「初めに言葉ありき」の意味

 きっこのブログの最新エントリを見ていて、面白かった。
 ⇒きっこのブログ: ぼんやりとしたそれ

あたしは、一応はクリスチャンだけど、聖書には間違ってることやツジツマの合わないことがいっぱいあるし、特に、ニポンのキリスト教会のあり方は問題だらけだから、ぜんぜん信仰してない。

 きっこのブログ(日記?)を5年分読んだこともないので、このオサーン、いや、これは中の人ではないか、が、クリスチャンだとは驚いた。「ニポンのキリスト教会のあり方は問題だらけ」というのも変な感じがするというか、「ぜんぜん信仰してない」でどうしてクリスチャンなんだろとしばし考える…………つまり、「ニポンのキリスト教会」は信仰していないクリスチャンという意味なのかな。なんか、アングロサクソンの血のように血にこだわる日本じゃないクリスチャン、と、きっこと関連付けると……妄想沸きそう。ま、それはどうでもいいけど。
 ほいで。

何よりも、聖書の最大の間違いは、「初めに言葉ありき」って部分で、こんなにも自分勝手で、我が物顔で、偉そうで、デタラメで、自己中心的な理屈なんか、オッぺケペーのプップクプーだ。

‥‥そんなワケで、聖書には、「初めに言葉ありき」って書いてあるけど、「言葉」ほど、いい加減なものはない。

 ま、エッセイというかコラムというかなんというかに向けて、マジなこと書くなよなんだけど、この「初めに言葉ありき」は、なんつうか、日本人でほとんど理解している人がいない気がする。ということは、理性的に考えると私の理解が間違っているということなんだけど。ま、この機に書いとこうか。
 まず重要なのは、「言葉」とは、これは、一般的な言語とか、言語学がどうたらとか意味論がどうたらとから言語哲学がどうたらとかぜんせん違っていてですな、これは、「神の言葉」ということ。
 「神の言葉」というのはなにかというと、神が言ったこと、ということ。きっこみたいに難しく考える必要ないのな。
 で、神はなんと言ったか。神は「光あれ」と言ったんですよ。旧約聖書の最初(P資料)を読んでみそ。
 で、神はいつ「光あれ」と言ったかというと、初めに、なんですなこれが。なんの初めかというと世のすべての初めに。
 で、ここで、「初めに言葉ありき」って考えてみそ。
 簡単にわかるでしょ。
 「世の初めに神が光あれと言葉で言った」ということ。
 そいだけのことなんですよ。
 で、ちょっと応用だな。
 じゃ、なんで「初めに言葉ありき」ってことをヨハネ書(フィロンに近い)がその冒頭に置いたのか。これは、ちょっと、きざったらしいのだけど、ってか、このくらいは聖書をちと学んだ人ならギリシア語が浮かぶでしょ(最後の文字が出ないのでSとしとく)。

    εν αρχη ην ο λογοs

 で、このεν αρχηなんだが、読めばわかるように、アルケーにおいて、ということ。アルケーとして神の言葉がある、ということ。
 つまり、ギリシア哲学と同じで、万物のリアリティを最初に規定しようとしたわけですな。
 ⇒アルケー - Wikipedia

アルケー(αρχη arkh?)とはギリシア語で「はじめ」のこと。哲学用語としては万物の根源また根源的原理を指す。宇宙の神的な起原。

 で、ここで、もいちど「初めに言葉ありき」って考えてみそ。
 簡単にわかるでしょ。
 「万物の根源は、言葉(ロゴス)である」ということ。
 そういうふうにヨハネ書は展開していくわけです。
 もうちょっと応用する?
 「人はパンのみにて生くるにあらず」
 これも日本人のほとんどが理解している人がいない気がする。ということは、理性的に考えると私の理解が間違っている以下略。
 これはまず後段が重要。マタイ書4より。

さて、イエスは御霊(みたま)によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になれた。すると試みる者がきて言った。『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある

