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2006-03-07

近日中に風刺画の続きをてがけますが一息のあとのまた一息に日本語記事クリッピング

「この人なら知っています。沖縄の人だ」 「この人なら知っています。沖縄の人だ」を含むブックマーク

関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件に対する解釈が、映画ホテル・ルワンダ』との関係で、論争になっているのを id:gachapinfan さん、id:travieso さんのところで知る。この映画も見ていなければ、論争のきっかけになった映画評論や複数いる論争参加者の記事もきちんと読んでいず、なんだかややこしいことになっている論争に参加する気はないが、このきっかけをとらえて、この事件に関して以前から気になっていた証言を、ある本から引用紹介することにしたい。コメントも論争の展開を追わずにひとりよがりに適当につけます。さて問題の本は、

著者の比嘉春潮は1883年沖縄生まれ。没落士族出身の知識階層に属し、小学校校長、新聞記者、県庁の役人を勤めながら、一方で社会主義運動に接近。1923年、40歳のときに役人をやめ上京し改造社の社員となる。編集者として生計を立てながら政治社会運動、民俗学沖縄研究に携わる。1947年沖縄文化協会の設立に加わり、晩年沖縄学の研究に専念。1977年没。

比嘉春潮は上京して改造社に勤めだして半年もしない1923年9月1日に、芝にあった改造社編集部で被災する。淀橋の倒壊しかけた自宅近くの広場で、その日から数日間友人たちと野宿する。文中に何度か出てくる饒平名君というのは、やはり沖縄出身で比嘉より前から改造社に勤めていた饒平名(永丘)智太郎(1891-1960)。彼は前年の第一次共産党結成に加わり党の中央委員であった(もちろん地下活動)。以下の引用(pp.108-115)では、新たに適当に段落分けを加えてある。


地震後の不安に加えて、朝鮮人が大挙して襲撃するという不穏なうわさが飛び、人びとの恐怖をかりたてていた。在郷軍人を中心に自警団が組識され、日本刀を差したのやら、竹槍をかついだ物騒なのがそこらを徘徊した。淀橋の原っぱでも自警団が出ていたが、ボーと鳴っている石油コンロが注目をひくらしく、しきりにわれわれのまわりをウロウロする。饒平名君が腹を立てたと見え、近づいた自警団のひとりをつかまえると、下から顔を覗き込んで、

「こいつ朝鮮人じゃないか」

と冷やかした。朝鮮人はいないかと探し歩いているのをつかまえて逆手をとったので、相手はいっそう硬化してしまった。

幾日かたって、もう家で寝るようになったある夜半、私たちは自警団の突然の訪問に寝入りばなを叩き起こされた。出ろというから、私がまず玄関に出た。饒平名君も起き出してきて、黙って後ろにすわった。

朝鮮人だろう」

「ちがう」

「ことばが少しちがうぞ」

「それはあたりまえだ。僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」

押し問答をしているうちに、隣りに間借りしていた上与那原という学生が出てきた。海軍軍医大佐で有名な人の弟で、沖縄にいたころアナーキスト・グループの中にいた人だ。彼も私の肩を持って、自分の知り合いの沖縄人だと弁明し、

「なにをいってんだ。日清日露のたたかいに沖縄人を朝鮮人といっしょにするとはなにごとだ」

と、いかにも彼らしくまくし立てたが、そのことばも聞かばこそ。かえって、

「こいつも怪しいぞ」

とおどかされてすごすごひき下がっていった。

私はこれは危ないと思った。なにしろ相手は気が立っているからなにをされるかわかったものではない。そこで、

「そうか、それでは警察へ連れて行け。そこで白黒を決めようじゃないか」

と持ちかけた。自警団の連中の間から、そうだそうだという声があがった。

それまで黙って聴いていた饒平名君、平良君、和木夫妻、私と、女一人をまじえた五人はゆかたがけのまま、ぞろぞろと表へ出た。和木君というのは、あとで「三田文学」の編集者になった慶応出の人で、夫妻ともだれが見たってチャキチャキの江戸っ子であった。

私としては、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいるのを知っていたから、ここで事が面倒になるより、署へ行ったほうが安全と思ったのだ。ところが、五人がひっぱっていかれたのは淀橋署ではなく、近くの交番だった。

