知識人−新世代」、訳すかどうか今考え中...赤い液体と相談。

猫屋猫屋 2006/02/01 09:35 fenestrae氏、うらやましいです。こっちは金も時間もない上、今夜は書類読みですよ、まったくセクシじゃないこと夥しい。本もたまってんだけど読めないしなあ。
あと、クーリエのいいとこは世界中のプレスを同時に翻訳なしで読める。編集もバランス取れてるしね。たとえば仏プレスのみ紹介より大きな視野だから貴重なんだけど、日本では出版インフレに埋もれちゃう可能性大でしょう。

fenestraefenestrae 2006/02/01 12:22 実はこっちも朝早いんだけど、読んでいるうちに、夜じゅうに訳してしまわないと落着かなくなりました。グロバリゼーションに洗われながら、その中でフランスの立場を確保するという戦略になっている記事。まあ元気が出る部分もあったが、終ってちょっとがくっ。On verra というところです。寝ますです。

2006-01-28

フランスの高出生率を支えるもの−−移民の子だくさんという先入観。 フランスの高出生率を支えるもの−−移民の子だくさんという先入観。を含むブックマーク

1月14日国立統計経済研究所(INSEE)から2005年度の国勢調査の結果が発表された。いろいろな着目点があるが、大きな話題の一つは、出生率が3年連続増加し、合計特殊出生率1.94に達したことだろう。これはEU諸国の中ではアイルランドの1.99に次ぐ第2位の水準である。これについてはINSEEも特に項目を作って解説している。

フランス国内でもたとえばリベラシオンは、 「Douce France, cher pay de la petite enfance 優しいフランス、子供たちの愛しい国」1月18日づけ)と、シャルル・トレネのナツメロ "Douce France, cher pay de mon enfance" のタイトルをもじった見出しで紹介する。ル・モンド「女性たちの出産年齢、結婚年齢はあがり、一方また寿命も延びる Les femmes font des enfants et se marient plus tard, mais elles vivent aussi plus longtemps」という少しひねった見出しで、女性人生サイクルの変化に着目しながらとりあげている。

日本でも「フランスは出産ラッシュ、人口自然増27万人」(asachi.com, 1月18日)、「少子化対策が奏功?フランスで人口36万人増加」(Yomiuri Online, 1月24日)などの記事で紹介された。

出生率のこうした上昇の主な理由は、asahi.com の記事が「フランス90年代から育児家庭への公的給付や育児休暇制度を拡充。近年は育児中の休業補償の充実にも力を入れ、こうした対策が少子化を食い止めているとみられる」と端的に指摘するようなところにある。

育児休暇制度の拡充についてもう少し付け加えれば、育児休暇を利用した女性が、そのことでキャリア上の不利益をこうむらずにもとの職務、職位に戻れることが制度的に保証されていることも大きい。

また、少子化対策というと国をはじめとする行政の問題、とくに経済上の問題と捉えられがちだが、これは、子供を産む女性や生まれた子供を育てる男女が働く組識、そこにいる皆が作る文化の問題でもある。実をいえばフランスでは日本よりもあんがい子育てに手間がかかると私は思う。中学くらいの子供でも、親かその代りになるだれかが登下校の送り迎えをするのが普通だし、多くの子供が昼食を家でとるので食事の支度をしたりやはりそのための送り迎えをしなければならない。そのために祖父母が動員されたり、アルバイトをやとったり、夫婦で勤務時間を調節したり、隣り組の友人に代わってもらったりなどいろいろなやりくりをすることになる。勤め人をしながら一人で小さな子を産み育ている女性や、夫婦じゅんぐりの子供の送り迎え当番のために会議の時間を調整してもらう、肩書きに「長」のつく男性を知っているが、たいへんだとこぼしながらそれでも何とかやっている。彼らと同じ環境の人たちが日本で同じようにしようとすればもっと精神的な苦労がいるのではないだろうかと思う。少子化対策は、出産を期待されている女性だけにかかわる問題ではなく、育児という行為を通して、女性、そして男性の生活・労働条件にもかかわるみんなの問題だという認識が、日本ではたぶんもっと必要だろう。結局、今のフランスはそうした面でも子供を作り育て安い環境になっているというのが、この高出生率の大きな要因だと私は思う。

ところで、こうしたフランス社会状況をあまり認めたくない人々がいる。そうした人々が用いる道具がが少なくとも2つある。

一つは「婚外子」ということばに否定的な価値判断を込めて、フランスの「婚外子」の多さに高出生率の陰の部分があるようにみせかけようとする論。上記の asahi.com の記事が数字を客観的に伝えるように「2005年に生まれた赤ちゃんの48.3%が婚外子」である。が、これは現在のフランスのカップルや家族のありかたの多様性を伝えるものにすぎない。「婚外子」にさも問題があるかのように語る人は、単に自分の文化的偏見を示しているにすぎず、何が問題か客観的なデータで語ることができない。

もう一つは、フランス出生率を押し上げているのは移民の高出生率であるという説である。「フランス 移民 高出生率」などのキーワードで検索すると、まともな解説にまじって、というかそれを圧倒して、その手の説が出てくる。最近では昨年11月のバンリウ騒動にひっかけて、上の論とあわせて宣伝されたようだ。特定団体ににらまれたり、データや論理に顧慮を払わない「アンチ・ジェンダーフリー」・クルセーダーみたいな人と内容のない議論につきあったあげくに、いくらネット名とはいえ呼び捨てにされるようなめにあうのは勘弁なので、このあたりの論者に近づくのはやめるが、ただほうっておくと、そうした言が拡大再生産される気配もあるようなので、データに即したことを以下に書きとめておく。

INED(Insititut national d'études démographiques フランス国立人口学研究所)の月報 Population & Sociétéの2004年4月号に、ロラン・トゥルモン Laurent Toulemon という出生率を専門とする研究所員による 「移民女性出生率−−新しいデータ、新しいアプローチ La fécondité des immigrées : nouvelles données, nouvelle approche.」という論文が発表された(html版pdf 版。ただし html 版はグラフがひとつ少ない)。

これは、1999年国勢調査の際にINSEEとINEDによって行われた大規模な家族履歴調査の結果を用いて、移民女性出生率についての数字を示したものである。調査には帰化によってフランス国籍となったものや不法滞在者をも含まれている。このデータによって1990年代フランス移民出生率について明かになるのは次のことである。

0.07ポイント分「押し上げている」には違いないが、たとえば上でみるように1991から1998年出生率1.72に対し昨年の出生率が1.94であるという比較に比べれば、移民女性フランスの高い出生率重要ファクターとしてあるかのような表現は誇張されたものであることがわかるだろう。

実を言うと上で明かにされている事実は、元になったデータの古さをみてわかるように、以前から専門家には知られているものである。ただフランスでもこの出生率をめぐる先入観があり、極右勢力がこれをいまだに政治的に利用している*1ので、研究機関としてもこの点について正しいデータを世に知らしめるという意味で、上記論文が月報に掲載されたものと思われる。実際INEDIは、2004年1月に別の研究者による「移民についての5つの先入観 Cinq idées reçues sur l'immigration」という論文を月報に掲載し、世の中に移民脅威論とともに喧伝されている種々の誤ったイメージを、人口学研究の客観的データから訂正しようとしているが、出生率についての上記の論文も、この中で簡単に予告紹介されている。

フランス生まれの女性出生率1.65に対し移民女性出生率が2.50。しかし出生率上昇に対し0.07の違いしかもたらさない。これだけでもフランスの高出生率移民による寄与が大きいという先入観を取り除くのに十分であろう。が、移民女性出生率の算定に関しては、これで終りではない。実はトゥルモンの論文は、さらにこの2.50という数字が正しいかを検討する。論文タイトルの「新しいアプローチ」はこのことに関係している。

トゥルモンの論文は、合計特殊出生率の計算のしかたにさかのぼり、実はフランス生まれの女性出生率移民出生率の計算が同じ条件で計算されていないことに注意を喚起したものである。

合計特殊出生率は、ある年における、出産可能な年齢の女性のうちの各年齢の女性出生率積分して計算する。さてトゥルモンの論文では、このように出生率を計算するとき、移民女性のばあい、それらの女性フランスに移住してくるまでに生んだ子供を計算に入れていないということに着目した。そこで、これらの女性が、フランスに移住してくるまでにもうけた子供の数を調査し、その子供の数を計算にいれた上で出生率の計算をやり直すと、

という結果を得る。フランスに入る前にもうけた子の数を計算に入れると出生率が下がるというのはマジックのようだが、実は次のような事実による。

移民女性の 1/3 は18未満の時に、 1/3 は18歳から27歳までの間に、残り1/3 は27歳よりあとに移住してくる。一方、13歳以前に移住してきた移民女性出生率フランス生まれの女性出生率とほとんど変わらないのに対し、25歳あるいは30歳でフランスに入ってきた女性出生率は、出産件数から計算していくと、フランス生まれの女性出生率にくらべて、はっきりと高い。が、これらの女性出産履歴の調査をしてみると、フランスに移住してくる前の年齢で彼女たちが生んだ子供の平均数はフランス生まれの女性が同じ年で生んでいる子供の平均数より少ない。出生率がかなり高いと思われている北アフリカ、サハラ南アフリカからの移民女性だけをとっても、移住以前の年齢での出生率フランス人のそれとほとんど変わらない。出生率があがるのは、移住の後である。子だくさんの女性が移住してくるよりも、子供のいないあるいは子供の数の少ない女性が移住してきて、そのあとに子供を産むというパターンが多いというのは、移民女性から生まれる子供の半分はフランス人を父親とするものという事実と考え合わせて、素朴な経験的観察に合致する。ともかくも、機械的に、フランスで集計されたある年齢の女性出産数による統計を移民女性グループにも適用した合計特殊出生率の計算法では、これらの女性出生率が入国以前にはフランス人の平均よりも低いという事実を計算に入れないので、その合計特殊出生率がみかけ上高く出るのである。

このようにして、合計特殊出生率が「一人の女性が一生の間に産む子供の平均数」のある時点における指標だとすれば、フランス移民女性一人が一生の間に産む子供の数は2.5人ではなく、2.16人ということになる。

移民女性出生率は出身国の移民率とかなり高い相関関係があるが、出生率が非常に高いと思われている開発途上国でも出生率は大きく低下した。トゥルモンの分析がカバーする1990年代北アフリカ諸国が 3 前後である。そして移民女性出生率は母国のそれとフランスのそれとの中間に位置する。俗に言われる「子供が5人も10人もいる移民家族」というステレオタイプは一部の例をもとに流布されたイメージにすぎない。

トゥルモンの論文ではその調査期間(1991-1998)以降のことについては触れていないが、フランス全体の出生率のその後の大きな上昇(1991-98年の1.72に対し2005年が1.94)と、一方、移民の出身国の出生率の低下傾向*2を考えると、フランス生まれの女性出生率移民女性出生率の差、後者の全体の出生率に対する寄与の割合は、さらに小さくなると考えて安全だと思われる。

人口学というのは、ある説の妥当性を議論するにあたって、社会科学の中ではかなり始末のいい学問だ。議論が最終的には、人間の頭数という具体的かつ極めて明確に数量化可能な対象に基礎おくからだ。官僚組識が機能している時代や国を扱う人口学の議論は、せいぜいが調査や標本化の手続き、統計処理をめぐるものになるくらいで、そこでは幻想に基づく仮説が幅をきかすことはない。逆に言うと、自分の幻想により大きな価値を置く者は、よほど統計学アクロバットに長けているのでない限り、人口学上の問題では具体的な数字を示して語ることができない。「フランスの高出生率に貢献しているのは移民の高出生率」という説を語る人が統計上の数字をひとつとして引用しないのはその好例だ。とにかくとくにこの分野の話をあつかってなんらかの数字を示さない説には要注意である。

*1日本ウェブサイトを見ていると、日本の元首相2003年に訪仏した際、フランス議員フランスの高出生率移民の寄与によるとの趣旨の発言したと報告されていたり、日仏の識者を集めた2000年日仏フォーラムでこうした発言がされたという報告がなされている。今のフランスの言論界の状況を考えるとかなり理解に苦しむものがある。発言者が特定されていないが、外国人相手になると極右政治家でなくとも先入観に基づいた発言を軽やかにするのだろうか。ともかくもこうした発言は、ここで紹介しているような国立人口学研究所の分析が一般に流布している今、フランス政治家や識者のものとしてはもはや許されない。

*2マグレブ諸国の出生率の低下傾向については、たとえば、次の論文 : Youssef Courbage, "Sur les pas de l'europe du sud: la fécondité au maghreb", United Nations, 2002

temjinustemjinus 2006/01/30 22:11 最近ジャーナリストとしての手法が確立してきましたね(^ ^)。
フランスに来たマグレブ諸国出身女性の出産率がすぐにフランス女性のそれに近づくのはトッド(またもや!)も言及していますね。ご指摘通り統計学をやっている連中の間では常識なんでしょう。
次回を期待してます。

猫屋猫屋 2006/01/30 23:32 ル・モンド記事で今はもう有料化してますが、Enfants, mariages, divorces : la révolution familiale ってのがあった。長いんで翻訳はあきらめたんですが、以下URLで読めるはず。
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3230,36-734959@51-734888,0.html
フランス国内での出産と“結婚”の実態が書かれています。今の高学歴キャリアの女性は、ロワイヤルじゃあないけど、若いうちに子供を複数作っといて、子育てが終わってからガンガン仕事というのがベスト/トレンドという気がします。“子供”“家庭”あるいは“離婚”もキャリアのうちなんだよね。まあ恵まれてる層ですが。普通は共稼ぎじゃないと生活してけないわけだが。

今の教育制度が変わって、大学費用が年間500ユーロ前後+国家援助(アパート等)なんてゆう政策が、日本並みの民間主流になったら出生率はドーンと落ちると思います。子持ち世帯に対する税援助、新学期国家援助金とか、ポンピドゥーセンター18歳までただ、とかいろんなバックアップがあるわけなんですよね。ちと主題からは外れましたが、投稿。

hajimemasitehajimemasite 2006/01/31 23:58 はじめまして。いつも読ませていただいています。
私はフランスへ行ったことないのですが
実際にパリの街を歩いていて、移民の多さは感じるのですか?
テレビなんかでみるパリを見ている限り、想像できなくて、暴動を見たときに、これがフランス?!と驚きました。
いつの間にかヨーロッパの景色はどんどん変化しているのですね。

hinakiukhinakiuk 2006/02/01 02:00 レ・ブルー(サッカーフランス代表)をみれば一目瞭然かと…>移民の多さ

そうそう、フランスの学生に対する援助の手厚さにはびっくらです。ディジョンで友達が学生やってたんですが、彼女の話を聞いて、「なんでえげれすなんかで留学生やっちゃったんだ!!」と激しく後悔しましたよ。

fenestraefenestrae 2006/02/01 03:28 >temjinus さん
ジャーナリズムごっこをする気はなかったので、かなりやばいかなと思いはじめています。
最初にジャーナリズム化を指摘してくれたのは猫屋さんでしたが、パターン化の罠にはまっちゃったみたい。

>猫屋さん
Enfants, mariages, divorces : la révolution familiale 読みました。このくらいの記事がどんどん紹介されていけばいいのかなと思います。
>“子供”“家庭”あるいは“離婚”もキャリアのうち
これエネルギーがいるから(特に離婚なんて)、自由競争社会における生命力の強さを証明するてだてなのかもね。
クレール・シャザルとPPDAなんか、(もと)隠し子もキャリアのうちみたいな。
職業階層別の出生率のデータを探してみましたがみつからないですね。ちょっと微妙な調査になるのかも。両方とも職にありついているかどうかが、子供を作るかどうかの意思決定の大きなファクターになっているというのも読みました。
上の本文では、経済的な支援策は当然の常識として、「文化的」の面での変化にも触れたわけですが、前者が主というのは当然のこと。
http://www.ladocumentationfrancaise.fr/catalogue/3303332028757/
に出ている日仏の研究者の共著論文で、「フランス人女性が子供一人を持ったとき給与収入の2%がそのために減るが、日本ではこれが72%に上る」というレジュメが出ています。これじゃあね、という感じ。もっとも、算定の基準を見ていないのと、やはりフランスでも子供を生めばあれこれお金がかかる(一部の「移民=子だくさん」憎悪宣伝にあるようにもうかることは決してない)ので、ちょっと差が大き目の数字だなとは思いますが。

>hajimemasite さん
はじめまして。パリの街を歩いて移民の多さを感じるかどうか...うーん、場所にもよるし、判断基準をどこにおくか、どんな人を移民ととらえるかによっても違うので...有色人種と移民はイコールではないし、非ヨーロッパ系移民だけのことを考えても、トルコ人とフランス土着の白人と見分けがつかないことも多い。それにもともと移民の多いのがフランスで、統計的に言うと、上で紹介した「5つの先入観論文」
http://www.ined.fr/publications/pop_et_soc/pes397/PES3972.html
で、最初のグラフの緑の部分が移民によって人口の増えた分ですが、これを見て分かるように、最近特に増えたわけではないです。
多いと感じるかはそれこそ場所や領域。サッカーチームはその極端なケースですが。パリそしてフランス全体を通してみて、特定の文化圏からの人間が多いところはあるし、たとえばロンドンでも感じることはあるんじゃないでしょうか、やたらアジア系が多いなという印象。ただドイツの大都市たとえばミュンヘンみたいなところからパリへ移動すると、いろいろな人種の混在にほっとするようなところはあります。

>hinakiuk さん
>フランスの学生に対する援助の手厚さ
フランスの学生に言わせると、それでも授業料も最近高くなってかなわんし、援助も脅かせれているということになりますが、確かにまだ極端なことになっていない。10年前、大学の授業料が1000フラン(150ユーロ)くらいで2万円という感じだったから、猫屋さんがいうように500ユーロとしたら相当高いと思う(私のまわりでは今たしか300ユーロくらではなかったかと思いますが)。→ここで歴史的証言のため temjinus さんの登場希望。
日本も70年代の中頃に国立大学の授業料が半期1万7000円というのを覚えています。私はその後倍倍ゲームになり出してからの学生で、これを享受できた年代でなかったので、上の年代の人の話を聞いていいなと思いました。
大学の学費に対する考え方ですが、アメリカやイギリスは個人のキャリアの上での受益者負担という考えですが、フランスでは大学生は国の共有知的財産(外国人も含めて)という考えが根強いのだと思います。また階級流動性に対する高等教育の役割に対する建前もある(グランゼコールも、今では階級社会の元凶のようにいわれますが、もともと発想は逆で、階級流動性を高めるための手段だった。)。結局に日本は後者の道を捨て、今やドイツでさえ危ないですが、はたしてこれで不都合はないのか、金持ちの家の子に生まれなかった私はひじょうに疑問に思います。
しかしhinakiukさんが、hinakifr だったら...想像力がはばたくなあ。

猫屋猫屋 2006/02/01 08:30 >最初にジャーナリズム化を指摘してくれたのは猫屋さん、、

そんなこと書きましたっけ。ああ、いい意味でのジャーナリズムをfuestrae氏はやっていると書いた覚えがあります。論理方向性とデータと地に付いた主観という意味でポジティフですよ、、。

上のコメントで挙げた記事の紹介や、こっちで出版された村上春樹の『岸辺のカフカ』フランスプレスの批評紹介、植民歴史関係などなど、ブログ化したいんだがまとまった時間がとれない状態です。

猫屋猫屋 2006/02/01 10:00 あともうひとつ。
医療費問題があります。出産費はアメリカン・ホスピタルとかに行かない限り全額国家負担、妊娠中出産後の補助金もあったと思います。健康保険で医療費はほとんどまかなえる。まあ国家赤字で修正の方向に行ってますが。いや医療関係の仕事したことあるんで案外そこら辺は事情がわかる。これらの対象は健康保険(仕事系とか学生の)を持っていれば外国人でも適応します。あと大企業では教育費やサマースクールとかの援助をしますね。
あと、フランス語さえしゃべればフランス人だみたいなノリがパリにはあります。ここらへんはニューヨークっぽいですよね。フランス人おのぼりさんが私に道聞いてくるもんね。

猫屋猫屋 2006/02/01 11:03 もういっちょ;騒がしくてすんません。上に出したル・モンド記事“子供と結婚...”訳し始めました。上がるのは明日かあさってになりそうですが、まずはお知らせまで。

猫屋猫屋 2006/02/03 10:08 やっと訳出終わりましたのでお知らせ。遅いんだよねー。単語ひとつ選ぶのに30分かけたり、ってこれが案外楽しい無償労働なり。

fenestraefenestrae 2006/02/03 15:47 お疲れさま。
>単語ひとつ選ぶのに30分かけたり
これって贅沢な楽しみですよね。後ろ振り返らずのすっとばし仕事ばかりしてると特にそう思います。
一度ざっと読みましたが、すらすら読める極上完成美品。後ほどまたコメント行きます^^

2006-01-21

"gender free"の用例をめぐって "gender free"の用例をめぐってを含むブックマーク

ジェンダー・フリー gender-free」という表現の出典を英語にもとめるにあたって、いろいろと疑義があるという話は以前にちらりとネットで見て知っていた。今度ふと興味を持って、あらためて日本ネットをいろいろ検索してみると、疑義どころか、日本で作られた造語、「和製英語」という説がデフォルトになっていると知る。女性学者によるこの語の使用の批判的検討から、およそ事実などにはとんちゃくしない狂信的差別固定主義者−−ポリティカリ・コレクトにはバックラッシャーと呼ぶらしい−−によるラベリングまでの幅広いスペクトルの中で、「ジェンダー・フリー」という表現は「和製英語」という形容で肩身の狭さを増しているようだ。

もちろん、gender-free という形容詞が、いくつかの限定的な場面で、(日本での造語によるものでない)英語の表現として英語圏の書き手によって一定の頻度で用いられているのは確かであり*1、それは事実にとんちゃくしない人たち以外には共通の理解だろう。だから、今度はこの gender-free が、日本語の「ジェンダー・フリー」と比較してどうとかいう話になる。

アメリカフェミニズム関係の文献では、gender-free というタームはほとんど問題にならないか、「ジェンダーブラインド」的な否定的なニュアンスで用いられるものらしいということをid:rna さんのまとめ経由で知る。

一方、男女の平等、両ジェンダーにとっての機会均等の促進に関わる欧州の政策の文脈の中で特定の概念との結びつきでgender-freeの語が出現する以下のような例については、検索してみた限り日本語ネットで触れたものをみないので、紹介してみる。ただし教育分野のものではない。日本語の「ジェンダー・フリー」とのかかわりの中で、以下の例がどの程度の意味を持つかどうか、もともとこの議論に当事者としてかかわりをもっていない私には、明確には判断がつかない。もしかして新味のないものかもしれないが、使用された場の影響力を考えればなんらかの意味があるかもしれないと思うので、ざっくりと出してる。


欧州議会決議の中の "gender free"

欧州議会は少なくとも2度の決議で "gender-free"の語を同一の文脈で用いている。1997年6月に採択された決議に以下のようなものがある(日本語引用者の試訳)。

議会は、欧州委員会策定の行動規範が賃金差別の縮小に資し得るものであることを評価し、この規範がすべての被雇用者に、その雇用形態にかかわりなく、適用されるべきであることを強調する。議会はまた委員会に対し、「ジェンダー・フリー」職務評価スキームの調査研究に取り組み、労使双方が参照基準として使用できるような職務評価ガイドラインのひな型を作成するよう要請する。議会はまた労使双方に対し、団体交渉の過程で非差別の原則を遵守し、その過程に女性を含めるよう要請する。また議会は、委員会に対し、行動規範の各国の政策への取り込み状況を見守り、賃金格差の縮小が見られないばあいには、この規範を法的拘束力のある措置とすることを検討するように勧告する。

