植草先生のことはわからんが その2

 承前⇒finalventの日記 - 植草先生のことはわからんが
 昨晩、そして今朝方、また少し考えた。
 死の乗り越えの欲望、というのだとして(バタイユヘーゲル的)、少し違うか、と。
 たとえば、私の前に若い女がいるとする(まあかつていたが)。
 そこに手を出すことは容易ではない、というときの障壁の質の問題ではないか。
 一般的には、その障壁は、女の側の意志の問題だとされる。悪い言い方をすると、そこで女が、意志と身体に分けられれば、商談のようなふうにして障壁を越えることができる。あるいは、愛情とか。たぶん、愛情とは別の商談のような契約性を持つとしても。
 ところが。
 たとえば痴漢という場合、そこに対象との女との間の障壁は、基本的に、社会なり、慣習なり、掟なりであって、現代世界では、法=国家=共同幻想だろう。
 つまり、性的な欲望=快感、あるいは、性的な欲望=二項関係というのではなく、そこには本質的な三項の関係性がある。
 むしろ、欲望されている対象は、禁忌としての法=国家=共同幻想ではないか。
 問題をこう転調した場合(もっともそれだけではないにせよ)、若いころからずっと疑問だった国家愛なりの問題に関係してくる。
 「お国のために死ねますか?」というとき、まあ、脊髄反射的に馬鹿じゃねーのとなる。
 だが、「共産主義とか社会正義のために死ねますか?」となると、死ねそうな人はいるのであり、つまり、正義が死を超えるエロス性を持つことは否めない。
 人は、歴史を薄目で見てもわかるが、個別の人生のなかの女への欲情よりも、正義=共同幻想に欲情してしまうことがある。(ヴェーバーの言う「彼岸性」かもしれないが。)
 なぜなのか。それが、正義というものの存在論的な根拠なのか。つまり、それもまた、欲望によって支えられているのか。
 このあたり、以前の竹田青嗣の命題が少し解体できそうでもある。つまり、社会とは個の欲望のゲームであり、その経済的な調和からよりよき社会を求める存在論的な根拠があるという命題だ。
 違うのではないか。
 ここで少し戻るのだが、共同幻想がエロス性を帯びるとき(正義のために乳首立つような)、その共同幻想は、やはりというべきか、他の共同幻想との隣接、または外部がある。あるいは、個の内部に疎外された外部(信仰とかイデオロギーとか)ということもある。
 つまり、共同幻想性というのは、本質的に二項の関係と、そのエロスのなかから発生したものなのではないか。
 というか、その二項の反立性こそ、共同幻想の発生の基礎ではないか、と。
 吉本はどう言っていたか?
 彼の場合、対幻想から他者を疎外したとき、というふうに言っていたと記憶する。氏族的な長は国家の王足りえない。
 まあ、無理に吉本論と整合させる必要はないが。
 で。
 それでも吉本的な共同幻想の解体がテロス(究極目標)だとして、それが対幻想性と個人幻想性に解体されることをもって思想の営為というのは、違うことになる。
 むしろ、共同幻想の解体こそが、先の共同幻想性に由来するエロスの根になってしまう。
 単純な局面でいえば、現存国家なるものを解体することで乳首やチンコが立ってしまう。
 では、そのエロス性を解体すべきなのか?
 正義なるものがそのエロス性に根を持つとしたらそれは思想それ自体を解体してしまう。
 が。
 大筋では、解体すべきなのではないか。
 気が付くと、私の「小さな声の正義・良心」というのは、洒落ではなく、私の思想になっており、意外とこれは私の独自の思想なのかもしれない(偉いとかいう意味ではない)。なぜ小さいかというと、共同幻想性なエロスへの危険性を先駆的に包含している。
 この問題は、吉本=親鸞の造悪説にも関係していそうだ。
 とりあえず、吉本にとっては、造悪説は市民社会共同幻想の彼岸性を暗示している。
 ただ、そこは受け入れがたい、私などには、まだまだ。
 この問題のもう一つ側面は、共同幻想が本質的に個の殺傷権を含んでいることだ。もともとも国家が殺傷権を正義として打ち出すには、こうした存在論的な根拠があると見ていいだろう。
 現在の各思想での死刑廃止論はそこまで到達していない。ま、そういう到達が意味があるとも思えないが。正義を排除して「殺すな」と言い得るなら、共同幻想が超えられるふうでもあるが、そのときの「殺すな」は「殺してもよい」と等価な超越性を含むだろう。それは、たぶん、欺瞞だ。
 共同幻想が本質的に個の殺傷権を含むことは、先の共同幻想性のエロスの死の乗り越えの根拠性とも同じだろう。
 また、人が死を引き換えに共同幻想性に到達しようと欲情するのも同じだろう(二・二六事件天皇幻想とか)。
 これらすべてを「死の支配」と呼び、二面性を本質とする共同幻想の本源的な機能とすることは可能か?
 人はどのように「死の支配」を乗り越えるかという問題となるか? 「死の支配」とは死の恐怖を乗り越えることではない。それはむしろ「死の支配」そのものだ。
 なにかがミッシングだ、こうした思索のなかで。
 たぶん、ミッシングなのは「愛」ということだろうと思う。もちろんそう言明したとたんに無意味になるのが。
 
追記
 竹田青嗣の命題のところで少し間違えたかと思う。
 ルサンチマンと「小さい良心」の関連があるだろう。
 ちとこの問題は難しい。
 共同幻想が特殊なエロスとなることは、大衆においてはありえない。少数の問題だとしていいだろう。
 ただ、このとき、大衆とはルサンチマンとして規定できるのかもしれない。
 ルサンチマン共同幻想破壊を直接エロスとはしないが共犯的に機能する。
 という意味で、大衆の原像からルサンチマンを除去できないのではないか。まあ、吉本的には、大衆の原像そのものが共同幻想から乖離した措定になっているが、ありうるのか。