はてなQ 映画『ハウルの動く城』で、製作者が言わんとしたことは何だと思いますか。

 こういうやり取りがあるのかなと傍観。
 ところで、作品があり、「制作者の言わんとするところの言説」がある、と、してその2つの関係はなんだろうか。
 「制作者の言わんとするところの言説」の表現が作品。
 ま、この作品は見てないのだが、他、宮崎ものはほとんど見ているので思うのだが、彼の作品は多分に両義性だし多重性があるとは思う。そしてそのことが本質なら、単純に語れる者もないのだろうとは思う。ま、それでおしまいとも思わない。
 「千と千尋」について言えば、「顔ナシ」の象徴性はかなり複雑だし、それがどのように竜神とかかわるのかというのも複雑だ。ただ、ある程度は宮崎は勘で作っているだろうし、その勘は映像に支えられてはいるだろうと思う。

自然神学と啓示神学…

 ブルンナーとバルトの問題でもある。
 もっとも、そういう神学プロパーな問題でもなく、クリストファー・リーブの残した思いのようななにかでもある。
 いわゆる神学論的にはこの問題は、かなり、解決済み。
 とはいえ、自然ななぜかくも人を殺す?といった単純な問題を神学避けるならまるで神学が無意味になる。では、啓示神学はどう答えるのか? というと、簡単には答えられるものでもないだろう。いや、答えとしては、自然災害と神は関係ないのだから…となる。
 それで知的には納得できるとして、さて、死体の山を前に、その解答だけなのだろうか。

三位一体…

 日本人は変な理解が広まってしまったが、本来は三位一体とはキリスト教のもっとも根幹となるもので、単純な話、異端か正統かは、三位一体論で決まる。
 私は、神学よりも歴史学的にキリスト教に接近したこともあり、三位一体が歴史的にまったキリスト教の初源に噛み合わない奇妙な異説ではないかと、長いこと考えていた。というだけでも異端的ではあっただろう。だが、復活をエヴァンジェリックのように考えることもないのだから、三位一体もある象徴として理解する程度でもいいだろうとは思っていた。
 このことをしかし、若い日にはよく悩んだが、当時、私はブルンナー(Emil Brunner)と塚本虎二の対話に関心を持った。塚本も、無教会派であったが、ニケヤ信条を遵守している、つまり、三位一体をそのまま受け入れているという点で、ブルンナーとの大きな差異はなかった。ブルンナーが彼にしかし何を見たのかは今ひとつよくわからない。バルトとの決裂の影のようなものだったのかもしれない。
 ブルンナーは三位一体論について、この問題は平信徒が頭を悩ます必要はないと言い切ったことに、私は奇妙な関心を持った。
 ところで、不思議なもので、私は、いつか、三位一体論をごく自然に受け入れている。どうしたのことなのかとも思う。いつこの転機があったのかといえば、ひとつ思い当たることがあるにせよ、それでも、この自然な受容とそれゆえに教父たちの深い知恵のようなものが不思議な恵みのようにも思える。
 私は、いわゆる宗教に向き合うありかたは、めちゃくちゃなものになってしまった。先日ふと父母未生以前本来面目を解いた(たぶん)のだが、三位一体はむしろ自然に解けた…公案ではないが…ように思う。そして、それらは、奇妙に同じことを言っているようにも思えた。そして、それらは言葉にはならない。体験とも違う。不思議なものだ。
 ふと、ぐぐったらこんなのがあった⇒ブルンナーとの出会い

私たちは一人ひとり死を一度だけ経験する…

 その時、死につつあるとき、死を一度だけ経験する。
 私たちはそれを恐れる。死の恐怖をたぶん覆うこと合理づけることはすべて虚偽だろうとは思う。
 しかし、私たちは死ななくてはならない。もちろん、生きなくてもならないのだろう。
 生のなかに死はきれいに埋め込められていて、誰も免れない。大樹ですら死ぬ。新しい生のために死があるというのは、ごく単純な真理だ、とするなら、われわれの存在の、死の経験のその中核に、死を受容すべき鍵のようものもまた埋め込まれているのではないかと思う。私が私の唯一の死を経験するということはその受容を経験することであり、そこまでの果てしない過程が苦悩と苦痛であっても、その経験のその最後の刹那は生と死を統合する受容としての歓喜なのではないか。
 もちろん、そう確信することはできない。
 しかし、人間なるもの、諸生物なるものを見ていると、そういう構造が潜んでいそうな想いはある。
 阿弥陀はその最後のシンボルでもあるのだろう。誰もが救われる。悪こそが救われる…。生きる経験のそのテロス(目的)とはその知の確信の構造でもあるだろうし、われわれがおよそ未来の子孫の繁栄なりを、地球の存続なりに美を見るのも、その構造の日常的な反映でもあるのだろう。
 だが…私はこのことをなんども考えた。私に科せられたやや不幸な運命も含めて考えたが、が、この問題はいまだ解決を拒絶したいというところにいる。
 「あなたが神だと信じるものは本当の神ではないのだ」という囁きにも似ている。
 と、少し、ふざけたい。
 仮面ライダー「アギト」で、ありがちな二元論の神が出てきた。卑近な大衆ロマンとはいえ、そこには単純な善悪の二元論ではなく、われわれを創造した神を越えるものが暗示されていた。ああいうことは、なにかあるのだろうなとは思う。
 ま、そんなことばかり考えているものでもないし、今、悲嘆にくれる人と私の関係の基本を規定するものでもない。