交番でも、同じ問答の繰り返しであった。ごたごたしているうちに、酒屋の親父とでもいったような腹のでっかい男が、

「ええ、面倒くさい。やっちまえ」

と怒鳴った。腰には不気味な日本刀をさしている。一瞬みなシーンとなった。ヒヤリとした時、早稲田の学帽をかぶった青年が、

「この人なら知っています。沖縄の人だ」

と叫んだ。私には見おぼえのない顔だった。彼はすぐ父親らしい男に、

「黙ってろ」

とどやしつけられた。

それでも、なんとかまあ淀橋署に行くことになった。雨上がりの日で、泥んこ道だった。私ひとりだけ足駄をはいていて、ひときわ背が高かった。ぞろぞろ歩いているうちに、まわりをとり囲んでいた自警団のひとりが、

「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」

と叫んだかと思うと、二人の男がやっとばかりに後ろから私の両脇を抱えた。和木君の細君は、

「ひどいわ、ひどいわ」

と抗議したが、私たちはそのままの姿で引き立てられて淀橋署に入った。

署へくればもう問題はない。丁重に扱われて、自警団にも帰っていいといった。知り合いの巡査というのは思想問題を扱う高等警察の人で、大杉栄の家でちょくちょく顔をあわせていたのである。彼はいろいろねぎらってくれたけれども、私たちとしてはそのまま帰るわけにはいかない。

大体、近所の連中もわれわれが朝鮮人ではないことを知っていたはずだ。社会主義者というので危険視されたにちがいないので、安心できない。私たちは淀橋署員に頼んで、隣近所に、私たちが危害を加えるようなものではないことをふれまわってもらった。

こういう出来事からもわかるように、実に物騒な状態だった。次から次へとデマが飛んだ。多摩川の方から二百人の朝鮮人が攻めこんでくるとか、どこそこでは交戦状態であるとか、あるいは毒薬を井戸に投げ込む、石油をかけて家を焼くから気をつけろとかいって、人々は疑心暗鬼に陥っていた。ある時は、私たちの近くの映画館で集会のあった時、だれかこの中に朝鮮人がいると騒ぎだし、会合は止められる。聴衆は一人びとり調べられる。夜おそくまで、便所の中や天井うらまでいたるところ捜しまわるという有様だった。またある時は軍人を数人乗せたトラックが通り過ぎたら、あれは擬装した朝鮮人だということになり、そこら中の自警団が追っかけていって調べた。

町の在郷軍人などといった手合いだけではなく、相当な知識層の人も同じような不安にとらわれていた。改造社では、地震直後の九月三日に目黒にあった山本社長の家で、今後の雑誌発行について会議をひらいた。その時、このいわゆる猊梦鮮人爐料ぎが大きな話題になり、山本社長はもちろん、秋田忠義というドイツ帰りの評論家で相当教養もあり、視野の広かった人さえも鮮人襲撃を信じこんでいた。そして、会議の最中に、神奈川との境の橋を、朝鮮人が二百人ほど隊をなしてくるという噂が入り、会も解散ということになった。私たちが、線路伝いに一時間がかりで新宿までたどりつくと、こんどはそこで、い立ち去ったばかりの目黒では市街戦の最中だ、池袋でも暴動がおこっているなどと聞かされた。そんなばかなことを最初から信じることのできないのは、社では饒平名君と私だけだった。というのは、われわれは、かねて朝鮮の人たちとのつきあいもあり、彼らがそんな無謀なことをするとは信じられず、また武器がそう簡単に手にはいるものでもないと考えられたからであった。世間も騒ぎ、新聞も書きたてていたが、あの当時左翼の人々は、おそらく私たちと同じ見方をしていたと思っている。

比嘉春潮はまた、甥の比嘉春汀が震災以来行方になっているのに気づき心配する。あちらこちらの警察署を探し回り9月6日に、飯田橋警察署に留置されているのを発見する。

彼は学校地震に会い、飯田橋近くの友人のところへかけつけると、食べものがないという。急いで自分の家まで帰り、パンを買ってもどったら、もう友だちはもとのところにいない。パンを抱えてうろうろしているうちに夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。最初、向こうからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過ごした。ところが一番後にいた一人が、ひょいとふり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。すぐに、相手にもまちがいだとわかったので大事にいたらなかったが、こんどは警察につかまってしまい、家もさほど遠くないのに帰してもらえない。

