Hatena::ブログ(Diary)

ぶんかぶんか付録

ぶんかぶんか」および「文系受験生の邪魔をする本棚」と連携しています。ついった使用中。

 

2016-12-03

日本人の階層意識 (講談社選書メチエ)

日本人の階層意識 (講談社選書メチエ)

数土直紀『日本人の階層意識』、取り上げる予定です。

自明すぎるためだと思うがこの本には書かれていない事柄があり、それを早押しクイズと準拠集団の最初のほうの二段落ほどに書いた。

2016-11-25

準備待想にも書くことがあります。

2016-11-08

【新共通テスト記述式】大学側が採点する方法に反対する-特に採点の観点から-:rochejacmonmoの日記でリンクし引用し言及評価していただいた。こんなことは生まれて初めてと言って良いくらいのものであり、ありがたいという思いがする。自分には及びもつかないほど丁寧な検討をしている記事である。とは言え、2016-8-27の記事であるにもかかわらず、ここでのリンクを踏んで私のダイアリーに訪問した人は今回が初めてである。多くの人はブログ等をもう真剣に読んだりしていないのだろうな、と思う。今は個人的事情でこれ以上読んだり書いたりする気になれなくて、著者さんには申し訳ない。

2016-11-06

言語哲学大全2 意味と様相(上)

言語哲学大全2 意味と様相(上)

飯田隆言語哲学大全2』より、引用。思いついたら適宜書き足したり修正したりするかもです。

p102-104。

この論法に対する強力な反論のひとつは、クレイグのものである。直示的定義の理解にとって決定的な役割を果たすものは、学習者の経験ではなく、学習者の信念である。たとえば、家事というものにまったくうとい誰かに「冷蔵庫」の直示的定義を与えるとする。このとき、たまたま、その学習者が、目の前に示されたものは、自動的に皿を洗う機械であるという信念をもっているとすれば、実物の冷蔵庫を前にしていようが、「れいぞうこ」という語は、自動皿洗い機を指すものとして理解されることになろう。つまり、直示的定義の理解は、示された対象に関してひとがもつ経験によってと言うよりは、その対象についてひとがもつ信念によって決定されるのである。たしかに、多くの場合には、示された対象に関しての経験がその対象についての信念を決定するとしても、両者が乖離する可能性を無視することはできない。この比較的単純な論点を、クレイグは次のように拡張する。すなわち、いまもし、学習者の信念の中に、可能な経験を越えるようなものが含まれているとしたならば、学習者が直示的定義によって理解する文の中には、学習者のそうした信念を介して理解されることによって、その意味が、可能な検証を越え出るようなものが存在しうる。問題は、こうした場合が生じないことを、どうやって言えるかである。

単に、こうした場合は生じない、と言うことは、文の意味はその検証条件によって与えられると仮定することと等しい。実際、直示的定義に際して用いられるべき言語的資源がある程度の豊富さをもつものでなくてはならない、という上の指摘からも、この言語的資源が、検証の可能性を越え出るような文を構成するに足りるということは、十分に考えられるように見える。ここでも、その言語的資源に対して、論点先取に陥ることなく、何らかの制限を加えることは、どのようにすれば可能だろうか。

クレイグの議論に答えるひとつの道は、直示的定義の際に決定的な役割を果たすとされる学習者の信念がどのように獲得されたのか、と問うことから始めることであろう。このような信念は、それを表現するための言語的手段を学習者がもっているかどうかとは、まったく独立に獲得できる、としてよいだろうか。もしもこの問いに対して否定的に答えることができれば、学習者のもつ信念は、かれがそれを表現するために利用できる言語的手段と切り離して考えることはできないことになる。そして、とりわけ、直示的定義に用いられる文を理解するために必要な言語的資源は、直示的定義の了解にかかわる学習者の信念を表現できるだけの豊富さをもっていなくてはならない。次の段階は、このような言語的資源が学習者のもつ経験と何らかの緊密な関連性をもたなければ、その習得は不可能であると論ずることであろう。おそらく、その際に必要となることは、言語的資源を用いて何かをするという行動様式を身につけるということのなかに、学習者の経験と言語的資源とのあいだの関連を見いだすことであろう。問題は、ここで見いだされる関連が、検証主義を擁護するに必要なだけの「緊密性」をもつ、と結論できるかどうかである。

「検証主義への擁護/批判」というコンテクストをいったん除去してみると、科学的な概念習得の心理学的仮説を検証しているような文章に見える。それでいいのか。たぶん良くない。哲学というのは、「100か0か」か「100か100未満か」にしか関心が無いからだ。「90なのか10なのか」という話題にはいっさいかかわらない。しかも「たまたま100である」という事柄にも関心が消極的にしか無い。「三平方の定理が100%正しいのは必然的である」のに対して「万有引力の法則が正しいのはたんなる偶然に過ぎない」というわけであり、その「偶然100%正しいに過ぎない」ものには関心が少ししか無い。ここでの議論もだから、「偶然100%成立しているに過ぎない」心理学的法則に関心が寄せられているわけではない。もちろん「90%正しいのか40%しか正しくないのか」とかいう話に関心はいっそう無い。

