ちょっと待て、なんか違うぞ、非国民

 ネタは⇒asahi.com:授業で「赤紙」配布 戦争拒んだ生徒に「非国民」 福岡 - 暮らし

 福岡県志免町の町立志免中学校(結城慎一郎校長)で10月、社会科の男性教諭(48)が授業で2年生全員に「臨時召集令状」を配り、戦争に行くか行かないかを選択させ、行かないと回答した生徒に「非国民」などと書いて返却していたことが分かった。

 こんな常識のない者が社会科教諭かよと思うがまあそれはいい。
 気になるのは、「臨時召集令状」には選択の余地はなかった。つまり、「非国民」になることはできなかったということが、この記事を書いた記者とか問題にしているやつらに、まるでわかってないのではないか。
 ついでに⇒非国民 - Wikipedia

 非国民(ひこくみん)とは、国家体制側から見て、体制に服従しない者、体制に協力しない者を指す。
 第二次世界大戦中の日本で、戦争に協力しない者、協力が不充分な者、政治を批判する者、果ては生活に不満を漏らす者にも使用された。
 しかし、非国民の烙印は、日本に固有のものではなく、第一次世界大戦に反対したアメリカ社会党にも貼られた。目前に敵がいるとき、人間には団結する本能があるが、団結を破壊する者を排除する機能と考えればいいかもしれない。
 第二次世界大戦後の日本では、「非国民」の用語は半ばタブー視されていた。しかし、現在は右翼・保守派を中心に再び使われ始めている。逆に、体制に協力しないことを強調するため、敢えて非国民を自称する者もいる。

 これはまるで説明になってないのではないか。
 「人間には団結する本能があるが、団結を破壊する者を排除する機能と考えればいいかもしれない。」はちょっと論外な説明。
 この説明、意図的なのか、「誰が」という主体がわざとぼかしているのか、考えてこともないのか。
 問題は、「誰が」が、国家(政府)か、社会か、ということ。
 私は、「非国民」は社会が個人を排除した標識ではないかと思う。
 戦前の国家でも、国家は、市民を社会から守る機能を持っていたと思う。法があったのだから。つまり、社会が市民を「非国民」として排除するのを国家は禁じ、市民を国家が保護したと思う。
 戦争の是非と、国家の正当権力とは別の問題だ。
 というか、なんか、おまえら、おかしいぞと思うが、そういう私がよほどおかしいとされるのか。