読売編集手帳
ちょっと気になる。
⇒6月30日付・編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
◆「哲学が束になってかかろうとも、たばこにまさるものはあるまい」とはモリエールの戯曲「ドン・ジュアン」の一節だが、医学の戒めと、懐具合を計る経済学とが束になり、紫煙の誘惑とせめぎ合う月の替わり目である◆煙の末に、健康を気遣う妻の顔見ゆ、子の顔見ゆ、という方もおられよう。いま指にあるそのたばこを吸い納めの一服にしてみますか。
これはよく言われることなのだが。
フランスにたばこが入るのは日本よりちょっと後。
フランスへの導入はパイプではなかったか。パイプでも発ガン性はあるが紙巻きとは違っていたかと。
でだ。
フランスでは当時上流階級では嗅ぎタバコに移行し、パイプが普及するのはフランス革命がきっかけではなかったか。
モリエール「ドン・ジュアン」についてはむかしエッセイを書いたことがあるが書架にもなく、忘れたな。
日経春秋
⇒春秋(6/30)
野暮系じゃなくて。
小泉首相がナイアガラで緑の瀑布(ばくふ)に感嘆の声を上げているころ、日本政府は、血液製剤によるC型肝炎に国の責任を認めた大阪地裁判決を不服として、控訴を決めた。ウイルスに汚染されたこの製剤は20万人以上に投与され、すでに1万人が肝炎を発症している。
病と闘い、あるいは発症の恐怖と戦い続けている患者と家族。訴訟の長期化は、その苦痛を倍加する。一方、お役所は大臣も担当者も次々に代わり、長期裁判は痛くもかゆくもない。こんないびつな構図に終止符を打つのは、政治家の決断しかない。改革の本当の中身が、ここで問われる。
民主主義の世界では、こういう構図に終止符を打つのは市民。
朝日社説 金英男さん つくられた会見の悲しさ
誘導ミエミエってやつ。