またあるいは、「可能な経験を越えるような学習者の信念」ということで何を想定すればいいのかな。「万物は流転する」とか「どんな物事にも原因が必ず存在する」「自然法則は数学的にシンプルな形を必ずしている」とかそういった信念を想定するといいのかな。ひとつだけ言えるとしたらたとえば、想定可能な学習者の信念の候補として「冷蔵庫は家電である」というのが挙げられる。これは「必然的真理」とか「規約による真理」ではなく、それ自体がたんなる「経験的事実」である、ということかな。

p202-203。

まず、個人がある概念を理解しているということについて言えば、さし当たってそのことを証拠立てると考えられる要因として、少なくとも、次の三つが挙げられよう。第一に、その概念が適用できる事例をいくつか挙げることができること。第二に、その概念を他の概念との関連で正しく用いることができること。第三に、これまで出会わなかったようなケースに関しても、その概念の適用に関して、(1)問題なく適用できる、(2)問題なく適用されない、(3)適用できるかどうかが問題となる、という三通りのどれに当てはまるかを判断できること。もちろん。こうした個人の理解は、ひとつの社会のなかでその概念が理解されていることを前提する。ある概念がひとつの社会のなかで理解されていると判断する材料となるものも、同様に、三つ挙げることができる。第一に、その概念の典型適用事例として挙げられるものについての、ある程度の一致。第二に、その概念を他の概念との関連で用いる仕方についての、ある程度の一致。第三に、社会全体がこれまでに出会ったことのないケースについても、概念の適用が、ある程度一致すること。つまり、個人の場合も、社会全体の場合も、ある概念が理解されていると判断するためには、その概念の明示的定義は必要とならないのである。

この条件だと社会のなかで理解されていると言い難い概念はいろいろある。というか、むしろ典型事例のある程度の不一致や、他の概念との関連での用い方のある程度の不一致があり、その不一致が理解されているかどうかが、社会のなかで理解されているかどうかに直結している場合があるように思う。たとえば「流れに棹差す」はもはや辞書に載っているような定義で理解している人こそが正しく理解しているのである、というわけではまったくない。むしろ、辞書の規定や用例も知っており、かつ、辞書とは排他的な理解をしている人が多数派になっている、ということも知っている状態でないと、「流れに掉さす」という語を理解しているとは言えないのではないかと強く思う。で、あと個人の場合であっても典型的な事例を挙げることができることが要因に挙げられて良い。そして、例を挙げることはあまりできないが、他人が挙げた例をみて判断できるだけだったり「ああ、そうそう、それそれ」と同意できるだけでも、要因としてはOKである側に入るだろう。

2016-10-24

フェイスブックが「活動」の役に立たないと思う理由

フェイスブックは、営利企業や社会事業言論活動などの目的的かつ継続的な活動のためにはあまり役立たないツールである。その主な理由は、ユーザの多くは自分のホームにある「ニュースフィード」しか見ていないことにある。「ニュースフィード」しか見ていないというのは、次の三つを含意する。一つめ。ユーザの多くは「個人のプロフィールページ(個人ページのタイムライン・ウォール)」や「Facebookページ」を見ていない。つまりユーザの多くは「ページ」全般をそもそも見ていない。二つめ。ホームにある「ニュースフィード」には、たとえばそのユーザの「友達」の投稿がすべて表示されるわけではない。あるいは自分の投稿が、自分の「友達」すべての「ニュースフィード」に表示されるわけではない。三つめ。これは推測だがユーザの多くは、「ブログやサイトへのリンク」をする記事を見たとき、そのリンク先のページをめったに参照していない。これにあとプラスして四つめ。友達以外からのメッセージがごみ箱送りになっていることに気づいていないユーザが確実に存在する。以上四点。

一つめの点はたとえば次のウェブページで主張されている。★友達はあなたの投稿を見に来ない! 「トップに固定」効果を勘違いした私でである。このことの帰結は大別して2つある。

1つは、情報の発信者が知ってほしい順番でユーザが情報を受け取るわけでは全くない、ということである。どういうことか。通常、発信者は、まず基本的な情報や前提を知ってもらい、それを踏まえたうえで徐々に重要度の落ちる活動や最新記事などを受け取ってほしい、と思うはずだ。要するに重要な順に情報を受け取ってほしいと思うはずだ。しかしこの原則が可能なのは「ページ」においてのみであって、「ニュースフィード」では真逆になる。つまりユーザは最新情報しか見ない。最新情報からしか見ない、のではなく、そもそも最新情報しか見ないのである。情報の発信者が、重要な順に情報を知ってもらいたい場合にコントロール可能なのは「ページ」だけであり、そこはユーザの多くは見ないからである。

もう1つは、ユーザは記事を原則としてそもそも「一回限り」しか見ないということだ。というのは、「ニュースフィード」に表示された記事はそのまま他の記事に埋もれて、少しずつ下の方に沈んでいくだけだからだ。発信者が記事を編集して内容に変更があっても、再び最上部に上がるわけでもおそらくない。反面、「いいね!」やコメントがつくと、そのことによって「ニュースフィード」の最上部に再度上がることはありうるが、発信者がそれをコントロールできるわけではあまりない。これが「ページ」で閲覧される記事との決定的な差である。つまり「ページ」に書かれた記事なら何度でも読み返すことができるし、そうしたほうが良いものが記事として書かれがちだが、実際にはフェイスブック上の記事は読み返されることなく終わっているわけだ。

