三崎教会 週報 12/18
2016年 12 月 18 日 週 報 No.51
日本キリスト教団 三 崎 教 会
待降節第4主日 主 日 礼 拝 順 序 (午前10時30分)
司会 松本設子 奏楽 大川昌美
前奏
招詞 詩編 111:4〜6 (旧) P.953
讃美歌 24(たたえよ、主の民) 一同
主 の 祈 り
交読詩編 63
聖 書 ヨハネによる福音書 6:41〜59 (新)P.176
祈 祷
讃美歌 255(生けるものすべて) 一同
信仰告白
説教 「主イエスの体と血を授かる」 進宏一伝道師
祈 祷
讃 美 歌 256(まぶねのかたえに)1〜3 一同
献金
頌栄 25(父・子・聖霊に) 一同
祝 祷
後 奏 (礼拝当番) (今週) (次週)
◎ 教会学校礼拝(午前9時30分)
「救い主の誕生」 ヨハネ1:10〜13 ルカ 2:1〜7
主を待ち望むアドベント(242) みつかいくだる(25)
▲先週の集会 男 女 計 礼 拝 6 35 41
教会学校 1 1 (教師 ・父母6 )
(教会住所)三浦市城山町4−4
牧師(代務)生野隆彦 伝道師 進 宏一
(電話・FAX) 046-881-7923 (e-mail) fgmfg320@ybb.ne.jp
(聖句) わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内に
おり、わたしもまたいつもその人の内にいる。ヨハネによる福音書6:56
(今日の言葉) 主イエスの肉を食べ血を飲むという話を聞くと、そんなこ
とが出来るはずがない、と言って弟子の多くが、離れ去りました。しかし、
信じる者は、聖餐式に参加すること、そして主の十字架と復活を自分の
問題とすることで、主の肉を食べ、血を飲むことが出来ると思います。主
イエスの肉と血によって、主がわたしたちの体の内にいて、私たちの体
と心を温め、力を与えて下さるはずです。
(報告)
○ 裏面の11月会計報告をご覧ください。
○ 三崎教会62周年記念献金は、72口、458,500円でした。感謝して
受領いたします。
待降節 (アドベント) 11月27日(日)〜12月24日(土)
≪クリスマス集会のご案内≫
★ クリスマス主日礼拝 12月25日(日) 午前10:30
「主の降誕日―クリスマス」 生野隆彦牧師
クリスマス祝会 愛餐会 C・Sクリスマス会 12月25日(日)礼拝後
クリスマス昼食パーティーにご家族一緒に参加下さい。
会費は大人300円、子供200円です。
★ クリスマス燭火礼拝 12月24日(土) 夕6:00〜7:00
「愛あるところに神あり」 生野隆彦牧師
―みんなで聞こうクリスマスのお話
☆クリスマスは、教会でご一緒に過ごしましょう!
◎ 洗礼のすすめ
「あなたたちが、心変わりして主から離れないために」(申命記11:16)
クリスマスに洗礼式を行います。洗礼を受ける方はお申し出下さい。
◎ クリスマス献金のお願い! 今年もクリスマスのめぐみを感謝し、クリスマス献金をお願いいたします。
次週礼拝予告 12月 25日(日) 午前10時30分
説教題 「主の降誕日―クリスマス」 生野隆彦牧師
聖 書 イザヤ52:7〜10 ヘブライ1:1〜8 ヨハネ 1:1〜18
讃美歌 24 231(久しく待ちにし) 265(天なる神には) 29
今日の聖書箇所の前の段落で、主イエスが、私は天から降ってきた、命のパンである。私の許に来る者は、決して飢えることも渇くこともない、と言われました。それを聞いたユダヤの人々は、大きな声ではなく、呟き始めたと書かれています。
私達もよく、呟きます。不満はありますが、大っぴらに言えないので、ぶつぶつ言います。主イエスの言われることが、聖書の深い知識に根ざし、権威をもって語られていることを人々は認めています。しかし、それでも受け入れられない理由が、人々にはあります。だから呟きます。彼らは言いました。イエスは、自分は天から降ってきたパンだ、と言うが、彼はヨセフとマリアの息子ではないか、一緒に仕事をした仲間ではないか、何が天から降って来ただ、気が変になったのではないか。
人々のこの反応は当然で、私達でも同じす。20年位前に新興宗教を始めた人で、多くの著作を販売し、誰とは申し上げられませんが、自ら神仏の生まれ変わりだと言う人がいます。私は、当時のユダヤの人々と同じように、その人が、気が変になったのではないかと、正直思ってしまいます。しかし本当に神仏の生まれ変わりかも知れません。今結論を出せるものではなく、それは長い時間の中で、答えが与えられるものです。聖書の中では、良い木は良い実を結び、悪い実を結ぶ事はない。悪い木は悪い実を結び、良い実を結ぶ事は出来ないと言われます。本当に神仏の生まれ変わりであれば、今後も百年単位で信じ継がれて行くでしょう。主イエスの場合、最初の一歩は、ユダヤの人々の反発の中で、始まりました。しかし2千年経った今、主イエスの教えは、信じる者によって、引き継がれています。