マルチン・ブーバー…

 など最近は読まれないだろうか。
 彼の哲学である、我-それ、我-汝、というのは、私には、ただたんにわかるところがある。
 私の意識がなぜこの宇宙空間に存在しているのかという不思議を思えば、神の意識なるものがあってもそれほど不思議でもないように思う。しかし、神はそのようには、たぶん、存在しない。神はたぶん我という意識の二項関係の構造的な必然のようなものだろう。いや、単純な話、私たちは孤独の底で、一人つぶやくのだが、それは、何者かに向かってつぶやくのだ。哲学とはそのつぶやきの批判的な形だろうと思う。

自然を愛する…

 というのがよくわからない。というか、偽善を感じる。
 この歳になってしみじみ思うのだが、私は、どうやら植物に囲まれた環境でないと生きていけないようだ。オカルトみたいだが、植物の出すオーラのようなものが私をふーっと取り巻いてくれることでかろうじて生気を得ているように思うことがある。気のせい? ま、気のせいだろうとは思う。
 そうは言っても、園芸とか好きなわけでもない。トレッキングとか好きなわけでもない。いわゆる自然を愛するというのはまるで違う。
 狂気めいたことをいうのだが、私は、木のオーラのようなものをよく感じる。木には深い経験のような生きる力のようなものがあって、それが何かを放っているようにも思う。

はてなQ しかし、1つの感情が欠落しているような感覚があります。それは「楽しさ」です。

感情についての質問です。私は喜びます、怒ります、悲しみます、涙を流すぐらいの感動もします。しかし、1つの感情が欠落しているような感覚があります。それは「楽しさ」です。中学3年のころに「楽しさ」を味わうことが突然できなくなってしまったような気がします。それから3年間ほどこの状態が続いています。喪失感でかいです。考え得る原因および対処法をお願いします。できればHPや書籍を紹介してください。

 ふーんという感じだ。よくわからないので回答とかではない。面白いこと言う人がいるものだなと単純に思う。
 一般的に言えば、歳とともに感覚は変わる。質問者は大学生になったばかりだろうか。いずれ、いわゆる青春のとば口だろうか。
 青春などというのは死語でもあろうが、自分が19歳、20歳だったころの、あの張りつめたようなそれでいて死のようなものに隣り合わせだったような、それでいて退屈でもあった、あの独自の感覚世界は、もう蘇らない。いや、ふと、ほんのわずかになにかの花のにおいとか草の臭いとか、空の色とか空気の乾いた感じとか、セーターの感触とか、なにかで、ふっと僅かによぎることはあるが、それは消える。
 代わりに、静かな喜びのようなものはある。本当ならそこをきちんと書くべきかもしれない。生きることはしんどいが、それに見合うだけの歳がもたらす静かな満足感のようなものはある。
 話が錯綜するが、私は、子供の頃、不幸だった。記憶は喘息の苦しみから発しているようなものだ。息を吸うことができなくなって闇の中で絶叫しはい回った姿を忘れることはできない。あそこで、死んでいて不思議でもない。生きる喜びなどあっただろうか…いや、あったのかもしれない。
 友だちとかはただ苦痛だった。小学生のときは人間とはこんなにも嫌なものかと思った。しかし、むしろ、歳を取るにつれ、人間の理解を深めた。ある種の生まれつきのマイノリティは、広い、遠い社会に出て行くほうがいい。

社会的成功は (1)知識 (2)対人マネジメント のたった二つの要因に収斂します。

 via id:hikky_takasi:20041228
 誰の言葉?
 ところで、私版、社会的成功は、(1)運、(2)祖先の労、(3)本人の徳。祖先の労ということろを若い人はよく考えていただきたい。

切隊アネックス 私の夕暮れのひととき

 ○ Firefox移行を試みるも断念
 愛用のSleipnirから触ってみたくなってFirefoxをインストールする。いろいろ試しているけど何となく物足りずに移行を試みるに至らず。いや、単にブクマクとか移動させるのがめんどいだけなんですが。