甥の春汀が留置されているのは左翼の活動家としてである。春潮は警察に釈放を要求するが、今外に出したらもっと危ないという警察の言い分になっとくして、その場はそのまま引き下がる。

私たちは、「フタリブジ」という電報を打つことができたが、不幸な目に会った人も多かったと思う。現に、知り合いの長浜という首里の青年は、深川の自動車工場に勤めていて、確かに地震翌日の二日にその姿を見た人がいるのに、ついに行方不明となった。殺されたとしか考えられない。戦前沖縄三中の校長になった豊川善樺君も、隅田川の橋の上で、自警団に朝鮮人でなければ「君が代」を歌ってみろと歌わされた、など、ほかにも危ない目に会った話はいろいろ聞いた。また、連日行方不明者の名が新聞に出た中に狒人安里亀爐箸△蝓▲▲鵐螢とルビをふってあるのを見かけた。私には、これは新聞記者が推測して書いたもので爛▲汽肇メ爐箸い沖縄人ではなかったかと思えてならぬ。

猊梦鮮人狒ぎでは、日本人もずい分やられたらしいが、とくに沖縄人の場合、地方によっては強いなまりがあるから、逆上した自警団には見わけがつかず、犠牲になった者もあったはずである。


一読すればわかるように、直接の主要な標的になった朝鮮人ではないが、社会主義者としては標的にされる可能性があり、かつ、建前的には「皇国の民」ではあるがかといって100%同化した存在ともみなされていない当時の沖縄人という著者の特殊なそして微妙でもあるポジションがその証言を特徴づけている*1。この文は後年の回想記として書かれたもので同時代証言ではない。が、被害者に近い立場で事件に巻き込まれる一方で、直接の犠牲者に自らをアイディンティファイして事件の告発を行うものでもないという−−読みかたによってはかなり無関心とさえもみえる*2−−立場をとっているというその二面性が、研究者として晩年を過ごした著者が過去に距離をおきながら行う回想のスタイルともあいまって、記述にリアリティを与えながら、政治的回収につながる恣意性をかなりの部分避けさせているように私には思える。

この事件については立場によっていろいろ見方があると思うが、特殊ではあるが、その特殊さゆえに得難い一つの証言から、それぞれの立場なりに、いろいろな、そして無益ではない解釈が得られるのはないかと思い、かなり長い抜粋を試みた次第である。

私が関心を持つのは虐殺に参加した人たちの像である。状況の特殊性を割り引いても、どのような社会的、文化的風土が、それを作っていたのか。そしてどのぐらいの割合の人がこうした虐殺に加わったのか。被害者数をめぐる議論はたえないが、加害者数についてのデータはそれよりいっそう分からない。震災後の混乱の中とはいえ、そのあと法的にどのような議論があったのか。そんな議論は別に今さらしなくていいというほど国家としての日本の当時の文明度を今のわれわれが過小評価する必要はあるまい。大杉栄殺害の犯人とされる甘粕正彦らの裁判については知られているが、一般人で自警団に関わった人がどうなったかについては不勉強ながら分からない。ネットで見てもよく分からない。

また−−こちらが返事を書きかけになっている最近の id:swan_slab さんとのやりとりと少し関係するが−−ガチガチの官僚システムをもった国家主義的な体制として捉えられがちな戦前の日本がむしろ、特異な状況下とはいえこうした中間団体の超法規的な暴力活動を可能にし許すような国家権力のルーズな−−昔ふうの言い方では暴力装置を独占していない−−体制を持っていたというふうにも解釈できる。そしてこうした人々の活動を突き動かすものは100%、パニック下の防衛反応に帰すことができるかどうかというのも問うてみることができる。「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」ということで後ろから拘束するというのは、行動の原則において、途中から、目的(あることがらの検証とそれに基づく「制裁」)と手段(暴力の行使)の倒錯が起こっている。