Taking the view that the code of practice drawn up by the Commission could help to reduce wage discrimination, Parliament stressed that it should apply to all employees irrespective of their employment contract. It also called on the Commission to undertake research on `gender-free' job evaluation schemes and to prepare model job evaluation guidelines for use as a benchmark by the social partners. Parliament also called on the latter to observe the principles of non-discrimination in their collective negotiations and to involve women in this process. In addition, it called on the Commission to monitor the implementation of the code of practice and, if no narrowing of the pay differential results, to consider making it into a legally binding instrument.

http://europa.eu.int/abc/doc/off/bull/en/9706/p103264.htm

gender-free についている引用符は原文のままである。

よりインパクトの強い決議として上の例をまず選んだが、この「ジェンダー・フリー職務評価」は、95年になされた「中期社会政策計画(1995-197年)についての決議 Resolution on the Medium-Term Social Action Programme 1995-1997」ですでに唱えられている。

欧州議会は]賃金平等の問題が、特にジェンダー・フリー的職務評価・職務分類体系の発展に特に関心が置かれるとともに、常に検討され続けていくべきであると主張する。

[The European Parliament,] insists that the issue of equal pay be kept constantly under review, with particular attention being given to the development of gender-free job evaluation and classification systems,

ここでは「(職務)分類体系 classification 」も gender-free の形容する対象となっているほか、gender-freeに対する引用符はついていない。

この「job evaluation 職務評価」は、個人を対象とした勤務評定ではなく、同一労働同一賃金の原則を、職種や職務形態を横断してできるだけ適用するために行う、職務の性質そのもの評価のことである。「ジェンダー・フリー的職務評価」は、ある職務に対する賃金評価をジェンダーバイアスなしに行う評価ということで、その必要性は、賃金の実質格差の是正の課題の中から認識された。職種・職務そのものについて、過去のいきさつその他からそこに付与されているジェンダー的観念・属性(「男/女の仕事」、「男/女向けの仕事」、現実に専らに男/女によって占められている仕事)によって賃金に不平等な構造があるならば、同一職種の中の男女の機会均等を実現するだけでは不十分で、こうした職務カテゴリージェンダーの区別に由来する不平等を是正しないかぎり、男女の賃金格差は埋まらないという反省にたっている。たとえば、看護士の賃金について、これが、「看護婦」という存在で担われてきたことで低賃金に条件づけられたものではないか、逆にいえばこれが果たして伝統的に男性職業であったなら、あるいは男女が同数であるなら、この賃金になっていたろうか、同じくらいのスキルや肉体的努力を必要とする他の職業で主に男性に占められている種類のものと比べて果たして均衡のとれた賃金であろうかと問い直してみることである*2

上のEU決議の英語版に出てくるこの「gender-free」は、他の言語ではどうなっているだろうか。フランス語版では2つの決議のうち後者つまり95年のものでは「性別(sexe)に関する考慮から解き放たれた affranchis de considérations de sexe」、前者、97年のものでは「性別をいっさい計算にいれない ne tenant aucun compte du sexe」と、形容詞では処理しきれずに、それぞれで別の意訳になっている。これから、この部分の表現は英語先行だということが分かる。ドイツ語版ではどうか。95年の決議でも、97年の決議でもあっさりと "性中立的 geschlechtsneutral" という語があてられている(ちなみに Geschlechtは生物学的性)*3

英語でも gender-neutral という用語を使う選択肢もあるはずだが、gender-free という語をあえて用いていることの意図については探ってみる余地があるかもしれない。また二つの決議で " "がついていたりしなかったりすることも、この語の熟し度合い、ニュアンスへの評価について、微妙な判断があるのかもしれない。ヨーロッパ各国を束縛するこの手の決議に関しては、語の一つ一つが慎重に吟味され、決議にいたるまでにはいろいろなかけひきがある。95年の決議でまず登場するこの語の選択の背後にいかなる議論があったか興味深い。

男女平等についてのEUのまとめのページをみると、上の二つの決議は、1975年に出された男女の労働賃金平等に関する EU指令 の実効を上げるためのフォローアップの一環の中にあり、また、現在では、男女の平等全般一般に関しては、政策のあらゆる場面にジェンダーについての問題意識を取り入れるということが、ジェンダ・メインストリーミングという概念で導入され、主要なテーマとなっている。


イギリス軍の "gender-free" 政策をめぐる論議

上の、EUの政策とは直接に関連してはいないだろうが、イギリス2000年代に、ある職種の男女の勤務条件同一化にともなう問題が持ち上がり、 それが、"gender-free" の語でクローズアップされている。データについての判断が安易にあれこれのイデオロギー的解釈に直結しやすく、取り扱いのやっかいな事例だが、一次資料に近いところのもので簡単に見てみる。新聞記事もいろいろ出ているが、そのトーンはやはり冷静なまとめには適さない。

2002年1月、Journal of the Royal Society of Medicine に、「女性隊員における負傷−−法制度の問題 Injuries among female army recruits: a conflict of legislation」と題する論文が発表された。著者のGemmellは軍の医療関係者であるようだ。 JRSMのサイトその梗概が読める。梗概の全文は以下のとおりである。

1990年代イギリス軍は、これまで男性のものであった職務についても女性に門戸を開くようにとの強い圧力にさらされた。当初女性には、訓練を受ける資格、修了認定ともに低めの水準が設定されていた。が、その結果、多くのものが職務遂行に適切な体力を有していないことが明らかとなった。そのため、この「ジェンダー・フェア」政策("gender-fair" policy) は「ジェンダー・フリー」政策("gender-free" policy) に変更され、男女の入隊試験に同一の体力適正試験が用いられ、訓練プログラムジェンダー差を考慮しないものになった。この政策変更の結果を計るため、政策変更実施以前と以後の負傷除隊者のデータを、下肢部の筋骨傷害に着目して比較した。第1群の個体数は男5697、女791、第2群では男6228、女592である。

疲弊による負傷で除隊する率の性別比(女/男)は、ジェンダー・フェア・システム(gender-fair system) 時が4.0(98%信頼区間2.8-5.7)から、ジェンダー・フリーシステム (gender-free system) 時では7.5(5.8-9.7)に増加している(P=0.001)

研究は、女性男性の新兵と同じ厳格な訓練を受けるさいに生じる危険の増加を定量的に確認し、健康・安全にかかわる法制度と機会均等にかかわる法制度の間の矛盾のもたらす問題を明るみにしている。

JRSMのサイトにはまた、この論文が刊行されたときの同誌によるプレス・リリース2002年1月3日づけ)も掲載されていて、上の梗概にはないもう少し詳しい情報もわかる。論文の内容に関する議論は脇に置き、時系列的なものについてだけ注記しておけば、軍の「ジェンダー・フリー」政策が導入されたのは1998年。この論文のJRSMでの掲載は2002年1月だが、論文の内容は1997年1998年のデータを比較したもの。また、論文自体が1998年末に口頭発表されたものに基づいていることが、梗概に明記されている。

この論文は国防省の政策に転換をもたらしたようで、2004年に調査委員会に委嘱され2005年3月に提出された「より安全な訓練 Safer Training」と題する調査報告書は、このデータに基づき「女性の訓練における"ジェンダー・フリー"・アプローチの廃止と"ジェンダ・フェア"・制度の復活 abandonment of "gender-free" approach to training women and the restoration of "gendr-fair" regimes」を勧告している。データの解釈や政策の転換をめぐってはいろいろと議論があるようだが、ここで立ち入れる問題ではない。

またこの論文の発表や政策転換の動きはメディアでも反響を呼んだらしい。BBCサイトは、JRSMのプレスリリースと同日の日付で、その内容を一般読者向けにした「軍の訓練は"女性には厳しすぎる" Army training "too tough for women" 」と題する記事を掲載している。そして政策レベルで新たな動きや議論があるたびに、くり返してとりあげられているようだ。たとえば 2005年3月22日づけ The Times「女性は平等な軍事訓練のため痛々しい代償を払う Women pay painful price for equal military training」2005年11月6日づけ The Daily Mail「"男は訓練仲間としてはハードすぎる" と軍が女性に Men are too rough to train with, Army tells women」。これをめぐる医学的データや政策転換についての報道が、どういう新聞でどういう表現でとりあげられるかについては、これ自体が興味深い社会学テーマになるが、ともかくも、兵士の採用、訓練をめぐって "gender-free" の語は "gender-fair" の語と対立させられた概念としてメディアに登場したことになる。

この "gender-free" の表現は、上のような訓練上の問題を指摘するために、「フェア」という正の価値に対比させて、負の価値判断を背負わされて使われているのだろうかという疑問が当然浮かぶ。問題があきらかになったあとの議論の中では、そう見えないこともない。が、この問題があきらかになる前に発表されている文書をみるとそうではない。"gender-free"の形容はレトロスペクティヴに出てきたものはなく、はすでにこの政策が推進されていたころから、時には正の価値観を込められて用いられているようだ。2001年2月づけで下院から発表されている国防委員会のレポートでは、The Equal Opportunities Commission (機会均等委員会)の報告にやはり "gender-fair"と"gender-free"の対概念が出てくるがそこでは「機会均等委員会が適切と見なすのは、"ジェンダー・フリー"・テスト、すなわち、職務の要求条件を評価しそれに基づいて候補者を選考する方法である。 What the EOC regard as appropriate are 'gender free' tests which assess the actual requirements of a job and test potential recruits on that basis.」と述べ、海軍がまだこの方法を採用していないことを指摘しながら、これが三軍すべてに拡大されることを勧告している。また、NATO軍の女性問題委員会「 Committee on Women in NATO Forces」のイギリスについてのページ2001年の文章がまだ載っているが、そこでは陸軍での採用手続きでの "gender-free physical testing"を、明らかに機会均等策の一環とという文脈で紹介している。

イギリス軍の機会均等拡大の中でこの "gender-free" の語がどういう背景から用いられることになったかを知るためには、先のEU議決の場合と同様に、この政策が当該機関で採用されるときの議論について調べてみる必要がある。


おまけ1−−2002年のGemmell論文の解釈をめぐって

  • 2005年の訓練方法見直しの諮問委員会の調査では、Gemmellの論文から、すべての種類の負傷者の数を引用している。ジェンダー・フェア政策の最後の年、1997年に負傷者率が男性1.2%対女性4.7%*4であったのに対し、翌98年のジェンダー・フリー政策最初の年の値が、男性1.5%対女性11.1%。女性の負傷者が倍以上に増え、男性に比べて7.4倍負傷しているというのはこれはこれで問題だが、裏から見ると、男性と同じテストを通過した圧倒的多数の女性兵士、すなわち89%の者が、問題なく男性兵士と同じように任務を遂行できるということを示している。
  • 論文の全文オリジナルを読んでいないので−−これを手に入れるのは有料で、さすがに道楽でそこまで付き合うわけにはいかない−−、また専門家でない人間が批判するのもどうかと思うが、次のような疑問は浮かぶ。政策転換前後の変化を見るために抽出した第1群および第2群の男女比は、母集団の男女比を反映したものになっていると思われる。そして採用時の肉体テスト成績の分布を考慮に入れているとは思えない。が、採用時テストの成績の分布において、女性の集団が、全体の集団の中で(つまり男性の集団に比して)下位の位置にあるとするなら、負傷率の差異は、採用時の成績が下位だったものは上位のものに比べて訓練で負傷する確率が高いということを示しているにすぎない可能性が大いにありうる。つまり男性の中で採用時の成績が女性のそれの分布と同じところにいる者から標本をとってきた集団を作り、女性の集団と比較しない限り、厳密にいえば、負傷の原因に性別が有意なファクターとしてあるかどうかは言えない。もしそうした有意差がなかったとしたら、少数の負傷者−−それが無視できないものであるとしても−−のデータで女性の集団全体を不適格とすることは、テスト成績下位の男性よりも上位にいて負傷する確率の低い女性にとって扱いが公正でないだけでなく、プラグマティックにいえば、高い要求水準で使える兵士を、下位の水準にとどめておく損失となる。
  • 2005年答申の報告書が、政策転換の前後1年の97年と98年を比べたのみの1998/2002の一編の論文だけで結論を下しているのは、かなり大胆だと思った。これだけの問題が1年めから分かっているのなら、フォロー・アップの調査研究がなかったのだろうか。この女性負傷者増加の傾向が制度転換時に起る過渡的なものなのか、それともその後拡大した増加傾向への予兆だったのか、そのあたりがわからない。2005年に掲載される新聞記事でもデータはすべて1998年に口頭発表されたのが2002年になって採用されたこの論文だけである。
  • 論文結論にまとわるジェンダーとセックスの区別の問題。論文では男女の骨格の差について触れており、上のような標本集団の意味づけについての疑問にもかかわらず、負傷の要因について男女の標準的な肉体差を無視するということはできないだろう。つまりこの部分で、正しくいうなら、社会的・文化的に構築された性の問題ではなく、生物学的な性の問題がかかわってくる。ある特定の職務は女性には向かないという先入観を排して、その職種が要求する能力−−このばあい特に肉体的能力−−を満たすものなならば、だれでも同一の条件下で選ばれ、同一の訓練を受けるということでは、98年に導入された政策を、積極的な意味での「ジェンダー・フリー」と呼ぶのは正しいだろう。一方、その結果、生物学的性の要因によって不均衡な結果(特定の集団における傷病者の増大)を生むとすれば、これはその部分において「ジェンダー・フリー」ではなく、生物的差も無視した、いわば「セックス・フリー」の基準を導入してしまったことになる。ここには二つの概念のせめぎあう部分が矛盾となってあらわれている。そもそも英語genderの語を使ってるばあいで、文化解読における厳密な区別によるものではなく、単に sex の言い換えであることが多い。ドイツ語圏やフランス語圏の文献では、どうしても必要な場合にドイツ語フランス語になじまない Gender, genre の語をしぶしぶ使いながら、その必然性がない、特に日常的な用法では、英語gender を Geschlecht, sexe で置き換えている。英語の用法に内在する混乱が話をますますややこしくしている。

おまけ2−−軍隊の中の女性フランス語文献2題)


おまけ3−−本文を書きおわって

  • 日本語での「ジェンダーフリー」の語の使用をめぐる議論については、上の記事を書くために調べているうちに固まってきた私なりの平凡な見解があるが、これはまた別の記事でまとめたほうがよさそうだ。簡単に言っておくと、私は「ジェンダー・フリー gender-free」の表現に一定の有効性を認めていいと思うが、日本語で使われている「ジェンダーフリー」の用法にいちばん違和感を感じるのは、セマンティックな問題以前に、この語が、シンタックスの中で、形容詞概念としてでなく名詞概念として用いられていることである*5。形容語はそれが適用される範囲を名詞によって限定されるが、抽象名詞幽霊のような観念となってひとり歩きする傾向がある。そこで大きな混乱を来しているように見える。
  • スローブログ宣言に敗北の予感でやぶれかぶれ。長すぎて書いた本人が読み返す気がしないが、あとで1回くらい校正するかも。→1回だけ済み。イギリス軍の項目でかなり年代の誤記が多くて話が無用にややこしくなっていた ^^;

*1:いちばん安定しているのが言語学の領域での使用で、これは、文法的カテゴリーとしての gender (典型的には品詞の性)を判定基準にしたレベルと、社会言語学のレベルの2つがある(後者フェミニズムの観点とは無縁ではない)。

*2:たとえば実際、EUのこのジェンダー・フリー職務評価政策を実行したオランダでは看護婦の賃金が差別的に低いという判断が評価委員会によって下され、労働問題となっている

*3Googleで検索してみると、より直訳的な geschlechtsfrei という語の使用例もそこそこ見つかるが、出現頻度は圧倒的に geschlechtsneutral のほうが高い。また、1998年に出た英独哲学辞典 Routledge-K.G. Sauer, German Dictionary of Philosophical Terms (Routledge, 1998)には gender-free が立項されているが、訳を geschlechtsneutral としており、ドイツ語では分野にかかわらず英語gender-free に geschlechtsneutral をほぼ直訳的にあてているようである。

*4:原文では1万人あたりの数字を出しているが小数点以下の下位の数字を約しながら100分率で引用する

*5:「ジェンダーフリー・バッシング」と聞くと、「男女おかまいなしにぶんなぐる」の図を想像してしまうのだが...

猫屋猫屋 2006/01/22 15:10 またしてもコメント欄、一番ゲットでありますが、
fenestrae師匠には『在仏邦人エンサイクロペディア派』という属性をアトリヴューしようかなどと、、妄想いたします。また、上記本文はシラフ状態に戻った時点で再度熟読したい所存であることをここに記しまして、今日のご挨拶に変えさせていただき、同時にお師匠にあられては安息日を有効にお使いいただきたく希望するものであります。シャポー。

fenestraefenestrae 2006/01/23 09:09 猫屋さんの命により、今日はブログ安息日。狷介ポリガム老人よりはアンシクロペディストのほうが偉くなった気がして気分いいです。アンシクロペディストの利得は○○嬢や××夫人のところに足繁く出入りしたり、文通なんかしちゃうとこですよね。ディドロとか。もっとも私のアンシクロペディスト活動は本人知識蓄積才気煥発モードでなくて、地道編集者モードのほうだからあんまり特しないけど。▼ディドロが気になってちらちら読んでたら「ダランベールの夢」で、「L’homme n’est peut-être que le monstre de la femme ou la femme le monstre de l’homme もしかしたら男は女の畸形にすぎないかもしれない。あるいは女は男の畸形」というくだりがあり、そのあと男女の性器の対称性(置換性)とか、ヘルマフロディテについてあれこれ書いているのが、目を引きました。▼ちょっと調べてみるとDiderotには別に「女について sur les femmes」という小文があって、ここでは大筋で生物学的なステレオタイプの記述が展開されている。バダンテールが批判的にとりあげたようで、評判悪いらしいけど、「ダランベールの夢」とあわせてみると、何か韜晦があるような感じで、実は一筋縄にはいかないなという印象です。ディドロにおけるジェンダー=セックス問題、面白い研究があったら読んでみたい。▼今晩は戯曲としての「ダランベールの夢」の語り口にはまっちゃたんで、これ読んで、赤い液体がききすぎて眠くなったら寝ます。

猫屋猫屋 2006/01/24 05:31 なんだか、酔っ払い同士の長屋談義に行ってしまう危険性大なのですが、、バデンタールって、XYの人ですよね。マザリンヌの庇護者、ロベール・バデンタールの奥さん。XYは文庫になった時買って、でも途中であきてしまったんですが、この本、仏国の“良識的知識人”層には一応(言葉が出てこないんだけど)“stepping stone”的役割は果たしたと思う。現実としての“性差別”は別とすれば、たとえばグランゼコールなどでもどんどん女性の割合が大きくなって、やがては♂がマイノリティとなる可能性もあると思います。

今日の夕方TVニュースでは、ホモ・レズカップルが二人目の子供が生まれるんで、生まない方の親は“産後父親休暇”を申請するとかって、、話がありました。なんかなー、これも。あと、オプスでクリステーバの夫、フィリップ・ソレルスがlibertinageについて書いてますね。『Le sexes des lumières』、ノスタルジー・ノスタルジー、、、。でも同時に、同国内で(実態は分からないにしろ)処女割礼やってるトリビューもあるし、難しいです。

fenestraefenestrae 2006/01/24 11:01 この Sollers の文章知りませんでした。面白かったです。私の気分とだいたいあっているのですが(笑)。引用されているディドロのフレーズ、昨日読んだばかりなのでなおさら。しかし。兆候がしだいに強くなりつつある管理と道徳的秩序の時代を、Sollers はこれまで走ってきた勢いで、一息ついたあと、哄笑と速度で逃げ切ろうとしている。フランスにおける規則対例外についてSollersは語りますが、すでに例外の地位を獲得している彼としては、地である規則のほうが少々強くなっても、自らの例外の価値が高くなるわけだから、別に困らないし、危機感を持たなくてもいい。貴族的な libertinageの称揚でわりとナイーブに済むわけです。Sllersは libertinage の大衆化について当然意識していますが、それが、bobo の porno chic になり、そしてポリティカリ・コレクトと共犯関係を保っているうちに しだいに → banalisé → ringardisé という価値下落を起こしている動きの中に自分がいるということに少し無感覚ではないかと感じることがあります(逃げ切るわけだからそれでいいわけですが)。私みたいにその一世代下やそれより後の逃げ切れない世代にとって、果たして彼のlibertinage称揚が、彼の期待する速度や力をもつのか。▼しかし、フランスは何にせよ、あらゆるところで見られる、人為的あるいは自発的、結果的パリテで変ると思います。INSEEの統計をみてもこの5年間だけでもどんどん変わっていく。そして、セゴレンヌ・ロワイヤルは社会党の内部さえクリアすれば最後までいくんじゃないかと思います。フランスが最も必要としているもの、そして他のどの潜在的候補者にないものを持っている。猫屋さんは「母」といいましたが、私は「明るい笑い」だと思います。だれもが明るく笑いたがっている(クシュネールが人気なのもそうだと思いますが)。そして、セゴレンヌ・ロワイヤルがポリティカリ・コレクトを代表するくらい−−私は大臣時代の彼女の保守化にがっかりした口ですが−−で丁度いいのかも。▼話は変わって、日本のサイトで、フェミニズム、ジェンダーフリーにからんで、かならず検索エンジンにひっかっかってくるアンチのページをみましたが、いやはやです。フランスは libertinage の力について語る人間がいるだけまだいいのかも。例外とはいってもしっかりした例外の位置を伝統の中に確保している。ポリティカリ・コレクトの立場から教育省が、学校での体育教科でのミクストの後退の兆候を憂えているのがフランスとすれば、日本ではただの五十音順名簿(男女隔離廃止名簿)をアポカリプスのように言う人間がいる。世の中の大きな流れというのがあるから、こういうのはほっとくとそのうちいなくなるのかとも思うのですが、東京都なんかは権力の中枢にもいてなかなかそうでもないらしい。フランスの「ジェンダーフリー教育」の記事なんて予告しましたが、そんなの紹介してもあまり意味がないような気がしてきたので、後回しにします。そしてはたまたわが国の若者文化には非モテなんていう語があって、libertinageの称揚も、差別、抑圧の側にされてしまうらしい。その反差別ディスクール自体がぐるりと回って道徳的秩序と管理に一役かっているなんていうメカニズムについてもあまり不用意に言えなさそうだし。libertinage はこっそり実践するに限るようで...

