そういえば…

 昨日だったか一昨日だったか、朝、ぼんやりとまどろみながら、お釈迦様の声というのでもないし、そもそも声というのでもないのだし、自分の意識でも、これは夢かぁという感じもあったのだが、そんななかで、「おまえはなにをさみしがっているのか?」と問われた。いや、なにもさみしいとは思わない。さみしいとは感じない。さみしさという感情は基本的にはもう私の心を悩ますことでもない…と答えている。そのうち、ちょっと思い出せないのだが、「おまえはさみしかったのではないか」と問われた。それはそうだ。それは過去のことだ。すると、「おまえは実は過去のさみしさや悲しみを今さみしく思い、今悲しく思っているのではないか」とそれはさらに問う。そうかもしれないとなんとなく答える。過去はすべて過ぎ去り、さみしい思いの過去も、悲しい思いの過去も過ぎ去った。いずれ私は死ぬとしても、過去は過去であり、過去のさみしさや悲しみを今や未来にひきづる意味もない。それは終わった。…とその声のようなものも、そう、それは終わったと言う。それはさらに言う。それは存在しない。それはない。おまえが存在しないものをつなぎ止めようとしなければ、それはない。しかし、そうではあるまい。さみしさや悲しみが過去を作り出しているし、おまえは過去を愛しているのではないか、おまえは過去のなかにだけ生きているのではないか…おまえは未来である死を恐れ過去にだけ生きようとしているのではないか…私はそうかもしれないとなんとなく思っている。私は消えていく。私は誰かの思い出となるだけだろうか、いや、誰の思い出となるならないということは私には私の極限の思い出の仮想にすぎないだろう。私は無となる。私の未来はただ無がある…しかし…声は言うかのようだったが…過去こそは無だ…おまえが過去にしがみついたそのおまえはただ無だ。無は今ここにあるのだ。過去がないのだから…と。