この事件が国ぐるみの犯罪であることを証明しようとする努力は日本では主に左派陣営に属するようだ。これはこれで解明すべき点は多いと思う一方で、自警団のような組識で「活躍する」主体(社会的存在)や、あるいはそれを作るメカニズムが不問になっていけば、当時の日本のありかたについての批判的検討の大事なポイントが抜けてしまうのではないかと思う。こうした事件で殺人を犯した人々の行為をきちんと清算できないという当時の日本社会のありかたが、その後、少なくとも1945年までの日本の進む道に必然的な関わりを持っていると考えてもよいのではなかろうか。国家のレベルではなく社会のレベルに批判の目を向けてもいいと思う。(旧)左翼が天皇制批判に固執することについて、それが自らの権威主義的体質を批判的に検討することを回避する道具にもなりがちだという指摘とも恐らく関係してくる。

自警団に捉えられた朝鮮人がだれかの機転で救われるというのは−−そのために行動する人がいたとして−−その可能性はかぎりなく低かっただろうと、上の証言を読めば、容易に想像できる。一方、比嘉たちは沖縄の人だったから、朝鮮人ではないという証明の「恩恵」に浴することができた。しかしその恩恵を受けるのでさえ、「黙ってろ」という人間の傍らに少しばかりの義侠心で「この人なら知っています。沖縄の人だ」ととっさに発言する人間が必要だったことになる。

*1:この記述について、難を逃れるために沖縄人として朝鮮人と自らを強く峻別しようとしていることについて批判的な意見をきいたことがあるが、こんな状況で著者には選択肢はない。ナチのユダヤ人狩りから逃れようとするユダヤ人がとる当たり前の行動は、自分がユダヤ人であることを隠し、ばれそうになっても自分はユダヤ人でないと言い張ることだ。

*2:この点については今はあえて立ち入らない

temjinustemjinus 2006/03/08 21:06 今回は難しい問題をとりあげましたね。

これも白人の映画ですが”Shooting dogs”というルワンダ物があるようです。tv5で紹介しているのを見ただけです。

munyuumunyuu 2006/03/08 22:02 >こうした事件で殺人を犯した人々の行為をきちんと清算できないという当時の日本の社会のありかたが

以下のサイトによると犯人は裁判で裁かれているようですよ。
http://www.jiyuu-shikan.org/goiken/01/12/gmain.html
*全世界が注目、救援の手を差しのばしてくれた中、一部新聞報道により混乱、第一師団、近衛師団、海軍、が出動警備したが自警団に拠る殺人事件は275件有り、767名の犯人は裁判で裁かれている。

kmiurakmiura 2006/03/09 00:31 長い引用、おつかれさまです。おもしろいです。▼広げるつもりはないのでコメントということで。歴史、とはいわず、帰国子女として転校した次の週によってたかって殴られた経験のある私としては、この手の社会性、未だに続行しているとしかおもえない。米国人には日本人ということで何度も喧嘩を売られたけれども、ほぼいつも一対一だった。集団的な雰囲気を先回りしながら個人がダウンロードして次の行動にフィードバックさせる、という自動性が全体を先鋭化させるのだと思っています。更に問題はダウンロード→フィードバックという行為の部分が集団に対してパフォーマティブでないと、逆に槍玉に挙げられる、という点です。上の引用文はその部分もとてもよく表現していると思う。

猫屋猫屋 2006/03/09 09:29 東京下町に住んでいた祖母(当時19歳)は「韓国の人たちがたくさんトラックに載せられて連れて行かれた。赤ん坊を抱いた若いお母さんがいてとてもかわいそうだった。あの人たちは帰って来なかった。」と子供だった私に話してくれたことがあります。今考えれば、もっと話を聞いておくんだった、と悔やまれる。話されてよいはずの話が次の世代に繋がらない。そのまま一世代は死に絶えて、次の世代も何も語らないかに見える。その空白を《集団的雰囲気》が埋めてしまう。これが歴史のどの地点で始まったのか、あるいはもともとこうだったのか、自問しています。また、論理性なるものを日本語は内在化したためしはあったのだろうか、とも考えてしまいます。

猫屋猫屋 2006/03/10 00:52 前コメント一部訂正です。
>論理性なるものを日本語は内在化したためしは、、
あるんですよね。よく考えたら。これは日本語の問題ではない。記憶の問題だと思う。たとえばスペイン風邪が日本でも多くの病死者を出したのだと最近になって知りました。《集団的雰囲気》が論理を凌駕してしまう、これも世界中の歴史内に多く見られるわけです。ただ、国家でも民族でも一言語でも一共同体でもいいんだが、そこでの共通なる記憶をどう扱うか、同時に、ではその話の中で他者は誰なのか=われわれとは誰なのか、の話になるように思います。この点で、この頃日本語ネット界で見かける説法に論理性が欠けてるように感じたわけです。で、日本ではある時点で過去の歴史をチャラにする傾向って、ありませんか?