猫屋猫屋 2006/01/24 13:49 日本の“ジャンダーフリー”をめぐる某政治勢力の立ち回りはまったく下品でびっくりします。最初は教職員組合バッシングなのか、とか思いましたが。。教育という産業なんですよね。あれだけ金かけるシステムで、大学生は三島が読めない、、ってんでショック受けた。産業としての生産性が維持できればそれでいいってことなんでしょうか。結局行き着くところはホリエモンとか韓国のバイオテクノロジーでの研究結果捏造なわけだ。パリの某見本市で見ても日本のメーカーは来てなくて、聞いたら規制が厳しくて新しい物が出てこないんだ、ってことでした。(スペインが活性化してます。家内工業っぽいのが元気いい。)

ひさしぶりのソレルスなんだけど、引用は豊富でもイマイチ弱いです。結局libertinageは禁止を前提にするからね。なんでも商品化の今では60年代のカウボーイ・ゲイぐらいにしか純愛が見つけられないと言う、、不幸です。あとロワイヤルに国母とつけたのは、ブッシュ・シャロン等々“強父”型政治に人民は嫌気がさしてると感じるからだけなんで、ENA出のロワイヤルに母性は無理でしょう。

あと日本のinstitution、どうなっちゃたのか、というよりどうして変わらなかったか。根は深い気がします。

fenestraefenestrae 2006/01/25 00:49 あ、問題発言(笑)→ ENA出に母性は...
いや、実際4人産み育てますから。彼女、学歴の最初のほうを見てると、エナルクで想像する典型的なバリバリのエリート・コースではないですよね。地方勤務軍人の家庭→地方の中高→地方大学のリサンス、このへんまではどこにでもいる平凡な中産階級の師弟。このあとパリのIEP→ENAというところでエリートコースに入っていくわけですが。よい母親像は地道に地元の面倒をみる地方議員像とともに同年代の女性に対して彼女がもっているプラス・ポイントだと思います。一方、3 Suissese のカタログから出てきてみたいと揶揄されるBCBG像がある。そしてエナルク。この辺がバンリュウの若者たちにどんなふうに受容されるか私には実際よくわかりません。ただ「美人コンクール」(<メランション)のイメージはあっという間に払拭していくと思います。ジャック・ドロールがPSの他の男性候補者を牽制して「軍人の娘をなめたらあかん」と言ったとか。たしかバンリュウ危機のとき6ヶ月の徴兵の復活を提案していますね。社会党左派のスタンスからすれば一貫性があるんだけど、選挙対策ということを考えると必ずしも吉の発言じゃないと思います。もし実際に大統領選になってデュエルになったときに私が気になるのは勢いあまった失言があるんじゃないかということだけです。そういえばファビウスは、去年の10月に彼女の立候補可能性を揶揄して「子供の面倒はだれが見るんだ」と言ってたんですね。斟酌すれば、夫婦二人とも候補に名乗りを挙げてどうするんだということなんだけど、それにしてもこれはひどいです。ますますこの男が許せなくなりました。

日本のバックラッシャーとInstitutionは...う〜ん、長くなるのでまたあとで。

temjinustemjinus 2006/01/25 01:47 ボンリュザールとして言わしてもらうと:
セゴレンヌとフランソワの夫婦はあまりにもフランス中産階級風、要はプチブル風で面白くない。子沢山というのもカトリック風だし。あんな夫婦ににこにこされて「コーフクー」とアピールされると、なんだかゲンナリ。「おっ、いこいこ」という気になります。

で大統領になるとまさしく「コーフク」な共和国が登場するだろうけど、そうなるとボードレールやサドは再び禁書になるんじゃないかと。アポリネールやアラゴンも危ないんじゃなかろうか。。。

オモロナイデ、アノ オバハン。というのがボンリュザールの偽らざる感想でゴザンス。

この書き込み、あんまりだったら消してください。

ところでジェンダー定義論、面白かった。yeuxquiさんもほめていたから、また贅言をつくすこともないんだけれど。

ではまた。

fenestraefenestrae 2006/01/25 02:42 temjinus さん、ありがとうございます。
いや、実はその心持ちをだれか書いてくれるの期待していたわけで(笑)。私がセゴレンマニア・フィーバーになかなかどうしても乗り気になれなかったのはまあそいうわけですが。 サルコジを阻止できるならだれでもいい Tout sauf Sarko という雪崩現象に便乗してのっかってやっときめたとこ。あとは推すだけ。ミリタントぜんとしていたときはもうちと魅力あったんですけどね(いやこれは単に趣味の問題で)。人心をさらにつかむには、あそこのカップルにもアフェアがあるといいのかも...。

ジェンダーの話、データがそこにあるから出さないわけにはいかないけど、データと主張の関係が日本ではどうなっているかよくわかりません。

ウトローで無罪になった「ユイシエ」の Alain Marecaux が自殺未遂したというニュースを今ラジオでやっていました。先週あれほど気丈にしゃべっていたのに。ユイシエは私のいちばん嫌いな職業カテゴリーですが、彼のストーリーは痛ましい。

猫屋猫屋 2006/01/25 06:38 横から、スツレイ
ロワイヤルの政治性はわかんない。でもそのわかんないところに“希望”みたいなのが持てるんじゃないか、と思うわけですよ。ヴェイユはいたけど、時期が早すぎたわけだし、クレッソン自身の資質はどうであれミゾジニに潰された。ここで、政治不信を払拭するには世界レベルで起きてる女組に乗って“禊”も可能じゃないかってことで、ミッテラン・チームではあるけどオドロオドロしい部分とは年齢でズレテルからね。フェデレに持ってくにはいいんじゃないか、、、。一部のエリートは除き国中がパラノイヤックになってますから「コーフク」=ユートピアっぽくなっちゃってます。オリンピックも来ないしさ。てか、普通の人が普通に生活が難しくなっちゃった。そうすっとボードレールよりhow toもの読む国になりつつあるんだと思います。
あとアネクドットですが、ロワイヤル『一番下の子供も問題なく育った。運がいい。これで政治に全力出せる。』と正直に言ってた。このリアリズムはいいんじゃないか、と思いました。

“ジェンダー・フリー”、スペインでさえあそこまで進んでるのに、日本の状況は並べるのさえ不可能な“揚げ足取り”的段階でもめてますね。。あと全国的にはホリエモン祭で、和風ドXXフェスっぽくなってる気がする(笑)合衆国出向組から検察批判まで出てましたけど。

猫屋猫屋 2006/01/25 07:39 書き損ねてた部分を追加、
・temjinusさん今晩は、お久しぶりです。
・>問題発言(笑)→ ENA出に母性は...
今の仏女性にわれわれが持ってるイメージでの“母性”は望めないんではないか、って意味でした。まわりのカップル見てると父親の方が“母”っぽかったり、母親はロジスティックってかマネジャーやってる、、、いや上手く書けませんが。いわゆる母親っぽいのは、真性カトで子供8人ぐらいの専業主婦とかアフリカン・ママとかみたいな気がするんですね。これセゴレン・マネージャー説です(笑)
・失業問題にしても、株式・経済問題、性の問題にしても世界レベルでの変動があるわけなんですが、日本とたとえば欧州を比べる時の“変換”作業がなされていない、と感じました。デイトレードは日本だけでやってるわけではないし、失業問題は(多分)ニートや登校拒否の若年層にのしかかってくると私は思うんだけど、仏バンリュウ暴動→日本でも外国人が暴動を起こしたらどうしよう。じゃあ外国人はいれないほうがいい、、となる。日本は特別な国だ、と、いつのまにかそうなっちゃった気がする。話が、大きく逸れたんできりあげます。。

fenestraefenestrae 2006/01/25 07:46 ロワイヤル大統領候補への評価、例外にもれず、三人三様、フランス生活の長さとかフランス社会のどこに根をおくかでが違っていて面白いです。だれかまた茶飲み話に加わってくれるといいんだけど。猫屋さんがいちばん パリジャン bobo と見た(→あこがれる)。また、ソフトな管理社会(左右共犯ポリティカリコレクト)と、より露骨な道徳監視社会(アメリカ宗教ネオコン流)へのシフトの兆候をフランスにもありと認識するか、あるいは両者を一つのものかどうかと見るかにも関係すると思います。temjinusさんのこのところのフランス不在も認識に違いをもたらす要因にたぶんある。これはもちろん、遠くから見ているほうが実は的を射てて、住んでいるほうが一過的なサルコジブームにあたふたしているだけなのかもしれないというのもおおあり。あとはどれくらい日本の状況と比較しているかどうかでも違う気がする。最近になって「ジェンダー・フリー」をめぐていろいろネットでみたのですが、日本の一部保守論者の悪罵や、パクス=フランスの社会の崩壊の原因みたいな意見が書かれてあるのを見ると、ロワイヤル=オランド・パクスカップルの「保守性」の印象がいっきょにふっとびます(笑)。

猫屋猫屋 2006/01/25 16:39 boboの定義は保守性にあると思うんで、
猫屋は“ケツに火が付いて”サヨ化後bobo状態でして、、かっこ悪いわけです。と一言だけ。

polpol 2006/01/25 18:46 前エントリーのコメント欄で家主をちょっと抑圧してこちらに引越してきました。
個人的には「ジェンダーフリー」政策とネオリベの平仄の合い易さが引っかかります。

日本の現状を考えると、ある時期からずっとそうですが、消費者としての選択肢は極端なまで細分化されて個々のニーズに応えてくれる一方、人生の選択肢はあまりに少ない。同性愛者の結婚を認めるかどうかなんて議論の対象になりさえしていない。

猫屋さんのお嘆きとはまた別だと思いますが、ホリエ騒動を見ていてしみじみ思ったのは、もちろんこれが大事件であるにしろ実質的被害者は限られている(象徴的意味合いが肥大していたとはいえ)。それよりもこれから、「透明な」市場に皆が投資家として参入することにより、老後や医療費のことは自分で考えて生きていってくださいねー、というアメリカ型社会を受け入れるかどうか、の是非が問われないことの方が心配。こういう世の中が当たり前、っていうふうになる方が大多数の人の生活に影響してくるのに。ヨーロッパだってそういう方向に徐々にシフトして行きたい人が真ん中にいるんだろうけど、進んでいくスピードがまるで違う。それにこちらだと日々の情報から金融市場の問題ってもっと見えてくると思うんですけど、日本は海外の情報が限定されていることもあってその辺がよく見えない。旅行やグルメ情報はあんなに豊富なのに。
やっぱりこの4、5年で急速に変わってしまったような気がします(徐々に準備されていたとはいえ)。フランスとは事態の深刻さが違うのです。

shibashiba 2006/01/25 21:13 記事そのものの話からずれますが、コメント欄の流れで横槍。
私は、ロワイヤル-オランドカップルは結婚してないという点で好感をもってしまうというか敬意を感じるというか。
結婚って、結局「制度」じゃないですか。それにとらわれていないというのがひとつ。結婚したくてもできないホモカップルがいるけれど、ロワイヤル女史が「結婚ってものは制度でしょ」というのを体現しているあたり、逆説的に彼らに好感をもたれそうな気がします。(甘いかな…。)
それから、「結婚って、結局『制度』じゃない」と言っても、やはり国家の制度であり、色々とオマケがついてくるわけです。この国では結婚している方が得するようにできていると思うのですが、ロワイヤル-オランドはそういうのと関係ないところで「コーフク」をやっている。単純に憧れるのと、反骨精神みたいなのを感じます。(すごい勝手な解釈ですが。)
ま、思春期に日本でフェミニズム興隆時代+バブルの雰囲気を嗅ぎとってきたせいで、そんな風に感じるのかもしれません。

以前、自分のところでちょっと書きましたが、サルコジ夫婦がバツイチ同士、バツニにもなりそうなカップルで、ロワイヤル−オランドは結婚してないけどうまくやっているカップル。対照的だなあと思います。そして、フランス社会の現状としては前者の方がずっと一般的なように思います。しかし、恋愛の「自由」という観点から言えば、前者が個人の恋愛の「自由」を享受しているケースと一般的に思われているのかもしれませんが、それよりも自律的な自由を行使している後者の方が、個人的には好感が持てます。

今、世界のあちらこちらで女性大統領やら女性首相やらが誕生していて、「母性がのぞまれている」という分析もありますが、猫屋さんの仰る通り、セゴレンヌ・ロワイヤルがフランスの大統領になるとしたらそれは「母性」のイメージを求めてではないような気がします。でも「フランスの現代女性」というイメージはあるかもしれません。バリバリ働きつつ子育て。これは私とだいたい同年代(現30代)の女性が10〜20年前に理想としていた妻・母親像だと思います。

それから、チリの大統領選が終わった翌日、F2の20hニュースにセゴレンヌ・ロワイヤルがインタビュー出演していましたが、プジャダスに「あなたは社会問題以外、例えば経済とか外交などの政治経験がありませんが、もし大統領候補になるとしたらその辺の自信は?」と突っ込まれ、一笑した後、大統領はひとりで立候補するものではない、周囲の人たちとの協力によって政治的プログラムを考え、協力によってそれを進めるのだから、というようなことを言っていて、そのソツのない答えに感心してしまいました。しかし、優等生的な答えといえばそうで、ツマラナイとも言えるかも…。

長文で放言、失礼しました。

shibashiba 2006/01/25 21:20 付け足し。
個人的にセゴレンヌ・ロワイヤルは好きですが、彼女が大統領候補となるのに賛成かというとまた別問題…。

fenestraefenestrae 2006/02/01 01:43 遅いレスです。
>polさん
>「ジェンダーフリー」政策とネオリベの平仄の合い易さ
逆に言うと、ネオリベ的なものの考え方が国民レベルで浸透してきている日本で、この部分だけ抵抗が強いかというのも興味深いです。ただ、アリバイだけのエリート+雇用調整のプールとしての女性の存在を疑問に付さないかぎりほんとうの平等なんて実現されないわけですが、その過程で、「自由競争のはずなのになぜ女性だけが」という素朴な疑問が出発点になることはあると思います。そしてつきつめていくとネオリベこそが、雇用調整のプールとしての大規模な女性の層を必要としているのも見えてくると思うのですが。

>shibaさん
セゴレンヌ・ロワイヤルの話は実は、shibaさんがとりあげてくれたときに、そこでやればよかったのですけど、タイミングを逸してしまっていました。
社会問題だけがフィールドだみたいな宣伝はこれからされていくでしょうけれど、それこそ「女は家」みたいな。これをどう破っていくか。私は彼女の強いパーソナリティでやりきると思いいます。アグレッシヴすぎて失言が出るんではないかと恐れているくらいですが(そういえばあの徴兵復活発言はどこへ行ったんでしょうね)。セゴレンヌ・ロワイヤルとミシェル・アリオ=マリーを並べた最近の世論調査の結果を見ましたが、防衛問題にだけ後者に軍配が上がっていました。役割によって短期間に作られるイメージですよね、それこそ。就任前はたぶんアリオ=マリーにちゃんと国防相がつとまるなんて思わなかった人も多いのではないでしょうか。だれか(名前忘れた)評論家がラジオで言ってまました−−「セゴレンヌ・ロワイヤルの弱点は確かに経済だが、彼女の経済についての知識は、ミッテランが政権についたときの彼の知識とだいたい同じようなものだ」。かたやサルコジは、財務相として過去に大穴をあけたくらいでこれといって有能なところは見せていないし、それこそなんらかの「業績」(しかしなんという業績)をあげたのは「内務」問題だけで、勝手外交はスタンドプレーばかり(日本人を怒らせるというおまけつき)。

>彼女が大統領候補となるのに賛成かというとまた別問題…
なんか微妙にshibaさんと私は対角線の位置をなぞっているような(笑)。
最初私は、パリマッチで選挙が決まってたまるかいというような気持ちでしたが、どちらにしてもパリマッチ選挙(右がサルコジかヴィルパンでも同じでしょう)になるなら、左派も pourquoi pas ...。結局 suffrage universel は分かりやすいシンボルをめぐる対決にしかならない。なにせ革命的共産主義者同盟だって似たようなところで勝負しています。

shibashiba 2006/02/02 08:27 大統領って結構外交で重要な役割ですよね。サルコジがそれをソツなくこなせるという気がしませんね。
セゴレンヌ・ロワイヤルは家族・教育相でしたっけ?あれをやっていたから、社会問題が主に彼女の専門分野というイメージを、私ももっています。先に挙げたF2のインタビューでも社会問題について、教育の問題と失業と家庭環境というサークルを描いて話していて、なんか水を得た魚という雰囲気で話していた印象があります。
あと、やっぱり「母親」というイメージがくっついてきてるのはあるかもしれませんね。
もしセゴレンヌ・ロワイヤルを手ごわい相手とみなせば、右派はその辺をついてくるのでしょうね。

対角線…うーん、そうかも…(笑)。
私は、以前友人(左寄り)が「フランス人は古いフランスが好きなのよ」と言ったことが忘れられず、セゴレンヌ・ロワイヤルで一次選突破できるだけの票がとれるのか…というところがちょっと不安なのです。連合左派としてどーんと出るのであれば問題なしという気がしますが。また左派候補者乱立で票割れ、右にもっていかれる、という悪い構図が頭に浮かぶので。どっちにしても、中道左派をカバーし、他の左派政党に票が流れない、浮動左派票を集められる、という社会党の候補がいるか?と言われると…悩んでしまいます。いや、多くの有権者がセゴレンヌ・ロワイヤルを支持してくれるのであれば言うことなしです。私もセゴレンヌ・ロワイヤルファンですから。

補足補足 2006/04/21 20:48 『”gender free” は英語のサイトでも 検索例がたくさんあるようです。』

googleなどで ”gender free” で検索すると、たくさんの検索例が出てくる様ですよ。

 例.

 http://a4esl.org/q/h/dt/genderfree.html
  Gender-Free Language  ( gender-free 言語について )

  policeman -> police officer or constable

  mailman -> letter carrier or postal worker

  spokesman -> spolesperson

  actress -> actor

  manpower -> workforce, personnel, workers, human resources

  housewife -> homemaker

  など

2006-01-20

「使わない兵器」の使いかた−−シラク大統領と核 「使わない兵器」の使いかた−−シラク大統領と核を含むブックマーク

シラク大統領は、19日、ブルターニュのイル・ロング基地で基地関係者を前に演説したが、その中に核の使用の可能性について触れた部分があった。日本人にとっては聞き逃すことのできない発言。演説の全文がル・モンドに掲載されている。

Jacques Chirac, président de la République

"Protéger nos intérêts vitaux"

LE MONDE | 19.01.06 | 13h57


基地には核兵器搭載の潜水艦があり、そこに勤務する人々へのねぎらいのことばが、のっけから、その核抑止力の維持の職務について触れることではじまる。そして、核抑止力フランスにとっていかに重要かということについて、具体的な装備、その近代化、また核拡散防止条約の遵守について触れながら、手をかえ品をかえ長い演説が続く。抑止力の意義についていつもよりかなり強いトーン。そしてかなり終りのほうで次のように述べる。


抑止力は、2001年9月11日テロ攻撃の直後に私が強調したように、狂信的なテロリストを抑止するためのものではない。しかしながら、テロという手段をわれわれに向けて用いる可能性のある国家指導者たちは、大量破壊兵器をあれこれのやりかたで用いようと考えている者たちと同じく、自らが、断固たるそしてそれ相応の反撃にさらされるであろうということを理解しなければならない。この反撃は通常兵器によるものであるかもしれない。また他の種類のものであるかもしれない。

La dissuasion nucléaire, je l'avais souligné au lendemain des attentats du 11 septembre 2001, n'est pas destinée à dissuader des terroristes fanatiques. Pour autant, les dirigeants d'Etats qui auraient recours à des moyens terroristes contre nous, tout comme ceux qui envisageraient d'utiliser, d'une manière ou d'une autre, des armes de destruction massive, doivent comprendre qu'ils s'exposeraient à une réponse ferme et adaptée de notre part. Cette réponse peut être conventionnelle. Elle peut aussi être d'une autre nature.

問題になるのは、上の最後の部分。つまり、反撃の方法は、通常兵器以外のものもありうる、つまり外交的表現で、核兵器かもしれないと言ったことになる。そしてまた、話はぐるぐる回って、"近代化による核兵器削減もするけど、柔軟に備えだけはしています"というような話があったあと、ニュアンスを変えながら、次のように言う。

しかし、われわれの核兵器使用に関するコンセプトはなにも変わっていない。紛争の際の軍事的手段として核の手段を用いることはいかなる場合もありえない。核軍事力がしばしば「使用されない兵器」と呼ばれるのは、そうした考えからである。この表現は、しかしながら、われわれが核兵器を発動させる意志も能力もあるということについて、疑いを生じさせるものであってはならない。その使用についての曇りのない脅威は、われわれに対する敵意に動機づけられた[国家]指導者たちの上に、絶え間なくのしかかるものだ。この脅威は、それらの者を分別ある考えに戻らせ、自らの行為が自らにそして自らの国にあたえる可能性のある桁外れの代償について考えさせるために、必須のものだ。一方また、われわれは、自らの生存権を断固として守るという意志をはっきりさせるために、究極の警告を用いる権利をつねに保有しつづける。

Mais notre concept d'emploi des armes nucléaires reste bien le même. Il ne saurait, en aucun cas, être question d'utiliser des moyens nucléaires à des fins militaires lors d'un conflit. C'est dans cet esprit que les forces nucléaires sont fréquemment qualifiées "d'armes de non-emploi". Cette formule ne doit cependant pas laisser planer le doute sur notre volonté et notre capacité à mettre en oeuvre nos armes nucléaires. La menace crédible de leur utilisation pèse en permanence sur les dirigeants animés d'intentions hostiles à notre égard. Elle est essentielle pour les ramener à la raison, leur faire prendre conscience du coût démesuré qu'auraient leurs actes, pour eux-mêmes et pour leurs Etats. Par ailleurs, nous nous réservons toujours le droit d'utiliser un ultime avertissement pour marquer notre détermination à protéger nos intérêts vitaux.


