脳内現象 はいかに創られるか

茂木健一郎
脳内現象 (NHKブックス)


『科学の方法』(中谷宇吉郎)に次の一節が出てくる。

また人間の自意識の問題などに、自然科学的な考え方を入れることも、あまり役に立ちそうもない、少なくとも場ちがいなものの考え方であると思われる。自意識のような問題は、これは個の問題である。

この茂木氏(SONY CSL)の本は、この意識の問題に真っ正面から取り組んでいる。扱う問題は永井氏の『私・今・そして神』と大きく重なる。


茂木氏の本に、哲学的ゾンビという言葉が出てくる。

心脳問題の議論において、外見は私たち人間と区別がつかないが、一切の意識を持たないような仮想的存在を考える事がある。そのような存在は、まるで人間のように喜び悲しみ、言葉を話すように見える。表情も身振りも、会話も、客観的に観察される振る舞いは人間そのものだ。ただ、この存在は、一切、意識や主観的体験というものを持たないのである。

なぜ、私は哲学的ゾンビではなく、意識を持っているのか。意識とは何か、そして、それはなぜ、私にあるのか、いや、私がここにあるとは何か。

永井氏と違って、茂木氏は脳科学の言葉を使って、様々な方向から検討を進めている。しかし中谷氏の言葉を引用するまでもなく、問題そのものが、今の科学の基本的な方法論にそぐわないため容易ではない。なんらかのパラダイムシフトが必要ということが繰り返し語られている。

私には、永井氏が伸び伸びと楽しんで語っているのに対して、茂木氏が苦しみながら、躓きながら語っているように思える。しかし科学的方法論の内から発言することには、それ相応の意味があると思う。

意識の役割と起源が、機能的に明らかになれば、茂木氏の最初の疑問はまず解決だろう。まぁ、これは不可能に近い、ただ、それに微かに近づきつつある、というのが茂木氏の状況だと思える。

私の理解によると、以下のようになる。

「私」というのは、人間が世界に働きかける際に、クオリアを得るための、基準となる不変項であり、クオリアを評価するメタ認知である。

しかしもし、機能的に明らかになったとしても、それでも中谷氏を通して、永井氏に繋がる、「私」が一人しかいないという問題、私は、この私でしかないという、問題へは接近できない。そして、結局は茂木氏の本当の疑問も、これだ。私には茂木氏の現状は、この問題には、ちっとも近づいていないのではないかと思う。