銀河の魚

たむらしげる


いずれも、たむらしげるの絵本をアニメ化したものだ。

『クジラの跳躍』は時間がゆっくり流れるガラスの海で、クジラが丸1日かけてジャンプし、また丸1日かかえて海へ帰るという話だ。

『銀河の魚』は、星を食べてしまう巨大な魚を退治する話だ。世界は水の中の街と、それを覆う水の世界の上に住むユーリら主人公達という二層構造になっている。ユーリらが船で移動するところが銀河と呼ばれている。

どちらも丁寧にアニメ化してあって好感をもった。コンピュータグラフィックスが使われているのだが、違和感なく、上手に折り込まれていて関心した。

その上で絵本では気付かなかった、たむらしげるの世界の新しい側面と、絵本の時から気になっていた古い側面を確認することになった。

新しい側面とは、時間の流れである。

絵本では時間配分は読者にゆだねられており、たむらがどういう時間の流れをイメージしてコマ割りをしているのかはわからない。アニメは強制的に作者の時間感覚をおしつけるもので、そのために今まで知らなかった感覚を知ることができる。その発見は『クジラの跳躍』の方に著しい。

『クジラの跳躍』は、最初に暗い海を行く豪華客船から海を眺める少年の視点で描かれる。クジラが跳躍する前の一瞬の会話だ。そしてすぐに、海や客船が凍り付いたように動かない時間の流れの中にいる老人の視点に移る。老人は猫を連れて、このガラスの海をうろうろしている。食事のために魚を集めている。その老人がクジラが跳躍する兆候を発見する。

ここでは二つの時間の流れ方の違う世界が同じ場所に重なって存在する。速く時間の流れる方(老人の世界)には、ゆっくり流れる方は見えるが、遅く流れる方の少年やクジラに、老人の世界が見えているかどうかはわからない。

この時間の流れの不連続性というルールは、最後まできっちりと描かれていて、それが無情ながら登場人物たちの心理を納得させる根拠になっている。速く時間の流れる方の世界の人たちには、ストップモーションのように悲しみに向かって、終わりに向かって動いてゆく、遅く流れる世界が痛々しく見えているが、何もすることができない。ただ見ているしかない。

その意味から『クジラの跳躍』はかろうじてファンタジーになりえているのではないかと思う。ただ、それが、たむら氏の望んだことだったのかどうかはわからない。


『銀河の魚』は原作の絵本を忠実にアニメ化している。映像は大変丁寧に美しく作られており、音や声が豪華で良い感じだ。ここでも、ユーリたちの住む天上の銀河に浮かぶ島々の世界と、水の中の街とは重なっているが別の世界だ。水の中の街の生活は描かれていないが、時間の遅い世界同様に普通に生活が営まれているのだろうと思われる。

ただこちらを見ると、作者の古い側面を再確認することになる。彼は、自分の気に入った要素をちりばめるのが好きなのだ。ここは彼の世界、彼の庭である。庭のルールを決めているのは、たむらしげる本人である。したがって予定調和であろうと、伏線のない解決策であろうと、たむら氏がうなづけば許される世界である。

それが作品に「ゆるさ」を与える。緊張感を失わせる。どれほど登場人物が苦境に立とうとも、作者の一指で助かってしまう世界になっている。アイデア豊富で、イメージが豊かな世界ではあるが、世界のルールに対して、彼はとても甘い。

つまりは狭義のファンタジーの要件を満たしていない。

何故、絵空事の小説に我々は手に汗を握るのか。不安になったり、どきどきしたり、逆に達成の喜びに震えるのか。それは現実社会を扱った小説ならば、物理法則など、突然主人公が空を飛ぶことはない、というようなルールが守られていることを信じているからだ。現実社会からはずれたSFやファンタジーの分野では、作中に提示されたルールが維持されていることを読者が信じられるように構成されているからだ。

ファンタジーでは、魔法や、不思議な道具などの現実にはありえない方法が出てくる。それでもワクワクできるのは何故だろう。

私はたむらしげるの作品が嫌いではない。しかし、彼はたぶん、ファンタジーの堅苦しさが嫌いなのだと思う。


2003/4/16
few01