二つめの点は、★「最新情報」に切り替えてもFBの投稿すべては見られない。でも、試す価値ある機能だ!!★Facebookのリーチ数、届くのはあなたの想像よりずっと少ない! 1というウェブページに参考になる見解が示されている。自分の「ニュースフィード」に自分がフォローしているページの投稿がすべて表示されるわけではない、ということが、あるいは、自分をフォローしているすべての人の「ニュースフィード」に自分の投稿が表示されるわけではない、ということがまず一つ重要だ。だがもう一つ重要なのは、記事の送り手の行動ではなく、受け手の行動によってこそ表示頻度等が変わる、ということである。たとえば私の「ニュースフィード」への表示頻度は、私の「友達」のアクティビティによって大きく変わる。反面、送り手の行動によっては変わらない。特に「記事の編集」によっては変わらない。むろん、送り手もまた何らかのアクティビティを自分の記事に対して示せばいいわけだが、そこには限度がある。フェイスブックが現実的な活動のために向かない理由の一つがここにある。つまり、確実な連絡ということにフェイスブックはとにかく向かないのだ。確実な連絡のためには「ニュースフィード」ではなく「ページ」で記事を参照してもらわなければならないが、そういうユーザは稀少だからである。

三つめの、記事のリンク先のページが参照されていない、というのは私の推測ではあるが、以下のページにも同じ推測をやや断定的に述べた箇所がある。★ニュースフィードで友達にみっともない姿、見せていませんか?! FBの基本を押さえようでは

私はしばしばブログへの誘導記事を書くが、総じて友達の反応はよくない。

せっかくニュースフィード友達の投稿)を読んでいるというのに、そこから連れ出して「俺のを読んでよ」と言っているのも同然だから、冷たくされて当然だ。

と述べられている。もしそのような事態が事実であるのなら、フェイスブックでの記事は早い話リンクする行為と合わないのだ、ということにもなる。仮にもし、ユーザがネット上の「ページ」を閲覧しているときなら同じことには比較的ならないだろう。しかしフェイスブックの場合、多くのユーザは「ページ」を閲覧しているのではなく、あくまで「ニュースフィード」のみを閲覧している。なのでそのことがおそらく原因となって、フェイスブック記事とリンク行為との相性の悪さが生まれていると推察できる。どのみちフェイスブックの記事では引用タグも使えないし、記事の途中にURLを挿入することもやりやすくない。すなわち、フェイスブックはa要素によるいわゆるリンクのためにあるのではない、と思った方が良いのだ。これもフェイスブックが特に言論発信や情報提供を中心とした諸活動と相性が悪い理由の一つである。ちなみにリンク先のこの記事は、「友達のニュースフィードにどう表示されるかを意識すること」を「社会性がある」と呼び、「自分の個人プロフィールページを見に来る読者を意識すること」を「社会性」のうちにまったくカウントしていないも同然なわけであり、そのことが自明視されているというとても気分の悪い記事ではある。しかしフェイスブックにおいては「ページ」を中心に考えること自体が「社会性が無い」と見なされうるという、そういう感覚を知ったことは勉強になりはした。そういうユーザがほとんどいないのだから、そういう、存在しないユーザを想定する行為は「社会性が無い」というわけなのだろう。

四つめ。友達以外からのメッセージがごみ箱送りというのは、以下の記事に指摘がある。Facebookのメッセンジャーの仕様が変わって知らない人からのメッセージはほぼ発見不可能にである。ここに書かれていることが事実なら、「友達申請のために非友達にメッセージを送る」ことが不確実であることをまずは意味するだろう。それ自体も自己破壊的な話ではある。しかし、友達申請に限らず、メッセージ機能が見かけだけ機能するように見せておいて友達以外には実際には機能しないのなら、メッセージ機能を用いた活動が役に立たないことを意味する。連絡なども確実には行なえないことになる。

以上四点が、フェイスブックが目的的かつ継続的な諸活動に向かないと感じる理由である。これにあと一つ付け加える。以上の四点の多くは、私はフェイスブックユーザから直接教わることが無かった事柄だ。そういうことに関心が無いのか、知らないのか、不親切なのかはわからない。私は一年未満のフェイスブックユーザであるが、他のユーザが大して当てにならないことに驚いたものだ。ともかく、フェイスブックというメディアはそれにふさわしいようなユーザによってこそ使われている、としか言いようがない。だから(と言いながら飛躍するが)、フェイスブックやそのメッセンジャーではなく、ウェブサイトとメールを中心とした「フェイスブック以前の時代」のツールこそが、現実的な諸活動に向いているツールなのである、と思うのだ。そしてこの記事自体も、フェイスブックに投稿などして発表してもしようがないので、はてなで書くことにしたというわけなのだ。