全然違うとも思わないが
私たちにとって昭和は何の意味も持たず、それはヒロの不器用な踊りほどの価値しかない、どうでもよいものであった。どこか遠いところで、ある時代が終焉を迎えたことを知りつつ、私たちの生活は一ミリたりとも変化しなかったのである。
その「私たち」はその時の「私たち」なのだろう。少年に歴史なんか意味はない。
だが、女を抱くようになった男がそう言えるわけもない。その歴史のなかから私たちが生まれているのだから。
東京の夏は短い。イエス、エンペラー・イズ・レアリー・デッド、と私はつぶやき、白痴の子とヒロのことを、そしてエンペラーが死ぬよりはるか前、ある夏の日に死んだ幾千万もの無名で、匿名で、忘れ去られた死者たちのことを思った。彼らのために、私に何が書けるだろうか、愚かで下劣なセックスブロガーである私に?
「愚かで下劣なセックスブロガー」でありながら書く。誰も読まないかもしれないものを書く。読まれるかもしれない1/10000000000000の可能性を信じて書く。自分の無意味さに充足して書く。
あの日の感慨には似た感触がある。
⇒極東ブログ: 終戦記念日という神話
余談だが、昭和天皇が崩御したその時、私は東京駅にいた。職場に向かうはずだったが、こんなことは人生にそうあることでもないと思って、そのまま二重橋に走った。明治大帝が亡くなったとき、あるいは敗戦時を連想させるような光景がそこに出現するだろうかと期待した。が、何も無かった。静かだった。人も少なかった。私はしばらく虚空を見ていた。歴史に遭遇するというのはそういう感じかも知れない。