fenestraefenestrae 2006/03/10 09:30 >temjinus さん
ルワンダはこのブログでは正面から扱うのはパスです。フランス語の資料を活用して書けば、英語圏のものしか見ていない人よりいろいろな見方が提示しながら書けるけど、状況や事実認定、価値判断が複雑な上に、一番悪いのはフランスという線で書かないと失望する人が多いから、まともに手を出すとそれこそブログのために生きていくことになってしまいます。それに比べれば、まだ上の記事なんかは、むしろ楽してしまったような思いがしています。

>munyuu さん
情報ありがとうございます。有名な自由史観オルグのサイトにどなたかが投稿したものですね(投稿された方がソースを示してくれればもう少し調べる手間がはぶけるのですが...)。はてなでもすでに引用されている方がいて、これは一応見ました。虐殺数275人に対してものということことになりますが、さてこの275が大きな議論の対象である以上、その犯人として裁かれたものの数が767人というのは、さらに、事件の全体からみて、日本人が事件をきちんと清算したかどうかの根拠として相当に弱くなってきます。そしてこの767のデータが不備だなと一番思うのは、裁判の結果がどうなった示されていないことです。

裁判については Wikipediaの類はチェックしましたが、関東大震災の項目では

>殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが猶予刑となり、実刑となった者も昭和天皇(当時は摂政)結婚の恩赦で釈放されたという。

としています。
また、フランス語のWikipediaの関東大震災の項目
http://fr.wikipedia.org/wiki/Tremblement_de_terre_de_Kant%C5%8D_de_1923
に参照先として示されている東亜日報の英文記事
http://www.kimsoft.com/2003/kanto-1923-massacre.htm
では、元立教大学教授の山田昭次氏による

>「埼玉県熊谷では15人件の殺人(実際には68-79人が殺されたたと推定)で35人が裁判にかけられたが、1人が懲役1年になった以外残りの34人は釈放された」(意訳)

という調査結果が紹介されています。一度英訳になっているので法律的な解釈はやや不正確かもしれませんが少なくとも事件の大きさに対して均衡を欠いた法的責任追求であったことの一例とはいえるのではないでしょうか。
これらのデータを見る以上、

>こうした事件で殺人を犯した人々の行為をきちんと清算できないという当時の日本の社会のありかた

と私はいわざるを得ないのです。
ネットではこのへんまでしかわからず、ちゃんとした一次資料や専門研究書を見れば、私が少しネットで調べた上のような印象をくつがえす像が出てくる可能性は否定しません。もし、そのあたりで何か情報がおありでしたらご教示願いただければありがたく思います。

fenestraefenestrae 2006/03/10 09:43 kmiura さん
>この手の社会性、未だに続行しているとしかおもえない。
どこの社会でも特殊な条件下では発現するメカニズムかもしれませんが、子供たちがそうやって「社会化」する現象が普通にみられるくらい、日本ではわりに日常に近いところに組み込まれているような気がします。もっとも最近のことは分かりませんが。id:blulefox014 さんからいただいたトラックバックからたどっていった先の記事で、やはりこうした構造が指摘されていました。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060308/1141787188

katutekatute 2006/03/10 10:53 通りすがりでです。以前「巨怪伝」を読んだので関連情報を。
電網木村書店 Web無料公開『読売新聞・歴史検証』
(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html

fenestraefenestrae 2006/03/10 10:54 猫屋さん

>「韓国の人たちがたくさんトラックに載せられて連れて行かれた。赤ん坊を抱いた若いお母さんがいてとてもかわいそうだった。あの人たちは帰って来なかった。」
これ、すごく怖いですよ。徒党を組んでの暴力行為からさらに、フランス史のレファレンスでいうと、もっと組織された、一斉狩り rafale 、収容所送り deportation に近いイメージがぱっと浮かぶ。