今日の箇所で、主イエスは更に、私達に与える命のパンとは、主イエス自身の肉であると言われました。主イエスは言われました。私の肉を食べ、血を飲まなければ、あなた達の内に命はない。私の肉を食べ、血を飲めば、私はいつもあなた達の内にいる。これを聞いたユダヤの人々は、どうやって、主イエスは自分の肉を人々に食べさせるのか、酷い話だと言い始めました。私達でも同じ事を思うはずです。
実際、主イエスの肉を食べ、血を飲む事などが出来るでしょうか。直ぐ思い出されるのは、聖餐式です。聖餐式では、パンを主の体として食べ、葡萄酒を主の血として飲みます。聖餐式は、マタイ26章やルカ22章に書かれている、主イエスと弟子達の、最後の晩餐に基いています。主はパンを裂き、これはあなた方の為に与えられる私の体である。私の記念として、取って食べなさいと言われました。同様に、葡萄酒を杯に注いで、これは、罪が赦されるように、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。この杯から飲みなさいと言われました。
最後の晩餐の時、弟子達は、これから起こる、主イエスの十字架を知る由もありません。しかし裂かれたパンが、十字架に掛けられた主の体であり、杯に注がれた葡萄酒が、十字架で流された主の血である事は明らかです。ですから私達が主イエスの肉を食べ、血を飲むと言えば、血と肉を持つ人間となった神、主イエスの十字架の苦難、そしてその後の復活を、私達が体全体で受け入れ、信じる事に他なりません。実際には主の肉を食べ、血を飲む事は出来ませんので、その代わりの手段として、パンと葡萄酒が用いられます。
私達が常日頃、肉を食べ、もしかしたら忘年会でスッポンの血を飲まれた方がいるかも知れません。私の記憶違いかも知れませんが、20代の頃に飲んだスッポンの血は、泡盛やウォッカと言った強い酒のような、舌がピリピリする刺激のあるものだった、という記憶があります。美味しい肉を食べ、スッポンの血を飲んだ人は、体の中でそれが、熱に変わって体が温まったはずです。一方、信じる決断をして、聖餐式の時に、裂かれたパン、杯の葡萄酒を頂いた者。そして、主の十字架の犠牲を自分の事と考え、主イエスの肉を食べ、血を飲んだ者。食べ物、飲物が体に入ってエネルギーに変わるのと同じ様に、私達の内に主イエスが入って下さると言われます。先の話ではなく、今この世に生きている私達の内に、主がいて下さると言われます。ですから、主イエスの体を食べ、血を飲ませて頂いている、と信じる者は、辛い日々でも、体が温かくなり、力が与えらていれるはずです。
一方で、ユダヤの人々は、主イエスの肉を食べ、血を飲むと聞いて、酷い話だ、馬鹿馬鹿しいと言って反発し、多くの弟子達でさえ、離れて行きました。人間を基準に考えれば、あり得ない話ですから、信じられないのも無理はありません。しかし信じる決断をした者は、あり得ないと考えるのではなく、何を意味しているのか考えて行きます。この世的にはあり得ないのなら、この世以外に、目に見えない、何かがあると考えるしかありません。
主イエスの肉を食べ、血を飲む事が実行出来るのは、一つは、主の十字架の体と血を信じ受け入れる時、そして、もう一つは、パンを食べ、葡萄酒を飲む聖餐式に参加する時です。主の肉を食べ血を飲んだ結果として、私達の体の内に、主イエスがいて下さいます。何故そうなるのか、理由は分かりません。想像すら出来ません。信じるしかない私達に、主イエスはどのように答えて下さるのでしょうか。
63節から主イエスの答えが始まります。主イエスが与えて下さる命にとって、肉体は何の役にも立たないと言われます。心臓が動き、脳が機能している状態が肉体の命です。しかし主イエスが与えるもう一つの命には、肉体は関係ないと言われます。誰でも、一番大切と思っている肉体の命を持っていますが、信じる者は更に、主イエスに与えられた命を持っている事になります。
家族のクリスマスでの肉料理や、忘年会でのスッポンの血は、心と体を暖めてくれたはずです。それでも、楽しい宴会は何れ終わります。しかし主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲んだ、信じる者は、肉と血がもう一つの命となって、なおかつ、主イエスが体の内にいて下さると言われます。食べ物、飲み物は暫く経てば、空腹になりますが、主イエスの体と血は、私達の体の中で、消える事のない暖かみになります。今、多くの方が、腰や背中、体の外側にカイロを貼っています。この礼拝堂の中に、少なくとも10枚はあると思います。体の外に貼るカイロは、精々一日しか持ちません。しかし、信じる者が体の内に入れた、主イエスの肉と血、そして体の内にいて下さる、主イエスの暖かみは、この世でずっと、消える事はないと言われます。
信じる者は、主イエスの肉と血を授かっている事、主が体の中にいて、いつも暖めて下さっている事。この事をいつも覚えて生きて行ける様にして下さい。主イエスの御名によって祈ります。