 で、重要なのは、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということ。
 ここでまた言葉が出てくるわけだけど、これはまさに、「神の口から出る一つ一つの言葉」ということ。
 「神の口から出る一つ一つの言葉」というものはどういうものかというと、「光あれ」でわかるように、神が「光あれ」というと、光が存在するわけですよ(生成する)。
 つまり、諸存在は神の言葉から成り立っているということです。
 で、イエスのこの話はこっちの話に対応している。申命記8:2-5より。ってか、また申命記だってば。

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。

 どういうことかというと、ちょっと誇張していうと神は「マナ」と言ったのですよ、するとマナが現れた。子どもの虫歯にとてもいいマナですよ、違うってば。アギトに出てくるマナはこのマナで正解。
 「神の口から出る一つ一つの言葉」が食べ物になるのだ。神は無から食べ物を創造してくださるのだ、というわけですよ、イエスが言いたいのは。
 その根底にあるのが、神の言葉、ということ。
 で、この言葉が、ギリシア語でロゴスと訳されることで、ロゴス=理性、それが諸存在の根幹という思想に転換し、それが理性=reasonとなり、linguistic competenceとなると、デカルトからチョムスキー哲学になるわけです。
 では、お祈りしましょう……ってことはなしで。
追記
 ぶくまより。

2006年03月23日 takopons inner_space 私は神学者でもキリスト教徒でもないが、聖書の言葉は言葉通りに受け止めるべきだと思う。 人間の解釈には恣意や誤解や計算が含まれるものだから。 という恣意的なコメントをしてみる。

 ちょっと誤解されているげですが、上の解釈はまさに聖書の言葉を言葉通りに受け取るような読みなんですよ。つまり、コンテクストと同時代資料を使って解釈していくわけです。わかりやすく書くために恣意的に見えるのかもしれないけど。
 もうちょっと言うと、例えば、申命記をきちんと読んでないと新約聖書は読めないということなんですよ。つまり、「聖書の言葉は言葉通りに受け止めるべきだ」というとき、じゃ、新約聖書の受容に申命記なしでいいかと、そうはいかない。だけど、日本に限らないけど、そういうふうに聖書が読まれないので、きっこみたいな誤解が出てしまう。もちろん、創造的な誤解というのもあるだろうけど(例えば、パウロ七十人訳しか読んでおらずその誤訳をそのまま継いでいる。)
 
追記
 きっこクリスチャンについてコメント欄にてインフォを貰う。ほいで。
 ⇒http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/01/post_cd08.html

それから今度は、長い坂を上って、教会に行った。母さんはプロテスタントで、あたしはカトリックなんだけど、2人ともまったく信仰心のカケラもなくて、「困った時の神頼み」をする時以外は、単なる無宗教の人と変わらない。それどころか、あたしの場合は、ニポンのキリスト教会のあり方に多大なる疑問を抱いてて、どっちかって言うと、ニポンのクリスチャンには中指を立てるような感じなので、大好きな神父さまのいる教会以外は、メッタに行くことはない。だけど、今日は元日なので、嫌いな教会だけど行って来た。

 ほぉ。
 で、率直な印象を書きますね。
 カトリックというのは親がカトリックだと子どもがカトリックというのは比較的簡単なんですよ。
 ところが、人生の途中からカトリックになるという場合は、けっこう長い時間というか準備を要します。
 こんな感じ⇒灰の式
 きっこがカトリックであれば、その準備を十分に経ていたわけで、にもかかわらず現在、カトリックを含めて日本のキリスト教会に疑問を抱くというのは、私が多くのカトリックの人を見てきたなかでは疑問ですね。秘蹟についてどういう態度を取っているかも重要ですし。
 このエピソードが嘘か、あるはなにかあったか。それとも思いこみか。思いこみというのは、神父様との交流はあるようなので、きっこ(執筆担当)がそう自分を思い込んでいるだけなのでしょう。カトリックというのは基本的に人間を原罪を負ったどうしようもない存在と見ているので、けっこう姦淫とかも許してしまいます。
 入信に際してこういうの勉強する⇒「カトリック教会のカテキズム: 本」