直接的には、緊張する中東情勢と大統領選挙の二つの要因のからまりがあるのは明らかだが、ちょっとややこしい。シラク大統領就任の年を、ムルロワでの核実験をめぐる大議論で飾って、特に日本ではその日本通の評判を吹き飛ばすほどの悪名をあげたが、引退(するとすればだが)をやはり核論議で飾ることになるのだろうか。核に対するオブセッションがあるとしか考えられない。ポピュリズムというより、フランスという国家国際社会での存在のしかたにおける核保有の役割についてのこの人のほとんど頑な信念に根差しているように見える。これに関しても、彼の世界はすでに完全に国内世論からプラグ・アウトされているように思うのだが。

別の記事を用意していたが、緊急だと思ったので、急遽この記事を紹介。

polpol 2006/01/21 23:41 最初にこのニュースを知ったのが日本語メディアだったので、またいつもの脈絡のない報道かと思ったんですが、あまりにデリケートな問題に触れているのでさすがに驚きました。このエントリーを読んで彼個人の信念に注意を喚起され納得。
しかし、この演説、国内および隣国の反応も芳しくないようですね。
イランの核問題を考えると、タイミングがあまりに悪すぎます。それにしても欧州にはもうちょっとラテンアメリカ諸国のようにイランに寛容になって欲しいものです。いろいろお邪魔しました。さよならー。

fenestraefenestrae 2006/01/22 13:31 ドイツからは総スカンのようですね。国内では緑と共産党が批判しているくらいで、ファビウスなんかは「このくらい言っといていいんじゃない」みたいな感じ。ル・モンドよりもリベにポイントを分析した記事がありました。私もこの時期に何をわざわざ挑発的にと思いましたが、わざとこの時期にこの発言を選んでいるのだと思います。

発言する側の論理にたってみると次のようなところでしょうか。核が今どこにあるかと考えると、まずアメリカ。そしてロシア、中国、インド、パキスタン、たぶん北朝鮮、たぶんイスラエル。ユーラシア大陸だけでこれだけあります。そして今イランがどうとかいう話になっている。ヨーロッパを考えると、アメリカに片足を置いた英国をひとまず置くと、欧州大陸側には、フランス1国だけ。ドイツは将来にわたって持たないことがはっきりしれている。そこでフランスが欧州全体の核の傘を保証する唯一の国としての責任と存在力を、ことあるごとにアピールしようというのは、特にEU憲法条約否決のあとその欧州のリーダーシップを失った今のコンテクストでは、論理的行動なのかもしれません。個人的には今緊張を高めるような発言には反対。ただ、過去50年と今後50年、100年くらいのスパンでジオポリティーク的に発想している政治家たちの頑な信念というのは、今の日本人にはなかなか想像できないものだとも思います。

polpol 2006/01/23 12:04 ドイツのメディアはシラクの発言に全く驚いていませんでしたね、強く批判しつつ。彼の信念は了解事項。
日本では昨今のテロ対策にだけ結びつけて解釈しているとしか思えない書き方で、その強さに危ういものを感じました。
核問題がその抑止力・拡散防止やエネルギー利用の観点から世界的な議論の的になっていて、六カ国協議も単なる東アジアだけの問題ではなく、その大きな議論の中に含まれているのだ、ということをどれだけ普段から明確に意識しているのか。そういう中でシラクの発言だって解釈できるわけですが、そもそも歴史的地政学的
な連続性あるいは非連続性を念頭に置いて判断する気もないわけで、そうなればシラクの発言が単なる一国の利益に基づいたものである、という判断しかできないでしょうね。

fenestraefenestrae 2006/01/24 11:13 ル・モンドのネット投票でシラク発言を「認める」に40%、「認めない」に55%の結果が出ていました。ドイツはなんだかんだ言って、アメリカの核ミサイルの傘の下にあるよりはフランスとの共同防衛でいいて思っているし、冷戦時代の経験から現実を認識していますからね。日本は、ソ連・中共の脅威か、軍隊・核ということばにオートマティックに反応していればいい時期が長かったから。考えなかったつけが今になってまわってきているのに、このつけのあおりをいちばんくらった左翼が認識できていない...

polpol 2006/01/25 04:07 うわー、もう弱小勢力なんですから。フランスの状況と比べ物にならないくらい。
(fenestraeさんのことじゃないけど)いまだに自分の頭の中にだけ存在するかつて一大勢力だった頃の左翼を念頭において批判を繰り返す、自称左翼が多くて困ります。オルタナティブな勢力なんてほんと限られてるのにそれを潰しにかかってどうするんだー、って。
核についてはあまり触れたくない、という気持ちが強く働いているんでしょうね、それがもっとも標準的な傾向なんでしょう。

fenestraefenestrae 2006/01/25 08:58 うーん、やっぱり今の日本を十年前の感覚で見てるからかもしれませんね。2004年にも同じようなこと書いたけど、もうつけがまわりすぎているのか。といってもjamais trop tard pour se corriger。TCEのときやっぱりまわりまわって日本の左翼を批判して批判されたけど、指摘されたような状況はもうちょっと考えなければいけないとは思っています。日本のネット言論のすごさを発見するにつれだんだんわかってきたつもりではあるんだけど、「修行」が足りないということですね。といっても左翼も論理的にも倫理的にも美的にも(あるいはそのどちらかで)魅力あるものにならない限り勢力は得られない。もちろん論理的や倫理的や美的なものの価値が通じる世の中かというのも問題だし、美的な価値はアブナイけど。でもそれに頼るくらいしかしか気持ちよく生きられないでしょう。

猫屋猫屋 2006/01/25 23:13 シラク発言の裏の理由には、一部エネルギー問題がひかっかってると思います。元国家企業某石油会社は世界第5メジャー。この会社はポストオイルに核を想定してかなり資本投下してるハズ。最近ロシアの動きを見ても、エネルギーが今後の地政関係を決めてくはずで、これは大きい。ところで原油はまた上がりました。イランには日本も資本出してますね。中国はアンゴラ・スーダン。アブナイ・アブナイ。

polpol 2006/01/26 03:10 fenestraeさんがおっしゃる通り、どうやって新たに論理的・倫理的・美的共感を得ていくか、ってほんとうに大事で、単なるイメージ戦略になると怖いのですが、そういうところにも気を配る必要はあるでしょう。イメージって変わりやすくもありますが、理屈で変わらないものでもあるのでどうやったら変わるのかはわからないんですが。

> 元国家企業某石油会社
それはラ米のお話ですか?

この先エネルギー問題で世界秩序が再編成されていくんだろうなー、と思いますが、全体でどうやってバランスを取るか、ということを考えざる得ないんでしょうね。誰でもエネルギーは必要不可欠なものだし。
その際、再編にあたってある種の理念や理想を実現していく切り札としてエネルギー資源が使える、ということを恐らく猫屋さんが問題にしているであろう人物は今のところ(原油の高値が続いている、という運の良さも手伝って)
ある程度うまく示してくれていると思います。彼は自国の環境問題にも取り組んでいるはずで単なるエネルギー狂ではありませんよ。
取り組み次第ではエネルギー問題って悲惨な展開になる可能性は大だと思うので、自分たちの利益と理念との間でどうバランスを取りそれをうまく主張するか、どうやって新しいエネルギーを開発するか、ってことに根気強く取り組んでいくしかないんでしょうね。

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2006-01-15

fenestrae2006-01-15

F-POP祭出演者たちのP2P交換合法化反対宣言−−後味の悪い土曜日の夜 F-POP祭出演者たちのP2P交換合法化反対宣言−−後味の悪い土曜日の夜を含むブックマーク

とんがった頭をすこしまるくしようと思って土曜日の夜に France 2 の大型歌謡ショー Fête de la chanson française を見た。今年で2回目。司会を務めるダニエラ・ロンブロゾのファン−−正確に言うと、彼女ニュース専門局のLCIで文化欄を担当していたときのファン−−なので、彼女が France 2 に引き抜かれて歌番組の司会をするようになってからときどきこの局のこの手の番組を見る。

それなりに楽しめた。F−ポップの悲惨と希望の光を堪能させてくれる。

バリバリの現役時代から音程の怪しかったのが70歳を越えてますますそれが怪しくなったジョルジュ・ムスタキと、元来歌手でなくもともと音程なんて気にしないのが気にしなくてもCDが売れるのでますます気にしなくなったサンドリーヌ・キベルランデュオで「メテック」を歌いきるという一期一会のシーンに感動したり、猫屋さんもお勧めラファエル君を見ながらこの30歳の少年とTVごしに眼があうとなぜか胸がドキドキしてしまうというおよそ私のデフォルトの性的オリエンテーションからは未知の恐ろしい体験−−実はフロイトまでも至らない単純な説明があって、私がひそかに憎からず思っている知り合いの女性に酷似しているからなのだが、それにしてもである−−を確認したり、いろいろおまけがあった。

しかし、最後のどでかいおまけでずっこけた。

番組のかなり終りのほうで、出演の歌手たちがせいぞろしているので、「あ、何か言うぞ」と思ったら、案の条、代表がメッセージを読み上げはじめた。何のメッセージかすぐ分かり、分かったとたん、丸くなっていた頭がまたとんがってしまった。

年末ひょうたんからこまで、音楽ファイルP2P交換をグローバル・ライセン料と引き換えに許可する法案が下院で通ってしまったことへの反対宣言だ。

この法案の通過はかなり衝撃的だったので、この事件だけをとらえて、フランスP2Pによる音楽ファイル交換を積極的に合法化する政策を進めそれが実現されたかのようなニュアンスでとりあげられたりしたが、全体の流れを見たときの現実は逆だ。つまり、年末に審議されていたのは、デジタル化された音楽ファイルコピーの可能性を配信者の手で厳密に管理し、いっさいの交換をネット上で監視し、交換を可能にするソフト暗号解除の情報の交換をすべて非合法にして、違反者を懲役や莫大な罰金で罰しようという一連の法律だった。これはEU指令の国内法化に便乗する形で提案された。これを阻止するために各種の団体がネット上でキャンペーンをはり、リベラシオン紙もがんばった。これに対し、政府世論の波風を立てずに法律を通すためにクリスマス休暇の時期で議員の出席率が少ないときを狙いこれを審議させた。ところが驚くべきことに、この、出席議員が少ないうちに審議しようという作戦が裏目に出、身内の与党からの造反議員がいたため、12月21日の夜半に30 対 28という僅差で、法案を骨抜きされただけでなく、逆の政策へ向かわせる修正案が通ってしまった。これが「フランスP2Pファイル交換を合法化」の背景だ。

怒り狂ったのはドヌデュー=ド=ヴァブル文化大臣だ。年末にかたをつけるという方針だったのが、年末に変な方向にかたがついてしまったので、急ぐ必要はないという方針に変え、もう一度審議をやり直させて最初の案の骨子のまま通すと宣言している。そして法案再審議のためにどの程度手直しすればよいかというのが与党内でもめていて、修正案が決まったと発表されたのが今日日曜日。そんなコンテクストの中に昨日放送された番組中の、歌手たちの宣言書読みはある。

歌手たち、そして多くのばあい作詞作曲者でもある彼ら彼女ら、ひっくるめて音楽家たちの全体の中に、P2P交換が合法化されれば自らに不利益になるとする考えを持つものがいるのは当然だ。

が、問題は、音楽家の中でもこれについては意見がわかれていることだ。グローバル・ライセンによるP2P交換を是とする音楽家たちは、「L'Alliance Public-Artistes リスナー・アーティスト同盟」なる団体を推し、13,500人以上のアーティストが賛成の署名をしている。今回のP2P交換許容の修正案に賛成しないまでも、政府が準備していた(る)規制案に対しては、音楽の自由な発展を殺すものという考えから、強い反対を表明する人が多い*1。昨年の2月にはNouvelObsの呼びかけに対して、かなり名を知られた歌手たちも「私も違法ダウンロードをした犯罪者です」という宣言に署名している。

用意していた規制案への、音楽家を含むこうした猛反発と、まさかのP2P交換合法化法案の通過のパンチをくらった政府メジャーレコード会社(ユニヴァーサル、ソニー・BMG、EMI、ワーナー)は法案通過の翌日からすぐに巻き返しをはかった。メジャーと契約を結ぶ有名どころの歌手たちも22日に反対声明を出している

ここには、職業音楽家世界の中の持つもの持たざるものを分ける、悲しいほど明らかでそして自然な図式がある。現在のメジャー支配の中で不遇をかこっていると感じる、そしてネットによる自由な交換が実現された世界に自分の新たな可能性を見出す者は、その実現にリスナーとともに積極的な態度を見せ、メジャーな配信者のコントロールする世界ですでに十分な利益を得ている者たちは、そうした配信者とともに現在の権益が脅かされることに抵抗する(もちろん芸術家の行動である以上、上のような経済的な利益による説明は一面的で、そこには象徴的な利益の軸があり、その2つの軸の上での位置関係がさまざまに異なる立場を生み、また同じ人間でも、象徴的利益と経済的利益の獲得の具合の変化によって、そのスタンスはどんどんと変化する−−あり体な例でいえばただで配っていたものをあるときそうするのをやめたり、また逆にあるときからただで配りはじめたりする−−がこれをはじめると話がとんでもなく長くなるので、意地悪に思い切り単純化しておく)。

土曜日のFrance 2の番組に出てきた歌手たちが、その売れかたから言って基本的に、メジャーと利益を共にする者たちである以上、そのP2P交換合法化阻止宣言は自然といえないことはない。が、それのタイミングスタイルは現在の熱く動いている状況下では恐ろしく興ざめなものだった。会場には文化大臣も出席していて、TVではその姿をちらちら写す。そんな中で発せられた宣言は、P2P合法化への反対だけでなく、政府の規制強化に賛成しているととられても仕方がない。実際のところは、メジャーに属しP2P交換合法化へ反対しながら、かつ、規制強化への憂慮を発言する音楽家も多いにもかかわらず。

そもそも、フランスで文化大臣が出席しているようなこうした音楽イヴェントでは、この数年来去年あたりまで、ほとんど儀式化している「ハプニング」があった。それは、失業手当の条件悪化に反対するフリーアーティスト舞台関係者たちの代表が「乱入」(しばしば主催者側スタッフとの「協力」により)して、政府の政策批判の宣言を読んだり、正規の出演者の一人がなんらかのきっかけをとらえて彼らに連帯の宣言をしたりすることである。そのたびに、会場は沸き、文化大臣の苦い表情が映し出される。そこには持つ者と持たざる者の同じアーティストどうしとしての連帯があった。だからショーの中の美しい一こまとなる。昨夜の番組をみながら、文化大臣の顔が写るたびに、今回はその「儀式」がないなと思っていた矢先だったので、出演者が勢揃いして何か読むなと見えたとき一瞬「何かがおきる」と期待しただけに、文化大臣をご満悦にするメッセージは私にとって余計に興ざめだった。そして、この宣言に対する会場からの拍手はまばらで、明らかにブーイングも出ていた。多くの人が思ったろう。ポップ歌手は、ロッカーもラッパーも含めていつから皆が政府の提灯持ち、イエスマンイエスウーマンになったのかと。

いくつかの確かめようもない疑問はある。すべての出演者がこれに賛成したのだろうか。あまりに興ざめでこのあとTVをつけっぱなしにしたまま別のことをしていたので、その後の展開をおさえていないが、少なくとも、この宣言に「連帯」せずにカウンターの宣言をする骨のある者がいたようには見えない。宣言読みの際に出演者が一人残らず整列していたかどうか−−ほとんどであることは確かだが−−も今となっては定かでない。すべての出演者が何の抵抗もなく、政府の推進する政策の宣伝の道具となっていたのならため息が出るし、この宣言を読むことに賛成しない人間が出演しないしくみになっていたのなら怖いことだ。

宣言を読んだ一人に、70年代から80年代にかけて活躍したロックグループ「テレフォン」のリーダーで、ソロで活動を続けるジャン=ルイ・オベールがいた。フランスでは今国産ロックが売れると分かっていながら、人材が不足しているため、過去の人材の発掘に余念がないが、その波に乗って、何度めかの「復帰」を果たすべく昨年末からヴァージンEMI)の積極的なプロモーションとともに活躍している。ファンには悪い意地悪な言い方だが、去年の初め、「私も違法ダウンローダー」宣言に署名しながら、12月22日P2P合法化反対のメジャーミュージシャン連の宣言に名を連ね、昨夜の番組で宣言読みの主役になったのは、彼の微妙立場を反映している。

昨日の番組のあと、彼はカリ−といっしょにボリス・ヴィアンの「Le déserteur 脱走兵徴兵忌避者 )」を歌ったが、前後の連関でこれほどそらぞらしいものはなかった。だれかれにも押し付けることができる規範ではないかもしれないが、私の古風な美学によれば、ロックミュージシャンとして自らを売るものは、大企業支配や政府の管理政策に反対するポーズをとるほうが美しい。2002年ノワール・デジールが、フランスで一番大きい音楽賞祭ヴィクトワール・ド・ラ・ミュジックで複数の賞をもらったとき、そのリーダーのベルトラン・カンタは、所属レコード会社グループ、ユニヴァーサルの総帥で当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったジャン=マリー・メシエに対し、客席にいる彼を前に皮肉に満ちた短い謝辞もそこそこに、業界独占への彼の野望と戦略を痛烈に批判し、拍手喝采をあびた。そして人気をあげCDの売り上げを伸ばし、会社を儲けさせた。

ネットに脅かされた2006年のメジャー業界では、もはやそうしたパラドキシカルな「共謀」を成立させるための、企業の懐の深さも、音楽家無鉄砲さもないようだ。ベルトラン・カンタは翌2003年8月1日リトアニアで、酔いにまかせてガール・フレンドのマリー・トランティニャンを殴って死なせ、刑務所に入り、残されたメンバーは細々と過去の遺産で食べている。あの事件は何かのはじまりだったのかも知れないと今になって思う。

*1:私は今用意されている強い規制案にもちろん反対だが、ひょうたんから駒で通った現在の法案のままではどうしようもないと考えるほうに属する。

猫屋猫屋 2006/01/17 03:05 >30歳の少年とTVごしに眼があうとなぜか胸がドキドキしてしまう

そう、そうやって学習するもんなんです“自由”って。

fenestraefenestrae 2006/01/17 06:57 まず ”liberer sa parole” をティミッドに学習している段階なのでしょうか(笑)。

ねブロにまた書けません。

猫屋猫屋 2006/01/18 03:35 ↑ん、 ”liberer sa parole”ってセゴレン・ロワイヤルの課題だとばっかり思ってましたが。猫屋は考えが拡散しすぎて収拾が取れなくなってます。以上報告まで。

2006-01-12

はてな風?ゲンガク三重はてな風?ゲンガク三重奏を含むブックマーク


しかしまた、われわれは爆発に近いところにいるとも私は思う。レーニンにおいてすでに、真のユートピアは緊急の観念と結びついていた。ほかにやりようがないと思った瞬間に人はユートピストとなる。その意味でいえば、われわれはますますユートピアを考えることを余儀なくされていくだろうと私は思う。

Mais je crois tout de même que nous sommes proches d'une explosion. Chez Lénine, déjà, l'utopie véritable est liée à l'urgence. On devient utopiste dès lors qu'on ne peut pas faire autrement. Dans ce sens, je crois que nous serons de plus en plus contraints à l'utopie.

...

哲学者としての私の倫理的・政治的義務は、解答を与えることにではなく、神秘化された問題を新しく定義しなおすこと、そして、アラン・バディウ Alain Badiou が「問題の現われる場所 site événementiel」と呼んだところのものを見つけることにある。それは、なんらかの可能性があるところ、何かがあらわれてくるための潜在的可能性のある場所だ。

Comme philosophe, mon devoir éthico-politique n'est pas de donner des réponses, mais de reformuler des questions mystifiées, et d'identifier ce qu'Alain Badiou a appelé le « site événementiel ». Là où existe une certaine possibilité, une potentialitépour que quelque chose puisse surgir.

スラヴォイ・ジジェク*1


もし私が身分証を持っていなかったら、一切の社会福祉が申請できないことになる。社会福祉が申請できなければ、住む場所を持つことができなくなってしまう。路上生活者になってしまえば、自分の子供学校にやることができなくなる。こうなるとここにはそうした負のフィードバックがある。このことをわれわれは記述できるようにならなければならないだろう。しかしそれは、その事実正当化することでも、どうやったらそこから抜け出せるか示すことでもない。ここでなんらかの措置を講ずるならば、人はきわめて特定の目的を持つことになり、きわめて特定の境界条件を持つことになる。がそのことは必ずしも...われわれは社会をより良くすることはできない。が、収入がないといったようなばあいに生じる一定の排除を人が軽減するという事実をもちろん観察することはできる。

Ich habe keinen Ausweis, also kann ich keine Sozialhilfe beantragen; ich kann keine Sozialhilfe beantragen, also kann ich keine Wohnung haben; wenn ich auf der Straße lebe, kann ich meine Kinder nicht zur Schule schicken.Dann gibt es diesen negativen Feedback. Das müßte man beschreiben können, und das heißt weder es zu rechtfertigen noch Wege zu zeigen, wie man davon wegkommt. Also wenn man Maßnahmen ergreift, dann muß man sehr spezifische Ziele haben und sehr spezifische Randbedingungen haben, das kann nicht auf der .... Wir können nicht die Gesellschaft verbessern, aber man kann natürlich sehen, daß man bestimmte Exklusionen abschwächt, die sich ergeben, wenn jemand eben kein Einkommen hat oder ...

ニクラス・ルーマン *2


夢とは何であろうか。そして夢を考えることとは。夢を/の語る言語とは。想像上のものやユートピアに道をゆずるのではない−−つまり、あきらめ、責任を放棄し、逃亡するのでない−−夢の倫理、夢の政治学というのは存在しうるのだろうか。

Qu’est-ce que le rêve ? Et la pensée du rêve ? Et la langue du rêve ? Y aurait-il une éthique ou une politique du rêve qui ne cède ni à l’imaginaire ni à l’utopie, qui donc ne soit pas démissionnaire, irresponsable et évasive ?

ジャックデリダ*3

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2006-01-09

ジジェク@ユマニテ ジジェク@ユマニテを含むブックマーク

ジジェク1月4日づけユマニテ紙でのインタビュー

スラヴォイ・ジジェク−−資本主義の論理は自由の制限を導く

Slavoj Zizek : « La logique du capitalisme conduit à la limitation des libertés »

L'Humanité : Article paru dans l'édition du 4 janvier 2006


ジジェクについての最初の短い紹介文を省いて、インタビューの内容を訳します。

続きを読む

temjinustemjinus 2006/01/10 01:06 しばらく休みます、と言いに来たら、なんだか『モチヴェーション』の話があって悪いことをしたかな、と反省してます。

フランス語を勉強→いろいろいいことがある>
まさかフランス語で飯を食うことになるとは思ってませんでした。これが最大の収穫か。
西アフリカ諸国で女性と好きな話ができるのはいいことです。

それではfenestraeさん、またご縁があれば。
temjinus

dcsydcsy 2006/01/10 03:54 驚きました。すばらしいです。

と一行コメントでは何なので、フランスに関わる部分で簡単に感想を言うと、バンリュウ危機にかんしてはフランス社会・政策の特殊性をすっ飛ばしすぎ、最後のポピュリズム的傾向の分析は面白い、といったところです。まあ私はデカい話が好きなので、こういうレベルで語ってくれる人がいるのはありがたいのですが。バンリュウ騒動で説得的だったのは具体的分析に基づいた社会学的な言葉で、デカい話をする人はフィンケルクロートのように(「アポカリプス」とか)半ば妄想的な言葉に流れてしまうような印象を持っていたので。

猫屋猫屋 2006/01/10 07:59 は、はやい。プロ仕事です。

ジジェクにしてはまとまってるなとも思います。ラカンとか、ダースベイダーとかの媒介なしなせいでしょうか。

世界スラム横割り現象、と極右の語彙をどうやって中道右派がレキュペレ/チョンボしていくかってもストンときますし、このあいだ村上龍の『半島を出よ』を読んだ時の、『ブレイド・ランナー』的未来=現在像も重なります。

ネグリ-ハート批判には必ずしも同調できない。なぜなら、ネグ・ハ組と同様にジジェクにも来るべき方法論は描けてないと思うし、ジジェク自身哲学界のロックスター、あるいは哲学界の吉本興業的役割を果たしているわけで、“資本主義礼賛”といえば言えちゃうわけですよ。ある意味ネグリ・ハート『帝国』は、出版された時点(2000年)でその役割を充分に果たしている。で、そこからの展開をジジェク(あるいは別の思想ゲリラ)に期待したいところです。

なお、英語版ウィキペディアでempire全文ダウンロードできるみたいです。(通読=mission impossible @nekoya ですが)
http://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_Negri

fenestraefenestrae 2006/01/11 07:06 temjinus さん
あと2か月でメトロポールですね。「ネット輪廻」後を楽しみにしています。きっと会えると思っていますので A bientot ! こちらも輪廻しようかな...

dcsy さん
なんだか、自分ではテキストにコメントしないのを棚にあげて、みなさんにコメントを強要しちゃったようです。こちらもデカイ話もときどきフォローしておいたほうが想像力のためにいいかな、などと思っています。

猫屋さん
これ、インタビューなので、翻訳というよりほとんど通訳モード...