>論理性なるものを日本語は、
つっこむ前に訂正されていました(笑)。ほんとうは何を問題にしたかったか理解しました。現在と歴史、というか共同体の記憶との関係の問題ですよね。これ私もときどき思うのですが、フランスにいるほうが、ひとつひとつの歴史的な事象や、人間、法律・宣言文、モニュメントの類が自分たちの今の生活に結びついているような気がする。特に近・現代について、特に勉強したわけでもないのに、他人との会話、TVや新聞などに触れているだけで、いつの間に日本史よりもフランス史のほうに詳しくなってしまう。フランス革命やレジスタンスという大物でなくても、ナントの勅令、J’accuse、ジュール・フェリーの学校、第一次大戦の生残り兵士、シモーヌ・ヴェイユのIVG、ミッテランのパンテオン参り、バダンテールの死刑廃止擁護演説、21 avril 2002, etc, etc.▼これがあって今の自分たちがあるという意識が強いというか、それをしつこく教育、悪いことばでいえば洗脳されるように覚えていく(家での文化が公教育やメディアにほぼ回収されている現代では、家の言い伝えはやはり2代どまりです。あとはやはり、メディアも含めた教育)。日本にいるころはそうした意識がかなり希薄だったと自分ではっきり思います。しかし、ほんとうのところは日本でもいい面も悪い面も含めて過去の歴史があって現在があるはずなのに、それがブツブツに切れている。問題は2つあると思います。▼1つは明治維新でできた体制を、神武以来の万世一系の体制(レジーム)に超歴史的に結び付けて、政治をもった歴史性のかわりに、それをとっぱらったありもしない時間制のない伝統で正統化しようとしたこと。それにともなって歴史の事象をすべて皮相的な一回性の事件に置き換える傾向がある。▼2つめは1945年でやはり歴史がリセットされてしまっていて、現在の体制を、過去との連続と断絶との相で考えられない。これはいわゆる皮相的な右翼、左翼の両方のスタンスにも原因があると思います。現在の体制を是として、それを正統化する歴史像を、左右がそれぞれ別の理由で作り得ない。フランスとこのあたりでまったく逆です。もちろんこれは理由があって、この点に関してはフランスよりもドイツのほうが参考になるはずですが▼そして、ここからちょっとあやしい領域にはいっていきますが、江藤淳がやろうとしたことは、案外問題意識としては正しかったかもしれないとときどき思う。ただし歴史修正主義に陥らずに、きちんと現在の体制を、過去からのひとつの進歩と見て、批判とともにあらたな進歩を擁護できる道が、クラシックだがほんとうはあるはずで、残念ながらそれがますます難しくなっている。▼たとえば、先の朝鮮人虐殺の裁判の話や、またちょっと調べたところで出てきた、朝鮮人たちを保護した警察署長の話がある。裁判をやったのかやらなかったのか、一定の手続きはあったということで近代国家の体を建前でもなしていたと教科書ででも少し弁護すればいいし、一方で、いや裁判は不十分だ、しかし今の日本ならこんなことは許されないだろうし、きちんと調査できる意志も力量もあるといえばこれ以上恥の上塗りにならくていいし、後世の手続きにわれわれはすこしは誇りが持てる。保護した人がいるなら、それはいい話だが、しかしほんとうはその人がそのことで、事件のあとに叙勲・顕彰されているようでなければ、個人的な美談だが、それは当時の日本の社会を美化する根拠にはなりえない。戦後すぐにでも叙勲・顕彰されていればいいことだと思うが、そんなことがなければ残念だと認めればいい、そのかわり今からでも、道具化するのではなく、その行動をきちんと評価すればいい...そうした一連の態度決定がないとどうしようもないと思いますが、私はこれは日本文化の特質というよりもやはり日本戦後の歴史的特殊性にあるのではと思っています。▼こんな話延々と続きそうなので、このへんでやめときます。

猫屋猫屋 2006/03/10 17:16 >日本戦後の歴史的特殊性

そうですね。あとバブルがはじけた時点からまたデングリ返った。
同時に、もっと前から(聖徳太子まで戻るべきか、鎌倉あたりなのか分からないんだが)の権力構造のありかた、と“知”の関係のしかたがあると思うんですが、まあだからといって昔の日本に帰ればいいわけではないし、ま、はっきり言えば戦後に関しては米国統治がすんなり行っちゃったってとこがネックなんでしょう。なんで上手く行っちゃったのか。これを考えると、一部の人がやってるように、教科書書き換えればどうにかなるもんでもない、と思うんだけれども。

