現在の日本では、世代というのは事実上、戦中世代と団塊世代しかないんですよ

 きっかけは。
 これ⇒記憶のメモ帖 - 世代で語れない世代

世代論はオッサンの為の言葉
そもそもまとまってない私達の世代を第三世代と括るのは、結局「近頃の若いものは」っていう〜紀元前から続いてる迷文句を言いたいが為だと思うのですよ。
 
上の世代は世代としての同質性を保ってられるから、世代論は使いやすいと思うのですが、第三世代以降は少なくとも80年代生まれ以降は*1世代ではなく、『類型』で語られるべきだと思うのです。

 世代論はオッサンのためというより、現在の日本では、世代というのは事実上、戦中世代と団塊世代しかないんですよ。(どっちも強烈にWGIPプロトコル
 国民を制度的に拘束することによる国民経験というのは、基本的に戦争しかない。ほいで、戦前世代が死に絶えたあと、戦中派という戦争=腹減った世代と団塊の世代=戦争を知らない世代の2つしかないんですよ。
 そのあとは本質的にグラジュアルなものです。
 ただ、戦争的な制度が貧しさへの耐乏的な措置を超えて、戦後的に復活してきたのはちょうど私の後の世代。国民皆兵的なものが別の装いになって出現してきた。一番象徴的なのは給食。団塊世代にとって給食はあこがれですよ。私の世代から、なんでこんなまずいものを食っておるのだということになり、そのあとは、国民皆兵的な経済活動邁進のための犠牲化というか母親の「手抜き」というかまそういうこと。そしてそれにともなって教育制度も国民皆兵的になる。その一つの達成に共通一次試験がある。まあ、これはその時代から現在を予想して事実上の大学の国民皆兵化への手順だったのでしょう。駅弁大学化というべきなんですが。
 ほいで、新国民たちは、東大からきちんと数値で序列化されるようになり、新エリートが数値的に可視になった。もっともその序列化は端的に言えばビンボ人から官吏を生むためのもので、エリートは幼少から私学に入れる。なので「おたく何点」というのからこいつらは免れる(たぶん)。つまり、もう一つのエリートができる。
 実際、ほいで、東大と慶応が出てきたわけです。今の日本のレジームが出来る。そのなかで安倍晋三なんかよく慶応に行けなかったかなと驚嘆しますが。
 これに、東京オリンピックと新幹線に象徴される繁栄の時代の経験が重なり、これによって戦前の風景が徐々に日本から消えていく。
 私(昭和32年生まれ)は、団塊=戦後、が、終わった、しかし、次の世代への継ぎ目の仇花的なもので、本来は世代なんかではない。ゴミというか誤差というか。
 その後の日本は、二度の石油危機とかプラザ合意とか国難が若干国民生活に影響したものの、それほど本質的なものではない。gradually degradedなわけです。
 いわゆるバブルも大蔵省GJで不動産部門に極限されていて実際には国民生活には影響していない。ただ、あの時代のオヤジはカネもって若い姉さんにプスプスしたので、そのお姉さんたちだけが性的な個人の確立期に狂いがあって奇妙に世代化してしまったわけで、負け犬が現象化しているのはそのためで、底流はgradually degraded。なので、負け犬が遠吠えをするのは世代的に終わる。
 もっと露骨に言えば、世代として可視なのは団塊の世代だけ。
 で、こいつらがどういうものかというと。こういうもの。あえて全文近く引用しますよ。でないとわかりづらい。この子供たちが、60歳!

戦争を知らない子供たち
北山修作詞・杉田二郎作曲
 
戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
 
(リフレイン)
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
 
若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
 
青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕日が 輝く小道を

 これが団塊世代の表面。もちろん裏面はあるけど。裏面もこれに対応した形でしかない。たとえば、「噂の真相」とか悪ぶっても、同じフレームにいる。
 あと「翼を下さい」とか「赤い花 白い花」とか引用したくなるけど。本質的に同じ。

悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい
 
いま富とか名誉ならば
いらないけど 翼がほしい

 悲しみというのは「戦争」ということです。
 「いま富とか名誉」が戦争に結びつけられていてその裁断が平和だというイデオロギーっぽかった。でも、そんなのは人間社会の嘘っぱちなわけで、そのとおりに団塊世代は実践していく。というか、そこからこぼれた人たちが強烈に電波出し続けている。
 戦争を知らない子供たち団塊世代、に戻ると。
 単純に言うと、「いつでも笑顔の すてきな人なら 誰でも一緒に 歩いてゆこうよ」というのは、地域社会や集落的な社会が崩壊してメーティングを求めて都会とかに流れ出た若き性欲ですよ。
 そしてこれらがgradually degradedと、新エリートシステムの喪失のなかで、もうそういう機運もなくて、あとは非モテの荒野となる。まあ、女たちはこうした制度からするっと抜けるので別の方策を取るわけだけど。
 オチなし。
 
追記
 共通一次世代(仮)以降、所謂世代論みたいのが語られるのは、新エリート化の傾向のなかでの、小室直樹のいう斜めの階層的なものの導入。つまり、結局は新エリート化作成の装置的議論……とまでいうといろいろ批判されるでしょうし、批判はあっているのかもですが。