ジジェクにしてはまとまっているのは、やはりインタビューだからで、インタビュアーが流れを仕切っていますね。しかも事前にジジェクの主張を知っていた、その言いそうなことを誘導しながら。

いろいろ突っ込みたいのですが、今日もパス。というより、右から左に訳したまま一度も見直してないので、アクセス数の多いわりには、それはちょっとまずいかも、改めてチェックしたほうがいいかと思っているところ。読みに来る人を不安にするといけないので、それほどの誤訳はないはずと、私の能力の及ぶレベルではとりあえず保証しておきますが、日本語の誤字脱字や、ちょっとした語彙選択や、文脈の乱れで誤解を招きそうなところがあるかもと。今先、一個見つけました

「この暴動はわれわれのポスト・ポリティック社会のまさに正反対のもの」
→まさに裏返しのもの

翻訳ってチェックのほうが面倒なものです...

fenestraefenestrae 2006/01/11 09:01 再読し改訂しました。語彙や言い回しによるニュアンスの変更、誤字・誤記の訂正を別として、重要な修正があったのは以下の3点。

・「というのもこの暴動はわれわれのポスト・ポリティック社会のまさに裏返しのものだからだ。人々がポスト・ポリティックのカードを使うとき、暴動はそれそのものがポスト・ポリティックのものとなった。」
「裏返し」については上記。「ポスト・ポリティックのカードを使いながら」(それを使う主体が暴動の主導者のように読めてしまう)を→「人々がポスト・ポリティックのカードを使うとき」に変更。
・「経済は脱政治化した無縁の固有の法則を持ち、「民主主義的」討論は文化の問題に限られるとでも」。←「経済の問題に限られるとでも」となっていた^^;。
・「国家は、このシステムの中で、絶対の決定的な役割を果たしている。軍事予算と管理の面に置いて。」。←「軍事予算と...」の文がヌケ。

猫屋猫屋 2006/01/11 09:18 どうも。バディウの言葉、カッコ内の仏語部にミスタイプありです。^^;
つまんないことでありますが、一応お知らせまで。lol

今夜はランシェール(これも読んだことないけど)と文化問題がらみでブログ・アップしようかなとか思ったんですが、ジジェク原文ももう一回目を通して見ます。んでもって、fenestrae氏のジジェク突込み、期待してまーす。

fenestraefenestrae 2006/01/11 09:31 ほんとだ。< événementiel。今直しました。ありがとうございます。一つのキーボードで qwerty、azerty、 qwertz になっているのでしょっちゅう。
いつものウネウネと違って、単純化されたインタビューだからつっこみどころが多いんだけど、揚げ足とりになる危険性も多いのはたしか。まあスローにやります。

polpol 2006/01/11 22:54 はじめまして。いつも愛読させていただいています。
fenestraeさんがフランス中道左派的な意見をもっておられるのは普段の内容
からも察せられるわけで(ご自分でそう言明されることもあるし)、そんな方
がジジェクのインタビューの内容に半ば違和感を感じておられるのはよく理解
できることです。
郊外の問題を人種的な問題だとみなさない、というところには共感されるので
しょうが、『「イデオロギーは存在しない」という至高のイデオロギーがある』と考えることには同意されないんじゃないかな、と思います。
この『ユマニテ』のインタビューでは中道的なものが左右問わず批判されていますし。
私からすると不思議なことですが、このインタビューに付された短い紹介文に
も書いてある通り、« un matérialiste dialectique à l’ancienne mode » 
と彼自身(このインタビューに限らず)自称しているわけで、インタビュアー
の意図に誘導されたわけでもなく、他のインタビューでも同じような発言をし
ていると思うんですが。『ユマニテ』がどんな場所かは明らかだし、バディウ
と一緒に本を出してしまうことからも彼のポジションは明確だと思います。

fenestraefenestrae 2006/01/12 11:37 pol さん
はじめまして。コメントありがとうございます。

-経済−階級の問題を、文化−人種問題にずらすことの誤りについてはご指摘のように賛成しています。
-『「イデオロギーは存在しない」という至高のイデオロギーがある』についてですが、こうしたイデオロギーが支配的になること(「歴史の終り」)で見える物が見えなくなっているという点についても私は同意しています。
-「誘導」というのは表現が悪かったかもしれませんが、これは、誘導尋問的にジジェクがそれほど思っていることを引き出しているという意味ではなく、エッセーになると脱線の多いジジェクの議論を、彼が以前に言い・書いていることを理解している聞き手がきっかけを作りながら、じょうずに道筋をつけながら、骨組みを引き出しているという程度の意味です。訳文の調子には一環して反映するということはしませんでしたが、インタビューはほぼ「あなたは...とおっしゃっていますね」の調子で「...」の部分を敷延させる形式になっています。別に悪いインタビューではないのですが、ただフランスのプレスであるからには、ちょっとした反論や基本的な質問による議論の引き出しかたのあるインタビューであっていいかなと思いました。

猫屋さんの期待に答えるようなまとまったつっこみはできませんが、このインタビューで私が違和感を感じたのは、ジジェクの政治的コミットメントの基本線というか戦略がかなり混乱しているように見えることです。短いインタビューで、彼のバックボーンを私がつかみ損ねているせいかもしれませんが。

-一方で出口のない強固なシステムを語る一方で、あるところでは、クラシックな言い方でいえば、窮乏化−破局による自然発生的革命論のロマン(ユートピア)に期待しているようなところもある(<「爆発は近い」云々)。
-こういう状況に対する前衛のありかたというのはやはりクラシックな問題でこれまでかなり深い議論があるはずですが、ジジェクは、フランスの哲学者のクリシェである「哲学者の仕事は問題を定義しなおすこと」あっさり答えをだし、「なにをなすべきか」の問題を回避しています。
-猫屋さんも指摘しますが、だでもがそれを免れないように、やはりジジェクも文化芸人の一人であり、ユマニテもその舞台の一つなわけですが、そうした場所での上のような発言は、その役割を強く感じさせます。ジジェクは情報社会への関与という観点で3つの階級を定義しなおしていますが、全体のコンテキストから言うと彼のものいいが、「勝ち組−負け組」「下流ナンタラ」を煽って日本で稼いでいるらしい人たちとスレスレに近いところに見えるのは、私のひがみでしょうか。トップ階層のメンバーに典型的にあてはまるのはジジェクのような人そのもので、彼はトップの階層の定義を文化資本の占める部分を強調することによって、旧来の資本化階層から自分自身の属するグループにまさに近づけています。
-そして、情報で世界の裏がわとつながっているのは、国境を持たない新しい貴族たる情報エリートだけではなく、猫屋さんやtemjinusさんが紹介していた、ゲームマシンでバンリュウ騒動解説のアニメを作って世界中に配信する中国人の青年でもありました。
-労働者を含めたところの中間階層の没落を「絶滅の道を歩む」という表現で強調するのは相当に誇張を含むと思います。数年単位の短期的見地でいえばこの階層の分解がみられるのは誰もが了解していると思いますが、2,30年の単位でみるとフランスではこの階層は確実に増えたはずです。ユマニテの読者はこの階層に属するわけですが、絶滅寸前というのは、恐怖を煽りすぎで、その政治的宣伝の結果はかならずしも左派陣営全体に+になるとは思えません。
-左派の政治運動の中心になるのは、依然としてこの労働者−中間階級であるはずで、これが消滅すると言う一方で、排除の層に落とされた物たちの非政治性には期待できないような言い方(クラシックな観点ではルンプロ論)をするのはやはり矛盾しています。矛盾しているのは現実ちジジェクは言うかもしれませんが。
-中道に向けた「偽の対立」云々(日本にかなりあてはまる)は、切れ味のいい批判の道具ですが、抽象的、図式的に使われれば諸刃の刃です。共産党からすれば、社民主義者が偽の対立の一方になるわけですが、ブザンスノやラギリエはこれを共産党に対して用います。ル・ペンも「左右のエスタブリッシュメント政党」対「民衆の党」というスローガンで同じ論理を用い、このゲームはきりがありません。
-中国の経済成長の陰にいる排除された者たちに注意を喚起するのは正しいですが、ただこうした言説が、今、フランスの労働者、共産党支持の労働組合員にどういう影響を与えるか考えれば、それは黄禍論的なものを煽るものです。これが果たして中国の都市スラムから這い上がろうとしている人々にとって恩恵をもたらすかどうか私には大いに疑問です。
-私の危惧は、彼の分析が世界経済や政治の観察として原則的に正しいかどうかという点よりも、主に、今このフランスで、2007年の大統領を控えた時点で、ユマニテで行われるカクカクしかじかのその発言が、今後の大統領選挙にどのような影響を与えるかという極めて功利的な見方から来ています。乱暴にいえば、だれが「本物」の左翼かどうかの議論や、そのうち爆発が起きてユートピアがどうしたということではなく、とにかく大統領選挙でサルコジやル・ペンでなく左派の候補が通るにはどうしたらいいか考えてほしいということで、これは私にとって緊急かつ切実な問題です。

polpol 2006/01/13 14:07 お忙しいのに、意見をまとめて下さってありがとうございます。
それと前回のコメントにへたに改行を入れてしまいました。慣れないものですいません。

フランスの左翼の分裂は、現在世界各地で起こっている左翼の再編の一例だと思います。ヴィクトリア朝のイギリスにほとんど逆戻りしたかのような様相を呈している国がこれほど増えた現実を鑑みれば、この動きは自然だと思えます。そういうわけで、原理的にいえば左派が分裂してもオルタナティブを提示すべきだと言いたくなりますが、大統領選を控えたフランスの現状を考えると、左翼の分裂が深刻な未来をもたらしかねない、はっきりいえばサルコジが大統領になった場合、フランスの有り様が根本的に変えられてしまうだろうことは容易に想像できます。こうなると大統領選の人気投票的側面が悪く働いてしまいますね。サルコジが大統領になったら、たいていの人の暮らしぶりなんて、むしろ悪くなるんじゃないかと思えるのですが、なぜあんなに人気があるんでしょう?

しかしながら現実に対応するため、という口実でいかにフランスの中道左派が徐々に右によってきたか、という深刻な現実はやはり無視できないものだと思います。中道左派メディアの右傾化が如実に示しているように。主要メディアで活躍しているのは右寄りな人が圧倒的に多く、そういう人たちの発言が大きくしかも繰り返し取り扱われます。本音と建前の使い分けが厳然としてあるフランスで、サルコジの『本音』発言がまかり通るようになったのは、社会問題に対する人々のフラストレーションだけでなく、日常的なジャブがその準備を少しずつすすめてきたのかな、と私には思えます。

それに対して左翼知識人、例えばバリバールやバディウの社会に対する影響力の無さなど対象的です。カリスマ性が無いのか、あるいは極左だといっていい政治的立ち居地のせいかはわかりませんが。
ジジェクがこの1,2年フランスでしきりと翻訳が出るようになったのは旗幟鮮明な左翼文化人不在の補充要員ではないかと私は思います。国際的な名声もあるし。文化芸人としてフランスで彼の立っている場所はけっして居心地のいい、商売に有利な場所ではないでしょう。左の全体主義として切って捨てていい場所、例えば旧共産圏を擁護しているわけで(悪い点は批判しつつ)。

中国についての言及の仕方ですが、デリケートな問題であることは実感としてわかります。しかし経済問題について語るとき避けては通れない存在。もうこれは中国に公正な競争や環境への配慮等を実現してもらうようがんばってもらうしかないと思います。

正直のところ、書けば書くほどfenestraeさんとの意見の相違が実感されてくるのですが、フランスについて全体的な見取り図を意識しながら話ができる人はそう多くないので、話が噛み合うかどうかはともかくとしてまたコメントしてしまいました。
フランスよりはるかに左翼が少ないように見える日本でなぜジジェクの受容がそれなりにあるのか不思議です(アーレント好きの左翼とか、日本には様々な不思議な人たちがいますが)。
生活に支障が出ない程度にたまに更新してください。

猫屋猫屋 2006/01/14 00:15 pol氏のコメントに横反応してみます。

サルコジ現象と次期大統領選は確かに問題なんですよね、われわれにとっても死活問題です。けれど、同時に世界レベルで起こっている(もちろん日本でも)地すべり状況を視野にいれないと何も理解できないとも思います。

フランスの“悲劇”は、かえって旧世代左翼が政治経済報道分野内にいること自体にあるんじゃないだろうか。一緒に地すべりしてしまったわけ。でも大学という枠内にいた哲学・社会学・歴史学、、等々の論客はそれなりに自分達の領分に踏みとどまってるとか。

デリダがいなくなって、今度は化石ヌーベル・フォロゾフが文化芸人役を担ってる。由々しい現象です。イスラエル・パレスティナ問題と911絡みで、ユダヤ系知識人陣営内での棲み分けと、一種の赤狩りが始まり見えない検閲現象も起こる。

そんな中で、(ある意味ポリティカリー・アンコレクトな)元気のいいジジェクは、リベに代表される旧左派世代に対する反感を持つ新世代から、支持されるんじゃないかな。いや、支持と言うよりも、この世代の“おもしろいじゃん”というノリかもしれない。

出版でいえば、日本は出版インフレのおかげで探しさえすればいろんな翻訳本が見つかりますが、フランスでは話題本以外は本当に売れていません。日本の出版界はまんがが支えているという事情もありますね。そんな中でジジェクもおおいに消費されるわけです。(同時に今の日本の大学生は三島の本が読めない、とどっかで読んで愕然とするわけですが、、。)

当分、フランスに“面白い”思想家が出る基盤ってないよな、、と陰鬱な気分にもなるですよ。大体サイエンス重点教育になっててシヨンス・ポもエコル・ノルマルも、エナをさらに経由して高級官僚になるか(小数)、あとはジャーナリスト・教職ぐらいの就職先なわけで、、。

polpol 2006/01/14 03:20 猫屋さん
はじめまして。いつもお邪魔させてもらっています。

サルコジが大統領になれば、イスラエルとフランスの関係はかなり変わってしまうでしょう。すでに主要メディアにはシラクよりサルコジに近いポジションの人たちが大勢中心にいるわけですが。このような状況がアラブ系の人たちの居心地をますます悪くするんだろうことは想像に難くありません。

お隣のドイツのように(私は新聞記事が読めるほどドイツ語ができないのでそう細かくチェックしていないんですが)左翼が戦後もまれ続けてきたわけじゃ恐らくないでしょうし。ドイツは第三帝国の問題もあったし、東が西に吸収される形で統一された、という苦い経験があるわけで、そういう荒波にもまれ続けてきた強さがあるような印象があるのですが、どうでしょう? 東ドイツは体制内dissidentって大勢おりました(日本で知られているのはハイナー・ミュラー)。現在左翼党(この名前じゃ絶対日本での選挙戦は戦えないですね)の主要メンバーであるグレゴール・ギジはそういう人たちの庇護者だったわけで、きつい中でずっとやってきた人たちが元気で今も活動しています。

翻訳紹介についてですが、私の目から見るとフランスの方がいろいろと紹介されているように見えますがそうでもないんでしょうか? 私はもともと哲学プロパーではないのでその方面に詳しくないんです。文学書に関しては日本と比べ物にならないくらい翻訳がたくさん出ています。しかも文庫に入っている。自分のところから大物を輩出できなくなった、という苦しい事情もあるんでしょうが、こういう知識や情報に対する貪欲さは見習うべきところだな、って思います。
日本で多少読みづらい本が読めない人が増えてしまったのは企業がそういった人材を求めていないからでしょう。むしろ文化的なものに興味のある人を変人扱いする雰囲気すらあります。フランスのように社会的地位のある人は教養もあって当然、ということもありません。日本で「下流○○」にたいして対峙される「上流」のイメージが泣きたくなるくらい薄っぺらいもので、その薄さのまま下の方を優越観を持って眺めている、というような末期的な様相をフランスはまだまだ呈してはいないので大丈夫だな、って思いますが。

猫屋猫屋 2006/01/14 04:31 pol さん、どうも。ご挨拶遅れました。ね式読んでいただいてるようで、感謝。むちゃくちゃやってるんで恥ずかしいんですが。。

仏メディアののなかの人、の90パーセントはエコル・フロンセ左派だったはずが凄いことになってますね。まあル・モンドでいえば過去にバラデュール支持の件で痛い目にあってるし、今回はプレネルが除外されたあたりが曲がり角だった気がします。

ドイツ語はまったく分からんし、このごろはクーリエ・インターも目を通さないんでまったく門外漢化してます。映画で“グッバイ・レーニン”ってのがありましたが、あの流れは面白いと思う。ただもう一方で東欧での“革命”の中身の問題もあるんで難しいです。あそこらへんのコンプレックス具合があらかたでも掴めてないとジジュクが出てくるバック・グラウンドは読めないのかしら、、、。

出版に関して言えば、フランスと日本では出版数の大きな違いがまずある。フランスの出版インフレ現象内では、読者自体=旧左派世代と旧ブルジョワ、と以降の世代の棲み分けがあるように思います。新世代はマンガやゲームやネットに流れてるんじゃないでしょうか。あとは“流行もの”。アレント=TVでかなり扱われた。フィンケル・ブームもあるですね。別の場所で書きましたが、ガリマールはハリー・ポッターと星の王子ででる収益があるんで哲学書も出せる。あと、アリ文学のウェーバーとかトルキエンは売れた。でも昔のサルトルやフーコーが“パンのごとく”売れた時代ではもうない。あと私にはまったく分からないのですが、日本でもフランスでも出版界・ペーパ・メディア界再編成問題があります。表立っては出てきませんが、、。仏でいえばフィガロはブイグでしょ。日本で言えばアサヒバッシングにもここれへんに似たような事情がバックにあるように感じます。

なお、仏出版でいえばマイナー出版社:pol ,act sudとか(後名前が出てきませんが)家内工業的にがんばってるエディターがありますけれど、あとはアシェットを初めとする大手による業界再編成が進んでいるようです。また文庫化は、高い人気新刊をすぐ買える層(旧左派も含む、、話題としての本読み)と20ユーロ以上の本は買わない(学生とか、、中間下層)の乖離状況にもつながってる気がします。また、いまだこっちの中学・高校では、(幸いなことに)Vユーゴーとかの古典文庫版を買わせて読ませますから、これも(実際に読める子は少ないにせよ)出版界バックアップになってますね、少なくとも今のところは。サルコが当選したら、これもなくなってバックは共通一次試験化するのかもしれません。 だいぶ本筋を離れてしまったので、ここらで失礼します。

fenestraefenestrae 2006/01/14 09:01 おお! コメント欄がいい感じというか、まるでフランスのブログのようになっている。翻訳したときの宣伝効果ありかなと思ったら、考えてみれば参加者はみなフランス生活者。

えーっと、どこから手をつけていいか。polさんとの議論は、かみ合うかみ合わないどころか、もろに、EU憲法条約のときの、そしてその後も続く、噛み合いすぎる論争の中核にかかわるわけですが。ここで、去年の春から続いた議論のあれこれの陣営の立場ををひたすらなぞりながら代理戦争のようなことをしてもあまり意味がないので、少し視点を後ろに引いたり、斜めから見たりしてとろとろ考えて、明日にでもまとめられればまとめてみます。フランスの左翼の知識人の役割についても。バディウによれば、1940年にはじまったフランス哲学の冒険はドゥルーズで終りということになっています(笑)。
http://multitudes.samizdat.net/article.php3?id_article=1687


現在のフランスの出版状況については、実を言うと、猫屋さんのようのに感じるときもpolさんのように感じるときの両方があり、統計好きの私としては、統計データをちょっと探してみましたが、まだあまりはかばかしいのがみつかりません。ただ、出版界全体の状況については、パリ10が通信教育用につかっているとみられる便利なまとめのページを見つけました。
http://netx.u-paris10.fr/eadmediadix/formation/Edition/&siteEdition.htm#

簡単な国際比較はユネスコの統計
http://www.uis.unesco.org/ev.php?ID=5058_201&ID2=DO_TOPIC


ドイツの状況について、昨年の総選挙にときにブログを休んでいたのでコメントしようと思いながら何も書いてないという面と、ブログでまとめなかったので詳しく詰めていないという両面がありますが、これもあとでコメントします。総選挙に入ったときの状況は、フランスとかなりパラレルだと思います。ただ選挙制度が、フランスのように小差でも勝者に圧倒的な勝利を与えることを避させる比例代表になっているので、今回のような、フランス人からみると変則的な解決法で処理した。これが全体主義に懲りたドイツ人の知恵のわけですが、長期的には何の解決にもなっていず、ますます矛盾は高まるばかり。どのように内破するのかしないのかこれもけっこう不気味です。

↓次に書くまでだれかつないで。

polpol 2006/01/15 00:21 こんにちは。
いろいろ参考になるサイトを教えていただいてありがとうございます。

ジジェクの受容のされ方について補足です。
私が日本の受容の仕方で驚かされるのは、ジジェクの議論の中心にある左翼としての問題提起が、ジジェクの奇抜なレトリックのひとつだ、としか受け取られていないらしいところです。今時レーニンの話を持ち出すなんて冗談だろ、またいつものジジェク節全開だ、といったふうに。フランスでもあまりに古風な左翼としての彼の発言に対して疑問を呈する人もいるようですが、そこがまさに彼の賭け金だというふうには受け取られているわけです。
まさに問題なのは、日本での政治的なものに対する圧倒的な距離感なのです。哲学者の著作を読んでいるような知的な人々を、社会的な関心から引き離そう、というような強いバイアスをかけてくる知識人が何人かいたこと。くわえて、普段彼らを取り巻いているメディアの情報が、今世界的に問題になっていることが何かをわかりやすく教えてくれないからでしょう。見取り図を与えてくれないのです。

ところでブログでのコメントの短さについてですが、ネット普及初期に2chがさっさと天下を取ってしまった、ということが日本語のネットの方向性を決めてしまったのかな、と思います。自分の意見をある程度の長さでまとめて書かなくてもいい、という雰囲気を作ってしまった。忙しい人が多いから仕方ないのかな、とも思いますが。

猫屋猫屋 2006/01/15 06:19 それでは師匠が出てくるまでの前座ということで、今晩は。
pol さんのレスにそって、
私は日本での動向はフーコーが死んだ時点以降はこっちなんで知らないんです。ただ時としてネットを見たり雑誌を読んだりして驚くのは、確かに“思想”がまるで古典美術品のように扱われたり(コレクションの対象)、またはサヨなりウヨなりのレッテル張りですべてがすんでしまう短絡の仕方です。このごろの出版傾向を見ていても暗澹たる気持ちになるんだが、やはり仕掛け人はいるんですね。特にサヨ狩りには、かつてのマッカッシーの流れとだぶる印象が強いんです。被害妄想と言えばそれまでだけど、同時に(私立)中高教育等からしだいに英語以外の語学がどんどんなくなっていたりするわけだ。どの時点で起こったのかはわからないんですが、あるところでガッと変わった気がする。それからオームの件があったり、集団自殺とか、ヘンな殺人事件がおき始めたように思えますが。。

また、学問にはどこでも多かれ少なかれ付き物の“タコツボ現象”が、特に日本では強いとも思います。欧州にいて恵まれてると思うのは、ヨーロッパというのが地続きでアジア・アフリカとも(ほぼ)繋がってる、そこを大昔から人も物も文化も戦争も移動していたと言うこと、そして各世紀の空気と言ったようなものが文学・政治・経済・音楽や絵画・建築等々を包んでいたことが実感で分かる点です。各都市のある時代のムードもある。ただ、日本という国で本を読んでいたりするだけではそれが掴みにくい。読書で読み取るには相当の時間と相当の感性が必要とされるでしょう。旅行に出てもなかなかテーマに沿って移動したりするのは贅沢だし。

そういった全体像のジェネラリスト的仕掛け人が日本には少ない気がします。金はなくても、時間をかければ豊かな“思考”が出来うるのだという発想は非生産的なのかもしれないけれど、またこれを一般メディアに要求するのは無理な話なのかもしれないけれど、、ジジェクだったらジジェクをそのテク枠内だけでエンタテイメントするんじゃなくて、時間枠(歴史)や空間枠(政治・経済)みたいな三次元空間内で考えるエンタテイメントの仕方があってもいいだろうと思うわけです。そういう拡散読みに繋がるのであれば、ジジェクは上質のエンタテイナーですよ。上質の釣り人でもいいけど。個人としてのロマネスクなレーニンは好きですが、革命家としてのレーニンを私は買ってないのですが。

polpol 2006/01/15 08:00 こんばんは。
私は猫屋さんやfenestraeさんのように滞仏年数が長くもないし仏語でものを読むのも相当きついので、正直えらいところに首を突っ込んでしまった、って思っています。

