社説特になし。

 というのもなんなので。
 ⇒朝日社説 安倍内閣発足 果たしてどこへ行く

 民間から経済財政担当相に招かれた大田弘子氏は、小泉内閣における竹中平蔵氏の役割を期待されているのかもしれない。内閣の要に座る塩崎恭久官房長官日本銀行出身で、かつて「政策新人類」と呼ばれた政策通だ。ふたりとも安倍氏と同世代で、清新さは買いたい。だが、初入閣の2人に党内の族議員や官僚機構を抑え込むことができるか、未知数というよりない。

 なので、的場順三を置いたのでは。
 それでいいかというわけではないが、「未知数というよりない」ということはないでしょ。

話は比喩的だけど

 ぶくまのほうで⇒はてなブックマーク - オナニーはもういいかなって思ってる。-モテゼミ
 ま、リアル・オナニーなんかどうでもいいのだが、と。(というか、歳食って人生に死のクリフが見えてくると性欲なんていうのは死というか無の恐怖の震撼との関係性に置かれるが……。)
 で、ぶくまのそれと話題が違うが。
 ブログのことをオナニーだと比喩的に言う人を時たま見かける。つまり、ブログなんか書いてるのはオナニーとおなじー(ちょっと痛い洒落)というのだろう。
 まあ、どうでもいいので、ふーんとも思わず、読み過ごすのだが。
 なんというか、文章を書くこと=精神的なオナニー、だとして、で?
 それがなにか?
 コンビニ行って握り飯買う……つまり腹が減って一人食べ物をとりあえず食う……食欲のオナニー?
 と、書いていてそういえば。
 そんなことを書いているのはオナニーだとかいう輩は、なにか、そうではないご立派な場所でご立派な文章を書くべきという価値観をもって諭したいのであろうか。
 つうのは、オナニー=駄目、おセックス=宜しい、ということか。
 だとしたら、その価値判断はかなり、あほくさ。
 私の世代くらいで終わるのかわからないが、政治的な言動は実践が伴わないと駄目だ、三里塚に行けぇみたいの、わけわかんないのがあった。
 今では逆に、ダルフール問題とかいうのはおまえ自身の正義の錦の御旗だろ批判みたいなものに転換しているようだが。
 私にしてみると同じ。小さく良心を持つというだけでそれ以上は思わない。
 自分が無力であることは何も問題ではなく、ただ、運命というものの類。
 くだらない駄文を書いていて、しかも人様に迷惑もかけてないというか、最低限でこそっと書いていて、で? 虫が鳴いているのと同じ。
 つうか、人間なんて大半は無意味な存在だが、無意味な存在を大切にしていこうとできるだけ小さく考える、書く、そんだけのことで、そのバリエーションがいろいろあるというだけのこと。
 多生の縁というか。
 人間が人生の内で、多少なり通じ合える人なんてそうはいない。有名人でも同じだろうと思うが有名人でないからわからん。
 親ですら、なんでこの人、親かなぁと思うくらいだし。
 ま、文章というのがあって、たまたま読む人いて、なにか思うことがあれば、多生の縁というくらいで、オナニーだ云々とかご評価賜るほどのことはないんじゃないか。
 つまりそれは縁無き衆生っていうだけのこと。

植草先生のことはわからんが

 なんとかくああいう問題もまた言及しないがよかろうと思うようになった、冤罪とかそうではないとかいろいろあるとして。
 前回は刑が確定したので、市民社会的には、彼は痴漢。しかし、その処罰を受けたので、今はそうだというわけでもない。
 今回も刑が確定したら、社会的な判定は下る。
 ま、それはそれとして。
 植草先生と限らずだが。
 世に痴漢というか多い。お変態さんも多い。フロイト的に言えば幼児の原型は多形倒錯的なものであるからむしろそれがどう、生殖器愛に陶冶されるかということではあろうが。理論もどうでもよいとして。
 そういう欲望が存在を覆うというのが、何かしら、私にはわからない。
 たとえばある痴漢がいて若い女の尻に触れたいとする。が、そこで私は多分誤解しているのだ。尻触るくらいならカネ出して触らしてくれる女で我慢せいとか思うのは誤解なのだろう。快楽、快感が問題ではないのだろう。
 そうではない(許されない)女の尻を触りたいという禁忌を存在が情熱を持って超えていくわけで、なんつうか、ある意味、その欲望のためには死んでもいいという、死の乗り越えの超存在的なものが現存在に開示される瞬間なのだろう。
 別に難しく言いたいわけではないが。
 ただ、それでも、存在論的には、死の乗り越えという構図にあるのではないか。
 そのプラトーを超えていく、一つのプラトーを超えるという欲望によって、死を超えようとする存在の本義というか。
 あと、栗先生とか(類型理解としての「とか」だが)、女=欲望=他者の欲望(=自己の乗り越え)というより、ある多様な女のすべてを知りたい=欲望=コスモス欲望、とでもいうものではないか。知というのもそうした派生であろう。コスモス欲望というのは死の乗り越えというより、死の了解なりその棘の無化のようなものかもしれない。
 知の究極にあるのは、死を了解し、存在のなかに内包することだろう。
 違うか。
 ま、私の中ではそのどちらも死滅しつつあるような感じがするが。
 と、書いていて中断。実人生とは野暮用。