finalventの日記

2005-01-01

陳年茶…

 これは飲めばわかるものだと思う。たぶん、圧倒的な陳年茶を飲めば、陳年茶というものがどういうものであり、どういうふうに偽物ができるのかも、わかる、と思う。迫力が違う。世の中にはというか、中国には変なものがあるものだなと思う。というか、変な世界だと思う。そこに足を引っぱりこませるのも茶商の腕の見せ所かもしれない。

檳榔香ポーレイ茶

 そういえばと珍重の茶箱から檳榔香のポーレイ茶をいれて飲む。これもそろそろ飲めるころかと。以前はまだ寝が足りないのできつかったのだが…四年ぶりくらいか。だいぶカドが取れてきたのと、意外にも檳榔香が強くなっていて驚き。ポーレイでこれだけ香りがあるものか、と。

 かくして、茶酔い。陳年茶は来ますね。

棚をひっくり返したら沱茶が出てきた…

 引っ越して二年も経つのだが未整理な箱があり、ちょっと気になって開けたら、沱茶が出てきた。あれま。これってどこで買ったものか? 香港台湾沖縄…思い出せない。少なくとも五年以上前、へたすると十年もの。買ったときに何年ものだったか? ただ、それほど質の良い物ではないというか、ありがちな速成のやつだろうと思う。

 削っていれてみる。なかなかまろやかになっている。飲みやすい。クセもない。すーっと入る。陳年茶特有の水の甘みがちょっと出てきている。

 陳年茶は一時期凝ったので、他にも15年くらいのや、50年、60年以上といったのもまだある。っていうか、ワインとは違い、こちらは茶だし。

「女の子なら誰でも」急ぐ姿見て誘う 奈良小1誘拐殺害

 また、小林容疑者は12月14日未明、所持していた被害女児の携帯電話から自分の携帯に女児の画像をメール送信しており、県警は、女児の携帯の送受信記録の分析から小林容疑者を割り出した。

 一方、県警は現場のすぐ近くにあるマンションの防犯カメラの映像の分析から、女児が連れ去られたのとほぼ同時刻に、緑色の「カローラ2」が付近を往復していたことも突き止めていた。県警は、この車が小さな女の子を狙っていた可能性が強いと判断。捜査で浮上した小林容疑者が知人から緑色のカローラ2を借りていたことを確認し、携帯通信記録と、この車の情報が逮捕の決め手になったという。

道元と啓示

 ここまで書くとさすがにすっかりあっちの人みだいだが、いや、そうかもしれないのだが…。

 道元の仏性のとらえ方には、バルト神学の啓示に近いものがあると思う。仏教は宗教学的に見れば一種の自然神学であり、そこにはなんら超越を含まない。

 しかし…。

 まさに道元の少年のころからの謎である、仏性の問題でもある。なぜこの世界は悲惨に満ちているのか、と問い返してもいい。なぜか? 悲惨とは人の心であって、分別なき心に悲惨はない、というのは、私は外道だと思う。

 そうではない。たぶん、としかいえないのだが、道元は仏性の覚知を行者の倫理的な選択なき行動への課題として理解しているのだろう。人には、善への、限定されていながら完全なる実践への確信がこめられており、それは、バルト神学的な啓示の契機に等しいのではないかと思う。

 ここのところはもっときちんと考えなくてはいけないのだが、私は、思うのだが、ああ、八木誠一先生、と問うてみたくも思うのだが、禅とキリスト教の根底のリアリティにあるのは善的な世界への統合の理解ではなく、そうではなく、むしろ、実存のなかに超越的におきる啓示の契機なのではないですか。

古今の時に不空なり

 般若心経などを解する人がよく空を奇妙に解説する。いわく、万物の本質は空なり、とか、縁起によるがゆえに空なりとか…外道に等しいと思う。

 道元禅師のいうように、「古今の時に不空なり」である。つまり、過去・今の時にあって、空にあらず、つまり、空ではないと言っているのだ。それは現成公案にも「あり」としているのに対応している。つまり、道元の言う「有時」である。時が有、そのものなのだ。

 別に言えば、時に有らざれば有ならず、空。時とは、今、己の意識のこの今の現在、つまり、今ということでもある。だから、万法ともに我に有らざれば、諸仏も衆生もない。なにもない。時は流れず、過去は存在しない。過去は無であるが、人は過去の意識を持つ。意識はつねに今であるにもかかわらず、人の心は過去の意識を持つと思う。花は哀惜に散るのである。人の心というのはそのようにできているのであり、それ自体が迷いである。

 仏道とはなにも仏教の実践ではない。花が咲くことも種が芽吹くのも仏道である。存在論・認識論的にみれば、ゼノンパラドクスのようにそこに生成はない。しかし、この世界は生成に満ちており、私のこの今の顕現の意識のなかで完全である。これが仏性でもある。