それなのに思うところを率直に言ってしまうんですが、私は現場主義には反対なんです。フランスに何年も滞在してよくわかっていない人って大勢いますから。他の地域でもそうだと思います。もちろん現地にいてわかることもたくさんあると思いますし、この地域のあらゆる分野での連続性を肌で感じて眩暈がするようなこともあります。私が猫屋さんのblogを読んでいて関心したことは、猫屋さんが現地で体得した感覚をもって判断を誤らなかった、ということなんです。そういう方はむしろ珍しいんじゃないかと思います(もちろんいろいろ読んだりなさったんだと思いますが)。

こちらの新聞はこれだけ読んでいても相当知識を得ることが可能だと思います(今じゃネットにアクセスできる人ならどこに居ても読めてしまう)。ただ読めば誰でも全体像がつかめるか、と言ったらやはりそういうものでもなくて、勘所をつかむためにはやはりコツがいるんじゃないかと思います。そのコツのつかみ方を教えてくれる人が今じゃあまりに少ないんですよね(日本語環境で)。

猫屋猫屋 2006/01/15 09:34 ほめられちゃったので、また出てきました。
本はたくさん読めばいいってもんでもないし(私は積読主義だし)、ちょうどいい時期にちゃんと一冊読んだほうが身につくんで、謙遜しないでください。
いや、猫屋の判断が間違っているかいないかは“歴史”が決めることで、、というのは冗談ですが、間違っている可能性は大だということも踏まえて、自分の人生ぐらい自分で決めたい(少なくともそう思いたい)ってのはあります。

学生のころに会ったエナ受験生が毎日毎日、ル・モンドを読み込んでいました。もちろん“刷り込み”効果もあるだろうし、エリート批判もできるだろう。だが、実際の立法・行政・司法トップに携わる人間はいずれにしてもエリートなわけだし。アンシェネやリベは読むのがもっと難しいのもあってル・モンドを一番読んだきたわけですが、オピニオン紙ではあるがアートやグルメ、スポーツ記事も悪くないんですねえ。フランスのプレスは面白いです。

日本語環境での“読み方のこつ”これはテクニックじゃなくて人間性の問題になっちゃうからじゃないでしょうか。コミュニケーション自体のはなしになる。ってまたジジェクから遠ざかりました。師匠申し訳ない。

fenestraefenestrae 2006/01/15 10:28 お二人の議論が活発なのに、私は今日も頭がぼけぼけです。なので、肝心なところはほっておいて、議論が流れたままおしゃべりモードで参加します。
ジジェクについて、
>フランスでもあまりに古風な左翼としての彼の発言に対して疑問を呈する人もいる
わたしはまさにその典型として反応してしまったわけですね。クラシックを連呼していまいました(笑)。

猫屋さんのところでもしゃべってきましたが、私はZizekは The Sublime Object of Ideology が出たときに旅先で買って(ジャケ買い、いや表紙買い)、パラパラと見たままふーんという感じで、ネットで日本語のブログを積極的に見るようになってからジジェクと言う名前をやたらお目にかかるようになってしばらくしてから二つの名前が結びついたくらいです。日本語訳がこれほど出ているのも知らなかった(私が日本にいるときにすでに The Sublime ...は積極的に紹介されていたようですが「ニューアカ」「ポストモダン」系の言論界の文章をほとんど読んでいなかったので知りませんでした)。文化論関係の評論や、またEU憲法がらみで去年5月に出た Que veut l’Europe は読みましたが、ある意味フランスの伝統に忠実であり、その一方で現在のフランコ−フランセの視点から一歩距離を置き、アメリカのポップカルチャーや東欧の歴史が必ず視野に入ってくる論は確かに刺激的だとは思います。EU憲法で噴き出し、先鋭化した、新自由主義vs左翼の定位をめぐる論争については別として。ただ私はラカンの理論を用いる必要性が分からないので、正直なところ、積極的に彼の書いたものを何でも読んでやろうという気になれません...と、書くと結局、私は政治的発言者、批判的文化評論家として限定つきのジジェクに場当たり的にしかつきあっていない、典型的なフランスの不勉強な左翼の反応になってしまうので、もう少し勉強してから出直します(いや、まじで、もうちょっと2000年代の思想界を勉強しなおしたほうがいいかな思いはじめています)。

ただ不思議なのは、デリダやフーコーらに関して、もうすでに何度もちらほら書いていて、またすでにお二人の話していることと基本的には同じなのですが、現代思想家について日本語で書かれたものをネットでみると、理論的変遷や思想界での位置づけについてやたらと精緻、というかむつかしい話をしているのに、その政治的背景、背景どころかそういう思想を支えている政治的なものが具体的な問題とのかかわりですっぽりと抜けていることです。その思想を自分が引き受けるときに自分がどういう政治決断を引き受けなければならないかという点も抜けている。日本の死刑や監獄の問題を避けながらフーコーの監獄論が語れるというのは−−迂遠な戦略があれば別として−−私には謎です。ブルデューでさえ単なる階層マッパーにされてしまっています。


polさんが、現場主義ということばで触れているものに関していえば、現地の生活実感で語るのに私も少し忸怩たるものがあるのは、結局、それは、自分がその国に住んでいてどの階層やミュリュウにいるのかということを人に告白することになってしまうからです。もちろんそれはそれでもいいのですが、こと政治的なイシューになるとき、その告白をフランスの世論のような顔して語るのは滑稽になってしまいます。滑稽だけならいいのですが、あまり多くの情報に接しない人には、一面的な情報を押し付ける結果になってしまう。ただ一方、どれだけの期間フランスを肌で知っているかということもファクターとしてはかなりあると思います。たとえば、私がPSに甘いのは、私が来たときにミッテランはいたけどPSは野党になっていて、そのあとシラク-RPR(+UDF)の独裁体制を経験し、それを経てジョスパンでPS+PC+Vertsが政府に戻ってきたとき実感として一息ついたからですが、80年代半ば以降PSに対して激しく幻滅したフランス人の経験を共有している(はず)の猫屋さんはたぶん私と異なる観点を持っていると思います。ただ生活の歴史が浅ければ、そして観察が上手であれば、中にいる人間よりもより距離を置いて全体像が見えるという可能性もあり、結局それぞれがそれぞれの経験に応じて複合的な視点を出しながら語るということに意義があると想っています。

全体像をつかむコツって何でしょうね。私は自分のフランス生活史の「空白」を埋めるため、過去20年や30年、あるいは戦後の現代史や風俗史を読むのが好きです(ほんとういうとクイズ番組用)。本当は体験していないウルトラマンやナガシマ、高度成長期やオイルショックについて語る変な東京在住ガイジンのような存在と化しているわけですが。具体的な現代史の流れの知識というのは今の状況をつかむのに大きく約にたつように思います。全体像という意味では、統計は強力な手段で私はやはりINSEEのサイトを見るのはすきですが、問題は(ほんとうは問題ではないのですが)、統計から得られる観点というのは、まずフランス人一般の生活感覚ともフランスについての常識的化しているクリシェと一致しません。

まとまらないけどとにかく送信。

猫屋猫屋 2006/01/16 03:22 一部だけ、反応してみます。
>滑稽だけならいいのですが、あまり多くの情報に接しない人には、一面的な情報を押し付ける結果になってしまう。
耳が大変に痛いわけですが(笑、、約一年前、ブログ開設してみて初めて日本語ブログ界を発見したんですが、当初のね的意向は“勝手に書く”それを通してこっちの状況が少しでも解ってもらえりゃいいや、という感じでした。極めて個人的視点しか、どちらにせよ取れないし、あとは少数の人に読んでもらえばいいという、それだけで。でも出来事を通じてこっちも変化するし、フランスのなかの人たちも動いてるんだけど、見えてこないし、、。だから、暴動のときこっちで日本語ブログ書いてる人の数の多さにびっくりしましたけど、違った視点で見てる方々がもちろんいるわけで、、自分はone of them、何かを代表してる意識はまったくない。現象的に、ウロウロするイチ仏住人の滑稽さが出てればすでに吉、というか。

ただメディさん、http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/ の長期休暇は痛いです。翻訳が大変な仕事なのはわかるので、再開希望も大声では叫べませんが、、、メディさんの場所が、理解への窓口になってたのでこちらは安心してる部分もありました。今でも幸いなことにアクセスできて一種のデータバンクとして機能してる。

あと一回天神茄子氏にもお会いしたかった。アフリカという距離のあるところから見たフランスはどうよ、とか聞きたい。

>全体像をつかむコツって
人だって気がします、私の場合。お年寄りとかご近所の人とか、、時間がかかるけどそれぞれの人が持ってる“個人史”がチラっと見えるときがあるでしょ。あれ。

polpol 2006/01/16 08:27 お二人ともマイペースで更新して下さい。私はおもしろい話が聞けたからいいんですけど。
最近その存在を知った演出家が今年いっぱいである劇場のディレクターの地位を降りることになった、という記事を読みました。契約更新されないのは政権党の方針によるのでしょう。これに限らず、例えば展覧会だって企画している人の政治的なポジションが如実に感じられることはままあるわけで、文化国家ってなかなか油断のならないものですね。

自分の体験や直接聞いた話を一般的なものとして認識したい、という傾向は誰にでもあると思います。もちろんそれは貴重なものですが、他人になるべく正確に伝えようとすれば相対化が必要でしょう。扱い方はともかくとして、統計を参照してみることは大切だと思います。

ただそういう過程を経ない、その人の生活がもろに伺えてしまう書き込みも私は好きです(相対化はこちらでするんですが)。もちろんフランスのものが一番見当はつきやすい。その人の近親者の見解が書き手にそのまま反映されているものは、社会的地位のある人なら絶対に公では口にしないような意見が露骨に書かれている場合もあり、うちの人に外では言うなって注意されなかった? と突っ込みを入れたくなることもしばしばです。

現地では王道中の王道、権力のすぐそばにいるような知識人が日本ではマイナーである故に先端的な人だと思われている場合もありますね。ジジェクのように逐一翻訳されない人だっているから仕方のないことですが。翻訳のあとがきを読むときちんと事情が解説されている場合もあり、そこで考えさせられるのは、ある時期から社会的政治的な表現対する感受性が変わったのではないか、ということなのです。理屈っぽかったり、もしくはある程度過激な表現は、すぐに脳内検閲にあってしまう。抵抗なく受容できる言葉の選択肢が相当狭まってしまった。どのような言葉やレトリックを使用あるいは受容するかは、どのように対象を認識するか、ということと大いに関わっているわけで。特に口頭での理屈っぽい表現に対する抵抗感は、新左翼の運動の影響が大きいのかな、と思います。こういう感受性、ってちょっとしたきっかけで変わってしまう可能性もありますが、拘束力がなかなか強いのではないでしょうか。この抵抗感が経験や熟慮の結果に基づく人も大勢いますが、単なるイメージに基づいている人の方が圧倒的に多いんじゃないでしょうか。

社会問題あるいは現実を『超えた』と解釈される表現なり思想なりに価値が認められてしまう。そういう立場にも政治性ってあると思うんですけどね。

猫屋猫屋 2006/01/16 10:09 たとえばフランスUMP内部でもラファランが退職して、かなりの人間が党中核を離れたり急にサルコジ派に合流したようだし、関連する組織、TV・ラジオでも同様のことが起こっているのでしょう。同時に国家赤字問題で予算なし、と切られる人々も多い。精神分析医やセラピストに関する健康保険適応の基準とかも変わる。(かかりつけの一般医を経由しないといけなくなるのかと思うが、、)、中学高校のカリキュラムが変わり、体育や音楽・美術の時間が削られると先生/アーティストが職を失ったり、学生は就職の可能性を失う。そういった流れがあります。

ブログというツールをどう定義するか、そこのあいまいさもあって、単なる日記(ね式はこれのつもり)なのかジャーナリズムなのかとか。私見では現存プレス・ジャーナリズムを越えはしないだろうが、補足的性格はあると思います。これはフランスの場合。日本では新聞の果たしている役目が違うし、また当然ブログの性質も変わってきますが《米国がそうであるように、ブログはすべて実名でやるべし》なんてのにお目にかかるとヒヤッとします。まあいずれはBBSや個人サイトがそうだったように淘汰されるツールでしょうが。

現在の日本状況は、ともかく私の想像力を越えてます。在仏の人でも来た時期によって“考古学的”感性ってゆーか、美意識でやってる。ドキッとするようなこと書いてありますねえ、時として。decencyがない。これは別にサイコロジカルな分野で扱えるかもしれないです。社会自体が、露出(リアリティ・ショー)や日本語が出てこないんだけど auto-mutilation/自己破壊願望か、に向かってる。ブログからの本起こしってこれでしょう。ニーチェが予言して神は死んで、フーコーが言ったように人間は消滅した。“個”という意識が消えつつあるのかもしれないです。個は消えて日がなキーボードに向かって叩いているという、、、暗いけど本人はしあわせなのだからいい、、みたいな。実際は、こっちにはまだ個人間のconnivence みたいなのがあって、上で“人”と書きましたけれど、そういった関係性で救われます。これはラテンのせいもあるし、消費文化後進性のせいもあるでしょうが。

>現地では王道中の王道
日本では印象派に人気があり、文学でも本来はマイナーな作家に注目が行くような気がしますが、本当は古典が面白い(ってあらかた読んでないです)。ルネッサンス絵画はいい、(スキャンダルも含む)政治自体が面白いとか、ヴォルテールとかモンテスキューも小説面白いとか、マル経は×なのかも知れないけどそれはマルクスのせいじゃないんでもう一回読んだっていいわけで。でも古典って版権上金にならないね。それにメディア・ジェニックじゃない。(フィガロ・マグは例外)
あと、オチと言うか。ジジェク、彼自身はネットに繋がってないそうで(現在はどうだかわからんですが)、これも面白いです。

fenestraefenestrae 2006/01/16 17:59 ねこブロコメント用に書いたもの↓。
「きっこ現象」、猫屋さんに言われて初めて耳にしたので、ぐぐってみました。このサイト1、2年前だかに一度行き着いて読んだことがあって、なかなか威勢がいいなと思ってことを思い出しましたが、社会現象になるほどとはついぞ知らなかったです。ぐぐったついでにまわりの反応も見ましたが、耐震基準違反建設事件と関連してヒートしたんですね。私が自分のブログの本文でこの手の日本の社会現象をあまり扱わないのは、「何でも御意見番」みたいになるのがみっともないからでですが(しかもすでにかなりそうなりかけているので)、またあとでここか、ちょうどいいのでジジェク討論スレッドでまとめるかもしれません。とりあえず3点。1.なぜ書き手がジェンダーを女性と表明して「硬派の」問題を扱うときに「中の人問題」が生じてくるかという非対称性。2.アソシエーションや社会活動家が正攻法で同じことを書いてもスルーされ、こうしたスタイルで発言することで広く話題になる日本の言論界の状況があり、書き手がこうしたスタイルの戦略を取らなければならないことが書き手にも読み手にもほとんどコレクティヴなレベルで無意識化されていること。3.「きっこの日記」を最初(2000年)からとびとびだがざっとたどってみて感じるのは、ある時から、政治化の度合いががぜん強くなってきたことですが、書き手をそう仕向ける日本の政治状況のこの1,2年の変化。私は「なしていることの総体が存在そのもの」というサルトリアンなので「中の人問題」には興味はなくとりあえず額面をデフォルトで維持しますが、そうでないにしても、開始時から2005年政治家アジャンダ戦略を用意していたわけではないでしょう。ひと仕事してからどこかにまた何か書くかもしれません。
え〜ん、ネコブロダウンしているよ...
ERROR The requested URL could not be retrieved http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/

猫屋猫屋 2006/01/17 04:09 猫屋です。サーヴァーアタックがあったようですが、今はブログ・アクセス可なり。

バード・フリュの時と今度と読んだ。ナンダコリャと思ったけど良く出来てます。げらげら笑った。エンタテイメントちゃんとしてる。彼女の凄いところは“大衆”to“大衆”というルートでやってること。つまり本当は実体のない“大衆”なる場を想定して“大衆”なる自分も想定して、その間を直に繋げてるところでしょう。実際にこのブログを読む多くの人も、彼女自身も、師匠の言うようにこのゲームの“お約束”を、言葉レベルではないにしろ分かっている。これはアサヒでもないしアタックでもない、、レッテルが貼られると人は逃げるでしょう、日本では。でも彼女はアホくさいスローガンで一人でやってるから、こっちもアホくさく支持できる。彼女がストレートに怒ってるから、こっちも(今までも怒ってたんだけど誰にも言えなかったんだが)ストレートに怒れる。それで話題になれば(きっこさんがそこまで行けるかどうかは分からないけど)こんどは今まで怒ってなかった人が、言い換えれば怒ってはいたけどホリエモンと小泉が郵政をどうにかしてそれでどうにかなると信じた人もストレートに怒り出すでしょうし、同時にこういったテクニックは広まるだろう。

想像するに、彼女が日本の怒る人ブランドになってるからいろいろな情報が入ってくるんでしょう。実にリスキーですが、彼女が(いつか)リタイアするかさせられるかしても、次のトリッキーなゲリラが出てくるはずです。だって必要だもん。

猫屋猫屋 2006/01/17 05:35 すみません、見事に間違えた。バード・フリュはトルコで、4人死亡(子供)。きっこさんが扱ったのは仏ではバッテリー鶏と呼ぶブロイラーの拷問的生産法でした。ごめんなさい。

fenestraefenestrae 2006/01/17 08:01 「考古学的感性」美意識、decency といえばきっこブログに、美意識という語が何度かでてきますね。自分で使ったばかりなので、アリャと思いました。たぶんすでにこの語を使うこと自体がある世代からみると美意識に反することなのかも知れません。「考古学的感性」ということでは、自分でもときどき分からなくなります。日本のネットで今書かれている多くのことに波長が合わないのは、自分がフランスに来てから変わったのか、それとも自分が塩漬けされている間に日本がどんどん変ったからなのか。もっともフランスでも、いごこちのいいヒポクジーは、「ポリティカリー・コレクトネス」に、しまいには langue de bois というレッテルでやはり価値が下落中ですが。フランスもここ5年くらいでもどんどん変りますね。ビッグ・ブラザー(ロフトストーリー)のアダプタシオンの権利をフランスのTVが買う買わないで、大議論になったときに、ヨーロッパでこれをやっていない唯一の国はフランスで、これはフランス人の感性とは相容れないないという意見がありましたが、結局始まってみたら、ヨーロッパでもこの番組が最も国民的現象のある国になりました。しかし、まだ救いは、他人のラヴ・アフェアの扱いに関して、人々がまだ十分に野暮でないことです。サルコのあれでも、まだ道徳的介入を伴って論じる人がいないだけまだいいです。ココ、なんだか 、主に私のせいで、connivence に基づいたおしゃべり欄になりつつありますが。

猫屋猫屋 2006/01/17 08:11 >主に私のせいで、connivence に基づいたおしゃべり欄になりつつありますが。

師匠はこのブログの大家なんだからdecencyを持って対応してください(笑) 風邪っぽいので今日はもう寝ますです。

fenestraefenestrae 2006/01/17 08:29 → 全参加者の solidarité に基づいたコミュニケーション的理性の実践場
と訂正します。
お大事に。おやすみなさい。

猫屋猫屋 2006/01/18 04:22 翌日です。本来は自分のところで書くべきなんですが、少し続けてみます。
1.きっこさんも、ブログ界が(少なくとも現時点では)アナーキーな場だからこそ出てくるわけでしょう。匿名性、あるいはアンダーグラウンド性や瞬間性=非継続性、ですか。この場所は、これまでのヒエラルキー、特に日本社会での縦割り組織図とは無関係に全部真平らですから、少なくともスキン/表象レベルでの『平等』がある。階級性はたぶん文体や、レフェロンス(引用やリンク)の編集レベルや、プロファイルを見て読み手が判断するわけだ。あるいは“人気ブログ”であるかないか、もしくはアクセス数で階級が出てくるという見方もあるようですが、極めて変動的です。たとえば2chdではカリスマ・コテハンだったけれどブログに引越ししたら輝きを失う人もいるし、その逆の例もあるでしょう。“人気ブログ”の淘汰も激しく、少しでもテンションが堕ちたり、文章が紋切り型になってくると簡単に“捨てられる”。このティシュペーパー現象は雇用界と同様ですね。

2. 1を受けて、この場所では政府広報もエロ系ブログもマイクロソフトも横並びになる。これが危険でもあるし同時にスリリングさを作り出している。この場所で、女性の本音的生活文体だったり、2ch言語系趣味文体だったり、韓系・哲系・音楽系とかのゆるい形態での横並び棲み分けができている。もちろんそれぞれのトライブは重なります。読者は各自の、またオケージョンつーか、個体に属する複数の各アトリヴュー/属性:職業・年齢・性・趣味や傾向にあった文体を時として使い分けるし、またそれらを意識的に混雑させて“遊んだり”する。きっこさんの日記は、女性本音系という範疇とエディトリアル系(日本では社会派と言ったりするのかな)という範疇とのハイブリッドしてますね。

3.では信頼できる情報は一体誰が発しているのか、と言う問題があります。政府でもないし企業でもない。新聞でもテレビでもない。そういった社会内状況から、ブログスフェ−ル/ブログ界では(時として非継続なあるいは部分的なものであれ)インサイダーだったりオブザーバーだったりする人たちが、ブログだからこそ出来る“真実”(注、あくまで私的な真実ですが、、)を語る役目を果たしている。“神”と呼ばれることもある。これは2chにもあったし、一時の田中ウ氏だったり、最新情報の神浦さんだったり、阿修羅のあっしらさんだったり、暗いニュースさんだったり、(保守・ウヨ系は良く知らないんで挙げられませんが、あと隊長はどこら辺に位置するのかしら、、)現在でのbewaad さんもいるですね。もちろんまったく逆に“反真実”も同ルートで流通するし、あとはリテラシーやネティケットの話になるので、各自のdecency感覚で読み込むより他ないのでしょう。きっこさんに関して言えば、語彙関係は別とすると、実はかなりクラシックな倫理観を示していて、一切違和感を感じないんですが、、、。

混乱してきたのでここで止めますが、ブログを含むウェブ界で起きているのは極めてマルティテュドな現象だと思います。
****誰かつなげてるか、突っ込みお願いします。一般論として、pol さんとか日本からロムしてる方とか、、、

polpol 2006/01/18 08:58 こんばんは。猫屋さん風邪は大丈夫ですか?
もともとfenestraeさんにいっちょ喧嘩でも売ってみるか、とコメントしにやってきたんですが(こういう人もいるんだな、といつも感心はしてますよ)、猫屋さんとやりとりしていると自分の役割分担を忘れてしまいそうなんで気をつけないと。私はお二人が嫌いなdiploやhumaをチェックしているような奴なんですよ!
きっこの日記のことはよく知らないんです。先月末に1、2時間ほど読んでみただけで。fenestraeさんの最初のコメントとほぼ同じ印象を受けました。この件には素直に同意。
よく知らないだけに大まかなことしか言えないんですが、地道に社会運動している人たちの意見は素直に聞けないのに、何か組織的なものとは関係なさそうな人が「実はね、こうだったんですよ!」と暴露してくれる話にはなぜ乗れるのか(少なくとも読みに行こうという気だけは起きる)。どこの国でも程度の差はあれこういうところはあるんだろうけれど、日本はこういうものにだけ反応する層が広すぎやしないかと。『圧力団体』は悪いものだ、と規定されているようなところだからしょうがないのかな。
この件とは直接関係ないですけど、友人知人とやり取りしていて感じられるのは、とくにこの1、2年情報に対する飢餓感がどんどん増していっていること。大切な情報が共有されていないんじゃないか、って不安になっているみたいです。
情報が信頼できるものかどうか判断するにはその時その時の散発的な情報だけ仕入れていても駄目で、それにまつわる歴史的な視点とか周辺との関連性等も視野に入れないと駄目なんじゃないでしょうか。誰でも間違えるし、偏っていることもよくあるんですから。

