時は流れず、時間は存在しない…大森が言うように…
過去は今の私が作り出した、語り存在、でしかない。
では、語り存在の真を私はどのように知り得るのだろうか。
大森は、ここのところで、インチキをしているような気がする。
すべてを語り存在に押し込むことで端から真偽を放り出そうとしている。
しかし、大森やヴィトゲンシュタインやあるいはフッサールが依拠したように、生活世界の人の実際のありようとしては、語り存在の明証性は、曖昧なものではありえない。
「私は20歳のときにA子を愛していた」は私にとって自明な真であり、如何なる検証も必要としない。
もっとも私はそれを他者に、嘘を物語ることはできる。
またそれがある公的な場でとらえられ(裁判とか)、ある公的な、共有的なファクツとして認定されうることはある。しかし、体験の明証性はそれに反しない。
「殺人犯と断定されても、私は、人を殺していないことを確信している」という構図は成り立つ。
語り存在としてフラットになるものではない。
そして、語り存在の明証性とは、やはり、感情なのだ。
およそ、私が生きていると自明に思えるのは、私が感情を持ち、この世界に欲望との関連を置いているからにほかならない。
生活世界(Lebenswelt)が欲望のなかで創出されるというこは、つまり、私の存在が感情から生起するということだ。
そして、同じように過去は、感情から生起するのだ。
では、なぜ過去という世界は今の生活世界と分断されていることが自明であるように認識されているのだろうか、人間の心の構造において。