 そこで、おそらく道元はひそかにメッセージを出す。と言えば私も外道に近いのだが、つまり、人は迷いなく生きることができる、のだ、と。

 さて、じゃ、おめーさんには悩みなく生きているのか? ま、ツッコミもあらんか。正月だしな。冥土の一里塚であるし…。ま、悩みはあるよ。悩みだらけ、ということか。というか、禅は悩みの一如を解いていると思うのだが、この手の話は書くに虚しい。

かくのごとく見解する、凡夫の情量なり

 ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花菓もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条々の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれも根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。

 道元の思想はまったく金太郎飴で、これも、現成公案のそのままである。

 ただ、ここで、「たとひ凡夫の見解に一任すとも」というところに、禅師の優しさがある。道元に惹かれるのは、その法の厳格さと、猫を斬殺するにしのびないやさしい心があり、私なども、道元の仏法よりも、その優しさに惹かれてしまう点がある。

 そしての禅師のその優しさとはその生涯の苛酷さそのものの現れであったとしか思えない。道元を語る人は多い。道元に優しさを見る人は多い。しかし、道元の生涯を覆った虚無がその優しさを生み出しと得心する人はいかばかりか。いや、むしろ、人は私同様、道元の優しさに惹かれていくのだろう。

狗子仏性

 狗子仏性については、あえていえばこんなものが解けないで道元の徒と言えるかと思う。が、くさすわけではないが、秋月龍Δ覆鼻△海海わかっていない。というか、一切衆生悉有仏性を、一切衆生、悉く仏性有りと下し、道元の解を心狭きと言うのだから、もうどうしようもない。勝手にしろ、外道と思うが、なにも悪意で言うのではなく、道元禅師がそういう解を外道と呼んでいるのだ。

 犬に仏性があるか? ない。あるわけがない。「悉有は仏性なり」である。

 だが、無門関は道元の解なのか、率直に言ってわからない。というか、無門関は六祖の伝承のように、禅ではないものが含まれているようにも思う。

 ちと気になってネットをみたらWikipedia仏性

仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質、本性をいう。

 部派仏教では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捕らえ、厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切ることを目的としている。煩悩を断尽すると自然と身から火が出て消滅し二度と生じないとされ、この究極の解脱は灰身滅智(けしんめっち)と呼ばれている。

 これに対して、大乗の大般涅槃経では全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわち仏性があると説き、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができると説いている。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏といい、仏法修行の究極の目的とされている。また 勝鬘経(勝鬘師子吼一乗大方便方広経)などでは如来蔵という用語を使っている。

 まるでダメ。

牛過窓櫺

 先日の父母未生以前本来面目を解いて(まあ解いたとして)、気になっている公案はこれだ。なんで順次気になるのか不思議にも思うのだが。

 牛過窓櫺は、自分が思うに、半分は解いている。そしてこれを実際に解く難しさに途方にくれている。というか、俺はこれを解く気があるのかと思う。

 それとどう関連しているのか、人間の決意というもののもろさを思う。

 というのも、新年なのだが、なにかresolutionは? と問われて、よくわからない。人の意志というもののありようがよくわからない。

 それと、またもって意識というのものがよくわからない。これは哲学的な問いというだけではない。先のロルフィングでも思ったのだが、腰痛というのは、多分に心、あるいは意識の問題だ。無意識と言えばそうだがこれがそんな単純なものではない。

 無意識というのは一般に言い表しているよりかなり奇怪なしろものだ。

 たとえば、かなりの人には破壊衝動があり、それが無意識になっている。これを除去できればどれほどか生きやすいだろうか。しかし、そう簡単に除去はできないし、その問題意識に捕らわれればサイエントロジーだの探求の罠に陥る。

ココログの調子がどうも変

 っていうか、エラー。

お正月:

いまさら聞けない「?」

 ほんとかね?がけっこうあり。

 ちなみに…

年越しそば

 引っ越し蕎麦同様簡易な腹つなぎ(年越しは寝ない)