猫屋猫屋 2006/01/18 10:46 きのうよく寝たんで今日はほぼ元気です。

きっこさんの日記は10日分ほど読みました。たぶん団体アレルギーってのがあるのでしょう。誰かがどっかでラベリングしてしまった。特に日本では。国内部で国境が作られてしまった。仏側で言うと、ディプロに関してはアタックが“政治勢力”になる前は毎月買って読んでました。ラモネの批判はよかったんですが、では何をするかでけ躓いたと感じた。fenestrae氏とは多分世代的にはちょっとずれると思うんですが、私はポスト68なんで当時の共産党および新左翼に対する根本的な不信感がある、思想と言うより組織面での(思想と実際の組織との矛盾かな)。結局あの運動も日本の上下関係を引きずったまま閉鎖を抱えていたと思う。結局は粛清にまで行ってしまった。

あと、ユマはいい新聞です。今はルモンドと時々リベで手一杯なんで読んでないけど。編集部がリベやルモンドより若い。それとブザンスノにしてもアタックにしても、案外バックオフィスの中の人が古いんですよ。緑の党が分解したときもだけど、組織が出来上がり成長すると内部抗争に行ってしまう。社会党もそう。これは組織の永遠の問題だけど。

逆に今は内部抗争に時間をかけている場合ではなくて、逆にフェデレ/広げる場合だと思うわけです。その意味でジジェクやきっこさんのゲリラ行動は意味があるんじゃないか、と思うわけです。マルティテュード的に、リゾーム的に。特にニュープアー時代のプロレタリアートは尖ってますから、ナロードニキする必要もないんじゃない。

polpol 2006/01/18 12:36 私は日本のblogや2chの現在の状況をあまり把握していません。それはフランス語環境で生きていくのがまだまだきつい、ということもあってあまり見ないようにしてるんです。どうしても頼ってしまうようになるので。だからあまり事情がわからずコメントしてしまいました。
猫屋さんやfenestraeさんより私はたぶん下の世代に属しているんじゃないかと思います(あくまで予想ですけど)。何年か前まで新左翼や共産党の暗い歴史に対してほとんど全面的に不信感を抱いていました。その後考え方がかなり変わったのですが、新左翼の運動についてはまだどう考えていいのかわからない。でも共産主義の歴史については(これについては国によって事情が違うこともあり、これも自分で判断がまだつかないことは確かですが)社会主義国がほとんど現存しなくなったことで、必要以上に悪しきイメージが増幅してしまったんじゃないかと。たしかに30年代の粛清の資料を読むと何がしたかったんだと本気でへこみますし、下放された人に当時の体験談を直接聞いたこともあるし、又聞きですが旧東欧圏で家族が収容所送りにされた人の話なども聞いたことがあります。そういう時は自分でもどう考えていいのかわからなくなってしまう。
ただ、なぜ西ドイツがあれだけ手厚い社会保障を実施していたかといえば、それは資本主義陣営にもこれだけのことができるということを示す必要があったからで、東西陣営の対立があのような制度を支えていた、ということを人はどんどん忘れてしまっているんじゃないでしょうか。

私がことさらに自分の立場を強調するのは(そのことで気分を害されてしまったかもしれません、ごめんなさい)、そのうちコメントしようかな、と思っているうちにタイミングを逃してしまったので、ちょうどいいので今書いてしまいますが(もうしつこいかな、って思って書く気が失せていたんですが)、EU憲法の国民投票とその後のフランスの混乱についてフランス系のblogerの方たちのいろいろなエントリーがありましたが、これがどこまで伝わっているのかな、と思ったのです。ある程度事情がわかっている人たちから見れば、新聞やテレビ以上に有益な情報が発信されていたと私は思います。でもNon派の内実がどの程度正確に伝わっているのか。極右とその影響で投票をした人たち以外の部分、簡単にいえばジジェクが支持している層ですが、そこが見えているのかな、と思ったんです(場合によってはこの層がOui派の一部と共闘する可能性もある、とか)。というのも、とりわけ知的なことに興味のある人たちから見れば、古風な左翼ってもう無視してもいいことになっている。ぜんぜん気にかけていない。それで最近のジジェクやスティグレールの議論ってはたして理解できるんだろうか? って疑問だったのです。
極右については前回の大統領選をきっかけに日本でも知名度がぐっと上がったのでしきりと記事になります(他の出来事とのバランスを考えると強調し過ぎると思えるくらい)。話としてわかりやすいことと、ル・ペンが言っていることになじみやすい土壌があるせいか妙にはしゃいだ雰囲気で語っている人までいてたまにげんなりさせられますが、Non派というとほぼ極右だと思っている人がけっこういるのです。そうじゃないんだと言うことを主張したかったわけです。
でもこのコメント欄、家主と猫屋さんと私しかもう読んでいないかも。長すぎて。

猫屋猫屋 2006/01/18 23:14 私にも、日本の現状はまったくお手上げであります。去年の夏に帰省して初めて大きなギャップを感じたんだけど。
あと、共産圏がなくなったので、かえって自由に文献を読めるはずだと思ったりする。それとNon派は、結局批判が不明快な形で右翼とおんなじバスケットどんぶりに数えられちゃった。結果部分的にでも可能な政治参加がポシャッタわけで、あれは歴史的ドジだとどうしても思えます。あれをバックグラウンドにして、シラクの後ろにいたサルコがバンリュウで変な事言ったと言う流れがあるし、、まあこれはおいといて。
仏ウヨとFNは多分ゴルニなんとかがつなげてるんでしょう。日本ではゴルニは高学歴エリートでサンパな日本文化理解者で、、ってまあシラクの極右版だけどありゃ知識人で極右じゃないって認識があるみたいね。言論の自由を守る人みたいな。石原某が生息できる世界ですから、、、何故か。“情報”の読み方、あるいはより分け方だよね、難しいの。

>でもこのコメント欄、家主と猫屋さんと私しかもう読んでいないかも。
同意。もう日本で一番長いコメント欄を目指すしかないか、、って冗談。そろそろ自分のテリトリーに戻ります。

猫屋猫屋 2006/01/18 23:17 仏ウヨとFN ×
日ウヨとFN ○、すみません間違いました。

猫屋猫屋 2006/01/18 23:56 毎度どうも、すいません。
ずーっと上の方で師匠が挙げてるバディウのディスクールをchaosmos氏がすっきりした、原文に近い文章で日本語化してます。仏戦後思想の流れが分かる。現代フランス哲学の展望/Aバディウ 
http://chaosmos.blog11.fc2.com/blog-entry-64.html 必読

shibashiba 2006/01/19 03:39 訳出、お疲れ様でした。
ちょっとづつインターバルをおきつつ、遅ればせながらやっと全部読みました。
たくさんのコメントがついている流れを溯ってしまいますが、fenestraeさんが指摘されている三つの階層について、まったく同感です。

私はジジェクの著作は読んだことが無いのでその思想も知らず、また今回のインタビューの誤読の可能性もありつつコメントしてしまいますが、読んでいて、果たしてジジェクはフランスの現状を的確に把握しているのか?と疑問を抱いてしまいました。というのも、彼の発言がアメリカにいる人の立場をとったものという感じがしたので。しかし左翼が極右の言説を道具にしているというのはフランスの現在ではあることかなと多少納得いきますが。

fenestraeさん、その他の方のコメントがよく理解できていないかもしれませんが、私はジジェクがまず「哲学者として問いを定義しなおす」のは正しいと思います。
個人的な話になりますが、私は若い頃、日本における哲学の扱い方が全く理論的なものでしかないように感じられて興味がなかったのですが、フランスに来てから社会の中にいきづく哲学というものを知って面白いと思いました(この辺りは、他の方々と意見を共にしているかと思います)。なので、論じるだけの哲学は空虚に響き、praxisが重要であると思った時期があります。しかし、フランスにおいて「哲学」領域の幅が広いといっても、哲学にとって重要なのは「問い」を立てることであり、「概念」を創造することであり、それら無しで「答え」だけを論じるもの、現象だけを分析するものは哲学の域を出てしまうと思います。それは「哲学」が護ろうとしている枠でもあると思います。なので、答えが間違っているとみえるなら問いを考え直すのが哲学者の仕事であり、理論と実践のどちらかに偏ってもだめで、実践の具体的な方法は哲学以外の領域で語られるものだと思います。
知識人的態度は現在のフランス社会の中で明らかに変わってきており、サルトルのような民衆の代表という役割ではなくなってきているようですね。フーコー、デリダにおいては、無言の民衆に声をあげる機会や場を与える、助けるというものだったと思います。また、たしかに、「知識人」として政治的活動に関わるという態度を好ましいと思う一方、必ずしもそれが「哲学者」としてあるべき姿というわけでもないかな、とも思います。先頭に立って、メディアにのって、声を大にすることだけがpraxisではないと思いますし、勿論、言説が波及していかないという焦燥感はあるかもしれませんが、地道にやっている人たちはたくさんいるわけで、LCRなんかも、ブザンスノ君のバックについている理論的な人たちはメディアにでてこないけれども、ひそかに影響力を発しているのでは、と思います。
それから、特に有名な哲学者がメディアになかなか出てこないというのは、ヌーヴォー・フィロゾフへの反動があるかなと思います。あれは哲学者ではない。と、ドゥルーズに近い哲学者なら誰でも言うでしょう。それに、メディアにのって彼らと同じ土俵に立ってしまうと、ミイラ取りがミイラになってしまうのでは。バディウ、ランシエールが派手に出てこないのも、その辺は関係しているだろうと推測します。

長文、乱文、失礼いたしました。

fenestraefenestrae 2006/01/19 08:32 polさん、猫屋さん、私以外に少なくともあと2人読者がいることが判明しましたね(chaosmos さん、そしてようこそのshibaさん)。

まとめていろいろと書こうと思ったのですが、今ちょっと別のことを初めてしまったので、もう少し後になってしまいます。polさん、あらためて議論を引き戻してくださってありがとうございます。「気分を害」するなんてとんでもない。特にここはほぼフレンチルールになってますから。そういえば日本語のブログや掲示板の書き込みの短さの話が上で出てましたが、「きっこブログ」について、複数ライター説の根拠の一つに、平均毎日2000字以上書けるわけない、というのがあるのに長文ブログ書きとしては苦笑。このコメント欄、みなさん一回の書き込みで皆さん平気で1000文字越えてます(笑。いや、ありがとうございます。コメント欄はブログの資産。)今書いているのが片付いたらまたまたましなことを書きに戻ります。

どうか話がつづきますように。

猫屋猫屋 2006/01/19 17:21 フーコー、ドゥルーズ+ガタリ、アルテュセール、デリダ、ラカン、、みんなアタマがよすぎちゃったんだよね、と言ってた人もいました。だからもうああいった人物はでないんだそうで、、。でもしかし、どうして同時にそういう頭のいい人が存在しちゃったのか、、の答えにはなってないよねえ、これ。

宮本浩樹宮本浩樹 2006/02/03 23:28 みなさんはじめまして。
私も読んでいます、エントリのジジェクのインタビューを我が「オンライン読書会」で読もうかなどと考えています。
引用、リンクなどしたい(いつになるかは不明です)のですがいいですか?

http://orc.lolipop.jp/PukiWiki/pukiwiki.php?%A5%AA%A5%F3%A5%E9%A5%A4%A5%F3%C6%C9%BD%F1%B2%F1

2006-01-08

大学をめぐるいくつかの引用大学をめぐるいくつかの引用。を含むブックマーク

12月14日のエントリーフランス大学学内選挙−−学長・評議員はどう選ばれるか 」に、id:chorolynさんと、id:dcsy さんからトラックバックをいただいた。

chorolyn さんからは、その『安田講堂』(島泰三著)読書記に対する「婉曲的?応答と思って読みました」という指摘をもらった。いつか書きたいとしばらく前から思っていた記事ではあるが、それを一挙にまとめるきっかけに、この読書記がなったのは確かである。婉曲的と読める向こうにあるものについては、記事の最後に付け足そうと思いながら、そのままになってしまった。

dcsy さん の記事から「早稲田大学ビラ巻き逮捕事件」というのを知った。

この事件の積極的関与者に大学教員(それも複数?)がいるというのもまだ信じられないが、関連ブログを見ていろいろ考えさせられるところがあった。スローブログモードで、論を組み立てる余裕はないが、手元にある日本語の本から、問題にゆるやかに関連しないでもない、いくつかの大学をめぐるエピソードを、これを機会に引用することにする。


昭和は遠くなりにけり

昭和27年2月、東大構内において大学公認の学生劇団ポポロ」が、大学の許可を受けて演劇公演をおこなっていたところ、会場に警官4人が私服で潜入しているのを発見し、3人をつかまえ糾弾し謝罪文を書かせた。そのさい、洋服のポケットから警察手帳を取り上げたところ、その手帳には、25年夏頃より連日のように大学構内に立ち入り、張込み・尾行・盗聴などの方法によって、学生・教職員・学生団体などの動向・活動に関する情報収集をおこなっていた事実が詳細に書かれていた。この事件について、警察手帳を取り上げるさいに暴行があったとして数人の学生が「暴力行為等処罰ニ関スル法律」1条1項違反で起訴されたので、学問の自由・大学の自治と警察権の関係が問題となった。

第1審の東京地方裁判所判決は、まず、学問の自由は社会的・国家的に最大の尊重を払わなければならない貴重な価値であり、その制度的ないし情況的保障が大学の自治であるとする。そして、警察が警備の必要という一方的判断で学内活動を監視するもとではその価値は侵害されるから、警察は無制限に構内で活動することを大学は拒否でき、大学内の秩序維持は原則として第1次的には大学責任とその自律的措置にまかせられなければならないとした。同時にこの判決は、守られるべきは学生・教員の学問的活動一般であるとして、学生を自治の主体としてみとめるとともに、学問的活動と政治的・社会的活動は画然と区別できないと指摘した。こうして、学生の一見暴力的行為は、貴重な価値を警官の違法な警備活動から守るための正当行為としてその違法性が阻却されることになり、無罪とされた(東京地判決29・5・11 刑集17巻4号428頁)。

第2審の東京高等裁判所も、ほぼ同じ理由で原審判決を支持した(東京高判昭31・5・8判時77号5頁)。

最高裁判所判決は、これらとはまったく逆に、学生の集会が政治的・社会的活動にあたる場合には、大学に保障される特別の学問の自由と自治を有しないとして破棄差戻の判決を行った(最判(大法廷)昭38・5・22刑集17巻4号379頁)。

...

差し戻し後、結局被告人の有罪が確定した。

奥平康弘他編『テキストブック憲法』(有斐閣、1977)、p.131-132。

法律の専門家にとっては常識的で、中に立ち入るといろいろややこしい話はあるだろうが、基本的な事実関係についての手ごろなまとめがネットで見つからなかったので、学生時代に読んだ一般教養の教科書から引き写してみる。


中世ボローニャ−−タウンとガウン

中世都市にとってみれば、大学を持つことで文化的威信がもたらされるだけでなく、多数の外国人学生がその町に流入することによって、直接には都市経済そのものが活発になり、間接にはアルプス以北との交易を確立するチャンスが増大するというメリットがあった。しかし、それと同時に、外国人学生によって町の秩序と治安が脅かされるというデメリットも生じた。そこで、都市外国人学生都市裁判権の下において秩序と治安を維持しようとしていた。ところが外国人学生は、異国の都市裁判権に従うよりも自分たちの教師の裁判を、あるいは聖職者学生であれば教会裁判を選ぼうとした。いわば、属地法の立場を主張する都市と属人法を主張する外国人学生の対立である。都市(タウン)と大学ガウン)の対立は、そのほとんどが基本的にこの裁判権をめぐる対立であったと言っても過言ではない。

グイド・ザッカリーニ中世イタリア大学生活』(児玉善仁訳。平凡社、1990)への訳者による「まえがき」、p. 19。

「タウンとガウン」の典型的記述


大正日本版タウンとガウン

私が浦和高校に行ったのは大正一年創設と同時でした。...五高で体験した反骨反俗の空気もちゃんとあった。寮生が浦和警察をとり巻いて、寮からたき出しをして気勢をあげ、吉岡[郷甫]校長が堂々と県へ申し込んで、結局浦高生に処罰はなく、かえって署長が左遷されたり、女学校の校長が浦高が出来て土地の風儀が悪くなったといったので、生徒代表が女学校を尋ねて校長を謝罪させるとかしたものです。

高木市之助『国文学五十年』(岩波書店、1967)、p. 110

吉野の鮎』で有名な国文学者の高木市之助が、1922年、三十代半ばで教師として赴任していった旧制高校の思い出。この本には寮生と警察の対立のきっかけについては触れられていないが、戦前旧制高校大学について書かれたものには、スト・校長排斥運動・警察との対決といったエピソードはよく出てくる。言うまでもないが、高木市之助も特に「左翼的」な学者というわけではない。


中世ボローニャ・続−−教師は辛いよ

当時、教師と学生の基本関係は、個々の教師と学生との間で教授期間や授業料を厳密に定めた契約が結ばれることによって成立する関係であった。初期にあっては、この契約関係を前提としながらも、学生と教師が、教師の住居などでともに生活した家族的集団(ソキエタス)が成立したために、きわめて親密な雰囲気が生まれていた。...ところが、別々の教師の学校で学んでいた学生たちが大学団という横断的な組識をつくり始めると、個々の教師の学校における家族的集団は、当然のことながら弱体化していったと考えられる。学生たちが家族共同体よりも大学団という利益共同体の原理に従って行動するようになったからである。こうして学生と教師の関係は、家族的関係が薄らいで、基本的な契約関係に戻ってしまうことになったようである。そのような関係に戻ると、もともと学生たちのほうが授業料を払うという契約上の優越的立場にあったから、両者の間には大学団という団体の力を背景に学生が教師を従属させるという新しい関係が成立した。実際に大学団の規約には、授業をさぼった教師にはいくらいくらの罰金を課すといった教師への統制が細かに定められていたし、そもそも授業をさせる教師の選出をおこなったのは大学団の学生たちであったのである。

グイド・ザッカリーニ、前掲書の訳者児玉善仁によるまえがき、pp.14-15。

大学でいちばん権力を持っている、現在の「学長」にあたる「学頭 レクトール」は、学生組合である大学団の長などという話も。教師側はこれに対して学位授与権で対抗。


あるフランス人中世研究者の考え

中世存在した何かを復元しなければならないとしたら、それは、大学の野心、大学の典礼、大学の独立、大学のしきたりである。大学の自由を復元し、大学に、普遍への開放、筋の通った議論、偽物の威信や本物の権力の批判といったその当初の使命を返してやらねばならない。ヨーロッパ文化を、その最初の実験室に連れ戻すことによって孤立からすくいだしてやらねばならない。その実験室では、大学、いいかえれば教師と学生の全体が、文化変容を「引き受けて」いたのである。ヨーロッパが、共同体的生という形で、自分で招いた危機を生き直すことができなければ、ヨーロッパ未来は今後もありえないだろう。

...

もしフランス人の八十パーセント大学入学資格を持っていることが必要だとしたら、それは運のいい若者たちやペテン師たちを行政的に増加させるためではなく、全世代の人々を、自分たちに課された避けることのできない使命、すなわち経済至上主義に蝕まれた社会スローガンや模範からの、まず内面的な、ついで外面的な自己解放にまで導くためである。中世大学キリスト教の機関であった。しかしそれはまた、そしてとりわけ、三年越しのストライキをやってのけ、とうとう、ブランシュ・ド・カスティーユのような摂政やルイ九世のような王を屈服させることができた自治をもった機関だったのである。

...

フランス大学大学の自治機能について再考し、真の統合力としての役割を果たさなければならない。もしヨーロッパ大学が必要であるとするなら、フランス大学は新たなアイディンティーを創造する場とならなければならない。...

