夢の守り人

上橋菜穂子


OceanさんとS.E.O.さんが勧めてくれたおかげで読み始めることができた。一気に三冊読み通した。これは面白い。とてもていねいで、作に溺れることなく読者をひっぱっていってくれる良いおはなしだ。この手の国産ファンタジーで、これほど良くできたのは知らない。希有な作品だと思う。私の先入観を裏切ってくれて、本当に良かった。

最初に悪い先入観を持たせたのはタイトルだった。『精霊の守り人』?、スーパーファンタジー文庫か?「守り人」は「もりびと」と読むのだが、それもかなり臭い。それに表紙絵の甘いこと。『もののけ姫』の二番煎じか?中を見てみて、挿し絵のベタなこと。かろうじてアニメ絵や少女漫画ではないが、あからさまに作中のシーンを描いた挿し絵に、これはいかんと感じた。

それでも、話は別物だからと、中を読み始めてみて、最初にひっかかったのが、ネーミングの軽さだ。バルサ、新ヨゴ皇国(おうこく)、チャダム、と来た。まったく好みでない。『風の谷のナウシカ』に妙に似ている。ハードボイルド風な女主人公にも全く新味を感じなかった。そんなのは宮崎アニメでいくらでも出てくる。最初のシーンで、第二皇子の乗った牛車が橋で暴れて、皇子が川に流され、それを主人公がかろうじて助ける。ここまで読んで、あぁこれは期待できないな、と思った。

もしこの飛行船通信で勧められなければ二度とそれ以上先には行かなかっただろう。

読み終わって自分に一番ぴったり来る印象は、時代劇、特に池波正太郎に近い。三冊読んだが、イメージとしての新しさ、新しい世界観といったものはほぼ皆無だ。それでも、これはただエンターテインメントではなくて、ちゃんとファンタジーになっている。それが驚きだ。いわばメタな驚きを与えてくれた作品と言える。古い革袋を丁寧に繕ったら、以前とは違う新しい革袋ができたようなものだ。こういう方法もあるのか。

時代劇とは、江戸時代もしくはその前後の良く知られた時代を舞台に、いくつかのポイントを押さえて描く、大衆小説のジャンルだ。特に、池波正太郎のポイントは、人情話、剣劇、ハードボイルドそして旨い料理につきる。このバルサのシリーズはどれをとってもこのポイントを適切に押さえている。時代劇では新しい要素は基本的に不要である。逆に新しい要素が容易には出てこないからこそ、登場人物たちの呻吟が意味を持つ。安心できる具体性、これが重要だ。

読み始めて、まず興味を持ったのは、登場人物の思考がとても論理的、もしくは筋が通っているということだ。それを最初に感じたのは「二の妃」と「バルサ」の会話である。この駆け引きの率直で雰囲気に流されていないことに好感を持った。それぞれの人物がそれぞれの過去、スタンスで会話をする。こういうシナリオを児童文学の世界で描ける人は日本には少ない。一般に雰囲気を描くことに執着するあまり、登場人物が作者の分身、もしくはステロタイプにすぎなくなってしまう。しかしこういう描き分けは時代劇では基本技能である。身分や職業、時には捕縛するものとされる者の立場の違いが、生き方を規定し、しゃべり方、考え方を変えて行く、これが基本だ。町方には町方の論理、盗人には盗人の論理がある。これが作品のリアリティをつくりだし、世界の広がりを生み出す。

次に好感を持ったのは、市場で買うおいしそうな東南アジア系ファストフードだ。どういう料理なのかが具体的に描かれていて、実にうまそうだ。作者はかなりの食いしん坊と見た。そしてこれも日本のファンタジー作品では、ないがしろにされてきた要素である。さらに、実は私が自分でおはなしを書くときに一番気をつけたいと思っていたポイントが料理だ。このあたりから、わたしは作者の独自性が何にあるのかをおぼろげに感じ始めていた。

そして、逃亡するバルサの逃げるプロフェッショナリズムと、皇帝の影の力である特殊部隊の無駄のない追跡のプロフェッショナリズムは、池波の傑作『雲霧仁左衛門』すら彷彿とさせる。時間を並行させて場面展開しつつ、やがてこの二つが、街の喧噪から離れた田園地帯で衝突する。この剣劇シーンはぜひ、多くの時代劇ファン、そしてもちろんのことファンタジーファンに読んでもらいたいものだ。具体的で手抜きがなく、素早く、そして容赦ない。黒澤明の『用心棒』を思い出す。

ここまで読んでこれらシリーズの評価は決まったようなものだ。後は楽しませてもらうだけ。三巻の終わりまでたっぷり楽しませてもらった。なお三巻目は色んな意味で中途半端に作られており、続編があるのではないかと思う。

さて、この作者が国内のファンタジー作家として珍しい点は、夢よりも具体的な生活に立脚している点である。一巻ではそれは比較的直裁に描かれ、二巻ではいくぶん境界に近づき、三巻で直接対決に持ち込んでいる。作品の安定という意味では、一巻は安定に過ぎるためエンターテインメントとしてはおもしろいがファンタジーとして弱い。三巻は不安定に過ぎており、エンターテインメントとして破錠がある。その意味で二巻はもっともバランスがとれており、作者の力量がいかんなく発揮されていると思う。

「夢」をとるか「生活の実感」をとるか、もちろんこれは二者択一ではない。しかしこれまでの日本のファンタジー作家は、主に前者に重きを置いてきた。いかに「夢」を美しく魅力あるものとして描くか。ファンタジーは逃避の文学であり、夢を肯定する文学でもある。その意味で、このバルサのシリーズは、多くの宮崎アニメと同じく、「生活の実感」を重視するファンタジーという逆説を描いている、といえる。そして作者のエンターテインメント作家としての技能と、学者としての知識がこれらを裏付けし、ある部分で確実に宮崎駿を越えている。

商業的に言えば、ここでスタジオジブリ宮崎駿を使わない手はない、そして実際に使われており商業的に成功しているようなのだが、それは作品のイメージを固定化してしまう、実に残念な方法である。書籍のイメージとしては、ル・グインゲド戦記シリーズが最も近い。もし私ならば「うまい料理、プロの剣劇池波正太郎の構成力と粋とを持ったはじめてのハイファンタジー作家」とでもコピーするだろうか。


2003/3/18
few01