 え? 移動は簡単ではないのか? それがいやならSleipnirのブックマークを単体起動させてFirefoxで起動ができるのでは(試してないのでなんだが)。追記スマソ。できんかった。

○ 一個原稿落とした疑惑で焦る
 某編集部から、原稿まだですかとかいう催促のメールが。え、私ってば何か原稿依頼受けていたっけ。記憶にない。メーラーひっくり返しても社員に聞いてもそんな依頼があったことも請けたことも知らない。おやー?? そんな話があれば覚えているはずなのだが。というか、現在進行形で落としそうな原稿があるからもうすでにいっぱいいっぱいなわけだが。おかしい。何故だ。

 うーむ。ちょっと言いたいことがあるがやめとく。あーちょっとだけ、仕事が混んできたらスケジュール管理は秘書を使うかツールをかなりインテリジェントにしないとっ……っていうか、Palmでもいいが。すでに使っていてそうなのだろうか。

今日の新聞各紙社説は…

 スマトラ島沖大地震についてはどうも社説の視点がトンチンカンに思えた。それにこの惨事に他山の石論を書く神経がわからない。
 ウクライナ選挙については産経が妥当。日経はどうも識者の視点を握りつぶしたような変な社説だった。ウクライナについては、KGB出身プーチンを甘くみるなよと思う。

日経社説 ウクライナは混乱克服を

もめにもめたウクライナの大統領選挙がようやく決着した。今回の投票は公正に行われたようであるし、ユーシェンコ氏はヤヌコビッチ氏に十分に差をつけて勝利した。この結果はウクライナ国民の民意を反映していると受け止められる。

 奥歯にものがはさまったような言い方だな。

産経社説 オレンジ革命 民主化に東西分裂克服を

 おや、これは悪くない。

 一方で、指導者がだれに代わろうとウクライナがエネルギーの大半をロシアに依存している構図に変化はない。新政権は欧州連合(EU)、さらには北大西洋条約機構NATO)加盟という大きな流れにかじを切ることになろうが、急激な欧米傾斜はロシアの新たな本格介入を招きかねない。

 そうだ。EUNATOは割れているのだし。

ウクライナはロシアに次ぎ欧州で二番目に広大で「ソ連の穀倉」といわれた。「西側」にもロシアにも将来、大市場となる潜在性があり、その政治的安定の維持は国際的問題だ。「東西」の分裂を克服し、豊潤な民主化・市場化の道に踏み出せるよう、新政権の賢明な指導力が期待される。「第二次オレンジ革命」の始まりである。

 ちょっとスジが違うとは思うが。

毎日社説 ウクライナ選挙 権威主義の限界に目覚めよ

ウクライナの選挙は旧ソ連諸国へ大きな反省材料を残した。自ら道を改めないと、人々は民主化を求めて立ち上がる。「民主化革命」は、どこでもやってくる。

 ああ、バカだ。田中ウ先生に荷担するわけではないが、今回の選挙は事実上の陰謀だ。キエフにどっとポーランド人がなだれ込んで画策していた。

読売社説 [女性天皇]「有識者会議の論議を見守りたい」

 読売としてはこんなところか。英国の動向に触れるべきだった。英国は自国の伝統の基礎を普遍的正義において立憲君主を支持するという強い精神がある。日本の伝統主義者のいかに精神の貧弱なことか。
 ⇒極東ブログ英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう

朝日社説 ウクライナ――「革命」はこれからだ

 これもそれほど悪くはない社説だ。

 ドイツに本拠を置く国際的な腐敗監視団体の評価によると、ウクライナは政治や行政の「腐敗度」で世界最悪に近い水準にある。日常的な賄賂(わいろ)行政や政権の利益誘導は経済の発展も妨げる。
 1人あたり国内総生産はロシアの3分の1にすぎない。貧困からの脱出はユシチェンコ新政権の大課題だ。

 そのトップにあのブラックレイディが座るのだ。
 ⇒極東ブログ美人だろうが民主化だろうが、私はチモシェンコ(Tymoshenko)が嫌い

朝日社説 スマトラ地震――巨大な津波におののく

 社説としては無難なところだ。悪くはない。

 ただ、それが一段落したなら「地震とは何か」「津波にどう対処するか」といった基本的なことを住民に知ってもらうため、途上国援助などを通じて手を差し伸べることはできないものか。

 そう発想してしまう朝日というのはわからないでもないが、私は沖縄の海浜で暮らしていたから知っているのだが、ああいう伝統社会には津波の伝説がそれはきちんとした恐怖をともなってもっているものだ。むしろ、今回の地域の海浜にそれがなかったのは伝統社会の崩壊かもしれないと思った。