アラン・ド・リベラ『中世知識人の肖像』(阿部一智・永野潤訳。新評論、1994)*1

「80%が大学入学資格を持っていることが必要だとしたら」云々は、原著が出版された1991年当時のフランス社会党政権、とくにジョスパン教育相の提唱する教育政策目標を受けたもの。


やはり「控えめ」なまとめ

大学を教職員と学生で作る一つの集団と考えると、自らが支配する物理的・象徴的空間から、その利益を脅かそうしているとみなされる「外部」の者を排除し、それによって自らの権力を物理的にも象徴的にも防御するという性向は、大学誕生した中世以来当然にある。1952年東京大学の例と今度の早稲田大学の例は、その防御行為の発動という点では共通している。しかし、「大学」の名において行動するものはだれか、「大学」がひとつの利益集団として結束しているか否か、何の名において誰に対していかなる価値観を守るための行動なのかという点については、まさにあべこべとなっている。これが日本現代史の歩みなのだろうか。

他の権力から独立した特権を求める利益集団としての大学が、現代社会価値観の中で、やくざの組識や宗教セクトと違う地位を持つのは、言論の回路で公的に開かれていうことに多くを負っているはずだ。市民がそれに税金を投入したり、それが公共圏 espace public において知的威信を有していることの根拠は、その組識の公共圏への開放性、さらに言えば、内部および外部の批判とのリアクションの中で存在しながらそれ自身が一つの公共圏として機能していることにあり、その組識がそうした働きをやめることは自殺行為ではなかろうか。

系統的に勉強したわけではないので、おおざっぱな印象だが、1968年において大学の自治の度合いというのは、日本でもフランスでもそれほど変わらなかったのではないか。が、2005年フランス大学は、経済的にほぼ全面的に国に依存したものでありながら、国家権力からの干渉の排除、学生を含めた学内民主主義という面では1968年よりもいくばくかのものを獲得している(昨年12月14日のエントリーで紹介した学内選挙のありかたもその一つだ)。これは自治的な大学伝統の保存というより、おそらくは伝統の再獲得だった。そこに、マスに開かれた大学と自治的な「中世大学」両者のポジティヴな価値を両立させようという努力があることは、上のリベラの文章に典型的に読み取れる*2

現在の日本フランスを分けるものは何か。それは、「68年」(日本流にいえば全共闘運動)のアクターたちが、権力機構やアカデミズムにどのように入っていったか・入らなかったか、入ってからどのように振る舞ったかが、両国で対照的といえるほど異なることにあるように思える。当時日本大学物理暴力に直面してぎりぎりの選択として警察を導入した教師たちを情熱的に批判した人々が一定の割合で大学アカデミズム、言論界の中にいる今、それよりはるかに後退したことが行われているのはどうしたことかと何度も思う。

今日のフランスの主なニュース今日のフランスの主なニュース。を含むブックマーク

*1:この度何年ぶりかに再読しながら、訳者の一人が猿虎先生(id:sarutoraさん)ということに気づく。はてなでおとなりさんになる前に、10年以上前からお世話になっていました。

*2博士論文を書く学生とその指導教授に対し、両者の義務、権利関係を定めた一種の契約 Charte de thèse を交すことが1990年代の終りに義務づけられるようになった(ところで守られているのだろうか?)のも、その源泉は、上のボローニャ大学の話に出てくるような「契約」に求められるのかもしれない。

sarutorasarutora 2006/01/09 18:57 お恥ずかしいです。それよりあれから10年もたったというのに愕然とします。

dcsydcsy 2006/01/09 21:40 スローブログ宣言直後にもかかわらず話題を振ってしまったような形になって恐縮です。今後もどうぞご自分のペースで。

NakanishiBNakanishiB 2006/01/10 06:08  どうも、リンクさせてもらいました。調子に乗って質問させてください。最後の段落で、68年のアクターについて書いてらっしゃいますが、フランスと日本はそんなに違うのでしょうか?軽率にも、新哲学派などを見ていずこも同じようなものだと思いこんでいたのです。どうも、すいません。

fenestraefenestrae 2006/01/11 06:43 sarutoraさん、
いえいえ、大部なのに丁寧な訳で重宝しています。とうか、この後にリベラの別の本も訳されているのですね。5年くらいの周期ということはまた大著訳が出るのでしょうか^^。といっても訳書出版ってあまり報われませんよね...

dcsy さん、
こちらこそ、こんな重要なニュースを教えていただいてありがとうございます。時間と気分の管理がめちゃくちゃなままですが、なんとかえっちらおっちらやっていきます。「もぐらの国」版の新展開も期待しています。

NakanishiB さん、
かなりあらっぽい断定の割りに説明不足でした。たしかに言論界に出てくるイデオローグを見れば昔「葬送派」一時期「新哲学派」そして今や「新反動派 Nouveaux R&eacs」なんてのがいますね。▼私が考えていたのはもっと実際の現場というか、直接に政治権力行使に携わる場面にいる人々のことでした。社会党で大臣となる政治家や地方で市町村長や議員となるエコロジスト、行政では高級官僚から、組合員として活動しながらヒエラルキーの末端でキャリアを終える公務員。大学・研究部門でも研究所長、学長、学部長クラス、それも必ずしも人文社会系でなく理科系あたりの人間。そうした人々の中に、68年に起ったことが(かならずしも中心的アクティヴィストでなかったりしますが)、理想主義と改良主義が同居する形で隠されているのを私はしばしば感じます。68年の「はしか」や「挫折」のあと、ニヒリズムよりもプラグマティックな進歩への信念をきながら、それに添って行動し、権力を持った後もラジカルな方法ではないが自らの組識に少しづつの進歩をもたらした例はそこここに見られます(14日に書いた大学改革などはその例と言えると思います)。超弩級のケースを挙げればジョスパン(37年生まれで少し上の世代になりますが)が外務官僚でありトロツキー系のグループの秘密党員でありがながら、入党作戦で社会党に入りそのまま「ミイラ」になってしまったわけで、これを転向と呼ぶにせよ、少なくとも逆向きの転向ではない。スケールは違いますが、身分保障された公務員・教師・学者のキャリアをあえて選んだ人の中にこの手のがいろいろいると思います。▼あまり誇張して日本の例と対比させると、団塊たたきの片棒をかつぐようになっていやなのですが、フランスに住むようになってから、日本の左翼系の学者といわれる人の権威主義的なパーソナリティーに辟易したり、権力争い的な行動のとばっちりにあって辟易したことが、個別の複数の例で幾度かあり、その違いというのを強く意識することになりました。まあ日本でも社民主義者やエコロジストになるというのはよくあるケースですが、そうした人々が自らの属する組識の位階の中でどう振る舞っているかということを考えると、68年のもたらした遺産の活用のしかたに大きな違いがあるように思います。▼もう一つだけ例をあげれば、たとえば1968年以前に高校生がストをやるということはフランスでも日本でもそれに関する非寛容さは同じくらいだったと思います。が今、高校生がストをやればフランスの場合、昔自分が大学や高校でストをやっていた校長は、最低限でも黙認という形で消極的な支持を与えるか、教職員組合などはノウハウなどを教えて側面援助する。TVのジャーナリストもそれを高校生にとって必要な社会化の過程・課外公民教育という捉えかたから報道する。日本の高校では、68年に石を投げていた教師たちはむしろ生徒の「管理」に身を砕いているのではないかと思うのですがどうでしょうか...

NakanishiBNakanishiB 2006/01/11 09:49  お忙しいところ、丁寧な返答ありがとうございます。考えてみれば「新哲学派」は、極端でありふれた転向なのでこの場合はどうでもいい気がします、すいません。

>ジョスパン
 グリュックスマンと同じぐらいの年齢ですね、極左から転向した政治家はたいてい保守ですから世界的にも少ない気もします。

>1968年以前に高校生がストをやるということはフランスでも日本でもそれに関する非寛容さは同じくらいだったと
 うーん、一時、F2を見すぎたせいであれはフランスの伝統なんだと思ってました。あそこのトップニュースは時に驚かされました(閣僚がバカンス入りとか)。これは実に私にはすっきりと分かりやすいですねw。ただ、暴動のこと考えあわせるとそれを一概にいいとは言えませんね、第5共和制そのものが持っている矛盾なのかもしれませんが。しかし、(同じ大陸型でも)ドイツに比べるとまだ陰惨さと流血が少ない(ネオナチを思い浮かべているわけですが)とも思うのですね、このあたりも微妙です。

>団塊たたきの片棒をかつぐようになっていやなのですが
 メディアでは散々この世代の悪口を読んだり聞いたりして育ったので典型的団塊像を心に作ってしまったのでよくわかります。しかし、実のところ本物とはあまり接触していません。まあ、実際に私が知っているのは、「威張る人」より「変な人」が多いですね、もちろんあれこれと不満はあってもどちらかといえば後者として理解できます(これは、明らかに「お前が言うな」なんですが)。要するに(組織などでの)権力を持ったこの世代の人との接触がほとんどないわけです。ですから、日本の現状への原因をどこに考えるかというときに現在責任のある地位にいる人々ということではよくわかります。

>理想主義と改良主義が同居する形で
 うーん、このようにあることへの無力感が日本のほうが圧倒的に強い。それは、
>ニヒリズム
 というよりはシニシズムの問題だと思うのですが、やはり、これが私にとって最も気になるところです、68年への関心は私にとってはすでに自分のものであったそのような感覚の淵源についての関心でもあるわけです。

 そういうわけで、私としてはむしろそれ以後の特に同世代にうんざりしているので、責任持ってはなんとも言えないのですが、ただ世代的に団塊というのは権威主義の名残と高度成長以後の居直りがちょうどよく合わさっているような…。本当は、どれぐらいの人々が参加したかなどをきちんと考えなければいけないのでしょうが。

>日本の高校では、
 これに関しては、以前swanさんのブログで、20年前と菅理は変わっていないのに生徒が平然と受け入れといったことを読んだことがあります。もう一つ、梶ピエールさんのところでちょっとお互いが受けた歴史教育について議論したのですが、あまりも地域(個人)差が大きいという感じでした、これも一律化していきそうですが…。

 これは個人的に考えていることなのですが、同じ「68年」でも、フランスの場合はアルジェリア戦争を抜くことができないのではないでしょうか。合衆国にとってのベトナム戦争ともやや違うし、日本とは全く違うと、戦争と68年の位置の違いですね。。その辺も含めて、世界的な出来事であるがゆえに違った結果をを生んだという感じなのですが。どうも長々と失礼しました。

NakanishiBNakanishiB 2006/01/11 21:24 高校生についての部分です、アドレスだけ、http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050419、http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050104

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2006-01-05

2005年二大ニュース−−ル・モンドネットアンケート 2005年二大ニュース−−ル・モンドのネットアンケートを含むブックマーク

lemonde.fr が昨年12月30日実施したネットアンケートで「2005年フランスでおきたできごとで最も記憶に残るのは何か?」という質問。解答は 3(+1)択で、

16,055件の投票があり、結果は↓

ほぼ3人に2人が欧州憲法条約批准の国民投票否決をあげ、10月末から11月にあれほどセンセーショナルメディアを席巻したバンリュウ騒動に投票したのが30%以下。騒動は12月末には沈静化していたので、人々が冷静に1年を振り返り、大局的な判断ができたということであるにせよ、この大差はかなり意外だった。

投票者がル・モンドの読者層だからで、TV局のTF1のサイトでやったら結果が同じでないことは十分予想できるが、騒動のまっさい中はル・モンドサイトの読者欄やアンケート結果もかなりセンセーショナリズムに流される気配をみせていたので、少しはほっとする結果ではある。

ただし実際のところ、批准投票にかけられた憲法案に、代替案ありとしてノンをつきつけた人々の熱狂は今どこに?ということを考えると、ほっとするどころではない。


思い返すと、私のブログ2005年は基本的に休眠モードで、欧州憲法とバンリュウ騒動で二度たたきおこされ、ニュースが峠を越したところで、課題を残しながら二度とも尻すぼみになっていっただけということになる。それでもこの二大事件に、短い時間に集中してとはいえまともにつきあったのは、個人的には勉強になった。私自身の物の見方に2005年以前と2005年以降が出来たともいえる。

このバンリュウ騒動に関連して驚いたのは日本での関心の大きさだった。アメリカ経由の文明の衝突的なとらえかたの報道センセーショナルに扱われた面もあるが、一方で、事件の原因や「階級社会」についての議論についての「はてな」での関心の高さをみると、かならずしもフランスに関わりのない人でも少なからぬ人が、この事件に他人事でないというような関心を持っていることに気づいた。これを機会に私も、日本でも階層分化の主題が今まさに多くの人の関心を呼んでいるということを勉強したが、フランスの状況について強い興味を生むようなそうした国内状況の認識は、バブル崩壊以降の故国を肌で知らない者にとっては、複雑な気持ちにさせるものがある。

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2006-01-04

スローブログ宣言!」を試みる 「スローブログ宣言!」を試みるを含むブックマーク

いや、yskszkさん誉れ高い著作をまだ読んではいないのだが、タイトルや目次、ご本人がはてなに書いているものから想像して、勝手にことばを借りて。

休止宣言を出そうと思いながらそれも怠慢している間に、バンリュウ騒動がはじまり、かなり肩に力を入れて再参入したときに、コメントで「もうすこし力を抜いてでもいいので,細く長く定期的に」と勧めてくれた方がいた。

これが性格的になかなか苦手だ(chorolyn さんに教えてもらった日本歴史占いというのを先ほどやってみたら、「典型的な短期集中型」(空海)と出てきたのにまたまた苦笑した)。

一方、今置かれているのが、調べものをしたり頭を使って文章を書くことができるほどの余裕があるのとはほど遠い状況である上に、バンリュウ問題でかなり時間と労力を使ったのでその状況がますます厳しくなり、これが続く限り−−確実に続くのだが−−たぶん2006年は一度も更新できない。

だから以前からペンディングになっている休止宣言を出すべきときなのだが、案外これは、「スローブログ宣言!」というキーワードと、「もうすこし力を抜いてでもいいので,細く長く定期的に」という忠告をバネに、新しい性格と習慣を獲得するチャンスなのかもしれないと思い立つ(←なにせ今年の課題は遅ればせの「ポジティヴ・アティテュード」)。

もともとこのブログは「欧州方面のメディアの時事関係報道ソースにしたウェッブログ」ということで、これらのメディアの紹介・ワッチングではじまった。これが途中からかなりアンガージュマンの性格が強くなってきた。そしてその二つの極を行ったりきたりしている。

いずれにせよ、紹介に徹っして自分をかなり透明な存在にする−−これを見事にやっていたのはmedia@francophonieさんなのだけど以前の私といっしょでサバティカルモードになっているようだ−−ことはできないにしても、各種色付き窓くらいにして、向こうにある何かを見てもらうことのほうが、へたな論をはるよりも、存在価値があると思っていたので、時事的記事の紹介・まとめの比重が減ることには忸怩たるものがあり、そうした情報を求めて読みに来てくれるかたには申し訳ないが、まあものはためしでブログの性格を変えながら少しだらだら続けてみる。

ということを前置きにしてあれこれ書こうと思ったが、これ以上書き進めるとここまで書いたことの趣旨と自己矛盾になってしまう...。習慣を変えるというのはなかなか難しい。ということで、「スローブログ」の試みも短期集中型に終りそうな危惧とともにここまで。

猫屋猫屋 2006/01/05 11:06 コメント一番げっと。
スローでお願いいたします。

fenestraefenestrae 2006/01/05 11:08 は、速い...。こちらもクイックコメント返し。

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2006-01-03

フランスを覆う無力感 フランスを覆う無力感を含むブックマーク

「無力」という語の流行

«La montée du mot "impuissance"»

Libération : samedi 31 décembre 2005

par Nicole PENICAUT

2005年よさようなら。記号学者のマリエット・ダリグランが2005年政治のことばを支配した語を分析する。

Adieu 2005. Mariette Darrigrand, sémiologue, analyse les termes qui ont dominé le discours politique en 2005.

年末年始に読んだ新聞記事の中でもっとも印象に残ったもの。猫屋さんが報告しているグラン・パレのメランコリー展と微妙にかぶっている。また、メランコリー礼賛に警戒を示すナンシーヒューストンの記事が掲載されたのは同じリベラシオンの翌日の号(また、このナンシーヒューストンの記事は、ピエール・アスリンがブログで同日にとりあて紹介している)。

詳しい感想を書く余裕があるかどうかわからないがとりあえず翻訳。細かいところをつつけばいくらでも議論の余地があるが、フランスを覆う空気を適確に診断していると思う。なにより自分をふりかえってみて、私自身がこの数年間のこの大きな流れに捕らえられているような気がしている。ここからいかに抜け出し、距離を置くかが本年の個人的課題。欲望の称揚もその手段かも(と昨日思った)。無力、無力感と訳した impuissance は、性的な含意を考慮にいれれば「不能、インポテンツ」でもある。

−−−−−−−−

無力。この語が政治家たちによってこれほど用いられたことは、この数ヶ月をおいてかつてなかったと、[...]記号学者のマリエット・ダリグランと指摘する。のべつまくなし使われるこの語は、あたりを漂う「メランコリー」の気配と無関係ではない、と。

こうしたフランスのメランコリーの理由はなにか?

その前にまず、なぜ、社会に対する視点が心理学的なものになっいるのかを理解してみなければならない。今日、社会的なものの観察者は皆、社会を一個の人間のように見なしている。あるときには、その青年期の危機を、あるときには、その老化を描写してみせる。そしてまたあるときにはそのメランコリーを。しかし、これは観察を、現実にではなく知覚に基づかせるものである。知的な思考哲学者や、社会学者政治家によってではなく、心理学者だけによって担われているということだ。政治家とうものは知的な思考を糧にする必要がある。が、現実を扱う道具をみつけれない彼らは、もはや現実を語るのではなく、知覚を語るような材料を用いている。そして自らの政策が支持されないと感じるや、その政策が向けられた人々に罪責感を与えようとする。診断を相手に向けながら。

政治家たちもメランコリーにとらわれているか?

自らへの疑いを他人に投影しようとするのは昔からの典型的な行動だ。他人の「不幸感 mal-etre」について語るのは、しばしば、自己の投影である。今年私が驚いたのは、政治のことばの中に「無力」という語が盛んに使われるようになったことだ。われわれは、まるで、行動する手段をもった人々すべてが無力になってしまった社会に生きているとでも言うかのように。それこそまさに鬱病の症状そのものだ。鬱病患者は横たわったままになり、現実に対して行動するのを止める。そしてこのメランコリー、診断すれば、これは鬱病だ。

それはいつはじまったのか?

2002年4月21日は「政治的激震」と言われた。2003年猛暑は「カタストロフィー」と。政治的な出来事を「自然災害 catastrophe naturelle」にしたてあげるとき、人はそこに宿命主義、無力感を作り出す。今年になって、ロンドンのテロ事件は、テロに対する西洋諸国の無力を表現するものになった。そして欧州憲法国民投票EUはその無力のかどで拒否された。8月末にアフリカ人たちの家族の住むホテル火事になったとき、ここでも無力の観念が口にされた。常軌を逸したことだ。なぜならこうした状況は対策の不在の積み重ねによって引き起こされたものだからだ。そしてウトローの裁判があり、これは「司法のカタスタトロフィー catastrophe judiciaire」と表現された。まるで意志のない何物かの力の生み出したものであるかのように。司法の誤りは、いくつもの決定の結果にほかならないのに。そして最後には、バンリュウの危機だ。そしてここでもまた、両親の無力、教師の、市長の無力が語られた。「無力」という語が、政治のことばの中で、いたるところに現われてきた。しかし、本来は、政治家が引き合いに出すのは、潜在的可能性 (できるできない)puissance の問題ではなく、権力 (行使できる力)pouvoir の問題であるはずだ。こうした心理的な思考回路に屈服したときのいやな問題は、こうした思考が、潜在的可能性をもったように見える人間に、活躍の場を与えることだ。ル・ペンや、そしてもちろんサルコジのような、自分だけが唯一行動する力を持っているとして自らを売り込んでいる人のこと考えて言っているわけだが。これはゆゆしきことだ。皆が無力であるなら、人々は救い主を求めることになる。

無力感にともなって、犠牲者化があらわれているか?

まさにそのとおりだ。たとえば、「工場移転犠牲者」について語るとき、そこあるのは、現実を描写することへの怠慢だ。そこでまた宿命主義に囚われている。そうした人々は犠牲者ではない。それは雇用を失った人々だ。犠牲者という概念からは社会的な側面が抜け落ちている。「犠牲者」の真の意味宗教的なものだ。それは神聖な姿をまとい、物質的なものから引き離されている。そしてそれはきわめて人の心を惹く。しかし心理的な苦しみ語れば語るほど、苦しみの物質的な条件について人は語らなくなる。ますます多くの人が「心のレストラン」[慈善事業団体]の世話になっていることについて、生計の手段のなくなった老人たちについて語らなくなる。ここでもまた、現実を迂回するのだ。

メランコリーフランス的な病か?

フランスには、苦悩への愛に結びついたメランコリーへの愛というものがある。メランコリーを、天才の印−−ジェラール・ド・ネルヴァルからミシェル・ウルベックにいたるまで−−とする肯定的な見方がある。これはわれわれの歴史、苦悩礼賛的なフランスロマン主義に強く結びついている。自分の苦難の体験やそこから立ち直った話を語らない有名人は一人としていない。メランコリーは破滅へのロマンチックな誘惑だ。

隣りの国々ではどうか?

ヨーロッパ人のすべてが物質的なもの以外の目的の探求に悩んでいる。しかし、このメランコリーから逃れているところが2つある。まずスペイン。この国は民主主義の遅れを取り戻そうとしいるからだ。そしてドイツドイツ経済問題は苦悩をより現実的なものにしているからだ。そしてそこには、ポール・リクールが「嘆きの思考」と呼んだものを拒否しようという、進歩主義的で実際的(積極的・実証的) positif な知的思考の刷新がある。ドイツ哲学者たちは現実に取り組むことを受け入れている。

フランスではそうでないのか?

現実が十分に考えられていない。とくに経済的な側面で。政治家新自由主義を批判する経済思考を解釈しうる手段をみつけなければならない。それは困難な作業であり、Attacだけがそれを占有してはならない。現実を考えることはメランコリーの歩みを止めるきっかけになりうる。真の問題は、恐怖であり、あらゆる面における安全の欠如(治安の不在、不安定感) insécurité だ。なぜならわれわれの社会は変化の過程にあるからだ。安全(感)の欠如は人々に極端な解決法を求めさせ、期待を過度のものにする。今日人々が耳を傾けているのは過激な提案だけだ。右では、過激なポピュリズム−−「秩序を回復しよう、そうすればうまくいく」。極左では、「EUはわれわれの仕事を奪う、だからEUにノンだ!」

−−−−−−−−

猫屋猫屋 2006/01/05 11:01 この記事は(正確には“は”ではなく“も”)読んでませんでした。
難しいですね。ここでの“無力感”についての描写については同意できるけど、解釈については良く分からない。気になった点をいくつか挙げてみます。
1.無力感に襲われているのはフランスだけじゃない。
2.“メランコリー”という語の持つ意味は時代によって変わっているのと、たぶん日本では同様な意識状態を諦観とかのどっちかというと禅的な次元で処理しちゃうんだけど、実はそんなに遠くない、と思います。また国家(あるいは共同体グループを)を個人と見立てて、“精神分析”するのはこの10年ぐらいの傾向かと思うけど、なんだか“マーケティング”作法とも重なるんで、ちと気になる。
3.スペインの活性化は単に民主主義が原因ではないでしょう。遅れを踏み台にイタリアを飛び越えた経済的飛躍があると思う。ドイツについてはまったく現状が分からないんですがそんなに明るいとは思えないんだけど、いづれにしてもドイツ・スペインという隣国に比べてフランスはダメというのはきわめてフランス的ではありますね。
4.個人的には、ソヴィエト・ユニオンの消滅から引き起こった経済バランスとそれに伴ってた局地戦という“均衡”の崩れに由来するんだろうと思ってます。問題は“権力”ってのがではいったいなんなのかってことなんだろう。ポピュリズムは“権力”の空白に取り入るからね。きわめて危ない時代なんですよね。それを感じてる人間は多いんですが、多ければ多いほどマンガとかゲームが売れるという、、。あと記号論の中の人も大変だろうとか思う。社会変化のスピードが加速してるのは事実なんで記号論もついてけないだろうつーことです。

支離滅裂です。単なるいつもの感想ですということで、投稿。

fenestraefenestrae 2006/01/06 10:33 たしかに現在の状況の記述とは別に、分析や因果関係の記述というところではかなりぼろぼろだと思います。メランコリーとか自虐的なロマン主義的性格についてこれが典型的にあてはまるのは19世紀のドイツ人のはずですが、面白いことにフランス人はこれをフランスに典型的なものと捉える。フランス人というと自信家、高慢というイメージのほうが優先する日本人にとっては、あまり知られていない面ではないかと思い、面白いのでそのまま訳してみました。スペインについては指摘するようにまず経済発展ですが、以前にあるスペイン人と話したときに、これを、何かにつけてペシミストなフランス人と対比できるスペイン人の国民性に帰していたので、面白いと思いました。それにしてもこの「危険な」ポピュリズムが、やはりセンセーショナリズムに煽られた私の認識によるものか(私自身の中の左派ポピュリズム)、そうではなくてこの事態はやはり新たな1930年代なのか、考え込んでしまいます。

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2006-01-02

新年欲望バトン 新年欲望バトンを含むブックマーク

id:chorolyn さんからいただきました。記事を書く余裕がないので、猫屋さんや shiba さんの活躍を横目でみながら、気分にまかせこのへんから。

  • Q1.今やりたい事 : 今の自分と状況をタブラ・ラッサにして、毒にも薬にもならない好事家本を書く(訳す)。
  • Q2.今欲しい物 : 上記のことを実現させてくれる金と時間。でなければ、自分のコピー(ヴァージョン・アップ版)。
  • Q3.現実的に考えて今買っても良い物 : くたびれてきた愛用の靴の新版。
  • Q4.現実的に考えて欲しいし買えるけど買ってない物 : プチ・ロベールの新版。もう10年換えてない。
  • Q5.今欲しい物で高くて買えそうに無い物 : (物ではないが)事務処理を遅滞なく全部じょうずにやってくれる秘書
  • Q6.タダで手に入れたい物 : 深みのあるセクシーでいい声。
  • Q7.恋人から貰いたい物 : 本人の仕事の成功を祝うパーティーへの招待状。
  • Q8.恋人にあげるとしたら : 逃避行。
  • Q9.このバトンを5人に回す : いくじがないのでここでおしまい。

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