日経 春秋(1/8) : NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース

とはいえ、国鉄の庇護(ひご)の下で商売ができたのは遠い昔。業界の前途は厳しく、外食産業との競争に敗れ廃業する調製元も少なくない。一方で工夫を凝らした新商品が次々に登場し、ファンを増やしてもいる。日本の駅弁の歴史は120年に及ぶという。持ち重りのする小さな箱に、郷愁も世の転変も詰まっている。

 ところでなぜアレが駅弁かというのも知らない世代が多くなったってことか、と言ってみるテスト。

産経社説 成人の日 若い力を「国柄の再生」に

 それほど極端でなくとも、例えば電車の中で、口元も押さえずに平気でせきやくしゃみをする人間が増えた。到底、思慮深くあるべき成人の行為ではない。体は大人だが、精神は未熟な子供といわれても仕方がなかろう。

 自分を後回しにする心をもって、植福を追求する人生を歩み出し、日々の行いによって戦後損なわれた醜い自己本位の世を改め、新成人としてぜひあまねく美風の行き渡る「美しい国」づくりに力を貸してほしい。国柄の再生には若い力が不可欠である。

 万歳、ヒ○ラー・ユーゲント!

朝日社説 裁判の明日 プロ任せの時代が終わる

 7世紀の大化の改新にまでさかのぼるとされる日本の裁判制度は、時代に合わせて形を変えてきた。しかし、裁くのはプロであるお上の裁判官であり、庶民にはかかわり合いのないことだった。

 そうとも言える。そうでない面もある。まあ、歴史を勉強なさい。

夢というほどでもないが3点

 ぼんやりと、ある高貴な女性の不幸を予感した。まあ、それほど強い予感でもない。
 漢文かなんかの授業なのだろうか、「人生」を訓ずるに、「人ヲ生ク」。みなさん、人を生きなさい、とかの説教。
 自分の心のなかに肯定されない感があるなと思う。もちろん、それはわかっているのだが、ちょっと違った印象でそう思った。非モテとかいう若い子も、キモ面が肯定されるべき世界構築なのだろうか。まあ、キモ面でなくても非モテはある。なぜなら云々。いずれにせよ、それに対する世界構築は無意味なわけで、なので、世界系とはよく言ったものだな。

はてなQより ストレス解消法

 ⇒人力検索はてな - 皆さんのストレス解消法を教えてください。自分で実践し、効果がある!と自信を持っているものでお願いします。
 失踪っていう回答例が面白いかな。

成人式は30年前か

 正確には29年前か。
 そんなに時間が経った気はしない。昨日のように覚えているとまでは言わないがよく覚えている。
 今朝の大手紙の社説は新成人にオヤジが語る的だ。この手の話は、つい書きたくなってしまうものかもしれない。まあ、それに大手紙で社説書けるっていうポジションは社会的に成功者の部類だ。おっほん我をマネよってなものかな。
 私は人生の失敗者である(生きてるだけラッキー)。私が訓戒のようなものを書いても敗者の弁のようなものだ。まあ、しかし8割方の人生はそんなものだろう。9割かな。もっとか。しかし、そう考えると、新成人のみなさん、きみたちの9割方は人生の負け組だ。負け組の先輩の言うことはなんらの意味がある……かな、あるわけないよな。
 話はそれるが。
 魚用の鍋が欲しくて物色しているのだが、ない。あれだ、ポワソニエールとかフィッシュケトルなんだが、安価なのがない。日本では使わないからなのだろう。ま、それでだ、物色していて洋物のキッチン用具を見ていると、なんか料理命みたいな女性のコメントががぼがぼある。大半が主婦なんだろうか。そうとも断定できないが、そんな豪華なキッチン用具持ってもご家庭は小さいのではないかとか思った。まあ、本人がよけばいいのだが。
 ほいで話が少し戻るが、専業主婦していて、お料理に凝って、洋物のキッチンセットを使いこなしている30代から40代の女性というのは、これは、人生の勝ち組っていうやつだろうか。
 しばし考えた。
 昨日れいの昭和42年を見ていて、GSでスパイダースとか出てくる。堺駿二の息子が出てくるのだがあの嫁さんだった岡田美里が宅配受けばかりでやだったとか言っていたが、まあ、子細を思うとそうかもしれないが、なんだったのだろう。
 ⇒岡田美里 - Wikipedia
 ⇒ミセス 2001年7月号
 61年生まれか。
 ま、なんつうか、人生とかそう単純なものではないな。そんなこと言ってどうするだが。

知らない人もいるのか、っていうか、はてな複雑過ぎ

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# kanose 『そんなに疑問だったら聞いてくれればよかったのに! ちなみに最初が数字だと使えないので注意です。またハイフン(-)は使えません。アンダースコア(_)は大丈夫』 (2007/01/07 23:56)

ちょっとメモ、済州島

 ⇒メディア批評/岩波新書「日本社会の歴史」(上、中、下)

網野 志摩国は、すでに8世紀の天平時代に済州島との交流があった。志摩をはじめ豊後・肥後の海民が「耽羅鮑」を調として貢納しているように、列島と済州島の間には古くから往来があり、その伝統を背景に、明治になるとすぐに済州島の海女たちが房総半島に移住している。9世紀には、博多津に新羅の海賊船が来襲したという記録もある。海賊は一面では海を舞台にした商人の性格を持っていたと考えられるので、列島沿海の海賊が朝鮮半島の海賊と手を結ぶことも大いに考えられたので、当時の日本の朝廷としては困った存在であった。これらの事件をきっかけに、日本の王朝は再び反新羅の姿勢を明確にしていくが、古くからの海を通じての列島と朝鮮・大陸との交流は、これで途絶えたわけではなかった。長崎の五島列島小値賀島には唐や新羅の商人が必ず立ち寄ったといわれるように、唐・新羅の商人の来航はそれ以降もむしろ活発化していたのである。今でも五島列島には朝鮮語の「チング(親友)」という言葉が生きているが、こうした交流の鮮やかな足跡ではないだろうか。

 ⇒済州島 - Wikipedia

韓国では伝統的に厳しい済州島差別があり、現在も続いている。1948年4月3日に起った済州島四・三事件では、少なくても死亡者7万人にのぼり、それから逃れる為に、自ら日本に渡って来た在日コリアンも多い。しかし、在日コミュニティーの中にもやはり済州島差別が残っている。

 ⇒済州島四・三事件 - Wikipedia

済州島の古来よりの複雑な歴史背景によって、朝鮮本土からの迫害や差別を受けていた島民は、新天地を求めて日本本土へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に来た最初の20万人ほどの朝鮮出身者の大半は、済州島出身であった。敗戦による独立によって、そのほとんどが帰国したが、この事件で済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。

 ウィキもけっこう詳しくなってきたものだ。韓流ドラマの影響か。
 おやこんな項目もある⇒白丁 - Wikipedia