振り袖

 既婚者が着るもんじゃないですよ。

もち

 めでたい正月だから。

門松

 これは唱歌で流行したため。

初夢

 年越しは寝ないから。

はてなQ 日本茶のおいしい淹れ方。(抹茶除く)特に蒸らす方がいいのか悪いのか知りたいです。

 日本茶は茶の質によっていれかたがむずかしい。

 普通の煎茶なら、70度ちょいくらい。蒸らしは紅茶じゃないので一分ほど。

 湯温は70度といっても、沸かした湯を冷ますこと。そのために茶船があると良し。湯温は慣れもあるが、問題は水。軟水吉。

 だが、ここでちょっと微妙だが置き水はダメだと思う。つまり、ボトルの水はダメ。

 となると、浄水器がものを言う。私はシーガルフォーだが、これでもちょっとね。である。意外とブリタが良い、といって置き水にしないこと。

 個人的には最近は私は番茶を好む。まさか自分がと思うのだが、年なのか、玄米茶がよい。特につぼ市のがよい。

China's Hu: Taiwan won't be independent

 大学受験生に問題です、"Taiwan won't be independent."を訳しなさい。

極東ブログ 「雑煮の作り方」

 コメント欄を含めてご参考まで。

今日の新聞各紙社説は…

 元旦の社説なんて読むもんじゃないなというギャラリーみたいな感じだった。が、毎日が悪くないか。日経も「第1に、グローバル経済に大型新人が続々登場した。」というくだりは悪くない。

 それにしても、なんと新聞の見解は内向きなのだろうと思う。

 津波によるアジアの災害は想像を絶する悲惨さであったし、あれを予期しえるものはなかった。が、その大半は人知で防ぎえないものでもなかった。IT技術はそこにこそ応用すべきだった。命が大切というなら、平和が大切というなら、そこが重要ではないか。日本が諸国民の信頼を得るなら、そういう日本の知恵を活かしていくべきはないか。

 そして、アフリカ…。これは簡単に語ることができないが、アフリカの抱えるとてつもない問題に眼を向けないですごせはしない。

 昨年の極東ブログでほのめかしたが、やがてヨーロッパからはスケールの大きな政治家が出てくると思う。スケールが大きければそれは当然大きな揺れを含む。日本はいつまで対米でやっていけるとも思えない。

 ま、なんか新聞社説みたいなことを言いそうだが。

日経社説 戦後60年を超えて(1)――歴史に学び明智ある国際国家めざそう

 ぉぃ(1)ってなんだ?

 悪くないかと読み進めると…

戦後60年を超えて、日本はどんな道を歩むべきか。日本のよりどころは経済の競争力にある。改革の手を緩める暇はない。郵政民営化で市場の活力を取り戻さなければ、小泉純一郎首相は歴史に汚点を残す。少子高齢化や環境問題など成長のハードルは高いが、技術を競うチャンスでもある。直接投資や人材を受け入れ、グローバル経済と融合して初めて本物の競争力が身に付く。

 

 試されるのは国際協調力だ。日米同盟は外交の基本である。同時に超大国に対しては、単独主義をたしなめ双子の赤字是正を要求する口うるさい友でありたい。歴史の溝を埋めるのはアジア発展の大前提である。日中双方に中国版「冬のソナタ」ブームを生み出すくらいの懐の深さがあっていい。世界の分裂を防ぐため米欧間の架け橋になるのも日本の役割だ。国際協調なしに、テロとの闘いも中東安定もおぼつかない。

 なんか支離滅裂な文章なんだけど。大丈夫か?日経。

毎日社説 戦後60年で考える もっと楽しく政治をしよう

 これは新年の社説として悪くない。いやなかなかいいじゃないか。毎日新聞も頑張れと思う。というか、朝日・読売的な路線からどう抜け出して、新しい体制にもっていくか。

読売社説 「『脱戦後』国家戦略を構築せよ…対応を誤れば日本は衰退する」

 一読して馬鹿だなと思わずつぶやいてしまった。対応を誤らなくても、人口が縮退するのに衰退しないわけないでしょ、と思う。まして、不動産担保でカネを貸すくらいの能しかない日本の金融なのに、その不動産部門が都市だけとなりしかも、全体的には落ち込んでいくのは火を見るより明らか。

 っていうか、そういう世界に対峙する気構えがないとこういうラッパを吹きかねない。「深沢七郎の滅亡対談」でも嫁。

朝日社説 2005年の始まり――アジアに夢を追い求め

 これ、津波前に書いておいたものじゃないのか。アジアに夢というのなら、まず、この復興の協力体制を構想せよと思う。読むに耐えない。

あけましておめでとうございます。

 本年もよろしく。

 って、なにがよろしくやねん?

 ま、そういうことで。

 さきほど、極東ブログのほうにはざらっと書いたものの、こちらははいまごろから。社説を一巡してまた、しばし正月ボケに戻ります。

uiuiuiui 2005/01/02 05:21 「災」という言葉に括られた昨年を想い、とても慶賀な気分にはなれないのですが、この一年、日々興味深いBlogエントリーと日記とで、自己の「知の空間」を豊かにさせて頂いたことに感謝を込めて、一言新年のご挨拶させて頂きます。

どうかこの一年が、天治・人治ともに、穏やか年とならんことを・・・。

finalventfinalvent 2005/01/02 07:25 uiuiさん、ども。本音もよろしく。各国とも、ただ祝うだけの正月とはいかないようです。そうした課題を人類の連帯に結びつけていくしかないのでしょうね。

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