猫屋猫屋 2006/03/10 17:22 なお、私の祖母が住んでいたところは赤羽の荒川に近い所だった。かなり昔に聞いたはなしなんで、ばあさんが『朝鮮の人』と言ったのか『韓国の人』と子供の私に分かるように言ったのか、はっきりしません。

ぴこりんぴこりん 2006/03/11 21:04 お邪魔します。
fenestraeさんと猫屋さんのコメントを読んで、日本にいたときよりも「もやもや」していた(戦後?明治以降?)の日本人の歴史観について、段々ヴィジョンが見えてきました。まだ論理的に言語化するまで至りませんが。
大学で古代史を専攻し、趣味で中世史を齧っていた者としては、日本のネット発の歴史観のまき散らしが異様というか、ただ顔をそむけたくなるくらいの嫌悪感をもよおすほどになったのは何故か(これは右翼・左翼両イデオロギーに言えると思いますが)、恐いもの見たさというか、これまた趣味の領域ででも学んでいかないことには、海外に住む日本人として重要な気がしています。
ただ、明治維新や2次大戦の敗戦で突如メンタリティが変化したというのも考えにくい。個人的には日本が国家として強固なシステムを確立したのは江戸期からと考えていますので、水戸発の「大日本史」くらいまでさかのぼる方がいいのか、段々きりがなくなりそうですが、まずは軽く見直してみる必要がありそうです。

さよくずれさよくずれ 2006/03/12 09:45 >ガチガチの官僚システムをもった国家主義的な体制として捉えられがちな戦前の日本がむしろ、
本題じゃないですが、『〈癒し〉のナショナリズム』では、「個人主義だけがエゴイズムか」として、1942年といったまさに翼賛のその時期にすら地域エゴと国家エゴがぶつかっていた点にも言及してますね(丸山眞男を紹介してなわけですが)。個人の自己主張は弱かったかもしれないけれど、国家という一つのシステムが全体を統括していたわけでは、ないでしょう。暴力機構に限らず。間接的に国家がそうさせていたという点はあるにせよ。

fenestraefenestrae 2006/03/14 11:05 ぴこりんさん
明治維新や第2次大戦での変化をいったのは、歴史に対する態度の話に関してでした。メンタリティは、変化や維持の検証が難しいですが、一般に政治や制度のレベルでの大変化期を無傷に乗り切り、平和時にじっくり変る、そんな気がします。あてずっぽうですが。また国史や「国民文化」の自己像の形成は常に外国との関係でおこるアイデンティティの形成で考える必要がある。国学、水戸学の形成における蘭学の役割ってどのくらい研究されているのか、研究があったら読んでみたいです。それから「日本文化」は1930年代の前半がひとつの節目のような気がします。『陰翳礼賛』『風土の研究』、このあたりに作られたものがまだずっと続いている。ラクー=ラバルトとナンシーの Le Mythe Nazi を以前に読んで、そこで書かれているフランスとの関係でのドイツ人のアイデンティティ形成の過程がひとごとでないよう気がずっとしています。

さよくずれさん
ご指摘、ありがとうございます。日本のジャコビニズムと地域主義というのは、想像以上にかなり強い緊張関係にあるものではないかとなるほど思いました。地域利益誘導政治なんか典型的で、本音はだれも日本なんか気にしていませんものね。それにしても個人の立場からすると、地域・ 中間団体圧力+(前者との対立関係で強くなる)国家圧力の二つのプレッシャーを蒙るとしたらこれはかなり逃げ場のないつらいものになります。

猫屋猫屋 2006/03/15 11:12 よくよく考えると、『朝鮮人が井戸に毒投げてる』という噂の根源はどこにあったかの検証は別としても、それをフィードバックしていった人々はそれを事実として信じていた(あるいは信じたかった)可能性が強いんではないか、と思います。要するに人助けをしてるつもりだったかもしれない。第二次大戦中のフランスでのナチス・コラボや日本での自警団にも見られたし、ルアンダでもそうだったかもしれない。別レベルですがイラク戦に突っ込もうとする時の米国世論もそうだったのかもしれません。まず正確な判断のための正確な情報の不足があり、ついで自己保存反応とそれに対する正当性の必要が重なる。あとは恐怖が全てを可能にしてしまう。

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